All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 541 - Chapter 550

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第541話

美穂子は頷いてから、そのまま海斗にメッセージを送った。【凛さんは、今日は食事の時間が遅いみたいです。お腹が空いたら先に何か食べておいてくださいね】海斗が美穂子のメッセージを見たのは、ちょうど凛を迎えに行くために車に乗ったところだった。何のために出かけるのかと美穂子に尋ね、凛が一番町の物件の最終確認に行くと知った海斗は、ふと何か思いついたように目を細めた。運転手に指示を出す。「凛を会社で降ろしたあと、本邸へ行ってくれるか?」運転手は頷いた。南山ヒルズ9号棟に車が近づくと、運転手が智也を見つけ、後部座席の海斗に報告する。車が止まり、準備を終えた凛が出てきたところで、3人が鉢合わせた。いつもなら車の中で待っている海斗だったが、今日は車から降りて、凍てつくような眼差しを智也へ向ける。不愉快だ。「凛、お、おはよう」智也はぎこちなく凛に声をかけた。まるで、二人がまだ出会って間もない関係のようだった。しかし、凛は一瞥をくれただけで何も返さず、そのまま車に乗り込んだ。海斗もいつものように凛の後に続き、その大きな体で彼女を完璧に覆い隠す。智也は慌てて呼び止めた。「凛、今までのことは俺が悪かった。やり直そうとか、許してほしいなんて図々しいことは言わない。ただ……無視だけはしないでくれよ……」その哀願するような態度は、惨めでしかなかった。凛は智也を振り返り、冷たく言い放つ。「私の人生に、あなたはもう存在しないの」海斗も続いた。「まともな元夫なら、死んだ人間のように静かにしているものだ」智也の目が赤く染まる。「凛……」智也が切なげに凛の名前を呼んだが、何の返事もなかった。車が走り出した時、智也は大声を上げる。「凛!」叫び終わると同時に、涙がこぼれ落ちた。バックミラー越しに、どんどん小さくなっていく男の姿を見ていた運転手。智也は、まだ何か叫んでいるようだった。海斗が眉をひそめる。そして、凛にふと問いかけた。「凛。割れた鏡は、元通りに戻ると思うか?」落ち着いた声。しかし、その奥にはわずかな不安が隠れていた。なんと言っても、4年もの月日を共に過ごした相手。海斗は、その4年間を憎らしいほど羨ましく思っていた。海斗の言いたいことを察した凛はこう返す。「砕けた破片を必死にかき集めて貼り合わせれば、形
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第542話

海斗は謙介に、そのまま話すように視線を送った。「国には、以前から児童遺棄に関する法律があった。そこで、偶然にも凛さんが拾われた年、その法律が改正された。法律の内容自体は大きく変わっていないんだけど、その法律上の扱いが変わったんだ。該当する章が変更されたことで、法的な定義が根本から変わりました。以前の遺棄罪は家庭内の問題という色が濃いものだったが、改正後は身の安全を侵害する重罪として明確化されました。でも、当時の世の中では子どもを捨てたり、他人の家に預けたりすることは、けっこうあったから、一般の人間であれば、知られることも咎められることも少なかったんだと思う」策が付け足す。「唐沢院長の話によれば、凛さんのおくるみは、普通の家では買えないような結構いいものだったんだってさ」謙介が深く考え込んだ。「であれば、一般的な家庭を除外して……残るは商人と政治家の家庭ですが、まず政治家は除外しよう」「なぜ?」「当時の敏感な時期に、自分や一族の将来を考える人間なら、そんな行動は取りにくい」「だから、政治家は除外ということか」「その通り。政治家が模範となる必要があった。家庭内の問題から身の安全を侵害する重罪へ格上げされたため、発覚すれば自身のキャリアに直結する。さらに家族の就職にも悪影響を及ぼしかねない。そんな敏感な時期に、自分の地位をかけてまでそんな真似をする者はまずいない」策も頷いた。「となると、商人だけってことか」海斗は何も言わなかった。策が続ける。「でも、探し出すのは難しそうだな。竹内社長、凛さんは両親を探したがっているのか?」「違う。今日の話は、今のところ凛には内緒にしておけ」二人は頷いた。……茂は柚葉の資料を確認していた。見かけも学歴も家柄もそこそこだが、最大の特徴は英樹の孫ということだった。ただ、論文数や閲覧数を見る限り、少しばかり実績を盛っている印象がある。まともな実力はなさそうだ。留学も経歴を飾るため――いわゆる、子の人生のために親がレールを敷くためのよくある手段だろう。「裁判の件は調べがついたか?」剛はタブレットの画面を指して言った。「これ。贈与契約の無効確認と財産返還を求める訴訟。不倫相手の被告が柚葉さんで、原告が……凛さん」茂は驚いて息を呑んだ。また、この名前。ページをめくり
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第543話

