All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

柑奈から見れば、海斗にもいかにも経営者らしい一面はある。ただ、育ちのよさを感じさせる品格が、それを目立たなくしているだけだ。「どうして茂さんが政界を離れてビジネスの道に進んだのか、当時何があったのか、それは私にも分かりません」柑奈が知っているのは、すべて母から聞いた話だし、その母にしても、小さな施設の院長にすぎないため、知り得ることには限りがある。少し考えてから、柑奈は続けた。「そういえば母が、神谷さんは結婚したのは早かったのに、子供ができたのは遅かったって言ってました。確か、30歳近くになってからだったはず。もしかしたら家庭の事情があったんでしょうか。でも、それで政治家を辞めるというのも不思議ですね」海斗が頷く。「茂さんが29歳の時に息子の利明が生まれ、31歳の時に娘の美雪が誕生しているんです」「当時なら、確かに遅いほうですね」「ということは……」凛が口を挟んだ。以前会った、穏やかで物腰の柔らかな茂を思い浮かべる。「茂さん、もうすぐ60歳ですね」すると、海斗が言った。「今年、還暦祝いをする」凛は少し驚いて続けた。「50歳くらいだと思ってた」「奥さんの彰菜さんも今年54歳だけど、かなり若く見える。茂さんも身なりには気を遣ってるからな」海斗の母親である瑶子も今年49歳だが、驚くほど若々しい。日和と二人で出かければ、姉妹どころか双子に間違われることさえある。美雪と彰菜も同じだった。ただ、二人が似ていると言う者はいない。海斗はふと、何かが引っかかった。何かがおかしい。霧の向こうに答えがあるような気がする。あと少し手を伸ばせば、その正体が見えそうなのに、今はまだその糸口がつかめない。他人の家庭の事情のため、結局それ以上は話さなかった。憶測だけで踏み込む話ではない。凛が立てていた今日の予定では、午後は柑奈と康平を動植物園へ連れていくことになっていた。最初は遊園地も考えたが、康平は人が多く騒がしい場所が苦手なため、比較的落ち着いて過ごせる動植物園のほうがいいだろうと考えたのだった。チケットは凛が用意していたが、海斗の分までは手配していない。当日券が残っているか確認しようとしたところ、海斗が何食わぬ顔で自分のチケットを取り出した。凛から予定表を受け取った直後、恵たちがすべて手配していたのだ。昼食を済ま
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第612話

柑奈は凛の琥珀色の瞳を見つめたあと、首を横に振った。「何でもないわ」世の中には、血のつながりがなくても似ている人はいくらでもいる。横顔が少し似ているからといって、すぐ血縁に結びつけるのは短絡的だ。ましてや相手は茂。凛は幼い頃、道端に捨てられていた。雪が降りしきる真冬の夜。あんなに小さく、愛らしい赤ん坊を、凍えるような寒さの中に置き去りにするなど、よほど非情でなければできない。それに、茂には美雪という娘がいる。柑奈は、自分が子どもたちの親を探したいという願いが強すぎて、現実を都合よく解釈しようとしていたのかもしれないと反省した。もし単なる行方不明なら、これだけ情報網が発達し、DNA鑑定までできる時代だ。とっくに家族と再会できているだろう。柑奈はそれ以上口にしなかった。だが海斗は、彼女の呟きも、そのとき凛を見つめていた表情も見逃していなかった。凛に関わることだけに、海斗は柑奈が帰る前に改めて確かめておこうと心に決めた。A市の植物園と動物園は近く、植物園を見てからそのまま動物園へ向かえるようになっていた。植物園横の駐車場に車を止め、4人は車を降りる。普段から来園者の多い場所だが、今日は連休ということもあって、いつにも増して混雑していた。康平は不安そうに柑奈の服の裾をつかみ、周囲を見回すこともできず、柑奈と凛の顔を交互に見ている。