Se connecter背筋を伸ばし、きちんと座っている姿は、むしろ無理やりそこに収まっているような窮屈さを感じさせた。凛は視線を伏せて黙々と朝食を配り、終わるとすぐに帽子とエプロンを外して、二人分の朝食をよそい始める。凛がちょうど刻んだネギを乗せ終えたその時、背後からふっと影が落ちたので振り返ると、隣には海斗が立っていた。彼は何も言わず、凛の手から二つのお盆を受け取る。二人は向かい合って座り、凛は割り箸を割った。海斗も割ろうとしたので、凛は思わず声をかけた。海斗が顔を上げると、凛は自分の割り箸を二本手に取り、割り箸の表面を滑らかにするように、何度も擦り合わせる。「これを使って。あなたのは私にちょうだい」海斗が手元の一膳を凛に渡すと、彼女は受け取った方の箸をさらにもう一度すり合わせてから食べ始めた。二人が朝食を食べていると、K市ではまた雪が降り始めた。ひらひらと舞い落ちる雪を眺めながら湯気の立つ朝食を囲んでいると、向かいに座っている海斗が突然口を開いた。「凛、誕生日おめでとう」低く魅力的な声、そして自然に呼ばれた自分の名前。凛の食器を持つ手が止まった。ふと見上げた海斗の瞳は深海のように深く、引き込まれそうになる。あわてて視線を伏せた凛の長いまつげが小さく震えた。「ありがとう」「ああ」食後、二人は恵の車で病院へと向かった。康平はすでに起きていたため、凛は彼に少し言葉をかけ、優しく抱きしめてから病室をあとにした。恵が二人を空港まで送ってくれた。雪が降っていたのはK市だけで、空港がある地域は晴れており、飛行機は通常通り出発した。A市の空港。あのセンチュリーで、日和が空港まで迎えにきていた。最近日和がこの車にばかり乗っていることに気づいた海斗が、不思議に思っていると、凛が日和に尋ねた。「一番町の方に行ってきたの?」凛に会えたうれしさで、兄を警戒することなどすっかり忘れていた日和は、素直にうなずく。「あらかた片付いたので、今日は美穂子さんと一緒に掃除に行ってきたんです」海斗の目がセンチュリーに向けられる。なるほど……この車は、一番町特別宿舎10号棟に登録済みということか。「凛さん、早く乗ってください。葛城さんがお家で待ってますよ」そう言って助手席を開ける日和は、海斗に一瞥もくれない。お兄ちゃんなんか、乗りたけ
凛は顔を上げた。恵も凛に尋ねる。「りんりんってあだ名ですか?可愛くて呼びやすいあだ名ですね」「子どもの頃からそう呼ばれてきたの」恵は微笑んだ。すると、周りを見回していた策が、柑奈に言った。「ここに泊まらせていただくことはできますか?車で唐沢院長を病院までお送りするのにも、都合がいいですし」柑奈に異存はない。「千石先生がいいなら、それでも構いませんよ」「では、ぜひお願いします」策は今晩から泊まることにし、海斗も一緒に一泊することになった。恵も康平の手続きで柑奈と色々決めることがあったため、そのまま泊まることにした。しかし、空き部屋が少なかったため、男女がそれぞれ2段ベッドの相部屋になった。上段のベッドに登り、横になった策は、大学時代の寮を思い出しながらつぶやいた。「寮暮らしなんてしたことない竹内社長には、俺の今の懐かしい気持ちは分からないだろうな」海斗は答えなかった。寝返りをうって端に寄り、策がふと見ると、海斗が携帯で凛の連絡先名を変更するところだった。りんりん。そしてトーク画面を開いた。それ以上は見てはいけないと思い、策は再び仰向けになった。しかし、海斗はただ凛に翌日の予定を確認するだけで、明朝9時に病院へ寄り、康平の様子を一度見てから出発しようと手短にメッセージを打つと、そのまま携帯を閉じた。海斗は寝転がっている策を見上げた。「康平くんの自閉症の件、治療の可能性がないか調べておいてくれ」策は幼い頃から紗枝によって東洋医学を叩き込まれ、大学では医学部へ進み、西洋医学にも精通している。千石家の中で、最も東洋医学と西洋医学の両方に理解があるのが、策だった。彼はすぐには頷かなかった。「完治させるのは難しい。でも、話せるようになることや、言葉や社会性を少しずつ身につけていくことの手助けなら、やれることはある。治療費は忘れるなよ」「ああ」海斗はちらりと策を見た。今まで一度でも、お前に報酬を払わなかったことがあるか?すると、策が思い出したように続けた。「こっちにいる間、凛さんのことを少し調べておこうか?」その瞬間、海斗の冷え切っていた表情が消えた。「凛さんは孤児なんだろ?その出生について調べようとしたことはないのか?」海斗の目が動いた。しばしの沈黙のあと、海斗が言った。「頼む」「ああ