「分かった、手配するよ」と剛は答えた。茂は気もそぞろに「ああ」と短く返事をする。今は息子が想いをよせる女性のことよりも、頭が凛のことでいっぱいだった。「竹内グループの退勤時間は何時だ?」「6時半」「今日の午後は竹内グループへ行く」剛が運転手に電話を入れた。4時にはホテルを出発し、4時半には竹内グループの本社ビルの向かいに到着した。二人は車の中からビルの出入り口を見張り続けた。退勤時間になると、続々と社員が出てくる。タクシーを止める者、原付バイクで帰る者、車を運転する者、歩いて行く者。目的の人物を見つけるために、茂は人混みの中をじっと見渡していた。しばらくして人の波が少なくなった頃、一人の細身で華奢な女性が姿を現した。顔の輪郭が少し見えた瞬間、一台のセンチュリーに視界を遮られる。運転手が車を降り、後部座席のドアを開けると、凛が中へと乗り込んだ。センチュリーはすぐには発車しなかった。昔ながらの車で、窓も完全な遮光ガラスではないため、茂の目にはぼんやりとした輪郭しか映らない。茂の眉間に皺がよった。その目には、わずかな焦りが浮かんでいる。ドアに手をかけ、車を降りようと身を乗り出した、その時――海斗が出てきて同じセンチュリーに乗り込んだ。そうして、車は走り去っていった。茂が慌てて指示を出す。「追いかけろ」しかし、剛がそれを止めた。「それは駄目だ。凛さんのそばにボディーガードが常についているわけではないけど、彼女は必要なら直接公安系の安全部門にも連絡できる立場なんだ。もし、そんなことになったら、かなりの大事になる」茂は思いとどまり、遠ざかるテールランプを複雑な思いで見送った。しばらくして、茂が剛に問いかける。「どう思う?」剛は茂より10歳ほど年下だったが、分家から選び抜き、20年間そばに置いてきた人物だ。他の人間が知らない事情も、多く知っている。断言をすることは避けた剛。「可能性はある……でも、世の中似たような人間がいるもんだから。もしかしたら、こっちが考えすぎているだけかもしれない」車が完全に消え去るまで見届け、茂は小さく呟いた。「そうかもしれないな」黒いセンチュリーは一番町特別宿舎10号棟へ向かっていた。なぜ海斗の運転手がこの車を運転しているのかと凛が疑問に思っていると、海斗がさらりと言
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第544話

