桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」ウェイトレスはうつむき、長い髪で顔を隠したまま、泣き声を絞り出した。「お客様、離してください……」晶が何気なく視線を向けると、その場に凍りついた。セクハラを受けているウェイトレスは、藤波佳奈(ふじなみ かな)――三年前、晶の結婚をあわや壊しかけた、あの女だった。その瞬間、旬が晶の手を握る力が急に強まり、指の骨が軋むほどだった。けれど彼はすぐに平静を取り戻し、横を向いて穏やかに言った。「行こう」晶は何も言わず、彼に手を引かれるまま地下駐車場へと向かった。車のそばまで来ると、旬が足を止めた。「晶、スマホを席に忘れたみたいだ。ちょっと取ってくるから、車で待っていて。すぐ戻る」晶は静かに彼を二秒ほど見つめ、頷いた。「分かった」旬はほっと息をつき、踵を返してエレベーターへと早足で向かった。その歩調は、いつもより明らかに速い。晶は冷たい車体に寄りかかり、目を閉じた。胸の奥を、細く鋭い痛みが貫く。嘘をついている。彼のスマホは、スーツの内ポケットに入ったままだ。晶は車には乗らず、踵を返して彼の後を追った。ハイヒールがコンクリートの階段を打ち、虚ろな反響音を立てる。一歩、また一歩。まるで、とうに穴だらけになった自分の心を踏みしめているようだった。レストランの裏口は半開きになっていた。晶がそっと隙間を広げて覗くと、佳奈に絡んでいた酔っ払いがまだいて、悪態をつきながら彼女の手首を掴んで離さない。旬が歩み寄り、何も言わず、酔っ払いの顔面に拳を叩き込んだ。酔っ払いは殴られて
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