《元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚》全部章節:第 151 章 - 第 160 章

442 章節

第151話

まあ、それもそうだろう。谷口家の人は皆、世間体を気にするのだから。それに、あまり気の長くない杏に、智也も昨夜の話なんてできなかったのだ。「今、佐野先生の奥さんが貸してくれた家を片付けてたので、智也の電話に出られなかったんです」「智也のことは追い返しといたし、管理人にも二度とあの人の車は入れないでって、言っておいたから。でも、なんだか必死になって探していたみたいだけど、何かあったのかい?」「分かりません。でもなんだか、最近の智也は少し変なんです」とにかく、知り合って4年、今のような智也を凛は一度も見たことがなかった。「そうかい。でも、まあいいわ。ほっておきなさい。それより、忙しくて何も食べてないんじゃないの?藤田に、出前の手配をさせるよ」「ありがとうございます」凛は杏の気遣いが嬉しかった。電話を切った直後、インターホンが鳴る。「こんなに早く?」凛はスリッパを履いて階段を下り、ドアを開けた。すると、なんとそこには海斗がいたのだった。先ほどとは違うスーツだから、着替えたのは間違い無いのだろうが、彼は相変わらずスーツ姿で、ネクタイもしっかりと締めている。背筋を真っ直ぐ伸ばして立ち、片手をポケットに突っ込んだまま、少し伏し目がちに凛を見つめる海斗。深く鋭いその瞳には、まるで天下を見下ろすかのような圧倒的な威厳が宿っていた。「竹内社長、これから深夜会議か何かですか?」海斗は無言で凛を見つめ続けたまま、何も答えない。「社長。私……今夜は残業できませんので」すると、海斗が少し呆れたように、口をひらいた。「君の残業など必要ない」海斗はそのまま家の中に入り、室内を見渡す。家具は整っていたが、生活感が一切ない。海斗の眉間に皺がよった。「ここには誰の紹介で?」「先生です」凛は玄関を開けたまま、海斗から少し離れた場所に立った。「あの、何か仕事の話ですか?」「君がそんなに仕事熱心だとは思ってない」そうでなければ、退職なんて選ぶだろうか。凛は唇をきゅっと結び、何も答えなかった。「君は口がきけないのか?」こんな言葉を自分が人に言う日が来るとは、海斗も思ってもみなかった。これまで家族からそう罵られたことはあっても、自分が誰かに言う側になるとは。「いいえ」「ここにはどれくらい住むんだ?」「2週間ほどです」淡々と答え
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第152話

咄嗟に避けた凛だったが、親指に少しだけ熱湯がかかってしまった。海斗がキッチンに入ると、凛は既にケトルを置いていて、海斗の横を通り過ぎリビングに向かった。そして薬箱を取り出し、ソファに腰掛けて靴下を脱ぎ、火傷の薬を塗る。手慣れていた。痛がる素振りすら見せない。海斗は凛の前に立ち、かすかに眉をひそめ、先ほどテーブルに置いた携帯を取ると、瑶子にメッセージを送った。【彼女があまりに自立していて、俺の出る幕がない】突然届いた息子のメッセージに、瑶子は驚いて体を起こし、顔からはパックが剥がれ落ちた。息子が15、6歳になると、自分に本音を語ることなどなくなり、特に恋愛に関することなど尚更だった。瑶子が驚きながらも読み進めると、凛が熱湯をこぼしたことと、自分で手当をしたことが書いてあった。瑶子は微笑んだ。息子も無力感を覚えることがあるようだ。【海斗。小さい頃から、なんでも強引に手に入れてきたあなたでしょう?あの勢いでいきなさい。でも、一つだけ言わせて。彼女はまだ離婚してないんだから、限度を考えなさいよ!いい?離婚してないのよ!】【そんなの時間の問題だ】海斗は日和から、智也の父親がコネで離婚手続きを進めるらしいことを聞いていた。それに、もし谷口家が凛を裏切っても、自分が強引にでも離婚させるつもりでいる。彼は携帯を置き、ちょうど包帯を切っている凛の姿を見た。「俺がやる」凛の返事も聞かずに包帯を奪い取ると、海斗は膝をついて、凛の足に優しく巻き付けた。「ありがとうございます。竹内社長」そう言って凛は靴下を履き直す。海斗は視線を上げ、何の感情もない彼女の瞳を見つめ、冷ややかに言った。「誰も俺に茶を入れてくれなかったら困るからな」「すぐ入れます」凛が立ち上がると、海斗に肩を強く押さえられ、そのまま無理やりソファに座らせられた。すると海斗はそのままキッチンへと向かい、ケトルやティーカップ、プラスチックの筒状の入れ物を全て取り出しながら、怪訝そうに彼を見つめる凛に言った。「怪我した社員に茶を入れさせるほど、俺はひどくない」「……」まあ、いいか。それにしても、本当難しい人だ。海斗はプラスチックの筒状の入れ物の蓋を回しながら尋ねた。「どこで買ったんだ、これ。ひどい見た目だな」「施設です」凛はその入れ物を
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第153話