迷子にならないよう、凛は大きめのバッグから子供用の迷子防止リストバンドを取り出した。片方を自分の手首に、もう片方を康平の手首につける。「これなら、もう離れ離れにならないからね」柑奈が笑った。「そんなものまで用意してたの?」「一応、必要そうなものは調べてきました」その様子を見ていた海斗は、少し驚いた。そして凛と康平の手首がリストバンドでつながれたのを見ると、なぜかちょっと羨ましくなる――こんな便利なものがあるのか。その視線に気づいた凛が問いかけた。「どうかした?」「いや、何でもない」海斗は視線をそらし、顎で先に行くよう促す。入園すると、案内板には季節ごとの花の見頃が記されていた。今は梅や水仙がちょうど見頃らしい。すると凛が、今度はバッグからタブレットを取り出した。海斗が画面を覗くと、簡単なスライド資料が開かれている。1ページ目は梅についての説明だったため、どうやら康平に説明す
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第613話

康平は大人たちの間に流れる微妙な空気などに気づきもせず、凛の説明を一生懸命聞いていた。ときどき覚えた花の名前を、ぽつりぽつりと口にする。凛は康平が自分の言葉を繰り返すたび、わずかに笑った。黙ってそばにいる海斗は、その小さな笑みに毎回のように目を奪われ、少し遅れて、自分も口元を緩める。飲み物を売っている売店を見つけると、海斗は一人で歩いていき、水を4本買って戻ってきた。まず柑奈に渡し、次に康平へ。そして最後の一本は、自分でキャップを開けてから凛へ差し出す。「ありがとう」凛は受け取って一口飲み、海斗の手に残っているキャップへ目を向けた。海斗は何も言わず、凛の手からボトルを受け取るとキャップを閉め、自分の指に引っかけていた透明のビニール袋へ入れる。2本のペットボトルがぶつかり、小さな音を立てた。植物園に咲いていた鈴蘭を目にした康平が、ぽつりと言う。「すずらん、きれい」凛は自分のベッド脇に置いてある胡蝶蘭の鉢植えを思い出し、ふと付け加えた。「胡蝶蘭もきれいだよ」海斗はすぐに自分が贈ったものだと気づき、自然な流れで尋ねた。「鈴蘭と胡蝶蘭、どっちが好き?」凛は答えない。「鈴蘭?」凛は相変わらず答えない。「じゃあ胡蝶蘭か」「……」海斗はじっと凛の目を見つめた。認めるまで逃がさない、と言わんばかりだ。凛は小さく頷く。確かに、胡蝶蘭のほうが好きだった。海斗の口元が満足げに上がる。植物園を巡るうちに、大自然に包まれるような静けさが皆の心をほぐしていった。最初はどこかおどおどしていた康平も次第に伸びやかになり、その瞳には好奇心と歓喜が浮かび始めていた。動物園に入ると、康平の興奮ぶりはさらに顕著になった。見たこともない動物たちの姿に、何度も目を輝かせては指をさす。凛が説明を続けようとすると、柑奈が声をかけた。「私が説明するわ。植物はあまり詳しくないけれど、動物なら少しはわかるから。凛は少し休んで。のどは痛くない?」凛は首を振った。「痛くありません」柑奈は微笑みながら凛の手首から迷子防止リストバンドを外すと、自分の手首に通し、康平を連れて展示の近くへと向かった。柑奈は子供との接し方に長けており、動物を説明する声や表情で康平の好奇心を巧みに引き出した。お気に入りの動物を見つけるたび、康平は嬉しそうに振り
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第614話

