All Chapters of 元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚: Chapter 621 - Chapter 630

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第621話

二人の目には、もう息子の海斗など映っていなかった。隆は瑶子を見つめ、わずかに恨めしそうな顔でため息をついた。「お前が悪いと思うべき相手は、海斗じゃなくて俺だろ。瑶子、俺は国内どころか海外まで必死になって捜し回ってたのに、お前は海斗を連れて島で優雅にバカンス。しかもベビーシッターもボディーガードも揃ってた。海斗に申し訳ないことがあるとすれば……日焼けしすぎて、とても俺たちの子には見えなかったことくらいだ」海斗は黙った。どうやら、聞かなくてもいい両親の過去を知ってしまったらしい。瑶子は楽しそうに笑う。「本当に真っ黒だったのよ。小さな炭みたいで。でも育ってるうちに、ちゃんと白く戻ったわね」海斗は姿勢を正した。「父さん、母さん。その『小さな炭』本人にも、事情を知る権利くらいあると思うけど」「隠すような話でもないわ」と瑶子は簡潔に当時のことを語り始めた。「親の代で命を救っただのって話があってね、そのせいで私とあなたのお父さん、子供の頃から婚約させられたのよ。でも二人とも、全くその気はなかった」隆は加えた。「俺は嫌じゃなかった」「あなたは黙ってて」と瑶子は続けた。「でも、親たちには逆らえなかった。こういう家に生まれて、何不自由なく育ててもらった以上、果たさなきゃいけない役目もある。そう思って、お父さんとは3回目に会った時に入籍して、そのまま式も挙げたの」海斗を見て微笑む。「若い頃のお父さんも、あなたと同じでやたら女の子から人気があったのよ。そこにいるだけで女の子が寄ってくるくらい……ふふ。でも、あなたのほうがまだマシね。言いたいことをはっきり言うから、その分女の子を怒らせるし、怖がられて簡単には近寄ってこないからね。それで、お父さんに言い寄る女の人たちにうんざりして、私、一人で旅行に出たの。そしたら妊娠がわかったんだけど、妊娠中に余計なことで腹を立てるのも嫌だったから、そのままのんびりしてたら、あなたを産んで、もうすぐ1歳って頃に、ようやくお父さんが私を探し当てたっていうわけ」海斗はこめかみを押さえた。頭が痛い。まさか自分の出生に、そんな話があったとは。海斗は隆を見た。「見つけるのに、そんなにかかったのか?」隆の目が一瞬にして険しくなる。全く、ろくでもない息子め。「母さんについてたボディーガードが、そこらの
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第622話

結局、日和はソファでは寝ず、凛に電話をかけながら自分の部屋へ戻った。ドアを閉めるなり、さっそく兄の愚痴が始まる。「うちのお兄ちゃん、本当にどうかしてるんですよ。お金持ちで顔がいいっていう二大長所がなかったら、凛さんにはもったいないどころか、釣り合わないと思います!」電話の向こうで、資料をめくっていた凛の手が止まった。「でも、この二つだけで大半の男には圧勝できますからね。凛さん専用の研究所を一棟建てて、業界トップクラスの研究者を集めて助手にするくらい平気でできるし。顔がいいのも大事ですよ。恋愛じゃお腹は膨れないけど、顔を見れば気分はよくなるじゃないですか。気分が悪い日は、いっそ店先に立たせて稼がせればいいんです。もちろん売上は全部、凛さんのもので!」凛は思わず笑ってしまった。「日和さん、あなたって本当に海斗の妹?」「正真正銘ですよ。顔もそっくりだし、両親にも似てるから、血が繋がってないって言い張るのも無理です。だからせめて、形だけの兄妹でいようかと。あ、そうだ。お兄ちゃんが訳あり赤ちゃんだった話、まだしてませんでしたよね?詳しく話してあげます。あれは……」そこから日和の漫談が始まった。凛は作業の手を止め、日和の誇張された話に聞き入った。幼い海斗が、母親しかいない世界で、突然現れた父親に対して戸惑っていた様子が、鮮明に脳裏に浮かぶ。海斗の幼い頃はどんな様子だったのだろう?凛はただ聞き入るだけでなく、いつの間にか想像を膨らませていた。凛はベッドに入り、サイドテーブルの灯りに背を向けて横になると、胡蝶蘭のつぼみが目に入った。それを眺めているうちに、いつのまにか眠りについていた。いつもより早く寝たこともあって、目を覚ました時には、海斗が設定してくれたアラームもまだ鳴っていなかった。身支度を整えて部屋を出ると、キッチンから朝食のいい香りが漂ってくる。康平がここで暮らすようになってから、美穂子は朝に来て、夜に帰るようになっていた。「美穂子さん、おはようございます」「凛さん、今日は早いですね。昨日はよく眠れました?」「ええ、よく眠れました」凛の声はいつもより軽かった。海斗の昔話を聞きながら、海斗が贈ってくれた蘭を眺めて眠った。どこにいても、何をしていても、最近は海斗の存在がついて回る。「凛さん、
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第623話