凛の話し方は心地よく、それはまるで、春に雪解け水が静かに流れ出すようで、少し冷ややかさもあるが、同時に日向のような温もりもあった。海斗はそのハーブティーをゆっくりと味わう。「それに、摘んだ後はそのまま乾燥させては駄目なんです。蒸してから干すのが重要で、煮るのは絶対に駄目でした。蒸したあとザルに並べて、日光の下でしっかり干すと、色が綺麗に出て、香りも、そして何より、薬草としての効能も落ちないんです」「500グラムのハーブは乾くとどれくらいになるんだ?」海斗が首を傾げながら、凛に質問した。凛は少し意外に思った。このように、質問してくれるということは、どうやらきちんと話を聞いてくれていたらしい。かつて智也にも、同じような話をしたことがあったが、「もうそれは過去のことだろ」と決まって同情的な眼差しでさえぎられるのだった。だが、凛自身は子ども時代を少しも辛いとは思っておらず、むしろそれらの記憶は、彼女にとってとても愛おしい思い出なのだ。そして、そんな日々が今の自分を作り上げてくれた。「200グラムくらいだったと思います。250グラムにはなりませんでしたから」そして、凛はそっと微笑み、海斗に言う。「竹内社長、もう熱くはないと思いますから。どうぞ」「ああ」海斗は茶を一口含み、続けた。「今も施設では、ハーブを摘んで売ったりしてるのか?」「もう今は買い取る業者もいなくなったので、やってないです。それに、専門的に栽培してる農家もありますので、商業的に使う人たちは、そこから仕入れますし」このハーブのリラックス効果のおかげか、凛の気持ちはかなり軽くなっていた。それに、このことを人に話したのは、久しぶりだったので、凛は言葉を付け足した。「それに、あの頃はヨモギも採ってたんです。まあ、値段はすごく安かったんですけどね」そこで、凛は口を閉じた。「終わりか?」どこか物足りない様子で、海斗が続きを促す。しかし、凛は言った。「少し話しすぎました」「そんなことはない」海斗はカップにハーブティーを注ぐ。「ヨモギの話を聞かせてくれ」凛は言葉に詰まった。「……竹内社長、ここは喫茶店じゃありませんし、私も漫談師ではないので」ピンポーン。インターホンが鳴った。凛は立ち上がり、画面を確認する。「9号棟の谷口様ですか?デリバリーです」
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第154話

