جميع فصول : الفصل -الفصل 190

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第181話

プレゼントを買い終えたので、凛は服を見に行くことにした。これまでの凛は、家計や施設の子どもたちのためにと、ひたすら節約を重ねていた。だが、もう智也と離婚した凛は、家計のことを気にする必要も、智也に良いものを食べさせ、良いものを着せようと頭を悩ませる必要もない。自分で稼いだお金を、自分のためだけに使えるのだ。凛は自分のために、服をたくさん買った。それから、ダウンジャケットの業者に連絡するため、柑奈に電話をかけて、子どもたちの身長と体重を確認した。それでもまだ少し時間があったので、凛は南山ヒルズ9号棟に戻り、買ってきたばかりの服をクローゼットに吊るし、新しい靴を並べた。コーディネートが苦手な凛は、ちょうどチャットで話していた日和にアドバイスを求める。二人がビデオ通話を繋ぐと、日和は凛にクローゼットの中へとカメラを向けるよう指示した。「その白いカシミヤのコートと、同じ系統のハイネックのセーターと……あとは、ワイドパンツを合わせてください。靴は……」「同じ色合いのスニーカーとか?」と凛は聞き返し、新しく買った白いスニーカーを映す。「それに、鞄も白がいい?」「完璧です!」日和が笑みを浮かべた。「もうそれで大丈夫です!私は論文の修正があって……それに、来年の卒業論文のこと考えると、もう憂鬱で……」論文の話題になると、日和は一気に険しい顔になった。「教授が何度も何度も書き直しを要求してくるんです。普通の先生ならある程度助けてくれるんですけど、私の教授は最後まで自分一人で仕上げさせようとしてて。それに、『博士課程に来ないか』って言ってくるし、本当に勘弁して欲しいんですよ!」日和がそう言って、ぷいっと不貞腐れた。凛は少し眉を上げた。「博士号、目指さないの?」目指すに決まってる!日和は唇を突き出し、すねてみせた。「もう!凛さんなんか知らないんですからね!」凛もふふっと笑った。さて、自分ももうそろそろエデンの園に向かわなければ。着替えを終え、凛がタクシーに乗ってエデンの園に着くと、恵たちからもすぐ到着すると連絡が来たので、凛はそのまま路肩で彼らを待つことにした。すると、一台のロングボディのマイバッハが、凛に向かってゆっくりと走ってきた。車の中の拓海は、海斗へ告げる。「竹内社長、谷口さんはもういらっしゃ
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第182話

海斗が席に着くと、皆も続いて着席する。凛は左手に海斗、右手に恵という位置に座った。席に着くと、凛は持ってきた贈り物を順番に取り出し、まずは上司である海斗へ手渡した。そのあと、残りの面々にも一人ずつ配っていく。パッケージを見た理央は、中身を察したのか目を輝かせて言った。「凛さん、今開けてもいいですか?」本人の前でプレゼントを開けるのはあまり行儀の良いことではないが、凛は気にせず頷いた。「もちろん」全員が一斉にプレゼントを開ける。「しゃべる黒山羊のフィギュア!」中身を確認した理央は声を弾ませた。「凛さん、ありがとう!私からのプレゼントはこれね!」そう言って、理央は凛にプレゼントを手渡す。一方、恵は8本並んだ高級な黒いリップのセットを手に取り、嬉しそうに唇を緩めていた。「まさに私の欲しかった色。凛さん、これは私からのプレゼント」「これは私からです」拓海も贈り物を渡し、丁寧にお礼を伝えた。「メガネチェーン、ありがとうございます」ただ、海斗の手前、眼鏡を外してチェーンを付ける勇気まではなかった。すると、理央が笑いながら言う。「このメガネチェーン、森田さんにぴったりだね。それに、森田さんの眼鏡って全部伊達だし」「?」凛は驚いた。えっ?全部伊達?拓海が眼鏡の位置を直しながら、苦笑いを浮かべた。「知的で大人な雰囲気が出るでしょう?」「……」黙った凛。あやうく吹き出すところだった。残るは海斗の分だけで、しかも彼だけ二つある。その事実が嬉しかったのか、社長の表情にはかすかな優越感が混じっていた。プレゼントを開けた海斗。高級茶葉と、小豆の最中。「……」自分以外のプレゼントは趣味嗜好に合わせたものなのに、自分だけまるで年寄り向けのチョイス。社長に吹き出しているところを見られまいと、必死に顔を手で覆う恵に、即座に俯いた理央。拓海だけが何も表情を変えなかったが、結局は気まずそうに目を逸らす。皆が急に黙り込む様子を見て、凛は自分がプレゼント選びに失敗したことを察した。「社長、次回改めて別のものを用意しましょうか?」そう言って、プレゼントを回収しようと手を伸ばすと、その手をバシッと叩かれた。「手を戻せ」プレゼントを回収する奴がどこにいる。凛は手を引っ込め、まるで厳格な教師の説教を
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第183話