その一瞬の笑みを見逃さなかった海斗は、怒鳴り続ける妹にはこれ以上付き合わないことにした。「用がある。切るからな」しかし、次の瞬間、凛のところに電話がかかってきた。凛は携帯を取り出し、スライドして電話に出た。同時に暗証番号を押してドアを開ける。家の中はすっかり生まれ変わり、きれいに掃除され、家具もすべてそろっていた。「凛さん、お兄ちゃんが私の車を盗んだんです!あのセンチュリー!こっそり私の車で凛さんに会いに行くつもりなんですよ!」「こっそりじゃない」凛より先に海斗が答えた。電話の向こうから海斗の声が聞こえて、固まった日和。それから携帯をゆっくりと耳に戻した。「二人とも一番町にいるんですか?」「うん。リフォームが終わったから、見においで」日和が少し拗ねたように言う。「まあ、お兄ちゃんは凛さんの運転手をしたってことですし、今回だけは大目に見てあげましょう。今日は、二人でゆっくり見てください。私は、今晩親戚と食事なので」「分かった、またね」「また!」電話を切った凛の口もとに、またそっと笑みがうかんだ。海斗はよくわからなかった。「日和のどこがそんなに君を楽しませるんだ?」「かわいいから。それに、妹みたいなの」海斗はその「かわいい」には賛成できなかった。しかし、凛が日和を妹のように思っていることに、なぜか不思議な感覚を覚えた。まるで、すでに凛と夫婦になっているような……ここへ来たことも、まるで新居を一緒に見に来たような気分だった。「ちょっと狭いな」竹内家は不動産をたくさん持っている。本邸も決して大きいとは言えないが、それでも3階建てだ。それに、本邸の周りに建っている屋敷や洋館は全て竹内家のもので、一部の親戚たちが住んでいる。しかし凛は満足そうに言った。「私にはちょうどいい」海斗はベランダのほうを見た。リビングとベランダは一体化され、そこには長い木製テーブルが置かれていた。その奥には壁一面の造り付け本棚。まだ何も入っていない。「海斗、ソファに座ってて。新品だよ。私は部屋を見てくるから」凛の少し弾んだ声を聞いて、海斗は思った。本当に気に入っているらしい。落ち着いたヴィンテージ調の内装。品のある雰囲気。凛によく似合っている。海斗は革のソファに座り、凛を目で追う。寝室、キッチン、そして、バスルーム……楽
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第545話

凛は顎を突然海斗に掴まれ、そのまま彼の方を強制的に向かされた。しかし、その手はすぐに離れる。「ん?」凛は息を止めたまま、やはり彼の目を見ることができない。「お金」「いくら?」凛は驚いて顔を上げる。「私が授業料を払うってこと」海斗がふと笑った。「じゃあ、俺が教えていいってことだな?」「うん」凛はそう答えると、すぐに横へ移動して二人の距離を広げた。ようやく大きく息が吸える。顔が少し熱い。……柊病院。智也が主治医と手術の話をしていると、外から怒鳴り声が聞こえてきた。また胡桃だ。智也が外に出ると、顔を真っ白にして立っている柚葉と、それを激しく罵倒している胡桃がいた。胡桃は自分に非があっても遠慮しない性格だ。まして今回は、自分が正しいと思っている。柚葉は黙って耐えていた。そして、出てきた智也に気付き視線を向けた。「智也……」智也は眉をひそめて胡桃に近づく。「病院で騒ぐな。お前は母さんに付き添っててやれ。母さんは明日手術なんだから」胡桃は柚葉をきっと睨みつけてから、しぶしぶ病室に戻っていった。廊下がようやく静かになる。「何の用だ?」梨花の見舞いなどとは到底思えない。かつては柚葉に対して同情もあったが、裁判であれだけの証拠を見た今、智也の瞳には憎しみと嫌悪しかなかった。柚葉はまるで、腐って異臭を放つ古いパンのように見えた。「智也、私を見捨てないで」柚葉は歯を食いしばった。「あなたにはまだお金があるでしょ?私を助けて。24億円なんて用意できない……子どものことがあったでしょ?ねえ、お願い……」以前なら「子ども」という言葉を聞いても、智也は冷静でいられた。だが今では、あの時、勢いで階段から柚葉を突き落とした光景が脳裏に浮かんでしまう。下半身を血に染めて倒れていた柚葉、医師から受けた残酷な宣告。あの時の柚葉の悲鳴が今でも耳に残っている。智也の顔から一気に血の気が失われていく。これは、自分が背負わなければいけない罪だ。罪を犯したからには、償いが必要。裁判での財産放棄も、今の柚葉への援助も、そうした償いの一つだった。智也が頷こうとした瞬間、胡桃から柚葉がまた来たと報告を受けた健吾が、病室から出てきた。健吾も裁判を見ていた。柚葉がしたことは、到底許せるものではない。だからもう二
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第546話

