海斗は資料を見ている凛を見ると、指先でデスクを軽く叩いた。「誰が誰か分からないなんて事態は願い下げだからな」「竹内社長、その日私は……」「行く行かないに関わらず、全部頭に叩き込め」海斗はそういうと、もう凛に目を向けることなく、書類を見ていた。凛が席を立ち、ドアを閉めようとすると、海斗が顔を上げた。「閉めなくていい」凛はデスクへ戻らず、窓際のソファへと向かった。そこでは日和がテーブルに突っ伏して、ノートを眺めながらぼんやりとしていた。凛が来ると、日和はすぐさま体をずらして、自分と一緒に座るように促す。腰を下ろすなり、凛は日和に尋ねた。「ペン持ってる?」日和はバッグからペンを取り出し、凛に手渡す。そして、凛が自分の名前を二重線で消すのを見つめていた。「え?」日和は顔を上げた。「なんで自分の名前を消すんですか?」日和の声は静かなオフィスに響き渡り、海斗の耳にも届く。男は顔を上げ、ブラインド越しに、凛の美しく澄んだ表情をじっと見つめた。日和が続けた。「谷口社長にこんなことされてるのに、凛さんは……どうしてずっと我慢し続けているんですか?」日和は「なんで離婚しないのか」と聞きたかった。しかし、ストレートすぎる気がしてやめたのだった。「私も、つい数日前に知ったばかりだから」凛は書類を最初の一ページ目まで戻し、夫の心に自分ではない存在がいると気づいた日のことを思い出すと、切なげに視線を落とした。「それまでは、全然気づかなかったの」「今は知ってるのに、どうして……」日和は言葉を詰まらせる。ふと、凛が孤児であることを思い出したのだった。「もしかして別れてしまったら、いく場所がないことを心配しているんですか?凛さん、気を悪くしないで聞いてほしいんですけど、私、ここの近くにマンションを持ってるんです。もしよかったらそこに住みませんか?通勤にも便利だし、辛い思い出の場所からも離れられますよ」竹内グループの本社ビルは市内中心部を離れ、川沿いに位置していた。四方にそびえ立つ4つの建物が空中庭園でつながったこの場所は、広大で環境も申し分ない。竹下グループ傘下すべての会社がここにあるので、もしトラブルが発生しても、一分後には海斗の罵声が飛んでくるような緊張感のある場所だった。ここに住めば、確かに谷口家や智也、そして柚葉のマ
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