凛は思わず海斗を見つめた。まさか、海斗がこんなことをしてくれるなんて。彼は、自分が子どもの頃にできなかったことを埋め合わせようとしてくれている。凛の視線に気づいた海斗は説明を止めた。心の中では楽しんでいたが、表情には出さず冷静にこう言う。「凛、ちゃんと聞け。君は今、15歳なんだから」凛は考えるより先に、「わかった」と答えていた。それからは、本当に海斗の説明を聞きながら動物園を回る。海斗の動物紹介を聞く中で、彼の口が人を刺す言葉を吐くだけではなく、説明も意外と面白いことを知った。爬虫類館では、コモドドラゴンとヨウスコウワニを見て、「爬虫類の世界大会だ」と言い、鳥類エリアでは、よちよち歩くペンギンを見て、「分厚いコートを着せられて、まともに歩けなくなった子どもみたいだ」と評した。猛獣エリアや霊長類エリアに入ると、今度は凛を自然に自分の近くへ寄せた。トラやゴリラが何かしたら危ない、とでも思っているらしい。実際のところ、動物園の動物が簡単に人を傷つけたりはしないため、海斗は少し過保護すぎると凛は思った。だが康平が大型の猛獣へ向かって思わず手を伸ばしかけた瞬間、自分も反射的に止めていた。そこで、海斗ももしかしたら同じなのかもしれない、と凛は思った。その感覚は、凛にとってあまりにも新しかった。海斗から受けるこの感覚はあまりに新鮮で、智也がこれまでくれたものとは全く違う。海斗と知り合ってから、ずっとそうだった。植物園と動物園を一通り回り終えると、4人は近くのレストランで食事をし、食べ終わる頃には、柑奈も康平もすっかり疲れていて、それ以上どこかへ行く気力は残っていなかった。海斗が運転する車でホテルへ送ってもらう道中、柑奈の携帯に施設から連絡が入った。対応すべき急用があり、明日には戻らなければならないらしい。康平だけがここに残ることになった。海斗はまたしても柑奈に対し、凛と一緒に康平を病院へ連れていき、全身の検査を受けさせ、そのために必要な手配もすでに済ませてあると、言い切った。柑奈は背の高い海斗を見上げた。色々言いたいことがあったが、結局出たのは一言だけ。「ありがとうございます」海斗も、年長者に対してはきちんと礼を返す。「お気になさらないでください」今回は海斗もホテルの中まで一緒に入った。凛がカードキーを使い、
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第615話

柑奈が付け加える。「昔の神谷さんと、今の凛の表情が、特定の角度から見ると、本当に似ているんです。でも、こういうことは軽々しく言うものじゃないですし、神谷さんには美雪さんという娘さんもいます。海斗さん、今日の話は私のただの勘違いだと思って忘れてくださいね」海斗は静かに頷いた。「分かりました。誰にも言いません」「凛にも、秘密ですよ」「はい」ちょうどその時、凛が部屋から出てきた。二人がまだ廊下にいるのを見て、少し意外に思った。どうやら、自分の知らない話をしていたらしい。柑奈は部屋に入ると、凛に言った。「今日はもう帰って休みなさい。明日の便を取ったら、時間を連絡するから」凛は頷くと、柑奈と康平に一声かけてから、海斗と一緒にエレベーターへ向かった。「院長先生と何を話してたの?」そう聞かれると予感していた海斗は、落ち着いた様子で答える。「君を無事に家まで送れって念を押された」凛は半信半疑だった。とはいえ、わざわざ柑奈に確認するつもりもない。二人が自分のいないところで話したのなら、知られたくない内容なのだろう。海斗はさりげなく話題を変えた。「唐沢院長は明日帰るし、康平くんはこのまま君と一緒に生活をする。美穂子さんはちょうど南山ヒルズに何日間か戻って、整理するみたいだ」凛は小さく頷いた。自宅の前まで送ってもらった凛は、一応社交辞令として海斗に声をかける。「少し寄っていく?」海斗は室内を一度見たあと、再び凛へ視線を戻した。「やめとく。一度入ったら帰りたくなくなるからな」凛は即答した。「じゃあ、また」海斗は思わず笑った。「また明日な」凛が中へ入るのを見届け、ドアが閉まってから背を向けた。凛は家に入ると、美穂子に声をかけ、手を洗ってから寝室のデスクの前に座る。そうして、海斗の名前が書かれた紙の右側にこう書き加えた。【一緒にいると楽しい】一方、凛を見送った海斗は携帯を取り出し、車に乗り込みながら瑶子へ電話をかけた。「もしもし、海斗?そんなに急がなくてもいいのに。私たち明日には帰るんだから」「母さん、茂さんの若い頃の写真って持ってる?20年以上前で、G県にいた時のやつ」「持ってるけど」受話器の向こうから、不思議そうな瑶子の声が聞こえた。「急にどうしたの?写真なんて」「帰ってきたら詳しく説明する