その書類には、智也が凛と婚姻関係があった期間に、柚葉へと費やしたすべてのお金の記録が記されていた。月々6000万もの研究費は言うまでもなく、柚葉が帰国してからのここ1か月半だけでも、数百万から数千万単位の支出が立て続けにあった。智也はなんて羽振りがいいのだ。4年の結婚生活を振り返ってみても、智也が自分のために大きな金額を使った記憶はほとんどない。二人の家庭のためにした出費まで含めたとしても、せいぜい新居を買ったことくらいで、それ以外に思い浮かぶものはなかった。それに智也は彼自身がいくら貧乏生活を強いられても、愛する柚葉のこととなれば、出し惜しみをしないらしい。本当に健気なことだ。凛は震える手で書類を箱に戻すと、険しい顔でお礼を言った。「竹内社長、ありがとうございます」海斗は水を一口飲み、冷めた表情で答える。「これはほんの一部だ。竹内グループも全ての業界を網羅しているわけじゃないからな。でも、これだけあれば十分だろう」さらに、念を押すように付け加えた。「しっかり保管しておけ」智也の弱みを握っていれば、いざという時も恐れることはない。きっと、いつか役に立つはずだ。「はい」夕食が次々と運ばれてくる。すべてエデンの園の看板メニューで、白ワインも一本用意されていた。スタッフがグラスに酒を注ぐ際、海斗はさりげなく凛に言う。「ほどほどにしておけ」海斗の秘書たちは揃って酒に強かったが、凛だけは例外だ。一杯で潰れるほどではないが、二杯も飲めば必ず酔いつぶれるだろう。海斗は、かつて酒に酔って目を真っ赤にし、少し触れただけでも壊れそうだった凛の姿を知っている。かわいそうで、見ていられなかった。全員で乾杯した。その時、凛の携帯が震えたので、凛は酒を一口含んでから、画面を覗き込んだ。【凛様。調査が終わりました。離婚届は受理されていましたよ】その瞬間、凛の胸に何とも言えない感情が込み上げた。けれど、それは痛みではない。痛みなら、とっくの昔に味わい尽くしている。智也が柚葉を忘れられずにいると知ったあの日から、凛の心は何度も傷ついてきた。まるで誰かに握り潰され、何度も揉みくちゃにされたあと、荒れた海に繰り返し飲み込まれるように痛めつけられ、引き上げられた頃には、もうボロボロになっていた。この4年間の結婚生活
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第184話