凛は朝食を持って康平と家を出ると、タクシーでA市市立病院へ向かった。柊病院にしなかったのは、すでにA市市立病院で予約を取っていたから。かつて自分が一人で通院していた時と同じように、今度は凛が康平に付き添い、一つずつ検査を受けさせて回った。受付を済ませ、順番を待ち、採血が終わったところで、凛は持ってきたおにぎりを取り出す。康平はゆっくりとそれを口に運んだ。次の検査へ向かおうとした時、凛はふと柚葉の横顔を目にした。少し固まった凛。病院で柚葉に遭遇する確率が、いくらなんでも高すぎる。凛の視線に気づいた康平も同じ方を見たが、凛は康平に声をかけて、そのまま検査の受付へと急いだ。午前中ですべての検査を終え、結果が出るのは午後。それなら近くで昼食を済ませようと、康平を連れて病院を出たところで、一台の車から海斗が降りてきた。「遅くなった」きっちりとスーツを着こなした海斗は、いつもの落ち着いた表情にわずかな申し訳なさを滲ませている。「ううん、全然」むしろ仕事を放り出して来られたほうが、凛は責任を感じてしまう。「午後に検査結果を受け取って、先生に診てもらったら帰る予定だから、これからお昼を食べるところなの」「この近くでいい店を知ってる」3人が歩き出そうとしたその時、病院から出てきた柚葉と、ばったり鉢合わせた。柚葉も一瞬固まる。まったく、どこまで腐れ縁なのか。とはいえ、わざわざ凛を訪ねることになれば、今ではいちいち身元確認や手続きが必要で面倒だったため、これはこれでちょうどいい。「凛さん」柚葉が凛たちの方へ歩いてくる。まだ返金できていなかった連休に会った時のような気まずさも、逃げるような素振りもない。なぜなら、今はもう違うから。「せっかく会えたので、残りの14億円、ここでお返ししますね」バッグからキャッシュカードを取り出す柚葉には、相変わらず妙な優越感が漂っていた。その瞬間、海斗が言った。「拭いてから渡せ」「どういう意味ですか?」柚葉が眉をひそめる。凛が淡々と答えた。「感染したら困るから」「ああ」海斗も当然のように頷く。よくわかっていない康平まで、二人につられてこくりと頷いた。柚葉の目が大きく見開かれる。智也は、正人さんだけじゃなくこの人たちにも話したわけ?!あの男、頭おかしいんじ
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第624話

