جميع فصول : الفصل -الفصل 10

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第1話

「申し訳ございませんが、システムでは、小川様との入籍記録は確認できませんでした」私、松井夏美(まつい なつみ)は妊娠検査結果を握りしめ、足元が崩れそうになった。5年前、小川修平(おがわ しゅうへい)はリバティニア市のトップクラスの法律事務所に、高給で引き抜かれた。私は何も迷うことなく、修平について海外へ渡った。「こっちで仕事が落ち着いたら、すぐに君のグリーンカードの手続きもするからね」と修平は言った。でも5年が経っても、私のグリーンカードはずっと手続き中のままだった。なのに、修平と一緒に来たアシスタントの二宮葵(にのみや あおい)は、とっくに修平の身元保証でグリーンカードを取得していたのだ。あの時、私は修平に「もう離婚して国内に帰る」と言い張った。いつもは冷静なはずの修平が、慌てて私の手を握りしめ、こう言った。「葵は、一人でこっちで頑張っているんだ。助けてあげるのは当然だろ。君は俺の妻なんだから、グリーンカードなんていつでも取れる。でも、今は仕事上、立場が微妙なんだ。変に勘ぐられたくない。頼むから……」こうして私は、まる5年間も、その言葉を信じ続けてしまった。突然スマホが鳴り、向こうから聞こえる修平の声は、弾んでいた。「葵の正式な移民手続きが、今日無事に完了したんだ!今夜はお祝いするから、早く帰って飯を作っておいてくれ」さっき、窓口で告げられたその言葉を思い返すと、心が凍りついた。つまり、私は修平と正式な夫婦ではなかったのだ。滞在資格も、生活の保障もない。生まれてくる子どもの権利さえ、守ってやれない。電話を切ると、私はすぐに中絶手術の予約を入れ、一番早い帰国の便を予約した。今度こそ、もう振り返らない。……ドアを開けると、家の中は大騒ぎだった。リビングは修平の事務所の同僚でいっぱいで、シャンパンを開ける音や、けたたましい笑い声が響いていた。輪の中心には葵がいて、頬を赤らめながら、楽しそうに何かを話している。そのすぐ隣には修平がいて、口元にかすかな笑みを浮かべていた。「あら、夏美さん、お帰りなさい。ちょうどよかった!あなたが来るのを待ってたの。小川先生から夏美さんの料理が絶品だと聞いててね」葵が私に気づき、あどけない笑みでそう言った。その場の全員の視線が、私に集まる。
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第2話

修平の瞳には、心配の色なんてなくて、ただの軽蔑だけがあった。「さっさと片付けろよ。料理まだ?みんな腹減ってんだけど」背後で、ドアが閉まる音がした。修平は知らない。私のお腹に、赤ちゃんがいることを。そして、今日、知ってしまった。私の結婚が、全部嘘だったってことを。笑えるね。私の人生なんて、修平を好きになったあの瞬間から、全部がくだらないジョークみたいなものだったんだ。次の日は週末。修平は朝早くから出かけていった。急ぎの用件で、大事な依頼人に会うんだって。もちろん、葵も一緒だった。部屋の中は、静まり返っていた。その時、ふいにスマホの画面が光って、インスタの通知が一件、表示された。どこかで見覚えのあるアイコン。盗み撮りされた男の後ろ姿だ。でも、その男性がつけている腕時計には見覚えがあった。修平がいつもつけているものだ。私はそれをタップした。投稿の数は多くなかった。でも、その一つ一つが、全身から血の気を引かせるのに十分だった。一番古い投稿は5年前。私と修平が結婚してすぐの頃だった。お揃いの結婚指輪をはめた二つの手が、婚姻届の上に置かれている写真。そこには、英語でこう添えられていた。【今はまだ内緒だけど。法律に認められた永遠こそが、本当の『永遠』よね。ありがとう、小川先生】3ヶ月前。【あの人が私のために、市民権取得の最終手続きを進めてくれている。これが通れば、私は名実ともにこの国の人間になれる】2ヶ月前。【誰かさんがまた内緒で、最新のスマホに替えてくれた。『一番いいものを使わなきゃだめだ』って。いらないって言ったのに、『君にはその価値がある』なんて言われた】その投稿には、コメントが一件ついていた。【例の、旦那さんにしつこく付きまとってる女、まだ諦めてないの?】彼女の返信はこうだ。【まだいるわよ、ストーカーみたいにね。大学時代に寮まで追いかけてきて、今度は海外までついてきたの。鏡で自分の顔を見てから出直してほしいわ。釣り合うとでも思ってるのかしらね?】私はスマホを握りしめたまま、リビングの真ん中に立ち尽くした。3月の暖かい日差しが差し込んでいるのに、体は凍えるように冷たかった。葵の言う通りだった。修平を追いかけていたのは、私の方だ。大学1年生の入学式の日。私はカメラを手に、キ
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第3話