拓海は何も言わなかったが、すべて察していた。凛を泣かせるほどの出来事で、なおかつ海斗が喜ぶこと……そんなのは一つしかない。「社長」拓海は目に祝福の色を浮かべ、海斗のグラスに酒を注ぎ、グラスを掲げる。海斗はグラスを手に取り、拓海と軽く乾杯すると、そのまま中身を一気に飲み干した。上機嫌なのは明らかだ。凛はティッシュを一枚取り目元の涙を拭い取ったが、それ以外のティッシュは丁寧に畳んでテーブルの上に戻した。「ちょっと嬉しくて」恵が不思議そうに凛を見つめた。他のメンバーも続く言葉を待つ。「明日から仕事をしなくていいって思ったら、つい」明日も通常出勤の恵と理央は、その言葉に息をのんだ。「凛さん、それは残酷すぎるって……」理央は顔を押さえて泣き真似をする。そんな理央を恵は溜め息混じりに「理央さん、私たちの立場忘れたの?」と宥めた。「そうだった。私たちは社畜だった……」理央は今度こそ、本当に泣き崩れそうだった。そんな二人の姿を、海斗がチラリと一瞥すると、彼女たちはすぐに黙り込んだ。自分たちは、今社長と一緒に食事をしていたことを忘れていたなんて!凛は立ち上がり、彼らに向かって感謝を述べた。「皆さん、この一か月間、本当にお世話になりました」そう言って、凛はワインを一口含む。さらに、海斗へ向かって「社長、このご恩は一生忘れません」「恩を返すことを忘れるなよ」海斗は凛を見つめ、瞳をかすかに輝かせた。凛はまばたきを繰り返す。「分かりました」「ああ」海斗は短く返事をして、再びグラスに口をつけた。酒に強いはずの海斗だったが、熱気と酒で少し頬を赤らめている凛の顔を見ていると、頭がぼんやりしてくる。唇を軽く噛み、食事を上品に口へと運ぶ凛の姿に、海斗の心拍数が跳ね上がった。海斗は手元の携帯を開き、信頼を置く「軍師」に一言だけ送った。【離婚した】【まずは、凛さんと谷口社長がどうやって付き合うようになったのか調べてみなさい。同じやり方じゃ駄目よ。谷口社長みたいなタイプはもう経験済みなんだから。しかも結果はあの通りでしょう?似たような相手には警戒心を持っていても不思議じゃないわ。ただし、凛さんに圧力をかけるのは駄目よ。それと、最初は熱心なのに付き合った途端に雑になるようなことも許しませんからね】海斗は片手で即
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第185話

凛が体を屈めて海斗を車へ乗せ、手を離した瞬間、海斗に手首を掴まれた。不思議そうに海斗へ視線を向けた凛。「竹内社長?」海斗は瞼をわずかに持ち上げ、深い瞳で凛を見つめる。「離婚したのか?」まさかの質問に、凛が呆気に取られていると、「俺は知っている」と、海斗が正直に言った。だから凛も素直に認める。「昨日、離婚届が受理されました」夜風が髪を揺らし、寒さのせいか鼻先が少し赤くなっている。「おめでとう」と男は口にすると手を離し、さっさと乗り込めと促した。運転手が親切にドアを閉め、さらには運転席後ろのパーテーションを静かに下ろす。後部座席はすっかりプライベート空間となり、車の天井部分には満天の星空が広がっていた。凛は思わず空を見上げる。海斗も視線を上に移し、顔を傾けて聞いた。「好きか?」「実家の星空を思い出しました。昔は外に出て、顔をあげればこんなふうに星がたくさん見えたんですけど、今はもう見えなくなっちゃったんです」「なぜ?」「開発が進んで、街灯が増えてから、夜空が明るくなりすぎてしまったので……」「郊外に乗馬クラブがある。そこには、天文台もあるんだ」と、海斗は気だるげに足を組み、座り直した。「行きたい時はいつでも言え」凛は理解が追いつかない時、じっと相手を見つめる癖がある。「乗馬クラブ、キャンプ場、天文台、すべて俺のだ」と海斗は解説した。凛は頷いた。納得だ。資本家のプライベート遊園地というところだろう。「もう酔いは覚めましたか?」凛がそう聞くほど、今の海斗には少しも酔った様子がなかった。「……少しな」「酔いが醒めたということであれば、竹内社長のご自宅へ荷物を取りに行ってもいいでしょうか?そうすれば竹内社長に、わざわざ持ってきて頂かなくてもよくなるので」凛はずっと、施設から送ってもらった荷物のことが気がかりだったのだが、海斗に言う機会がなかった。それに、海斗はいつも忙しそうだったし、凛も離婚のことで頭がいっぱいだったのだ。離婚が無事に成立し、相手も酒が抜けた今、自分で回収しに行くのが一番いい。海斗は凛をじっと見つめた。凛がただ荷物を取りに来ようとしているだけのことは分かっている。そこに男女の駆け引きめいた含みは一切ないし、海斗との距離を縮めようという下心もなければ、彼
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第186話