検査結果を待っている間、海斗は拓海に連絡を入れた。もう一度G県K市へ行き、かつて茂が政界を去って実業界へ転じた本当の理由を、水面下で調べるよう指示した。さらに柑奈が話していた当時の「坂本先生」についても触れ、茂と共に働いていた頃のことを、可能な限り調べるよう頼んだ。凛と茂の間に何があるのか……そもそも本当に何かあるのかさえ、まだわからない。海斗は、そんな曖昧な推測を抱えたままにしておくのが嫌だった。だから、調べた結果、間違いだったとしても構わない。それでも可能性を一つ潰せるだけで、答えには一歩近づける。凛は海斗が忙しそうにしているのを見て言った。「結果を待ってるだけだし、出たら写真を送るよ」「仕事じゃない。ちょっと私用を片づけてただけだ」海斗は凛を見つめた。どうしても、若い頃の茂の写真が頭に浮かぶ。「今夜、茂さんと食事をする。日和から聞いたけど、凛はもう茂さんと会ったことがあるんだろ?」凛は頷いた。「うん、エデンの園で。茂さんが予約してなかったから、同じテーブルで食事したの」「予約していなかった?相席?」海斗の表情がわずかに変わった。神谷家の人間であれば、そんなことはまず起こり得ない。どうにも、作為的な偶然を感じざるを得ない。やはり、茂の凛への関心は不自然なほど強い気がする。「茂さんについて、どう思った?」凛はその日の食事を思い返した。「親しみやすい人、かな」「親しみやすい人か……」海斗は小さく繰り返し、それ以上は聞かなかった。やがて康平の検査結果が出た。特に大きな問題はない。凛は胸を撫で下ろし、康平を連れて帰路につく。海斗が運転する車で一番町特別宿舎10号棟まで送ってもらったのだが、別れ際になっても、その視線はずっと凛から離れない。見つめられ続け、凛の頬がじわじわと熱くなる。海斗は車から一つの包みを取り出した。「うちの母さんからのお土産。クッキーだって」凛は少し驚いて受け取った。「瑶子さんにお礼を伝えておいて」「そのうち、母さんのほうが凛に礼を言うかもな」「え?」「父さんはもうすでに、君に礼を言っただろ?」以前、凛が海斗の恋人という名目で実家を訪れた時のこと。確かに、海斗の父親は自分に、「こんなやつを引き取ってくれて、本当にありがとう」と礼を言っていた。凛は黙り込んだ。琥珀
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第625話

「そんなにぼーっとして、何見てるんですか?」日和が近づいてきた。凛も隠すつもりはなく、そのまま今のやり取りを見せる。「二人とも、もう付き合ってるみたいですけど、お兄ちゃん、凛さんを落とせたんですか?いや、それはないか……付き合えたなら、今ごろ絶対おかしくなってるはずですもんね」おかしくなる?日和は大げさだ、と凛は思った。けれど……付き合ってる?自分たちの会話はそんな風に見えるのだろうか?凛は携帯をしまった。「付き合ってないよ」「知ってますよ。だって、お兄ちゃん、まだおかしくなってないですもん」凛は黙り込み、それ以上海斗に返信はしなかった。一方、いつまで経っても返事の来ない画面を見つめていた海斗は、日和にメッセージを送った。【凛はちゃんと食べてるのか?】【食べてるよ。ねえお兄ちゃん、もうキスまでしたのに、なんで急におとなしくなったの?もっと攻めなよ!】【子供は黙ってろ】気持ちを打ち明けられたあと、凛は「今は答えられない」と言った。はっきり断られなかったということは、迷い、考えているということ。まるで取引相手に審査されているような感覚だった。一歩も間違えられない緊張感。28年の人生で、これほど慎重になったことは一度もない。手放すつもりも、失うつもりもない。だから、負けられないのだ。海斗が何より手に入れたいのは、凛の心だった。初めて会った瞬間から惹かれ、好きだと自覚したうえで、自分から追いかけると決めた相手。軽い気持ちで始めた恋ではない。「海斗くん、誰とやりとりしてるんだ?」ふいに茂が尋ねた。咎める様子はなく、純粋に気になっただけらしい。海斗はわずかに目を動かした。「凛です」そう答えながら、海斗は茂の表情をじっと観察したが、そこに浮かんだのは、穏やかな微笑みだけ。茂はもともと、若い世代には優しい。「そうか、海斗くんが想いを寄せる人か」「はい」海斗が聞き返す。「茂さんも凛には会ったんですよね?」「あるよ」茂は言った。「エデンの園で、あの子と日和ちゃんが一緒に食事をしていた時に偶然ね」言葉は嘘をつけても、無意識までは隠しきれない。人は話すとき、親しい相手や気にかけている相手を無意識に先に挙げることがある。茂にとって昔からよく知る相手は日和のはずなのに、先に出
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第626話