「智也」柚葉が智也の煙草を奪おうと手を伸ばしたとき、智也が素手で煙草の火をもみ消した。「どうしてここに来たんだ?」智也は柚葉に問いかける。柚葉は驚いて彼の手を掴み、火傷をしていないかすぐに確認した。「健吾さんも梨花さんも、それに胡桃ちゃんだって、みんな智也を心配しているんだよ。もちろん、私も」柚葉は智也の頬を優しく撫でながら囁いた。「だから、もう煙草はやめて。お願い」二人の視線が絡まり、ゆっくりと目を閉じた柚葉は、顔を近づけていく。唇が触れ合う寸前、胸の中に焦りが浮かんだ智也は、反射的に顔を背けた。愛しているのは柚葉で、ずっと彼女を待っていたからこそ、これまでは凛との体の関係すら拒んできた。それに、愛する人が自分から口づけをしようとしてくれているのなんて、嬉しいことのはずなのに……だが、なぜなんだ?もしかしたら、今日の夕方、海斗にあの動画を見せられたからかもしれない。柚葉を愛しているからこそ、彼女を世間の批判に晒してはいけない。柚葉は美しく才能に溢れ、明るい未来が待っているのだから。だから、自分のせいで柚葉の未来を潰しては駄目だ。そうだ。きっとこういうことだ。返ってくると思っていた口づけがいつまでたっても届かず、柚葉は目を開けた。その瞬間、視線を彷徨わせる智也を見て、彼女の心の中は凍りついた。「柚葉、俺たちは……」心苦しかった智也だったが、一呼吸置いて、結局は口を開いた。「少し距離を置いたほうがいい」柚葉の胸がどろりと沈んでいく。「智也、あなた……」瞳をみるみる潤ませ、震える声で言った。「私なんかいらなくなったんだね」その言葉と共に、一筋の涙が柚葉の頬を伝った。その姿は、痛々しくも儚げで美しい。こんな女の姿に、やられない男はいないだろう。「違う」智也は焦り、すぐに柚葉の涙を拭った。「柚葉、これはお前のためなんだ。こないだの交流会で俺たちがキスをしていたところを、動画に撮られたんだよ。お前が既婚者と関係を持ってるなんて、世間に知られたら困るだろ?」「じゃあ……」それなら、凛と離婚してよ!そして、私に名前のある関係をちょうだい!私のためだって言いながら、結局は私を突き放すの?そんなに凛のことが大事なわけ!?どうせ、凛のことを手放せないだけでしょ!柚葉は息を呑み
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第155話

「分かってる」そう答えた智也は、かつて自分が柚葉に告白しようとした日のことを思い出した。あの日、突然柚葉と連絡がつかなくなり、どこを探しても見つからず、夕方になって、やっと柚葉のルームメイトから彼女が海外へ行ったと聞かされたのだった。何も言わずに、柚葉は海外へと行ってしまったのだ。言葉一つ残さずに。告白の前日、智也は友人たちとともに会員制クラブの個室で盛り上がっていた。その時、柚葉が彼の膝に頭を預け、辺りの喧騒に紛れるようにそっと智也の手を取り、誰にも気づかれないよう、彼の親指を静かに彼女自身の唇に寄せたのだった。心臓が激しく高鳴ったのを今でも覚えている。そしてその翌日、柚葉は消え、智也は深い闇へと突き落とされたのだ。だがその後、突然柚葉から連絡があり、彼は結局彼女を許した。それに、それ以降は毎年柚葉の暮らす国へと行き、彼女の誕生日を祝った。この数年、智也は柚葉にどれほどの時間と労力を注いできたことか。智也の心に動揺が見えたのを感じ取った柚葉は、追い打ちをかける。涙で潤んだ瞳を、まっすぐ智也へと向けた。「智也、私を捨てないで。昔、絶対に私を離さないって言ってくれたよね?智也がいなくなっちゃったら、私はどうすればいいの?智也、私が愛してるのはあなただけ。それに、今まで関係を持ったのも……智也だけだから」ハンドルを握る智也の手にぐっと力が入る。あの、泥酔した夜の事。「私が他の男を好きになるなんてことはないよ。でも、私たちの関係が智也の負担になっちゃうなら……」「違う」智也は諭すように言った。「ただ、お前を傷つけたくないんだ」「私なんかどうだっていい!」実際、柚葉は内心気が気でなかったが、今ここで引かなければ、本当に智也との距離が離れてしまう。智也と凛を離婚させられないのなら、凛の方から崩すしかない。凛が自分の夫の浮気をいつまでも我慢し続けられるはずがないのだから。柚葉の頑ななまなざしに見つめられ、智也の心は揺らいでしまった。「柚葉」「智也、私はここにいるよ。ずっとあなたのそばにいる。どこにも行かないから」そう言うと、彼女の目からまた一筋の熱い涙が零れた。智也は彼女の涙を拭い、再び同じ言葉を繰り返す。「少し時間が欲しいんだ」柚葉はそのまま彼の手のひらに顔を擦り寄せ、「うん」と小さく答えた。
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第156話