すると海斗が【いいね!】を押した。その瞬間、拓海がコメントする。【終わった】よく状況が理解できない凛は【?】とだけ、コメントしておいた。凛が顔を上げると、海斗は携帯を眺めていた。「竹内社長、起きたんですね」「ああ」男の表情に不機嫌さが漂っていたので、凛は黙々と荷物をまとめる。南山ヒルズに到着した。凛が急いで片付けを済ませ、ついでに拓海から貰った簪ともなる万年筆で髪をまとめ上げた。髪をまとめていると、横にいる男の機嫌がみるみる悪くなっていく。「まだ降りないのか」海斗が冷ややかに、凛の頭上へと視線を向けた。車は南山ヒルズ1号棟の前、噴水のそばに止まった。「降ります」凛はすでに髪をまとめ上げていたので、素早く荷物とプレゼントを持って車を降りる。しかし、足を地面につけた直後、後ろから手が伸びてきて、簪を抜き取られた。まとめた髪が滝のように肩へと流れ落ちた。凛は振り返る。すると、顔に少しかかった髪の間から、海斗の吸い込まれそうなほど深い瞳が見えた。先ほどまで落ち着き払っていた彼の瞳に、かすかな漣が立っていた。しかし、凛は全く気づかない。髪をかき上げ、尋ねる。「どうしたんですか?」「おろしていた方がいい」海斗はそう言い捨てると、強引に簪を奪い、さっさと歩き出した。彼の背中を見つめながら、凛は口を開く。「私の……」「早く来い。荷物はいらないのか?」海斗の声はひどく冷たかった。凛は言葉を飲み込み、小走りで追いかけた。豪華な広間には、壁一面に美術品や骨董品が飾られている。「凛さん、お茶をどうぞ」中年女性が笑顔でお茶を持ってやってきた。しかし、凛が立っているのを見るや否や、慌てて言う。「遠慮なさらずに。どうぞ、こちらへおかけください」凛は軽く会釈をしてお礼を言い、そして不思議に思って聞いた。「どうして、私の名前を?」女性は一瞬はっとし、目を泳がせながら答えた。「竹内家本邸で、日和様からお話を伺ったときに、お、お写真も拝見しましたので……」本当は、奥様から写真を見せられていたのだが。日和が自分のことを話していたのかと納得した凛は、お茶を受け取る。「何とお呼びすれば?」「日和様や海斗様は私を美穂子さんと呼んでいますので、凛さんもそうお呼びください。海斗様の身の回りのお世話を担当してお
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第187話

凛は、中に入っていたすべてのものが、海斗の手によって丁寧に干されていたことを知った。「ありがとうございます」目を輝かせてお礼を言う凛。その時、海斗は思った。凛の瞳は自分が天文台で見てきたどの星よりも美しい、と。「これで借りが……」「三つですね」凛は即座に言葉を続けた。そして、荷物を箱にしまい直すと抱え上げて、深々と頭を下げる。「竹内社長、本当にありがとうございました。ホテルで命を救ってくださったことも、智也が私を連れ去るのを止めてくださったことも、それにこの大切な箱をこんなに丁寧に守ってくださったことも……本当に、心から感謝しています」いつまで敬語を使うんだ?海斗は冷ややかな目を凛に向けた。自分と同い年だということを、本当に理解しているのか?「この箱、凛さんのものだったんですね」再び美穂子がやってきて言った。「この前、海斗様がこの箱を持ち帰ってきた時、すぐに中身を出して陽の当たる場所に並べて干していたんですよ。私にすら触らせてくれなくて。壊したらどうするんだとか、なんか言って、本当に大切にしていたんですから」美穂子は瑶子から言われていた。仕事では有能で、人の使い方も上手い海斗だが、恋愛だけは驚くほど不器用だから、凛が来たら少しサポートしてやってほしい、と。これなら、自分にだってできる。なぜなら、美穂子の趣味は、家事の最中に恋愛ドラマを聞き流すことだったから。特に、御曹司や社長が主人公に恋をするような話が特に好きで、最近では、家政婦として働く女性が見初められる話や、シングルマザーが主人公の話をよく聞いている。とにかく、そういう作品が美穂子の好みだったのだ。「凛さん。あなたは海斗様が連れてこられた、初めての女性なんですよ。海斗様のお世話をしてもう長いですが、こんなこと一度もありませんでしたから」海斗は口角をピクリとさせた。一方の凛はいまいち状況が理解できていなかった。子どもの頃から研究と勉学に埋もれて生きてきた彼女にとって、恋愛なんて無縁の世界なのだ。だから、今言われていることの意味が、すぐに理解できるはずもなかった。ましてや、海斗にとって凛が特別だなんて、気づく由もない。それに、離婚したばかりの彼女にとって、今は恋など避けて通りたい時期なのだろう。「美穂子さん、仕事に戻ってくれ」海斗はすぐ
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第188話