しかし、智也は特に気にしなかった。それに、痛くないのではなく、心の痛みが、口内炎の痛みを遥かに超えているだけなのかもしれない。最近、確かに色々あった。痩せてしまった智也を見て、梨花は心を痛めた。「柚葉と凛の件は片付いたの?」手術を控えていた梨花に、一家は最近の騒動を全て隠していた。だから、智也は頷く。「ああ、もう解決したよ。柚葉のお腹の子は諦めてもらう。凛とは……」そこで、智也は少し言葉を詰まらせた。「もう、元には戻れない」しかし、諦めるつもりはない。過去が無理なら、今とこれからを大事にすればいい。梨花は眉をひそめた。「凛とはもう一緒にならないのに、なんで子どもを諦めたの?」「一緒にならないんじゃない、今の俺は凛に断られたんだ」「凛に男ができたの?」智也は、法廷の傍聴席にいた海斗に、凛が何度か目を向けていたことを思い出す。二人の間には、どこか不思議な空気感が流れていた。以前、千石鍼灸院で海斗が凛を恋人だと言ったのは、どうやら本当だったらしい。しかし、梨花の問いに答えることはしなかった。「俺は凛のことを傷つけてしまったし、父さんと母さんにも迷惑をかけた。だから、これから少しずつ埋め合わせていくつもりだから」智也が素直に謝罪するとは思いもしなかった梨花は、驚きを隠せなかった。親というのは、子どもに少し頭を下げてもらうだけでいい時もある。「全てはあの柚葉のせいね。智也、これからはちゃんと人を見る目を持ちなさい」「ああ」と、智也は何も反論しなかった。梨花はどこか違和感を覚え、隣にいる胡桃を見た。しかし、最近の胡桃は、健吾と智也の言うことをしっかりと聞いていた。生活の糧が二人の稼ぎによることを知っている彼女は、何も知らないふりをして首を横に振る。すると、健吾が口を挟んだ。「もういい。今は休んで、明日の手術に備えるのが一番だろ?」手術が怖かった梨花は、それ以上聞くのをやめたが、やはり不安は拭えない。「明日の先生、本当に腕は確かなの?」智也が答える。「千石院長が育てた人だ」「でも、千石院長には及ばないんじゃないの?」今でも、裕二に執刀してもらいたいのだろう。それは智也も同じだが、今すぐにお願いするのは無理だったし、梨花の脳腫瘍も裕二でなければダメという段階でもない。「千石院長は忙しいん
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第547話

梨花の手術は無事成功した。しかし、油断は禁物で、徹底した術後の経過観察が必要だ。私立病院ということもあり、入院費は安くない。医師の言葉には、今後の治療費を準備しておくようにという意味も含まれていた。谷口家の三人は何度も頷いた。面会はまだ許されないため、3人はガラス窓の外から、そっと中の様子を覗き見た。健吾が智也に視線を向けた。「医者の言った通り、これからはかなりのお金がかかる。もう二度と、柚葉の甘い言葉に騙されるなよ。母さんの治療費や家族の生活費に、絶対に手を出すな」智也は頷く。「ああ。分かってる」「それと、子どものことだが……」健吾は一瞬言葉を止めた。「縁がなかったと思え。だから、全部自分一人で背負い込むな。柚葉の言うことなんて嘘ばかりなんだから、いつまでも振り回されてるんじゃないぞ。そうじゃないと……二人目の凛になる」健吾の放った言葉が、智也の心に深く刺さった。「トイレに行ってくる」と智也は言い残し、逃げるように病院の外へ向かった。本当は、煙草を吸いたかったのだ。しかし、病院内は禁煙。智也は煙草を口にくわえたまま、ライターを何度も擦った。火がつき、消える。またつく。そして、また消える……小さな炎が、赤く充血した彼の目元を照らした。一筋の涙が、静かに彼の頬を伝った。智也はタバコを捨て、携帯を取り出した。どうしても凛に、母の手術が成功したことを伝えたかったのだ。一番の喜びを、やはり凛と分かち合いたい。だが、凛はすでに自分をブロックしている。智也は、悠真になりすましているサブ垢を使うことにした。文章を打っては消し、やっと一文を送信した。【智也さんのお母さんの手術、無事に終わったらしいよ】それを受け取った凛は、困惑した。なぜ悠真はこんなことを自分に?智也の母親の手術が成功しようと失敗しようと、今の自分には何の関係もないのに。智也は凛からの返信を待った。そして、彼女のインスタも覗いてみる。しかし、彼女のアカウントは鍵垢なのだ。自分との離婚の報告すら見られない。自分は完全に凛の世界から排除されている。智也は何度も凛の投稿画面を更新した。こうすれば、いつかふと見られるのではないかと思ったのだ。しかし、何度繰り返しても、一切変化がない。それでも、やめられなかった。まるで、そこに閉じ込めら
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第548話