研究所から急に連絡が入り、凛は緊急会議のため出向くことになった。研究所の入口で克哉と顔を合わせ、そのまま一緒に中へ入る。「何かあったんですか?」「僕も詳しくは聞いてないけど、行けば分かるだろう」中に入ると、そこには監査担当者たちが来ていた。英樹が、学術的な不正と不正送金の疑いで匿名通報されたという。そして凛まで事情を聞かれることになった理由は、あの14億円についてだった。そこで凛も気づく。柚葉の両親は、ほとんど全財産をかき集めて10億円を用意した。残りの14億円は、柚葉がどれだけ人から金を引き出すのに長けていたとしても、短期間で用意できるとは考えにくい。強制執行される前に、柚葉をどうにかしてやりたいと思う人間が両親以外にいるとすれば、それは祖父の英樹だろう。つまり、あの金は英樹が用意した可能性が高い。だから、一度に14億円もの大金を動かせば、疑われても不思議ではないのだ。凛は聞かれたことにすべて答えたが、胸の奥には引っかかるものがあった。動きがあまりにも早すぎるし、しかも、自分の手元に渡った14億円まで把握されている。柚葉が金を返したことを知っている人間が、いったい何人いるのだ?あの場にいた海斗以外、凛はまだ誰にも話していない。事情聴取を終えた凛は、克哉が出てくるのを待った。克哉も、発端が柚葉から返された14億円だと察したらしい。「どういうことだ?」凛は首を振る。自分にも分からない。克哉が気にしているのは凛への疑いではなかった。「松田さんは業界でも長年好き勝手に振る舞ってきたからな。嫉妬を買うことも多いし、彼を蹴落として昇進しようという奴は山ほどいる。それなのに、どうして君まで巻き込まれたんだ?今回の件、松田さんだけが狙われているとは思えない。君まで標的にされている気がするんだ」克哉は少し考え、重いため息をつく。「出る杭は打たれる、か」凛は眉を寄せた。事情聴取は午前いっぱい続いた。凛と克哉はそのまま研究所の食堂で昼食を取ることにしたが、食事中、何人もの視線が凛へ向けられる。疑われているのだろう。英樹は昨年、何かにつけて凛に圧力をかけ、自分の孫娘である柚葉までマイクロチップ開発プロジェクトにねじ込んだ。だが結局、柚葉はプロジェクトから外され、何ひとつ得られなかった。さらに、
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第627話

「竹内グループの竹内海斗です。凛さんはいらっしゃいますか?」短く平凡な挨拶だが、実際には自分の立場を示すことで、研究所にも監査側にも、凛を待っている人間が外にいるのだと釘を刺していたのだ。肩書きも権力も、それだけで人を圧倒する力を持つことを、海斗は幼い頃から知っている。だからこそ、無事に出てきた凛を見た瞬間、胸の内で安堵した。「大丈夫だったか?」心配を隠そうともしない海斗を見つめ、凛は少し呆けたように首を振った。「何も。普通に事情を聞かれただけ。海斗。正直に言ってほしいんだけど、いつからいたの?」適当にごまかすつもりだったが、「正直に」と言われてしまえば、凛には嘘をつけない。「10時」凛は時計を見た。今は12時半……彼女は静かに言った。「2時間半」「外は寒い。とりあえず乗れ」海斗は凛の手を取って、道路脇に停めた車へ向かった。海斗の掌は少し冷たかった。凛はその手を振り解くことはなく、車の横で立ち止まると、彼の端正な横顔を見上げた。「2時間半も外で待ってたんでしょ?寒くなかった?」海斗は、凛に見つめられるのに弱かった。澄んだ瞳に、わずかな気遣いがにじんでいて、その小さな優しさが、細い糸のように幾重にも海斗の胸へ絡みついてくる。「乗れ」先に凛を乗せ、自分も続いて車内へ入った。ドアを閉めると、海斗は凛が手にしているカイロを指差す。「これがあったからな」凛は大きなカイロを両手で包んだまま、まつげを揺らした。「でも、手が冷たかった」海斗は即座に応えた。「冷たい思いをさせたか?以後気をつける」凛は唇をきゅっと結んだ。竹内グループの本社へ向かう車内。凛は自分のカイロを海斗の手に載せ、静かに口を開く。「海斗。住む世界が違う人と一緒になるのが、どれだけ苦しいか……私はもう知ってるの」海斗が動きを止めた。どうやら、これが凛が答えを出せない理由だったようだ。二人の間に横たわっているのは、目には見えない大きな隔たり。だが、海斗にとってそんなものは障害ですらなかった。生まれながらに竹内グループの後継者で、父は一族の実権を勝ち取った先代当主、母もまた名門の出身。そして海斗自身、若くして巨大企業を率い、その手腕を誰にも認めさせてきた。周囲の御曹司たちから、彼が実権を握った年が冗談交じりに「海斗の時代の幕開け
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第628話