警備員が頷いた。その直後、克哉の車がやってきて、窓が開いたかと思うと、彼もまた警備員に同じことを尋ねる。警備員が再び頷いた。克哉の眉間に深いしわが刻まれ、助手席の梓も表情を凍らせた。「まさか……」克哉は素早く窓を閉めると、しばしの沈黙の後、梓に自分の言ったことをそのまま英樹へと送らせた。梓は腑に落ちない様子だった。「佐野先生、なぜですか?」と小声で問い詰める。「松田さんが来ても、小林さんの味方をするだけじゃないんですか?」「じゃあ、他にどうしろって言うんだよ?」克哉は困り果てたように言う。「凛さんはあまりにも正直すぎる。だから、小林と真っ向から対立したところで、傷つくのは凛のほうなんだ。それに、学術の世界を甘く見てはいけないよ。ここは実力だけで成り立つ場所じゃなくて、肩書きも、人脈も、派閥もある。むしろ、そうしたものが強くものを言う世界なんだから。史哉先生も亡くなり、史哉先生も第一線から退いた今、後ろ盾のない凛さんを守り抜くのは至難の業なんだよ」「分かりました」梓は力なく視線を落とし、克哉へ英樹にメッセージを送ったことを伝える。「よし。じゃあ、携帯を預けろ」克哉と梓は全ての私物を警備員に預け、研究棟へ足を踏み入れた。やはり、奥の研究室には明かりが灯っている。足早に奥へ進むと、人の気配はなかったが、研究室のドアは大きく開け放たれていた。克哉と梓はすぐに中へと入る。そこには、一瞬誰だか分からないような女性の姿があった。長い黒髪をなびかせ、マスクで顔半分が隠れている。もし彼女がキーボードを迷いなく叩く姿を見ていなければ、誰もがまたどこかの令嬢がコネで研究室に送り込まれてきたのだと思っただろう。「どうだ?」克哉が近づくと、パソコンの画面には、解析されたばかりの監視カメラ映像が表示されていた。白黒の映像の中に、はっきりと柚葉の顔が映し出されている。克哉は頭を抱えた。予想通りだ。「研究所の監視カメラは一時的に途切れていましたが、私のパソコンに仕込んであった小型監視カメラには、気づいていなかったみたいです」凛は冷静に言い放つと、迷いなくその動画データを研究所の上層部へメール送信しようとした。克哉は手を伸ばし、それを制止する。「今はまだその時じゃない。それに小林はまだデータも見ていないだろ?
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第189話