「それはありえない」智也は眉をひそめた。「竹内社長みたいな経歴の人が、どうして凛みたいな一般人に興味を持つっていうんだ?第一、竹内社長も凛と俺が法律上の夫婦だと知っている。でも、竹内社長は性格が悪いから、俺と凛が夫婦だと知るや否や、ホシゾラを追い詰めるために凛を利用し始めたんだよ」竹内グループは確かに強力だが、イノベーション・テクノロジーは海斗が立ち上げて間もない会社にすぎない。業界での実力を比べれば、景山家が10年前から出資しているホシゾラ・テクノロジーには到底及ばないのに。柚葉は苦笑いするしかなかった。「そうなの?」海斗が凛に見向きもしないことは信じられる。しかし、凛を使って智也を追い詰めるだと?そんなの、まるで子どもの喧嘩ではないか。「そうだ」と、智也がきっぱりと言い切ったので、柚葉は話題を変えた。「ねえ、智也。ここには凛さんを探しに来たの?」「ああ、謝りたくて。でもあいつは会ってくれない」いざそのことを口にすると、智也は少し悲しくなった。あれほど意気盛んだった少年は、かつて柚葉との別れに心を折られ、大人になった今、凛が会おうとしてくれないことで落ち込んでいる。柚葉は、これまで感じたことのない焦燥感を覚えた。「凛さんはどうしてこんなところに住んでいるの?」周囲を見渡しながら、そう智也に聞いた柚葉。ここは不便な郊外でありながら、富裕層しか住めないような場所で、ここに住んでいるのは、優雅な隠居生活を送る老人たちばかりなのだ。どうして凛にそんな人脈が?「あいつの恩師の家なんだ」智也は答えた。「凛は学歴こそ悪くないし、努力家でもある。でも、やはり才能が足りなかったんだろう。博士号も取れなかったし、まともな就職先にも恵まれなかった。結局、竹内グループで先の見えない事務職に収まっただけだったから」柚葉は最初、ここに住めるほどの凛の恩師が誰なのか気になっていた。つい研究所にいる谷口博士を思い浮かべてしまったが、まさかそんなはずはないと自分に言い聞かせる。凛が修士課程を修了しただけで、博士号も持っていないという言葉を聞くと、もう探る気にもなれなかった。「結構凛さんへの評価が高いんだね」柚葉はわざとらしく嫉妬心を見せ、上目遣いで智也に身を寄せた。「じゃあ私は?」「お前はもちろんすごいさ」智也の中にあった苛立ちは依然とし
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第157話

「どうしたの?」凛は日和に尋ねる。日和はしょんぼりした様子で言った。「実験してたんですけど、また失敗しちゃったんです……やっぱりチップの問題なんですよね。でも、この分野は本当に詳しくなくて。お兄ちゃんにも『もう少し待て』って言われたんですけど、それでも試してみたくて」「そんなに急ぎなの?」「そういうわけじゃないんですけど、悔しいんです。まだ何か手があるんじゃないかって思っちゃって」日和は続けた。「だから、チップ関連の論文を探してみるつもりです。ところで、さっきはどうしてうちのお兄ちゃんの好きな食べ物なんて聞いてきたんですか?」「竹内社長に助けてもらったから、食事をご馳走しようと思って」「ふっ」日和が鼻で笑った。「どうせ、お兄ちゃんから催促されたんですよね?本当、情けないなぁ」お兄ちゃんたら、せっかくのこのチャンス、もっと大きなお礼を要求すればよかったのに!恩返しなんて普通、『身を捧げて』するものでしょ?まったく、お兄ちゃんってばヘタレすぎ。「ん?」凛は日和の言っている意味がいまいち分からなかった。日和がクスクス笑いながら続ける。「なんでもないです。うちのお兄ちゃん、性格も捻じ曲がってるうえに、食べものにも結構五月蝿いから……でも、私もよく分からないので、後で執事に確認しておきますね」「もし良ければ、リストにまとめてくれないかな?」「もちろん大丈夫ですよ。私が直接届けますね。ちょうど研究室から離れて、気分転換したかったところですから」日和は通話を終えると、すぐさま自宅へ戻り、竹内家の執事である竹内理仁(たけうち りひと)から、兄の好みを聞き出した。話を聞いている間、何度タブレットを叩き壊したくなったことか。「日和様。なぜ突然、海斗様のことにご関心を?」「お兄ちゃんに関心があるんじゃなくて、凛さんのためにね」「なるほど。凛様のためでございましたか」理人は含みのある笑みを浮かべた。「何で凛さんのこと知ってるの?」「奥様から旦那様へお話があったので」日和はさらに質問を続ける。「お母さんはお父さんに何を言ったの?」「奥様が旦那様に『余計なことをするな』って大激怒でしてね。『もし海斗が結婚できなかったら、あなたと離婚するからね』とまでおっしゃっていました。旦那様は今も奥様のご機嫌を取っていますよ」
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第158話