なぜだか、私はその依頼を引き受けてしまった。修平の職場、つまり同僚たちの前で、私が彼の妻ではなく、一人のカメラマンとして現れたら、どうなるんだろう。撮影当日、私は先に法律事務所へ着いた。受付の女性に用件を伝えてスタッフパスを出した瞬間、耳慣れた声が突き刺さった。「夏美さん?なんでこんなところにいるの?」葵がハイヒールを鳴らして近づいてきた。私をまるで不潔なものでも見るような目で見ている。その声には、軽蔑の色が隠されていなかった。「ここは仕事場よ。関係者以外は立ち入り禁止なの」「仕事で来たよ」葵はぴくりと固まり、私を上から下まで値踏みするように見た。そして、口の端を吊り上げて笑った。「仕事って?もしかして、デリバリーの配達員かしら?」葵は声を上げて笑った。「夏美さん、ここは法律事務所。あなたの家のキッチンじゃないの。関係者以外はお断りよ」私はもう一度、スタッフパスを葵の前に突き出した。「雑誌社の依頼で、本日の午後3時から、修平のインタビューの撮影に来た」葵は眉を吊り上げた。「どこの雑誌社があなたなんかを雇ったの?正気とは思えないわ!」私は深呼吸をして、スマホを取り出し修平に電話をかけた。彼が出ると、いら立った声が聞こえた。「何だ?忙しいんだ」「今、事務所のロビーにいるの」電話の向こうで数秒の沈黙があってから、足音が聞こえてきた。修平が出てきて私を見ると、眉をひそめた。「こんな所まで何しに来た?早く帰れ。今夜は予定があるだろ」「仕事で来たの」私は再び依頼書を差し出した。修平はちらっと見ただけで、受け取ろうともしない。馬鹿にしたように笑って言った。「君に何の仕事があるんだ?」「撮影よ」修平は私を見た。その目には、見慣れた嫌悪感がこもっていた。「5年もカメラに触ってないだろ。まともな写真なんて撮れるわけがない。恥をかく前に、早く帰れ」その言葉が終わらないうちに、エレベーターのドアが開いた。雑誌社の編集長がチームを連れてやって来た。「小川先生!お待ちしておりました!あれ、松井さんはもういらしてたんですか?」編集長は私に向き直ると言った。「松井さん、では始めましょうか。まず先に照明を確認しますね」修平の表情が凍りついた。葵も唖然として立ち尽くしていた。
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第4話