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第616話

翌日。美雪は午後の3時のフライトで帰ることになっていた。父親がここまで急いで自分を帰そうとするとは思わなかった。だからこそ、美雪の不安は膨らむ。やっぱり何か疑われてる?それとも、もう何か知っているのか?美雪は茂と朝食を取るつもりで部屋を訪ね、インターホンを鳴らしたが、反応はなかった。また朝早くから出かけているらしい。いったい何をしているのだろう。茂と会えなかった美雪の前に、ちょうど部屋を出てきた利明が現れた。「お兄ちゃん、おはよう」「おはよう。父さんと朝飯?」美雪は頷く。「でも、いないみたい。それとね、お父さんに今日の午後、家に帰れって言われたから、しばらくA市にはいられなくなっちゃった」「父さんが?やけに急だな」利明がわずかに眉をひそめた。両親は昔から、美雪をかなり自由にさせてきた。「お母さんが寂しがってるんだって」と美雪は適当な言い訳をする。家族の中でも、母親はとりわけ美雪を可愛がっているし、欲しいと言えば何でも与えようとするほどだ。「なら仕方ないな。しばらく家でゆっくりするのもいいだろう」と利明は頷いた。軽く微笑んだ美雪だが、胸の奥の不安は消えない。「お昼、柚葉さんと二人だけで食事がしたいんだけど、お兄ちゃんはこのままA市にいるんだから、まさかついて来たりしないよね?」利明は苦笑した。「行かないよ、楽しんでこい。柚葉との時間はいくらでもあるから」「ありがとう」美雪はすぐ柚葉を誘い、そのまま空港へ行くつもりだったので、荷物をまとめて待ち合わせ場所に向かう。スーツケースを見るなり、柚葉が驚いて言った。「帰るの?じゃあ、竹内社長にはもう会えなくなっちゃうじゃない」「大丈夫。お母さんに呼び戻されたのも、たぶん神谷家と竹内家のことを相談するためだと思うから」「じゃあ、竹内社長本人の意思だけじゃ決められないってこと?」柚葉が声を弾ませる。「理屈の上ではね」美雪はその話を柚葉と続けたくなかったため、すぐに本題に入った。「それより、昨日約束したこと忘れないで。お兄ちゃんの体に何かあったら絶対に許さないから。あと、陸がお兄ちゃんにあなたの噂を話したみたい。それに、お兄ちゃんだって、何も疑わないわけじゃない。あなたを傷つけたくなくて、直接聞かないだけ。でも、疑いは残るはずだから、そこは
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第617話

美雪の見立てでは、柚葉が穴埋めするには、まだ少なくとも8億円近くは必要なはず。だが英樹は研究一筋の人間だ。そんな大金をどこから用意するというのか?柚葉の叔父夫婦?しかし、美雪が調べた限り、あの二人は姪が窮地に陥ったからといって、何億円もの金を差し出すような人間ではない。誰かに探らせたほうがいいわね。写真家として顔の広い美雪にとって、人を一人手配するくらい造作もない。必要な手配を済ませると、美雪はB市行きの飛行機に乗った。同じ頃、柑奈もG県へ戻る便に乗っていた。そして隆と瑶子も、A市へ戻る途中。そのことを知った茂が、二人と食事をする約束を取りつけると、ちょうどそばにいた利明が言った。「父さん、今回の食事に僕は行かないから」どうしても、海斗の顔を見たくない。