細かなところまで行き届いた支援だ。しかし、これほどの厚意はすべて凛がいるからこそ。今は善意として差し伸べられているこの手が、いつかその代償を凛に求める日が来るのではないか……そんな考えが、どうしても頭をよぎってしまう。それでも、この支援が施設にとって計り知れない助けになることは事実だった。喜びと不安が、胸の中でせめぎ合う。そこへ凛たちが戻ってきたため、柑奈は笑顔で迎え入れ、今の状況を一通り説明した。凛が海斗に目を向ける。すると海斗が言った。「俺がしたくてしてることだ。別に、君のためじゃない」この一言で、凛がほっとしただけでなく、柑奈の心配も消え去った。言葉の真偽はともかく、少なくともこれだけの人の前で海斗が明言した以上、今後この言葉を覆し、凛を困らせるようなことはないだろう。凛が感謝を述べると、子どもたちが数人、バタバタと駆け寄ってきて、口々に凛へ声をかける。前回は食堂で顔を合わせただけで、会話もろくにできないまま凛は出かけてしまっていた。毎年自分をこうして歓迎してくれる子どもたちを見て、凛はしゃがみ込み、両腕を広げた。大きな子も小さな子も、一斉に凛に飛びつく。凛が後ろによろめきそうになると、背後に立っていた海斗がまるで大樹のように彼女を支えた。凛の背中はその脚にもたれかかり、あと少しで彼の足の上に座り込んでしまうところだった。凛は一瞬だけ表情を固くしたけれど、すぐに気を取り直し、子どもたちをぎゅっと抱きしめ返す。子供達の話したいことが次々と飛んできて、話題がころころ変わる。それでも凛は、一人ひとりの声に耳を傾け、笑顔でうなずいていた。やがて柑奈が、子どもたちに寝る時間だと声をかけた。明日には旅立つ凛。別れを惜しむように一人一人と抱擁を交わした。子どもたちはみんな肩を落とし、寂しそうな顔をする。凛は近くにいた子の頭を優しく撫でた。少し年上の子が言う。「凛姉ちゃん、お手紙書くからね」凛はうなずいた。「うん、待ってる」すると別の子が顔を上げて聞いてきた。「ねえ、あの人は誰?前のお兄ちゃんは?」前のお兄ちゃんとは智也のこと。凛は言った。「前のお兄ちゃんは悪い人だから、もう一緒にはいられないし、これからはここに来ないから」子どもたちが皆頷く。「悪い人は来ちゃだめ!」別の子が続けて
病室から話し声が消えるのを待って、海斗はドアをノックして中へ入った。振り返った凛が、怪訝そうに尋ねる。「何か忘れ物?」海斗は凛を見て言った。「A市へ戻る日を決めてくれ」こんな些細なことは電話かメッセージ一本で済むはずだが、海斗はわざわざ引き返してきた。その瞬間、凛はふと、自分が本当に雇い主になったような、不思議な気分になった。「明後日」海斗は小さく頷き、柑奈に会釈をして病室を出て行く。今度は、もう引き返してくることはなかった。凛は携帯を手に取り、2万円を海斗に振り込む。約束していた日給だ。2万円なんて、海斗が持つ口座のわずか1秒の利息にも及ばない。凛はまた、ぼんやりと画面を見つめた。海斗は振り込まれた送金を確認した。車はすでに病院の前に停まっており、海斗が乗り込むと、運転席の策がバックミラー越しに視線を送ってきた。「凛さんに何か言われたの?」助手席に座る恵もバックミラーをちらりと見る。確かに、海斗の顔色はかなり重苦しい。海斗が恵を見て言った。「明後日のA市行きのチケットを2枚準備してくれ。君と策は、康平くんのことが落ち着くまでここに残って、容体が安定したら戻ってこい」「承知いたしました」策はホテルへ車を走らせ、車から降りてロビーでチェックインをする間も、気になってしょうがなかったので、やはりもう一度尋ねた。「一体、何があったんだよ?」