会えなかった赤ちゃん、ごめんね。手術の後、下腹部が鈍く痛む。何か大切なものを、体からごっそり抜き取られたような感覚だった。私は街灯にしがみつくように立っていた。10分くらいして、やっとタクシーを捕まえられた。家に帰ると、ベッドに倒れ込んで、そのまま泥のように眠ってしまった。夜中に、スマホが鳴った。修平からの電話だった。電話に出ると、聞こえてきたのは葵の声だった。「夏美さん?小川先生、今日飲みすぎちゃって。夏美さんが迎えに来ないと帰らないって駄々こねてる。今、バーにいるので急いで来てください」時間を見ると、深夜2時だった。下腹部はまだ痛むし、体には力が入らない。口を開こうとしても、喉がカラカラで声が出なかった。電話を切って、もう一度ベッドに横になった。でも、またスマホが鳴る。切っても、また鳴る。3度目の着信で、私は体を起こして服を着始めた。体を動かすたびに、痛みが走る。もう、癖になっているのかもしれない。この5年間、呼び出されればいつでも駆けつけた。自分のことは我慢して、いつも修平を一番に考えてきた。それが当たり前になっていたんだ。でも、これで最後。最後のお別れにしよう。タクシーを飛ばして約30分、ようやくバーに辿り着いた。ドアを開けると、薄暗い照明と、耳をつんざくような音楽が溢れていた。店の中をぐるっと見渡したけど、修平の姿は見当たらない。電話をかけると、すぐにつながった。「もしもし?修平?どこに……」スマホの向こうから、衣擦れの音が聞こえた。そのすぐ後、葵の声がした。「小川先生……もっと、優しく……」そして、修平の低く掠れた、酔いのまじった声が聞こえた。「ああ」私はスマホを握りしめたまま、バーの入り口に立ち尽くしていた。電話の向こうから聞こえてくる声を聞きながら。胃がひっくり返るような吐き気がこみ上げてきて、壁に手をついてえずいた。でも、何も出てこない。電話を切って、その場を離れようと踵を返した。その時、目の前に数人の人影が現れた。酔っ払った3人の外国人だった。彼らはじろじろと私の体をなめ回すように見ている。「外国人?一人なのか?俺たちと遊ぼうぜ?」一人の男が顔を近づけ、私の頬を触ろうと手を伸ばしてきた。後ずさると、背中が
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第5話

修平は、突き刺すような頭の痛みで目が覚めた。眉をひそめてスマホを探し、画面が光った瞬間、胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。メッセージは、何も届いていなかった。夏美が3時間以上も返信をしないなんて、ありえないことだ。通話履歴を開くと、最後のやり取りは午前2時過ぎのままだった。葵がこのスマホからかけた、あの電話だ。通話時間は、たったの17秒。その後、夏美からの着信履歴が一件残っていた。かけ直すと、スマホから聞こえてきた音声ガイダンスに言葉を失った。「おかけになった電話は、電源が入っておりません」画面をじっと見つめているうちに、曖昧だった記憶が少しずつ蘇ってきた。昨日の飲み会。葵が自分の代わりにお酒を飲んでくれていたのに、どうしてあんなに酔ってしまったんだろう……そのあと、誰かに電話して迎えに来てもらったような……それから……修平には、そこからの記憶がなかった。こめかみを揉みながらベッドから起き上がると、いつものようにバスルームへ向かった。リビングを通り過ぎる時、視界の端に何かが映った。足を止め、ゆっくりと振り返った。玄関の、いつも夏美のスーツケースが置いてあった場所が、空っぽになっていた。修平はその場に立ち尽くし、数秒間、頭が真っ白になった。そして、必死に探し始めた。寝室、キッチン、ベランダ、物置まで、家中をくまなく探した。夏美の服も、靴も残っている。ドレッサーには化粧品がきちんと並べられたままだ。でも、一番大切にしていたあのスーツケースだけが、どこにもなかった。修平は、あのスーツケースのことを思い出した。リバティニア市に来た年に買った、シルバーグレーのスーツケース。夏美はそれを引きながら自分の後をついて入国審査を通り、そこで長いこと足止めされたのだ。あの時、夏美は不安そうに自分の服の裾をつかんで、「修平、私、強制送還されたりしないかな?」と小声で尋ねた。自分はこう言った。「俺がいるのに、何を心配してるんだ?」と。玄関に立ち、修平はあの時の言葉がブーメランのように自分の胸に突き刺さるのを感じた。スマホが鳴った。電話に出ると、事務所の受付からで、どこか妙な口調だった。「小川先生、今日奥さん……松井さんが、先生に手紙を預かってほしいと」「夏美はど
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第6話

