LOGIN花を残して、修平はいつも通りの向かいに立って、スタジオのドアを長いあいだ見つめていた。そんなある日、スタジオのドアにポスターが貼ってあるのに気づいた。ポスターには、カメラを手に、まぶしい笑顔を浮かべる夏美の写真が載っていた。そこにはこう書かれていた。【松井夏美撮影個展――私が見た世界。会期:来週の土曜日、午後3時から。会場:798倉庫街】修平は通りの向かい側で、そのポスターを見つめた。心臓が大きく一度、脈打った。個展の初日、798倉庫街はたくさんの人で賑わっていた。修平が着いた頃には、ギャラリーはもう人でいっぱいだった。壁にはたくさんの写真が飾られていた。人物写真、風景写真、それに街角のスナップショットもあった。どの写真の下にも、撮影日時と場所が記されていた。一番古い写真は、5年前にリバティニア市で撮られたものだった。公園の落ち葉、大きな橋から見た夕日、バイオリンを弾く老人。そして、もう一枚。白いシャツを着た男の人が、逆光の中、キャンパスの並木道に立っていた。それは、自分だった。二人が、初めて出会った日の写真だ。修平はその写真の前で、長いあいだ立ち尽くしていた。隣で見ていた二人が、小声で話していた。「この写真、すごくいいね。光の使い方が絶妙だ」「うん、このアングルと、この瞬間を切り取るところから、撮った人が本当にこの人のこと好きなんだなって伝わってくるね」修平は何も言わなかった。彼は、さらに奥へと進んだ。その先の写真になるにつれて、撮影された時期も場所も、どんどん遠くへと離れていった。翠嶺市の湖、雲嶺市の雪山、海辺の小さな漁村、都会のネオン。どの写真にも、静かな光が宿っていた。それこそが、夏美の見ていた世界だった。自分がいない、世界。ギャラリーの突き当りは、何もない壁だった。壁には、一行だけ文字が書かれていた。【かつて愛した人へ、そして、やっと見つけた私自身へ】修平はその壁の前に立ち、ふと笑みをこぼした。一度失ったものは二度と戻らないのだと、ようやく理解した自分を笑った。踵を返して去ろうとしたその時、少し離れた場所に夏美が立っていて、こっちを見ていることに気づいた。二人の視線が、交わった。夏美は修平の方へ歩いてくると、その目
「妊娠したことも言えなかった。一人で病院に行って手術して……午前2時に電話がかかってきて、バーに迎えに行ったり。路地裏で危ない目に遭いそうになったことも……」夏美はそこで言葉を止めた。それ以上は、もう何も言わなかった。修平の目は赤く染まっていた。「夏美……」「小川先生」夏美は修平を見た。その目は、静まり返った水面のように穏やかだった。「昔の私は、もうどこにもいないの」夏美はくるりと背を向けてスタジオに入っていき、ドアが修平の目の前で閉まった。修平は、その場に立ち尽くした。ただ、そのドアをずっと、ずっと見つめていた。修平は帰らなかった。彼は三ツ葉小路の近くにホテルをとり、毎朝コーヒーを一杯買って、オフィスビルの向かいにあるベンチに座って、そのガラスのドアをただ見つめていた。夏美は、朝早くに来る日もあれば、昼過ぎにやって来る日もあった。スタジオに出入りするとき、時々修平の存在に気づいていた。でも、その視線が彼の上で止まることは一度もなく、まるで見ず知らずの他人を見るかのようだった。修平は、夏美に近づく勇気がなかった。何を言えばいいのか、自分に何ができるのか、まったく分からなかった。彼はただ座り、彼女を見守る。クライアントと楽しそうに話し、重いカメラを抱えて撮影に出かけ、汗だくで戻ってくる姿。ただ、それを見ていた。彼女は痩せていた。そして、以前よりもずっときれいになった。見た目のことじゃない。心に明かりが灯ったように、彼女自身の内側から輝きを放っていた。ある日、夏美がロケ撮影から戻ってきて、修平の前を通り過ぎるとき、ふと足を止めた。夏美は、彼の手にあるコーヒーカップに視線を落とした。それは、とっくに冷え切っていた。修平は午後ずっとここに座っていたのに、一口も飲んでいなかったのだ。「いつまでそうしてるつもり?」修平は顔を上げて、夏美を見つめた。「君が俺を一目見てくれるまで」夏美は笑った。その笑顔には、少しだけどうしようもなさが滲んでいた。「もう帰って。私たちの間には、もう話すことなんて何もないでしょ」「ある」彼は立ち上がり言った。「君に償いたいんだ」「いらない」「俺に必要なんだ」夏美は、複雑な表情で修平を見つめた。「私が一番つらかったこと、何だか分かる?」