ひょいと、日和が携帯を取り上げた。「ちょっと待て」携帯を奪い取った海斗は画面を拡大し、その著者が「谷口凛」であることを確認した。事務所で静かに座っている女性を振り返り、思慮深い眼差しを向ける。「どうしたの?」携帯を海斗から取り返した日和も、同じように論文の著者が凛であることを確認した。谷口凛……谷口凛?谷口凛!日和は表情を次々と変化させ、同じく凛に視線を向けた。「え?これって……同姓同名?」「さあな」海斗も確信が持てず、日和に尋ねた。「その論文どこで見たんだ?掲載された学術誌は?」「さっき言ったでしょ?教授が送ってくれたって。お兄ちゃんにはマイクロチップ開発のこと、もう少し待ってって言われてたけど、やっぱ待ちきれなくて。それで、自分で調べてたんだけど、やっぱり駄目だったから……そしたら教授が『これ読め』って送ってくれたの。しかも世界的な科学雑誌に掲載されてるやつ」その論文は、世界最高峰の科学雑誌に掲載されていた。説明を終えた日和は、動揺のあまりふらりと身体を揺らす。「ってことは、凛さん……もしかしてすごい人なの?」そう言うや否や、日和の目が期待に輝いた。海斗も妹の背中を突つく。「聞いてこい」「なんで私が聞かなきゃいけないの?」日和は言い返した。海斗は横目で妹をみる。「知りたくないのか?」「知りたいけど」結局、好奇心に負けた日和は凛のそばへ行き、そっと隣の椅子に座ると、瞳を輝かせて凛を見つめた。以前、胡桃からも同じような視線を向けられたことがあった凛だったが、日和の目に悪意など微塵もなく、ただ何かを要求する純粋なエネルギーしか感じられない。「ん?どうかした?」凛は椅子にもたれ、静かに日和を見つめ返す。日和は、画面に論文のタイトルと執筆者の名前を表示させた携帯を、指でそっと凛の前に押し出した。タイトルを見ただけで、凛はここ数年で自分が書いた論文だと分かった。一瞬驚いたが、すぐに視線を外す。「私と同姓同名だね」凛は落ち着いた様子で、携帯の画面を指差した。元来クールで、感情を滅多に表に出さない凛が、わざと知らぬ顔をしたため、日和は一切手がかりを得ることができなかった。それでも、まだ少しだけ諦めがつかない日和は聞いた。「本当に凛さんじゃないんですか?」凛は携帯で
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第159話