修平はオフィスに閉じこもって、夏美に電話をかけた。しかし、電源は入っていなかった。ラインを送っても、既読はつかない。メールも送ってみた。何の返事もなかった。修平はがっくりと椅子に身を預け、目を閉じた。これまでの日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。初めて両親に夏美を紹介した日のことを思い出した。夏美は緊張してうまく話せないくせに、一生懸命自分の母に話しかけようとしていた。あとで母は言った。「その子はガツガツしすぎてる。あまり育ちが良さそうじゃないわ」修平はその時、何も言わなかった。でも心の中ではこう思っていた。夏美が積極的なのは、自分のことが好きだからだ。何が悪いんだ?リバティニア市にいた頃のことも思い出した。夏美は英語が苦手で、スーパーで買い物をするにも、身振り手振りで大変そうだった。そんな夏美を恥ずかしく思い、これからはもう買い物になど行かなくていい、ネットスーパーで頼めば済む話だろう、と。夏美は素直にうなずいた。そして、それから本当に一人でスーパーに行くことはなくなった。夏美が写真の仕事を再開したかった時、せっかく受けた仕事を失敗してしまい、家に帰って泣きながら報告してきた。自分はこう言った。「英語もまともにできないくせに、見栄を張るからだろ」その時の夏美は、どんな顔をしていたっけ?修平は必死に思い出そうとした。でも、夏美がうつむいて、小さく「うん」とだけ言ったことしか覚えていない。あの仕事がどうして失敗したのか、夏美がどれほど落ち込んでいたのか、その後も写真を撮り続けていたのか。一度も尋ねなかった。ただ毎月2000ドルを夏美の口座に振り込んでいただけ。それで十分だと思っていた。それで、生活には困らないはずだと。修平は、ふと自嘲の笑みを漏らした。それは泣くよりもひどい顔だった。彼はスマホを手に取り、別の番号に電話をかけた。「もしもし、中島か。ちょっと相談したいことがあるんだ」電話の相手は大学の同級生の中島竜之介(なかじま りゅうのすけ)だった。今は国内で、婚姻問題などを専門にする弁護士をしている。「小川か?珍しいな。どうしたんだ?」「一つ、確認したいことがある。もし、婚姻届を提出した相手に対して、あらかじめ『不受理申出』を出して受理を阻止していた場合……その相手を
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第7話

彼はさらに先をスクロールした。5年前、リバティニア市に来て間もない頃の投稿が目に留まった。【今はまだ内緒だけど。法律に認められた永遠こそが、本当の『永遠』よね。ありがとう、小川先生】添えられていたのは、お揃いの結婚指輪をした二人の手が、婚姻届の上に置かれている写真だった。修平の頭の中が真っ白になった。ブーンという耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。5年前、リバティニア市に来たばかりの頃を思い出した。あの頃は何もかもが不安定だった。葵は献身的に自分の手伝いを申し出て、知り合いの仲介業者を使えば、早く安く婚姻届を出せると言ったのだ。「俺には彼女がいる。もし出すとしても、彼女と出す」「夏美さんのビザ、今のままだと不安定すぎるわよ。もし手続きで問題が起きたら、グリーンカードが取れなくなるかもしれない。まずは私と偽装結婚して、生活が安定してから、夏美さんとちゃんと籍を入れればいいじゃない?これはただの合理的な手続きよ。お二人の関係には何の影響もないわ」自分は一瞬ためらった。でも、期待に満ちた夏美の顔が目に浮かんだ。「グリーンカードが取れたら、私も仕事を探すからね」夏美の言葉を思い出すと、魔が差したように頷いてしまった。偽装なんだ。ただの手続きだ。何の影響もない。そう自分に言い聞かせた。でも、実際は違った。最初から最後まで、それが偽物だと思い込んでいたのは、自分だけだったのだ。……家に帰り、ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。修平は玄関に立ったまま、電気はつけなかった。寝室のドアの前まで行くと、そっと扉を開けた。ベッドは綺麗に整えられていた。掛け布団はきちんと畳まれ、枕が二つ並べて置かれている。それは夏美の癖だった。夏美はいつも、自分の枕を彼女自身のものより少しだけ高くして置くのだ。修平はクローゼットを開けた。夏美の服はまだそこにあった。色別に分けられ、一枚一枚きれいにハンガーにかかっている。この5年間、いつも夏美が服を用意してくれていた。修平は自分の靴下が、どの引き出しに入っているのかさえ知らなかった。修平はベッドの縁に腰を下ろした。すると、どっと疲れが押し寄せてきた。スマホを取り出し、もう一度夏美に電話をかけた。だが、やはり電源が入っていなかった。通話を切ると、別の番
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第8話