茂は特に驚きもせず、逆に尋ねた。「利明、連休も終わるっていうのに法律事務所には戻らないのか?」「しばらくは帰らない」柚葉と付き合い始めたばかりなのに、いきなり遠距離にはなりたくない。だが、さすがにそれを父親に言う勇気はなかった。茂は妙なものを見るように利明を見る。「利明、まだ自分が事務所のパートナーだと思ってるのか?」利明は固まった。どういうことだ?茂はそれ以上利明を見ようともせず、淡々と言った。「お前が求めた自由が、どうやってお前から自由を奪うのか、じきにわかる。経済的な基盤がなければ、その上に成り立つものも維持できない。30にもなって、そんな簡単なこともわからないとはな」その口調から、父親の失望が伝わってきた。利明が問い返すより早く、助手から電話が入る。「神谷先生、上からの連絡で、明日の朝9時には遅刻せず出社してタイムカードを切ってください。できれば早めに……オフィスが移動になりますので」相手の声は、妙に遠慮がちだった。利明は即座に眉をひそめた。「どういう意味だ?」助手はしばらく言い淀んだ後、震えながら言った。「それは……明日来ればわかると思います。それに、遅刻してしまうと皆勤手当も出ませんので……」「……は?」これまで出退勤の時間などほとんど自由で、皆勤手当など気にしたことすらない。数秒後、利明はようやく意味を理解した。表情が一変する。勢いよく父親を見ると、茂は何事もなかったかのように横を通り過ぎ、そのまま部
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第618話

柑奈を空港まで送ったのは、凛と康平だった。運転手は、もちろん海斗。柑奈の便は午後だったため、今日はほかの予定を入れにくい。そこで凛は、康平の詳しい検査は明日に回し、今日は日用品や服を買いそろえることにした。3人でショッピングモールへ行き、一軒の服屋に入る。すると入ってすぐ、二人の店員が、床にしゃがんで服を整理している女性を見ながら小声で話しているのが聞こえた。「ほんと要領悪いよね。こっちの仕事ばっか増やしてさ」「仕方ないじゃん。それにあの子、店員じゃなくて研修で来てるだけの総合職候補でしょ?」「誰でもいいわけ……いらっしゃいませ!」話していた店員が振り返り、海斗と凛、それに康平が入ってきたことに気づくと、瞬時に営業スマイルへ切り替えた。隣の同僚を肘でつつく。もう一人もすぐに笑顔になった。凛は服を見ながら、ふと店の隅に目を向けた。山積みの服を前に途方に暮れている後ろ姿。どこかで見た気がする。少し近づくと、かすかなすすり泣きまで聞こえてきて、それはひどく悔しそうな泣き方だった。凛はそれ以上気にせず、康平に声をかけた。「康平、気に入ったものがあったら何でも選んでいいからね」隅にしゃがんでいた女性の体が固まり、手も止まる。そして、凛たちが少し離れてから、女性は恐る恐る振り返った。店員たちに「要領が悪い」と陰口を叩かれていた研修中の女性――それは胡桃だった。来店客が凛だと分かると、胡桃は瞳に動揺を走らせ、急いでバックヤードに隠れようとした。こんなに情けない姿を絶対に凛には見られたくない。だが、もともと彼女を快く思っていなかった店員が見逃すはずもない。「谷口さん、どこへ行くの?まだ仕事が残ってるでしょ!」その声に、服へ伸ばしていた凛の手が止まる。ようやく、あの後ろ姿に見覚えがあった理由がわかった。胡桃だ。凛はすぐには振り返らなかった。海斗が視線だけで確認し、間違いないと伝えてくる。凛は手にしていた服を戻し、康平に言った。「別のお店に行こうか」康平は素直に頷いた。海斗にも異論はない。ところが、店を出ようとしたその時、自暴自棄になったのか、胡桃が凛を呼び止めた。「ねえ!」歯を食いしばった胡桃が、凛へ向かってきた。「気づいてたんでしょ?だったらなんで帰るのよ!私の顔も見られないっていうわけ?