智也が再び電話をかけると、凛からはもうすでに二宮邸に着いたという返事が返ってきた。急いで二宮邸に向かった智也だったが、彼の車はエントランスで止められた。実際のところ、凛は二宮邸にはおらず、佐野教授の奥さんから貸してもらっている家に帰っていた。だが、そんなことも知らない智也は腹立たしげにハンドルを叩き、凛へとメッセージを送る。【凛、どうしてもこうするつもりか?】【いつになったら怒りが収まるんだ?】【怒りが収まったら、一度会えないか?】これ以上連絡されるのを心配した凛は【うん】とだけ返した。すると、ようやく智也からのメッセージがなくなった。智也は最近家に帰らず、挙げ句の果てには胡桃の小遣いまで減らしていた。そのせいで健吾と梨花からも凛のところへ、「一体どうしたら気が済むのか」という怒りの電話がかかってくる始末だった。そのうえ弁護士からも、完全な証拠の裏付けがない以上、胡桃を訴えても勝訴できる可能性は高くない、と言われていた。この件を引き延ばす唯一の利点があるとすれば、谷口家の人間をうんざりさせられることくらいらしい。そこで、凛は日和に聞いてみた。「それで十分だと思いますよ。そのまま、もう少し苛立たせて、最後には土下座でもなんでもさせて、謝らせればいいんですから」「土下座?」凛は首を振った。「現実的じゃないよ。胡桃は死んでも、私には謝らないはずだから」「あくまで例え話ですから」と日和は目を輝かせた。「でも、本当にあの子が謝りにくる日が来たら、私に任せてくださいね。凛さんの鬱憤を代わりに晴らしてあげますから!」「ありがとう」凛は軽く笑い、日和に尋ねる。「明日は週末でしょ?竹内社長にご飯をご馳走することになってるんだけど、日和さんもくる?」もちろん行きたい日和は、すぐに携帯を取り出し、兄へとメッセージを送った。「いいんですか!お兄ちゃんに聞いてみますね!」しかし、返ってきたのは拒否の返事。【駄目だ】日和は肘で凛を突いた。「ちょっと凛さんからも聞いてみてくれませんか?もしかしたら、お兄ちゃんも考えを変えてくれるかもしれないので」半信半疑で凛もメッセージを送ってみたが、返事は同じく【駄目だ】というものだった。日和は口を尖らせる。どうしようもなさそうだ。兄は凛さんとの二人だけの時間をご所望みたいだ。まあ
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第160話

午前中、注文していた食材が届いた。着払いにしていたため、そのまま支払いを済ませる。支払いを終えると、宅配業者にそのまま食材をキッチンまで運んでもらった。野菜や肉、それに海鮮まで。お礼の食事なのだから、気合を入れて作らないと。日和から聞いた情報によると、海斗は洋食が好きらしい。ちょうどよかった。凛は肉料理よりも、魚料理の方が得意なのだ。なぜなら智也は魚料理には目がなかったので、よく魚料理を作っていたから。日和は朝早く出かけてしまったため、広い家に凛一人が取り残された。料理を始める前、念のため海斗に招待のメッセージを送る。【竹内社長、お疲れ様です】から始まり、時間に、場所、そして最後にはフルネームも入れた。要するに、非常に形式的なもので、まるで何かの招待状のようだった。そして、海斗からの素っ気ない返事を確認して、もう一つだけメッセージを送る。【お手数ですが、施設から届いた私の荷物を持ってきていただけますでしょうか?】【わかった】それから10分ほどして、インターホンが鳴った。凛はエプロンを身につけたまま、手には下ごしらえ中のエビを一匹持ち、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら玄関へ向かう。ドアを開けるとそこには、スーツを着こなした海斗が、果物の籠と赤ワインを手に立っていた。「竹内社長?早かったですね」「ちょうどいい時間だ」キッチンへ視線を向けた海斗は、むしろ遅すぎると思った。そのまま、海斗を中に招き入れた凛だったが、果物とワインしか持っていない海斗を見て、思わず尋ねる。「竹内社長、私の荷物は?」海斗がふと足を止めた。その瞳に一瞬だけ何かがよぎったものの、凛を振り返ったときには、水面のように静かな眼差しに戻っていた。「忘れた」「忘れたんですか?」「ああ」がっかりした凛の表情を見て、彼は即座に言った。「次は忘れないから」「ありがとうございます。じゃあ、竹内社長はおかけになってお待ちくださいね。すぐに用意しますので」と伝え、凛はキッチンへ引き返す。海斗はジャケットを脱ぎ、黒いシャツ姿になった。首元には深みのあるボルドーのネクタイが結ばれ、手首には銀色の高級時計がのぞく。冷静さと情熱という相反する魅力が、不思議なほど自然に同居していた。洗練された佇まいには隙がなく、どこか容易には踏み込ませ
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