葵の顔が一瞬、青ざめたが、すぐに平静を装った。「もちろん、冗談に決まってるでしょ。本気で結婚するわけないじゃない?あなたには夏美さんがいるんだから」「じゃあ、なんでこんな投稿をしたんだ?」葵はスマホを一瞥し、フンと鼻で笑った。「小川先生、私が何を書いたっていうの?『法律に認められた永遠』って書いたけど、私たちの結婚はただの偽装なんだから、そんな永遠なんて『嘘』だし、法的には何の実態もないじゃない?ただの一般論を書いただけよ、何か間違ってる?『ありがとう、小川先生』っていうのも、永住権の手続きを助けてくれた恩人に感謝しただけ。それのどこが悪いの?」修平は葵を見て、急によそよそしい存在に感じられた。この5年間、残業にも、接待にも付き合ってくれた。厄介な案件を乗り越える時も、いつもそばにいてくれた。葵が最高のパートナーで、誰よりも自分のことを理解してくれていると思っていた。しかし今、自分は葵のことを何もわかっていなかったのだと気づいた。いや、そもそも、わかろうとしていなかったのかもしれない。心の中には、最初から最後まで、別の人間しかいなかったのだから。その人は、深夜2時に起きてきては酔い覚ましの薬を用意してくれた。残業中には黙ってデスクに食事を置いてくれた。「もう無理するな」というたった一言で、自分の夢を素直に諦め、5年間も家を守ってくれた人だった。自分は、それが当たり前のことだと思い込んでいた。この5年間、夏美がどんな思いで過ごしてきたのか、一度も聞いたことがなかった。「葵」修平は書類を葵の前に押しやった。「これにサインしろ。そして荷物をまとめて、事務所から出て行ってくれ」葵の顔から、完全に笑みが消えた。「正気なの?夏美さんのために?あんな女のどこがいいのよ?簡単な英語もできないただの専業主婦が、あなたに釣り合うとでも思ってるの?」修平は何も言わず、背を向けて歩き出した。ドアの前で、彼は足を止め、葵を一度だけ振り返った。「夏美が俺に釣り合う必要はない。俺の方が、彼女にふさわしくなかったんだ」3日後、修平は帰国する飛行機に乗った。機内では一睡もできず、スマホに入っている夏美の写真を何度も見返していた。どれも、何気ない瞬間に撮った写真ばかりだ。キッチンで野菜を切る姿、ソファで本を読む
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第9話