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第619話

さらに慌てた様子で店長に駆け寄った胡桃。「あの人は私の兄の奥さんなんで、全て誤解なんです!私、ここに来たばかりなのに……問題なんて起こせません……」凛は足を止め、振り返って言い放った。「胡桃、私はあなたの兄と一切関係ないから」「どうしてそんなに冷たくできるのよ!」胡桃は目を真っ赤にして訴えた。「あんな凄腕の弁護士を雇って、お兄ちゃんから一円も残さず奪ったじゃない?そのお金だって、元は私の手元にあったはずのお金なのに、今では車も家も、宝石もバッグも、全部なくなった!あなたのせいで私はこんな生活になったのよ!」「私が受け取ったあのお金は、あなたたちの代わりに世の中の役に立ててあげるから。そうすれば、あなたたちも少しは徳を積めるんじゃない?」それだけ言うと、凛は康平の手を引いてさっさと店を出た。買い物を楽しんでいたはずなのに、胡桃のあの「兄の奥さん」という言葉のせいで、すっかり気分が冷めてしまった。その空気を察した康平が声をかける。「姉ちゃん」凛は小さく息を吐き出す。「大丈夫。康平、ほかの場所に行こう」結局、その後は康平の服や日用品をたくさん買ううちに、凛の機嫌も少しずつ戻っていった。買いすぎて3人では持ち帰れないかもしれない、と凛は途中で心配になったものの、それも杞憂だった。海斗が店側に住所を伝え、家まで届けてもらうように手配をしてくれていたおかげで、3人は荷物を抱えることなく、身軽なまま買い物を終えることができた。家では美穂子が夕食を用意し、帰りを待っていた。海斗は2人を玄関まで送り届けると、凛に言った。「母さんたちが帰ってきたから、俺も実家に戻る。ちゃんと食べて、ちゃんと休め。康平くんの服は明日、美穂子さんが持ってきてくれるから」それは、まるで放っておけない子どもに言い聞かせるような口ぶりだった。28歳にもなった自分を子どものように気遣うのは、これまで柑奈や杏くらいだったが、そこに今、海斗が加わった。「康平くん、こっちに来てお水飲もう。今日はいっぱい歩いて疲れたでしょう?」美穂子が康平に優しく声をかける。玄関前には、凛と海斗の二人だけが残った。凛は口を開く。「昨日でもう動物園は見終わったんだから、私、はもう15歳の子どもじゃない」「俺もロリコンじゃない」つまり――好きなのは、今の28歳の
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第620話

美雪が両親のどちらにも似ていないことは、神谷家の親族も昔から気づいていて、陰であれこれ言う者もいたらしい。茂と彰菜は隔世遺伝だと説明していたものの、それだけでは噂を完全には止められなかった。ある時、幼い美雪が親戚たちの噂話を耳にしてしまった。一人で物陰に隠れて泣き、そのまま眠ってしまい、両親が見つけた頃には高熱を出していたという。発熱や風邪は心臓に負担をかけることがあるため、茂夫妻は慌てて美雪を病院へ連れていき、その際にDNA鑑定も受けさせたのだった。「あの日、私もお見舞いに行ったのよ」と、瑶子は当時を思い返すように言った。「茂が鑑定結果を示してからは、誰も何も言わなくなった。神谷家のあの世代には女の子が二人しかいないし、美雪ちゃんは茂の娘でしょう?本当に大事にされて育ったんだから」隆が海斗に視線を向け、静かに口を開く。「神谷家はうちとは事情が違う。確証もないのに、こういう話を軽々しく口にするな。向こうに余計な火種を作ることになる」海斗にも、父親の言いたいことはわかっていた。美雪はDNA鑑定で茂夫妻の実子だと確認されている。ならば、外に茂や彰菜と似た人間がいるからといって、迂闊な憶測を口にすれば、どちらかに婚外関係があったのではないかという話になりかねない。それに、神谷家には政敵も多いため、くだらない噂一つが、致命傷になることさえあるのだ。海斗の脳裏に凛の姿が浮かぶ。本当に考えすぎなのだろうか?隆は海斗の迷いを見抜いたように、肩を軽く叩いた。「世の中には、血縁がなくても似ている人間はいくらでもいる。凛さん本人が家族を捜したがっているのか?それとも、お前が気にしているだけか?」瑶子も海斗を見つめる。しかし、海斗はこう答えた。「今のところ、凛が実の家族を捜したがってるようには見えないし、俺も別に、勝手に家族を捜してやろうと思ってるわけじゃない。ただ……神谷家の人間の凛に対する態度が妙なんだ」「妙?」と瑶子が尋ねた。「どういう意味だ?」と隆も続く。海斗は自分の中に抱える疑念を口にした。「茂さんは、理由がわからないくらい凛を気にかけてる。けど、そこに悪意は感じない。それから美雪も、凛を必要以上に意識してる。それも、俺だけが原因じゃないように思える。美雪は一見、誰にでも感じがいいが、でも根っこのところには、神谷家に生
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