LOGIN桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。 妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。 毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。 誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。 だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。 「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」 酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。 「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」
View More旬が瓦礫の中から救出された時、すでに意識はなかった。背中と腕には広範囲にわたる重度の火傷を負い、左脚は倒木の下敷きになって複雑骨折していた。三日三晩におよぶ懸命の救命処置の末、ようやく死の淵から引き戻された。ICUで目を覚ました時、全身には無数の管が繋がれ、一呼吸するたびに火傷の激痛が全身を引き裂くように走った。うっすらと目を開け、ぼやける視界の中、最初に発したのはかすれた、聞き取れないほどの声だった。「晶……晶は、どうなった……」ガラスの外で目を赤くした明宏が、インターホン越しに答える。「社長、結城さんは無事です。怪我もなく、すでにこの町を離れました」旬は弱々しく瞬きをした。火傷でひび割れた唇の端が、ひどくゆっくりと、わずかに持ち上がる。涙が目尻から滑り落ち、包帯へと染み込んでいった。「無事なら……それで……いい……」晶は、旬が危険な状態を脱して一般病棟に移された後、たった一度だけ病院を訪れた。病室のドアのガラス越しに、ただ静かに、しばらく彼を見つめていただけだった。病床に横たわるその男――かつては精悍で、颯爽としていた男が、今は全身を包帯でぐるぐる巻きにされている。顔にはまだ生々しい火傷の痕が残り、左脚は分厚いギプスで固められて宙に吊られ、まるで砕けた後に無理やり繋ぎ合わされた人形のようだった。彼女は静かに眺めていた。その目には憎しみも、恨みも、憐れみもない。ただ、底の見えない無関心だけがあった。そして踵を返し、二度と振り返ることはなかった。晶はその地を離れ、さらに遠い北の雪国へと向かった。氷と火が交錯するその国で、小さなアトリエを開いた。かつて心を蝕んだ結婚生活も、彼女を破壊しかけた傷も、日々の静けさと創作の中で次第に色褪せ、前世の曖昧な悪夢のようになっていった。やがて旅の途中で、穏やかなアジア系の画家と出会った。彼は彼女の才能を認め、過去を尊重し、今の彼女を大切にしてくれた。彼の傍らで、晶は久しく忘れていた穏やかで安らかな幸福を感じることができた。彼女は再び、何の重荷もなく笑えるようになった。その瞳の奥には、また星の光が宿った。もう誰かの付属品でも、誰かの影でもない。ただの結城晶――生きることを愛し、自由に生きる一人の女性。灰の中から蘇り、画筆で曙光を描くアーティスト。
晶は少し言葉を切り、静かに視線を彼の絶望に満ちた顔へと落とした。「二兎を追う気ですか?私は今の暮らしにとても満足しています。もう邪魔されたくないんです。お願いですから、二度と私の前に現れないでください」言い終えると、彼女はもう一度も彼を見ようとはしなかった。流れるような動作で画材を片付け、画板を背負い、踵を返して去っていく。その足取りは淀みなく、躊躇いも、未練も、微塵も感じさせなかった。旬はその場に跪いたまま、全身から力を抜き取られたように動けなかった。彼女の徹底した無関心は、どんな憎悪の言葉よりも深く、彼の心を無惨に抉った。それでも、旬は諦めなかった。いや、果てしない悔恨と恐怖が、すでに彼を狂気へと駆り立てていたのだ。極端な手段で晶に付きまとい、あらゆる方法で償おうとした。毎日欠かさずギャラリーの前に姿を現し、最も高価で新鮮な花束を届けた。晶は見向きもせず、そのままゴミ箱へ捨てた。彼が贈った宝石や高級時計は、すべて手つかずのまま送り返された。資金力と人脈を駆使して、彼女の仕事上の些細なトラブルを裏から解決してやろうとしたが、返ってきたのはギャラリーのガラス越しに向けられた氷のような一瞥と、短いメッセージだけだった。【桐生社長、ご自分のことだけ心配していてください。余計なお世話です】彼女が現地の言葉を学ぶ語学学校に通い始めたと知ると、すぐに同じ学校に申し込み、彼女の後ろの席に座って、変質者のような熱っぽい視線を送り続けた。晶は翌日、すぐにより上級のクラスへの変更を申請した。彼女がひどい胃弱を抱えていることは知っていた。かつて自分が連夜の接待で遅くなるたび、食事もとらずに待ち続けた彼女が抱えることになった持病だ。不器用な手つきで胃に優しいスープを作ることを覚え、保温ジャーを抱えて彼女のアパートの下で何時間も待ち続けた。一口でも飲んでほしいと懇願しながら。晶は目もくれず、まるで彼が道端の石か空気であるかのように、一切の反応を見せずに通り過ぎていった。そしてついに、強硬な手段に出た。人脈を動かして彼女の勤めるギャラリーに巨額の投資を行い、最大株主となり、新しいオーナーとして彼女の前に現れたのだ。みるみる顔色を失っていく晶を見て胸が痛んだが、それでもかすれた声で、卑屈な希望にすがるように言った。