凛は、初手のシートの調整でこんな失敗をするなんて思ってもみなかった。一度目の調整で、シートは後ろに倒れた。二度目の調整では、シートごと前に押し込まれる。ゴンッという鈍い音と共に、額がもう少しでハンドルに直撃するところだった。海斗が素早く手を差し出してくれたおかげで、額は守られた。しかし、車内にはクラクションの音が響きわたる。海斗は片手で彼女の額を支えながら、もう片方の手で座席を調整し直した。凛はゆっくり座り直し、両手をハンドルに置くと、強く握った。髪が少し乱れていたので、息を吹きかけて、後ろに払いのける。目にかかった髪が揺れて、視界が戻った。もう一度、深く息を吸う。凛に恥ずかしさはなかった。ただ、実験で失敗したときと同じく、「次は必ず上手くやる」という思いが強かったのだ。「海斗」凛は自分の高鳴る鼓動を抑えて言った。「なんだか、あなたがいるとペースを乱されるみたい」海斗は、彼女の額の赤みが消えているのを確認した。問題はなさそうだ。そしてその視線が、凛の焦げ茶色の瞳に静かに移る。「俺が君に影響を与え始めたってことか?」低く、落ち着いた声。ゆっくりした話し方。彼の深い瞳と同じように、人を引き込む声だった。「そういうことじゃないんだけど」海斗は頷く。「ああ。本当はこうだろ……」「海斗」凛は海斗を遮った。「運転の練習は1日1時間。お互い忙しいんだから」海斗はふっと微笑んだ。「続けよう」それから、二人は真剣に練習したし、凛も大きな失敗はしなかった。ただ、理論と実践には違いがある。何度も試して、身体で覚える必要があるだろう。1時間が過ぎた。二人は車から降りて、それぞれ元の場所へと戻った。一人は社長室、もう一人は研究室へ。研究室へ入る前、凛は洗面台の前で立ち止まった。頭の中で海斗の言葉が何度も繰り返される。「俺が君に影響を与え始めたってことか?」あれは確か何かの一節だった気がする。「凛さん?」名前を呼ばれて、意識が現実に戻る。気づけば両手をずっと自動センサーの前に置いたままで、水が流れ続けていた。慌てて手を退けると、水が止まった。けれど、胸の動揺は静まらない。凛はマスクをつけ、研究室の中へと向かった。研究室から出てきた頃には、夜の8時を回っていた。外に海斗の姿はないけれど、携帯に
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第549話