不意に、スマホが鳴った。修平が電話に出ると、相手は竜之介だった。「小川、頼まれてた人、見つかったよ」修平は、スマホを握りしめた。「彼女は今、どこにいる?」「三ツ葉小路にある撮影スタジオ。最近、かなり注目されてるみたいで。いくつかの雑誌で表紙を撮影して、業界での評判も上々だよ。住所、送ろうか?」修平は「ああ、頼む」と答えた。電話を切ると、修平は空港を出てタクシーを拾った。「三ツ葉小路までお願いします」タクシーが三ツ葉小路の近くで停まった頃には、もうあたりは暗くなっていた。修平は竜之介から送られてきた住所を頼りに、古いオフィスビルを見つけた。エレベーターは5階で止まった。エレベーターを降りると、廊下の突き当たりにガラスのドアがあった。ドアには、こう書かれていた。松井撮影スタジオ。中には明かりが灯っていた。修平はドアの前に立ったまま、中には入らなかった。ガラス越しに、夏美が撮影スタジオの中で、モデルの写真を撮っているのが見えた。夏美は黒いシャツを着て、髪を一つに束ねていた。そのせいで、すっとしたうなじがよく見えた。カメラを構え、少し腰をかがめながら、何か指示を出している。モデルは夏美の指示通りにポーズを変え、夏美がシャッターを切ると、フラッシュが光った。その顔は、修平が今まで一度も見たことのない表情だった。仕事に集中し、自信に満ちあふれ、落ち着いていた。修平はドアの前に立ったまま、長いこと夏美を見ていた。やがて夏美が一区切りの撮影を終えて体を起こし、何気なくドアの方に目を向けた。そして、はっと息をのんだ。ガラスを隔てて、二人の視線が交わった。夏美の目が一瞬輝いたかと思うと、すぐに冷たく凍りついたのを、修平は見た。彼女はカメラを下ろしてモデルに何か告げると、ドアの方へ歩いてきた。ドアが開き、夏美が修平の前に立った。その距離は、1メートルもなかった。こうして二人が向かい合って立つのは5年ぶりだった。修平が口を開こうとすると、喉が詰まったように言葉が出てこない。夏美は、落ち着き払った表情で修平を見ていた。「小川先生、何かご用?」「小川先生」って。「あなた」じゃない。「修平」でもない。「小川先生」だ。修平は喉を締め付けられる思いで
葵の顔が一瞬、青ざめたが、すぐに平静を装った。「もちろん、冗談に決まってるでしょ。本気で結婚するわけないじゃない?あなたには夏美さんがいるんだから」「じゃあ、なんでこんな投稿をしたんだ?」葵はスマホを一瞥し、フンと鼻で笑った。「小川先生、私が何を書いたっていうの?『法律に認められた永遠』って書いたけど、私たちの結婚はただの偽装なんだから、そんな永遠なんて『嘘』だし、法的には何の実態もないじゃない?ただの一般論を書いただけよ、何か間違ってる?『ありがとう、小川先生』っていうのも、永住権の手続きを助けてくれた恩人に感謝しただけ。それのどこが悪いの?」修平は葵を見て、急によそよそしい存在に感じられた。この5年間、残業にも、接待にも付き合ってくれた。厄介な案件を乗り越える時も、いつもそばにいてくれた。葵が最高のパートナーで、誰よりも自分のことを理解してくれていると思っていた。しかし今、自分は葵のことを何もわかっていなかったのだと気づいた。いや、そもそも、わかろうとしていなかったのかもしれない。心の中には、最初から最後まで、別の人間しかいなかったのだから。その人は、深夜2時に起きてきては酔い覚ましの薬を用意してくれた。残業中には黙ってデスクに食事を置いてくれた。「もう無理するな」というたった一言で、自分の夢を素直に諦め、5年間も家を守ってくれた人だった。自分は、それが当たり前のことだと思い込んでいた。この5年間、夏美がどんな思いで過ごしてきたのか、一度も聞いたことがなかった。「葵」修平は書類を葵の前に押しやった。「これにサインしろ。そして荷物をまとめて、事務所から出て行ってくれ」葵の顔から、完全に笑みが消えた。「正気なの?夏美さんのために?あんな女のどこがいいのよ?簡単な英語もできないただの専業主婦が、あなたに釣り合うとでも思ってるの?」修平は何も言わず、背を向けて歩き出した。ドアの前で、彼は足を止め、葵を一度だけ振り返った。「夏美が俺に釣り合う必要はない。俺の方が、彼女にふさわしくなかったんだ」3日後、修平は帰国する飛行機に乗った。機内では一睡もできず、スマホに入っている夏美の写真を何度も見返していた。どれも、何気ない瞬間に撮った写真ばかりだ。キッチンで野菜を切る姿、ソファで本を読む