晶はシンプルなオフホワイトのニットにダークカラーのパンツを合わせ、長い髪を緩くまとめ、ギャラリーの大きなガラス窓を背にして、現地の男性と笑顔で言葉を交わしていた。午後の陽光が降り注ぎ、柔らかな黄金色の光が彼女を包んでいる。穏やかで静かな表情、口元には作り物ではない、自然な微笑みが浮かんでいた。その笑顔を、旬は長いこと見ていなかった。――陰りも、苦渋もない。ただ穏やかで、楽しげなだけの笑顔。彼女は……とても幸せそうに見えた。俺と一緒にいたあの頃よりも、はるかに。見えない手に心臓を鷲掴みにされたように胸が激しく収縮し、旬はたまらず体をかがめた。息もできないほどの鋭い痛みが走る。駆け寄り、強く抱きしめ、彼女の前に跪いて許しを請いたかった。しかし両足は鉛を流し込まれたように重く、その場に縫い止められて一歩も動かすことができない。――俺に、そんな資格があるのか?やがて、晶が笑いながら現地の男性と別れの抱擁を交わし、男が礼儀正しく彼女の頬にキスをするのが見えた。旬の目は真っ赤に充血し、嫉妬が毒蛇のように心を蝕んでいく。しかし、それ以上に耐え難かったのは、晶の顔に嫌悪感も無理をしている様子も微塵もなく、ごく自然な親しみが浮かんでいたことだ。彼女はもう、自分のものではないのだ――その認識が、どんな責め苦よりも深く彼を苛んだ。旬は声をかける勇気すら持てず、卑劣な覗き魔のようにギャラリーの向かいにあるアパートの一室を借り、毎日双眼鏡で彼女を監視するようになった。真剣に仕事に打ち込み、同僚と和やかに接する晶。その顔には健康的な血色が戻り、瞳には再び生き生きとした光が宿っていた。後をつけると、彼女がギャラリーの近くにある、温かみのある小さなアパートに住んでいることが分かった。バルコニーには色とりどりの花が並べられている。彼女は毎日スーパーで買い物をして自炊し、休日には公園へ写生に出かけ、週末には地域の子供たちに絵を教えていた。その生活は静かで、充実しており、瑞々しい生命力に満ちていた。その事実が、旬を狂おしいほどに苦しめた。――俺がいなくても、彼女は完璧な日々を生きているのだ。いっそ、彼女が惨めな生活を送っていてくれればよかった。そうであれば、まだ自分を気にかけている証であり、自分が彼女を深く傷つけたという事実の証
佳奈は高笑いした。その笑い声には狂気と勝ち誇った響きが混じっている。「そうよ、だから何?あのシャンデリアは、私が前もって人にネジを緩めさせておいたのよ!あなたが彼女をあのパーティーに連れて行くって分かってたから!立ち位置も、落下するタイミングも、全部計算ずくだったわ!旬、見てよ、私は自分の命だって賭けられるの!あなたのためなら死ぬことだって怖くない!なのに、どうして私を愛してくれないの!?あなたは私だけのものなのよ!」「狂ってる……お前は狂ってる!」旬は歯を食いしばり、全身を震わせた。恐怖ではない。この上ない怒りと、あまりの馬鹿馬鹿しさと、骨の髄まで凍りつくような戦慄だ。思い出した。あの日、シャンデリアが轟音とともに落下し、佳奈が「身を挺して」自分を突き飛ばし、肩から血を流しながら腕の中で気を失ったことを。思い出した。あの時の、五臓六腑が裂けるような恐怖を。そして、「瀕死」の彼女を抱えて駆け出した時――額から血を流し、蒼白な顔で立ち尽くしていた晶を、力任せに突き飛ばしたことを。思い出した。山頂のお寺まで、お百度参りしてお守りを求めた自分の姿を。ライブ配信のカメラに向かって、深い愛情と悲痛を込めて語った言葉を。「最愛の人のために祈っています」と。なんて滑稽なんだ。なんて途方もない、悪趣味な冗談なんだ。彼は、この命を賭けた周到な詐欺劇の中で、惨めな操り人形のように踊らされていたのだ。すべての憐れみ、罪悪感、怒り、そして破滅的な憎悪――そのすべてを、この芝居を仕組んだ張本人に注ぎ込んでいた。そして、十数年も彼を愛し続け、すべてを捧げ、彼に突き飛ばされて血を流しても誰にも顧みられなかったあの人に対しては――最も深い誤解と、最も残酷な罵倒と、最も冷酷な仕打ちと、最も残忍な「罰」を与えたのだ。彼は自らの手で、世界で一番自分を愛してくれた女性を、地獄へ突き落とした。いや――あやうく、この手で殺すところだった。ゲホッ――!また鮮血が噴き出す。目の前が暗転し、耳の奥で激しい耳鳴りが響く。胃が痙攣するような激痛と、心臓を力任せに引き裂かれるような苦しみが絡み合い、立っていることすらままならない。旬は佳奈を指差す。指は震え、しかし言葉は一言も出てこない。極限の悔恨と、頭から呑み込まれるような恐怖が、氷の波となって