二人は雇用関係で結ばれているが、友人でもある。海斗は流し目で策を見やった後、病室の前で聞いた会話の内容を簡単に説明した。要するに、凛は海斗の想いに全く気づいていない。策は言った。「凛さんが気づいてないなら、それはあんたの問題だろ?」海斗が策を鋭く睨みつける。だがそれを否定することはせずに、海斗はこう言った。「逃げられるのが怖いんだ」凛が自分から逃げて行ってしまうのではないか。凛に距離を置かれてしまうのではないか……恵も小さく頷き、同意する。「凛さんの性格を考えると、その可能性は極めて高いかと思いますね」「でも、もう十分に様子を見る期間は置いただろ?それで効果がなかったなら、やり方を変えるべきじゃないか?」と策が冷静に分析する。「凛さんは、あんたが彼女を助ける理由を、仕事や妹さん絡みだと思っている。それはつまり、あんたがずっと距
凛は、海斗が来たことが美雪を刺激したのかもしれない、と考えたが、すぐに、美雪はそこまで感情に振り回されるような人ではないと思い直す。少し腑に落ちない。「美雪さんが施設にいた間、施設の歴史や有名人のエピソードについて質問する以外に、何かおかしかったところはありませんでしたか?」凛はこれまでに美雪とは3度しか会ったことがなかったが、彼女の振る舞いにはどこか、形容しがたい違和感のようなものを感じていたのだ。柑奈が少し考えてから答える。「そうね……極端なほど辛いものが嫌いってことかしら?まったく食べない、というより、この土地の食事自体が嫌みたいで、わざわざタクシーを呼んでまでパンや飲み物を買いに出かけていたわ。『口に合わない』と言って。だから、かなり好き嫌いが激しい人なのかなとも思っていたんだけど、施設の小さな部屋に寝泊まりすることには文句を言わないし、子どもたちともよく打ち解けていた。それに、カメラの使い方を教えたり、食堂でのお手伝いまで引き受けてくれたから、決して選り好みする人でもないと思う。あんなに自然に馴染んでいたのに、食事だけはどうしてもここに合わせようとしないのよ。私たちが毎日辛いものやこの土地のものを食べている横で、彼女だけはパンとかあっさりしたものしか口にしなかったから」柑奈の話を聞き、凛の中で美雪に対する違和感はさらに深まった。凛が思案にふけっていると、柑奈が探るように声をかけた。「あなたたちの間に何かあったの?美雪さんがわざわざG県まで来たのは、もしかして凛に何か関係があるとか?美雪さん、生まれつき心臓が悪いから、こんな標高の高い高原なんて心臓に負担がかかるはずなのにね」凛は答える。「海斗のお母さんと、美雪さんのお父さんは幼馴染で、家族ぐるみの付き合いがあるんです」さらに一拍おいて、凛は言葉を継いだ。「それに、美雪さんは海斗のことが好きみたいで」柑奈ははっと息をのんだ後、急にどこか物憂げな表情を浮かべた。「凛」柑奈がこんな表情をするのは珍しい。凛は背筋を正した。「凛が智也さんや海斗さんとの間に何があったのか、私には本当のところは分からない。でも、さっきあなたの話を聞いたり、海斗さんの家柄のことなんかを思ったりすると……急に、不安になってしまって。私はただの庶民だから、世間知らずなのかもしれな
「院長先生、施設に顔を出すのはもう少し落ち着いてからにしますね」凛は海斗たちを見て言った。「この数日、彼らはゆっくりお風呂にも入れていませんし、睡眠もろくに取れていませんから」特に海斗は、病院で過ごしたこの3日間、彼が望むような清潔で快適な宿がないだけでなく、絶え間ないオンライン会議に追われていたのだ。凛はその姿を三度見かけた。一度目は、病院の廊下の突き当たりでヘッドフォンをつけ、厳しい表情で通話している姿。二度目は、病院階下の花壇のそば。余程急ぎの用件だったのか、人目も気にせず通話に出た後、すぐに早足で静かな場所を探すように歩き去っていった。三度目は車の中。車のシートに少しもたれかかり、ノートパソコンの青白い光が海斗の顔の半分を照らしていた。その光が、彼の端正な顔立ちを余計に際立てていたのを今でも覚えている。画面を見つめる瞳は、いつものように誰をも圧倒するものだった。