「分かりました。また伝えますね」凛は食卓に並ぶ料理を見つめた。もうこの時間では、夜食といっても良いだろう。席についた瞬間、携帯にメッセージが届いた。海斗からだった。【家に着いた?】【着いたよ】【夕飯は何だ?写真を送ってくれ】凛は写真を撮るとそのまま送った。そんな凛の様子を見て、そばにいた美穂子も目を細めた。今の若い人たちは、何でも共有したがるものなのだろう。ようやく、海斗様も積極的に動き始めたらしい。【冷めないうちに食べろ。俺の分も残しておいて】凛は少し考えてから送った。【何時に仕事終わるの?】【まだ分からない。会議中なんだ】送信後、しばらく反応がなかったため海斗は携帯を伏せ、会議の進行に耳を傾けながら、ふと恵の議事録に視線を向けた。恵はノートパソコンの画面を少し傾ける。海斗が見ることを、恵は分かっていた。わずか数秒で内容を頭に入れた海斗は、何食わぬ顔で会議へ視線を戻した。会議が終わったのは9時半。海斗が先に退室すると、戻ってきた拓海と廊下で鉢合わせた。二人は目を合わせ、そのまま社長室へ入る。拓海が資料を海斗に差し出した。「小林さんの流産に関わる監視カメラ映像をもらってきました。3つのカメラに記録があり、診察記録も入手済みです。医者が言うには、小林さんは倒れる前にすでに中絶用の薬を服用していた疑いがあったそうなのですが、その時点で検査していなかったため、具体的な薬の種類までは分かっていません」海斗も3つの映像を見比べたが、特に不審な点は見当たらなかった。確かに智也が柚葉の背中を押したように見える。薬については、医師の経験に基づいた推測だ。もし転倒だけなら、子どもが助かる可能性はあったかもしれない。しかし、薬と転倒が重なったことで、柚葉は身体に大きなダメージを負った。「まだ調査を続けますか?」拓海が尋ねた。海斗は頷いた。「凛の手元に、使える材料は残しておくべきだからな。いくら凛が谷口家や小林と二度と関わりたくないと思っていても、向こうが勝手に近づいてくる可能性はある」拓海はそのまま次の報告に移る。「谷口さんのお母さんの手術は成功しました。夕方、大勢が見舞いに訪れていましたが、その中に陸川社長がいました」海斗の眉間に皺がよった。「ディープデータ・テクノロジーの陸川社長か?
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第550話

「陸川社長ならわかるはずです。俺のホシゾラ・テクノロジーでの役職を考えれば、競業避止義務違反をした場合、単なる損害賠償といった民事の問題だけでは済みません。ディープデータ・テクノロジーも同業ですし、ホシゾラ・テクノロジーに営業秘密侵害罪で告訴されれば、刑事責任まで問われることになるんです。もう、本当に裁判なんか懲り懲りですから」宏明が柚葉を利用して智也を窮地に陥れたのは、こうして「救いの手を差し伸べる」ためだった。智也は女を見る目がないだけで、仕事の能力が無いわけではない。男は私生活で失敗しても、仕事で結果を出せば評価される。本心であれ、打算であれ、人は皆褒め称えるだろう。宏明はまだ諦めない。「もしかして、すでに行き先が決まっているのかい?」智也は何も答えなかった。宏明は推測を重ねる。「もしかして望月家のところ?望月家のような伝統産業中心の企業は、いつか衰退する可能性がある。それに、ああいう企業は血筋を重視するでしょ?一生雇われの身でもいいのかい?このIT業界は実力主義。その点で考えれば、ディープデータの方が、景山グループよりずっと良いんだよ。谷口くんが首を縦に振ってくれさえすれば、競業避止契約の話はこっちでどうにかする。絶対に悪いようにはしないから。それに、提示する条件はすべて飲む。何でも言って」智也も、宏明の望月家に対する分析は正しいと思っていた。それに、提示条件も魅力的。しかし、宏明と柚葉が並んで写っていた写真を思い出し、反吐が出るほどの不快感に襲われた。「ディープデータ・テクノロジーの新プロジェクト、責任者は誰なんですか?」宏明は法廷での智也と柚葉の変化を関係を測りかね、事務的に答えた。「柚葉さんだ」「あのすごいプロジェクトを、柚葉に任せるんですか?」柚葉が肩書きだけで、中身のない女であることを知っている智也は、ディープデータ・テクノロジーの判断が理解できなかった。宏明は一瞬驚いた。そして、この智也の態度から、裁判を経て、かつての恋人同士が憎み合う仲になったことを察した。宏明は苦笑いを浮かべる。「凛さんを呼べなかったから、柚葉さんを通してその祖父というリソースを動かせれば、と思ってね」智也は鼻で笑った。宏明の眉間に皺がよる。裁判で一体何があったんだ?あれほど柚葉に入れあげていた智
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