海斗のような男に惹かれないほうが難しい。生まれは誰もが羨むほど恵まれている。だが、それだけではない。頭の回転は速く、決断力も行動力もあった。見た目だって、190センチ近い身長に、広い肩、引き締まった体。容姿だって文句のつけようがない。息子としては、親に心配をかけない親孝行者。兄としては、幼い頃から妹を守ってきた頼りになる存在。経営者としては、情と厳しさを使い分け、取引相手には礼を尽くす仕事人。男としては、自分自身に厳しく、口は悪いが、誰彼構わず牙を剥くわけでもない。「順風満帆」と海斗の人生をそう評しても、誰も異論はないだろう。そして、その未来も眩しいほど明るいのだ。そんな男から真っすぐ想いを向けられて、凛だって何も感じないわけではなかった。海斗の気持ちには、とっくに気づいているし、自分の気持ちにだって……ただ、もう一度感情だけを信じて飛び込むことが怖かったのだ。かつて思い切って飛び込んだとき、受け止めてもらえなかった。今度は本当に受け止めてもらえるのだろうか?だからこそ、たとえ誰にも受け止めてもらえなくても、自分の足で立てる、そう確信できるまでは、始めたくなかった。それに、中途半端な覚悟で始めることこそ、この想いに失礼だと思う。また、智也のような人に出会ってしまったらどうしようと恐れる反面、それと同じくらい、自分が智也のようになってしまうことも怖かった。絶対に、誰かの真剣な気持ちを踏みにじる側にはなりたくない。「海斗……」ほんの数分の間に、凛の瞳にはいくつもの感情が浮かんでは消えた。名前を呼ばれたところで、海斗が先に口を開く。「大丈夫、この話はここまでにしよう」そして次の瞬間には、「それより、毎日ちゃんと運転の練習しろよ」と、まるで何事もなかったかのように話題を変えた。「うん」と凛は短く返した。話はそこで終わったけれど、車内には海斗の気配があまりにも濃く漂っている。海斗は存在感が強すぎるのだ。車の暖房のせいか、凛は頬が熱くなるのを感じた。研究室に戻ると、凛は頭から海斗を追い出すように仕事に没頭した。仕事が終わったら、康平を連れて千石鍼灸院へ行き、お世話になるための挨拶をしなくてはならない。海斗は午前中に仕事を空けたぶん、夜は残業だった。海外との会議も、時差の関係で
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第629話