不意に、スマホが鳴った。修平が電話に出ると、相手は竜之介だった。「小川、頼まれてた人、見つかったよ」修平は、スマホを握りしめた。「彼女は今、どこにいる?」「三ツ葉小路にある撮影スタジオ。最近、かなり注目されてるみたいで。いくつかの雑誌で表紙を撮影して、業界での評判も上々だよ。住所、送ろうか?」修平は「ああ、頼む」と答えた。電話を切ると、修平は空港を出てタクシーを拾った。「三ツ葉小路までお願いします」タクシーが三ツ葉小路の近くで停まった頃には、もうあたりは暗くなっていた。修平は竜之介から送られてきた住所を頼りに、古いオフィスビルを見つけた。エレベーターは5階で止まった。エレベーターを降りると、廊下の突き当たりにガラスのドアがあった。ドアには、こう書かれていた。松井撮影スタジオ。中には明かりが灯っていた。修平はドアの前に立ったまま、中には入らなかった。ガラス越しに、夏美が撮影スタジオの中で、モデルの写真を撮っているのが見えた。夏美は黒いシャツを着て、髪を一つに束ねていた。そのせいで、すっとしたうなじがよく見えた。カメラを構え、少し腰をかがめながら、何か指示を出している。モデルは夏美の指示通りにポーズを変え、夏美がシャッターを切ると、フラッシュが光った。その顔は、修平が今まで一度も見たことのない表情だった。仕事に集中し、自信に満ちあふれ、落ち着いていた。修平はドアの前に立ったまま、長いこと夏美を見ていた。やがて夏美が一区切りの撮影を終えて体を起こし、何気なくドアの方に目を向けた。そして、はっと息をのんだ。ガラスを隔てて、二人の視線が交わった。夏美の目が一瞬輝いたかと思うと、すぐに冷たく凍りついたのを、修平は見た。彼女はカメラを下ろしてモデルに何か告げると、ドアの方へ歩いてきた。ドアが開き、夏美が修平の前に立った。その距離は、1メートルもなかった。こうして二人が向かい合って立つのは5年ぶりだった。修平が口を開こうとすると、喉が詰まったように言葉が出てこない。夏美は、落ち着き払った表情で修平を見ていた。「小川先生、何かご用?」「小川先生」って。「あなた」じゃない。「修平」でもない。「小川先生」だ。修平は喉を締め付けられる思いで
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第10話

「妊娠したことも言えなかった。一人で病院に行って手術して……午前2時に電話がかかってきて、バーに迎えに行ったり。路地裏で危ない目に遭いそうになったことも……」夏美はそこで言葉を止めた。それ以上は、もう何も言わなかった。修平の目は赤く染まっていた。「夏美……」「小川先生」夏美は修平を見た。その目は、静まり返った水面のように穏やかだった。「昔の私は、もうどこにもいないの」夏美はくるりと背を向けてスタジオに入っていき、ドアが修平の目の前で閉まった。修平は、その場に立ち尽くした。ただ、そのドアをずっと、ずっと見つめていた。修平は帰らなかった。彼は三ツ葉小路の近くにホテルをとり、毎朝コーヒーを一杯買って、オフィスビルの向かいにあるベンチに座って、そのガラスのドアをただ見つめていた。夏美は、朝早くに来る日もあれば、昼過ぎにやって来る日もあった。スタジオに出入りするとき、時々修平の存在に気づいていた。でも、その視線が彼の上で止まることは一度もなく、まるで見ず知らずの他人を見るかのようだった。修平は、夏美に近づく勇気がなかった。何を言えばいいのか、自分に何ができるのか、まったく分からなかった。彼はただ座り、彼女を見守る。クライアントと楽しそうに話し、重いカメラを抱えて撮影に出かけ、汗だくで戻ってくる姿。ただ、それを見ていた。彼女は痩せていた。そして、以前よりもずっときれいになった。見た目のことじゃない。心に明かりが灯ったように、彼女自身の内側から輝きを放っていた。ある日、夏美がロケ撮影から戻ってきて、修平の前を通り過ぎるとき、ふと足を止めた。夏美は、彼の手にあるコーヒーカップに視線を落とした。それは、とっくに冷え切っていた。修平は午後ずっとここに座っていたのに、一口も飲んでいなかったのだ。「いつまでそうしてるつもり?」修平は顔を上げて、夏美を見つめた。「君が俺を一目見てくれるまで」夏美は笑った。その笑顔には、少しだけどうしようもなさが滲んでいた。「もう帰って。私たちの間には、もう話すことなんて何もないでしょ」「ある」彼は立ち上がり言った。「君に償いたいんだ」「いらない」「俺に必要なんだ」夏美は、複雑な表情で修平を見つめた。「私が一番つらかったこと、何だか分かる?」
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