彼はさらに先をスクロールした。5年前、リバティニア市に来て間もない頃の投稿が目に留まった。【今はまだ内緒だけど。法律に認められた永遠こそが、本当の『永遠』よね。ありがとう、小川先生】添えられていたのは、お揃いの結婚指輪をした二人の手が、婚姻届の上に置かれている写真だった。修平の頭の中が真っ白になった。ブーンという耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。5年前、リバティニア市に来たばかりの頃を思い出した。あの頃は何もかもが不安定だった。葵は献身的に自分の手伝いを申し出て、知り合いの仲介業者を使えば、早く安く婚姻届を出せると言ったのだ。「俺には彼女がいる。もし出すとしても、彼女と出す」「夏美さんのビザ、今のままだと不安定すぎるわよ。もし手続きで問題が起きたら、グリーンカードが取れなくなるかもしれない。まずは私と偽装結婚して、生活が安定してから、夏美さんとちゃんと籍を入れればいいじゃない?これはただの合理的な手続きよ。お二人の関係には何の影響もないわ」自分は一瞬ためらった。でも、期待に満ちた夏美の顔が目に浮かんだ。「グリーンカードが取れたら、私も仕事を探すからね」夏美の言葉を思い出すと、魔が差したように頷いてしまった。偽装なんだ。ただの手続きだ。何の影響もない。そう自分に言い聞かせた。でも、実際は違った。最初から最後まで、それが偽物だと思い込んでいたのは、自分だけだったのだ。……家に帰り、ドアを開けると、部屋は真っ暗だった。修平は玄関に立ったまま、電気はつけなかった。寝室のドアの前まで行くと、そっと扉を開けた。ベッドは綺麗に整えられていた。掛け布団はきちんと畳まれ、枕が二つ並べて置かれている。それは夏美の癖だった。夏美はいつも、自分の枕を彼女自身のものより少しだけ高くして置くのだ。修平はクローゼットを開けた。夏美の服はまだそこにあった。色別に分けられ、一枚一枚きれいにハンガーにかかっている。この5年間、いつも夏美が服を用意してくれていた。修平は自分の靴下が、どの引き出しに入っているのかさえ知らなかった。修平はベッドの縁に腰を下ろした。すると、どっと疲れが押し寄せてきた。スマホを取り出し、もう一度夏美に電話をかけた。だが、やはり電源が入っていなかった。通話を切ると、別の番
修平はオフィスに閉じこもって、夏美に電話をかけた。しかし、電源は入っていなかった。ラインを送っても、既読はつかない。メールも送ってみた。何の返事もなかった。修平はがっくりと椅子に身を預け、目を閉じた。これまでの日々が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。初めて両親に夏美を紹介した日のことを思い出した。夏美は緊張してうまく話せないくせに、一生懸命自分の母に話しかけようとしていた。あとで母は言った。「その子はガツガツしすぎてる。あまり育ちが良さそうじゃないわ」修平はその時、何も言わなかった。でも心の中ではこう思っていた。夏美が積極的なのは、自分のことが好きだからだ。何が悪いんだ?リバティニア市にいた頃のことも思い出した。夏美は英語が苦手で、スーパーで買い物をするにも、身振り手振りで大変そうだった。そんな夏美を恥ずかしく思い、これからはもう買い物になど行かなくていい、ネットスーパーで頼めば済む話だろう、と。夏美は素直にうなずいた。そして、それから本当に一人でスーパーに行くことはなくなった。夏美が写真の仕事を再開したかった時、せっかく受けた仕事を失敗してしまい、家に帰って泣きながら報告してきた。自分はこう言った。「英語もまともにできないくせに、見栄を張るからだろ」その時の夏美は、どんな顔をしていたっけ?修平は必死に思い出そうとした。でも、夏美がうつむいて、小さく「うん」とだけ言ったことしか覚えていない。あの仕事がどうして失敗したのか、夏美がどれほど落ち込んでいたのか、その後も写真を撮り続けていたのか。一度も尋ねなかった。ただ毎月2000ドルを夏美の口座に振り込んでいただけ。それで十分だと思っていた。それで、生活には困らないはずだと。修平は、ふと自嘲の笑みを漏らした。それは泣くよりもひどい顔だった。彼はスマホを手に取り、別の番号に電話をかけた。「もしもし、中島か。ちょっと相談したいことがあるんだ」電話の相手は大学の同級生の中島竜之介(なかじま りゅうのすけ)だった。今は国内で、婚姻問題などを専門にする弁護士をしている。「小川か?珍しいな。どうしたんだ?」「一つ、確認したいことがある。もし、婚姻届を提出した相手に対して、あらかじめ『不受理申出』を出して受理を阻止していた場合……その相手を