データを盗まれでもしていたら、かなりの大ごとになっていた。「松田さん、徹底的に調査するつもりはないんですか?」凛が問い返した。英樹は一瞬目を細めたが、すぐに落ち着き払った様子で言った。「徹底的に調査すれば、その分プロジェクトの進行に影響が出る。谷口博士も、それは望んでいないだろう?」凛は静かな眼差しで英樹と対峙する。その真っ直ぐな瞳に、少し圧倒された英樹だった。現場から叩き上げでやってきた凛には、守るべきプライドや立場などない。だから、全てが無くなり、また一から始めることを、何も恐れていないのだ。「いいか?この話は終わりだ」彼らにこれ以上調査を続けさせたくなかった英樹は、こう言ってその場を収めようとした。「松田さん」凛が静かに口を開く。「小林さんの行動はきちんと管理してくださいね」英樹の歩みが止まり、厳しい視線で凛を振り返った。「根拠のない誹謗中傷は慎んだほうがいい」「調査はそれほど難しい話ではありません。各プロジェクトにはそれぞれ専用の研究室があり、自由に出入りできるのは数名の幹部の方と、そのプロジェクトのメンバーだけです。事件当時、私のチームのメンバーがどこにいて何をしていたのかは、全員確認が取れています。確認できていないのは、小林さんだけなんです」凛にこう淡々と詰め寄られ、英樹は何も言い返せなくなった。克哉は聞こえないふりを決め込んだ。凛さんもかなり溜まっているみたいだから、少し言わせてあげよう。弱い立場の梓は、黙って成り行きを見守ることで、凛側の数の多さをアピールするしかなかった。凛が孫娘の人生を台無しにしかねないと察した英樹は、憤りを見せつつも、言い返す言葉を見つけられずに言い捨てた。「この件は、これで終わりだ」本格的な調査が始まれば、自分自身の進退すら危うくなり、社会的な制裁を喰らう。何はともあれ、盗み出せていなくて良かった。英樹が立ち去ると、梓はようやく安堵のため息を吐き出した。克哉が言う。「今回はさすがに、松田さんも小林にきつく言うだろうな」英樹のオフィスに座っていた柚葉は、落ち着かなかった。苦労の末、実験室へ入るための暗証番号を知ることができた。あとは中に入ってデータを一目で確認し、紙に書き写せばいい――そう考えていたのに。暗証番号だけでなく、まさか警報までつけていると
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第190話

「本当?!」柚葉の目が輝いた。「お爺様が智也を手伝ってくれるのね?」彼女は嬉しそうに駆け寄った。英樹は相変わらず険しい表情を崩さなかったが、柚葉には少しも怖くなかった。本当に怒っているときの祖父は、こんなふうに声を荒らげたりはせず、静かに距離を置くだけだったから。「お前があの男のために、こんな無茶までしたんだ。これ以上、わしにどうしろと?」英樹は言った。「それに、わしもあの男のことは買っている。今回の入札で重視するのは実力だ。後ろ盾ではない」「お爺様、ごめんなさい。私……こんなこと、すべきじゃなかった」警報が鳴った時、柚葉はさほど慌てなかった。なぜなら、英樹が守ってくれると信じていたからだ。彼女が心配していたのは、英樹がどれだけ激怒するかということだけだったのだ。柚葉が子どもの頃から一番尊敬し、同時に一番恐れている英樹。「谷口が今回は本気で怒っていた。だから、これ以上は余計な真似をするな。次はわしでも守りきれん」と、英樹は釘を刺す。柚葉は口を尖らせ、すぐには返事をしなかった。英樹がため息をつく。「今度は何を企んでいるんだ?」「入札式の契約、私にさせてくれない?」柚葉は正直に自分の要求を伝えた。英樹が即座に拒絶した。「駄目だ」「どうして?」柚葉が不満そうに尋ねると、英樹が厳しい表情で答える。「このプロジェクトの責任者として、谷口がいる以上、その役目が他の人間に回ることはない。それに、もし谷口がいなくなったとしても、次は佐野だ。少なくとも、お前の出番じゃない」柚葉の表情が曇った。そんな柚葉を見て、英樹が続ける。「顔を売るチャンスが他にないわけではない。まあ、わしが何かやり方を考えよう。それに、佐野のポジションになら、お前をねじ込む手はある。あいつなら若手に道を譲ることもやぶさかではないはずだ」「佐野先生のポジションはさすがに……」柚葉もそこまで周りが見えないわけではない。単に自分と歳が近い谷口博士に対抗心が湧き、さらには負けず嫌いな性格が相まって納得できないだけなのだ。それに、柚葉は自分が劣っているとは思っていなかった。何より帰国してからというもの、谷口博士に何度も門前払いを食らっていることが、彼女の負けん気に火をつけていた。そして一番重要なのは、柚葉自身が周囲に自分がプロジェクトの責任者だと言ってしま
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