康平は凛と一緒に、改めて紗枝に挨拶をした。紗枝はお茶を一口飲むと、康平に優しく言った。「先生なんて呼ばなくていいから、策と同じように、私のことは『ばあちゃん』と呼んで。康平くんは千石鍼灸院の一員であり、私の孫になったも同然。だから、策のことも、兄ちゃんでも先輩でも、好きなように呼べばいい。あと、このブレスレットをあげよう。大したものじゃないけど、私が自分で作った二つのうちの一つ。もう一つは策が持ってるから、これは康平くんにあげよう」康平は素直にそれを受け取り、腕にはめると、「ありがとう、ばあちゃん」と微笑んだ。「いい子だね。世間じゃ自閉症だなんだと言うけれど、私はそうは思わないよ。康平くんは人よりずっと澄んだ心を持ってる。素直で、まっすぐ。私の後継者がいないのを神様が不憫に思って、康平くんをここへ送ってくれたのかもしれないね」ゆっくりした話し方だが、紗枝の声には張りがあった。康平には難しい意味まではわからない。それでも、ここでばあちゃんに教われば、自分もいつか姉ちゃんのようになれる。それだけは、なんとなく分かっていた。それから、裕二や霞にも改めて弟子入りの挨拶をする。すると、皆がそれぞれ康平に贈り物を渡した。策が渡したのは一冊のノート。「これは役に立つと思うよ。俺、子どもの頃は字を書くのが面倒でさ。ほとんど絵でまとめてたんだ。描くのすら面倒な時は、本の図を切り抜いて貼ってたくらいだから、見ればだいたいわかるはず」「あ、ありがとう……先輩」「俺が先輩、か」と、策は笑った。すると、横にいた裕二が凛に声をかける。「できれば、康平くんには学校の勉強を教えてくれる先生もつけたほうがいい。10年でも15年でも、何年かかっても、最終的には資格試験を受けられるようにしておいたほうがいいからね。無資格だと問題になることが増えているから、できるだけ早いうちから準備したほうがいいと思ってね」続いて策の母が説明した。「お義母さんも、もともと大学で教鞭を執っていたのよ」凛は心からの礼を言った。「ありがとうございます。これから先、私にできることがあれば、どんなことでも力になりますので、何かあればおっしゃってくださいね」千石家の面々は頷いた。挨拶が一通り終わると、みんなで揃って夕食を囲んだ。食後、紗枝は康平に話をしていた。「いつ
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第630話

凛は策に伝えた。「千晴さんは景山グループで残業中ですよ」「え?」策は千晴が陸たちと遊びに行っているものだと思っていた。凛は頷く。千晴本人から凛に、【男より仕事を優先します】というメッセージと一緒に、デスクの写真まで送られてきていたのだった。策はそれ以上聞かなかったが、凛は康平を連れて帰る道すがら千晴に、策が千晴のこの前の連休の予定を気にしていたとメッセージを送った。すると、すぐに電話がかかってきた。「何て答えましたか?策、私のこと何か言ってました?」その声は、どこか少し緊張していた。妙に聞き覚えのある反応だ。「会社で残業してるって答えました」と凛は正直に打ち明けた。電話の向こうで千晴がほっと胸を撫で下ろした気配がした。今では千晴も凛にとって友人であるため、そのまま尋ねてみる。「策先生と何かありました?」「ないですから!」千晴は即座に否定した。「幼馴染なんだから、何かあるわけないじゃないですか!」「そう……」やはり聞き覚えのある返答。「策先生も同じようなこと言ってました。それに、話し方も本当にそっくり」「策が私と同じ言い方するなんて生意気ね……じゃ、私忙しいので、また連絡しますね!」電話はものすごい勢いで切られた。やっぱり、二人の間には何かある。凛が携帯を眺めていると、海斗からメッセージが届いた。【美穂子さんから、もう帰り道だって聞いた。道中気をつけて】【着いたら連絡してくれ】【うん】と凛は打ったが、それを削除して、【分かった】と打ち直した。【海斗は?】と続けて送ってみる。【俺は逐一報告する】凛はそういう意味で聞いたわけではない。そして、海斗もそれをわかっていて、わざと曲解している。携帯の淡い光が凛の顔を照らし、口元に浮かんだかすかな笑みまで映した。それからというもの、本当に何度も海斗から連絡が来た。凛がお風呂から上がって髪を拭いている時。【会議終了】ドライヤーをかけているとき。【今から帰宅】ベッドに入った時。【着いた】そして、添えられていたのは、ダイトとコマキの写真。【凛に会いたがってる】それから、しばらく何も送られてこなかったので、凛から先に返した。【余裕ができたら遊びに行くね】海斗はずっと打っては消しを繰り返していた【俺も】という言
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