これは凛が目にしたものだけで、見えないところでも竹内グループの業務に追われていたに違いない。大きな病院への転院を決めた時、凛はすぐさま市内にある最高級のホテルを予約していた。凛はホテルの予約情報を恵へ送る。海斗が立ち去ると、病室には柑奈と凛、そしてかなり顔色が良くなってきた康平が残された。その時、康平の口から、初めて「姉ちゃん」という単語以外の言葉が発せられた。康平が柑奈に向かって微笑む。「院長先生」柑奈は感激で目を潤ませ、笑いながら凛に言った。「まさか、康平が私の名前を呼んでくれるなんて。それも、あなたと一緒の『院長先生』っていう呼び方」施設の子どもたちは皆、柑奈を「先生」と呼んでいたが、幼い頃の凛は少しだけ皆と違った呼び方がしたく、あえて「院長先生」と呼んでいたのだ。しかし、今この瞬間、康平も凛と同じく柑奈を「院長先生」と呼ぶようになった。凛は柑奈を見つめて微笑む。「康平も院長先生のことが大好きなんですね」柑奈が康平の手を握り、優しくさすった。「康平、もうこんなことは無いからね。これからはずっと、穏やかに暮らしていこうね」凛も椅子に腰掛け、康平の方を見て微笑む。すると、柑奈が凛に尋ねた。「帰ってきてからもう1週間経つけど、そろそろ戻らなきゃいけないんじゃない?仕事も忙しいでしょ?」凛もこの1週間、病院で康平の看病をしながら多くのメ
梓は、凛が研究と自分の夫のこと以外に興味を示すのが珍しかったから、ブランド品のノベルティに関する裏ルールを夢中で話した。しかし、凛は上の空だった。頭の中は、昨夜智也が帰ってこなかったこと、そして今朝、ポケットから突然、包装もされていないスカーフを出したことでいっぱいだった。彼女はもう一度、柚葉が去っていった方向を見つめ、考え込むように言った。「小林さんのカバン、新品みたいだったわね」「当たり前ですよ。昨日の夜に買ったばっかりなんですから」と、梓はすぐに言葉を返した。凛は彼女の方を見た。克哉も尋ねた。「どうして知ってるんだい?」「お昼にちょうど松田さんが小林さんと話してい
「柚葉さんが戻ってきたんだって?奥さんはどうするんだよ?」家の前に着くと、ドアは少しだけ開いていて、夫の谷口智也(たにぐち ともや)と、彼の親友の声がかすかに聞こえてきた。仕事から帰ってきた谷口凛(たにぐち りん)は、思わずドアを開けようとした手を止めた。「柚葉さん」って?自分のプロジェクトに2週間前からアドバイザーとして参加している専門家・小林柚葉(こばやし ゆずは)も、同じ名前だったはず。なんて、偶然なんだろう。一方で、智也はその問いただしに対して何も答えなかった。「智也、言わせてもらうけどな。もう何年も柚葉さんのことが忘れられないんだろ?そのくせ、自分は質素な生活
凛が家に帰ると、もう夜の8時だった。智也はソファに座り、暗い目つきで彼女を見つめていた。「なんでこんなに遅いんだ?」「あなたは、なんでこんなに早いの?」凛は不思議に思った。智也は毎日、柚葉を職場まで迎えに行っているはずなのに。智也は眉をひそめた。「俺が最近、帰りが遅いことを責めてるのか?」「まさか」凛がカバンを置くとすぐに、智也が仕事をやめる件について聞いてきた。「退職届は出したわ」彼女は自分に水を一杯注ぎ、ゆっくりと飲んだ。「引き継ぎとかの手続きに、1ヶ月はかかるの」「お前の仕事に、引き継ぎで1ヶ月もかかるような内容があるのか?」智也は凛の痩せた横顔を見ながら、何度も
「凛さん、何を見ていらっしゃるんですか?」「今、あっちから誰かに見られていた気がします」「え?」と理恵がそちらを見たが、人影はなかった。「もうエレベーターに乗ったみたいです」と凛は言った。「エレベーターって、あっちの?」理恵が指差すと、凛は頷いた。それを見た理恵は、緊張した面持ちでゴクリと喉を鳴らした。あそこは社長専用のエレベーターなのだ。理恵のオフィスのドアの前に来ると、凛はドアプレートに、「人事部ヴァイスプレジデント」と書かれているのを目にした。昇進したんだ。凛はにっこり笑って言った。「中村さん、御昇進おめでとうございます」「ありがとうございます」