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偽りの愛に溺れる君に決別を

偽りの愛に溺れる君に決別を

By:  アキCompleted
Language: Japanese
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桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。 妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。 毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。 誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。 だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。 「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」 酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。 「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」

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Chapter 1

第1話

桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。

妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。

毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。

だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。

「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」

酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。

「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」

ウェイトレスはうつむき、長い髪で顔を隠したまま、泣き声を絞り出した。

「お客様、離してください……」

晶が何気なく視線を向けると、その場に凍りついた。

セクハラを受けているウェイトレスは、藤波佳奈(ふじなみ かな)――三年前、晶の結婚をあわや壊しかけた、あの女だった。

その瞬間、旬が晶の手を握る力が急に強まり、指の骨が軋むほどだった。けれど彼はすぐに平静を取り戻し、横を向いて穏やかに言った。

「行こう」

晶は何も言わず、彼に手を引かれるまま地下駐車場へと向かった。

車のそばまで来ると、旬が足を止めた。

「晶、スマホを席に忘れたみたいだ。ちょっと取ってくるから、車で待っていて。すぐ戻る」

晶は静かに彼を二秒ほど見つめ、頷いた。

「分かった」

旬はほっと息をつき、踵を返してエレベーターへと早足で向かった。その歩調は、いつもより明らかに速い。

晶は冷たい車体に寄りかかり、目を閉じた。胸の奥を、細く鋭い痛みが貫く。

嘘をついている。

彼のスマホは、スーツの内ポケットに入ったままだ。

晶は車には乗らず、踵を返して彼の後を追った。ハイヒールがコンクリートの階段を打ち、虚ろな反響音を立てる。

一歩、また一歩。まるで、とうに穴だらけになった自分の心を踏みしめているようだった。

レストランの裏口は半開きになっていた。晶がそっと隙間を広げて覗くと、佳奈に絡んでいた酔っ払いがまだいて、悪態をつきながら彼女の手首を掴んで離さない。

旬が歩み寄り、何も言わず、酔っ払いの顔面に拳を叩き込んだ。

酔っ払いは殴られてよろめき、椅子をなぎ倒した。顔が瞬く間に赤く腫れ上がる。

「てめえ、誰だ!?俺を殴りやがって!」

酔っ払いは怒鳴りながら起き上がり、拳を振り上げて反撃に出た。

旬の目は氷のように冷たい。身をかわして攻撃を避けると、無駄のない動きで腹部にもう一発叩き込み、そのまま背負い投げで地面に叩きつけ、狂ったように殴り続けた。

その一連の動きは、速く、容赦なく、的確で――晶が長い間見ていなかった、彼の獰猛さを帯びていた。

酔っ払いが悲鳴を上げ、佳奈も怯えて口を覆った。目に涙を浮かべながら飛びつき、旬の腕を掴む。

「旬!もうやめて!十分だから!これ以上やったら死んじゃう!」

旬は荒い息をつきながら、氷の刃のような視線で地面でうめく酔っ払いを見下ろした。

「失せろ」

歯を食いしばり、一言だけ搾り出す。

酔っ払いは這うようにして逃げ出し、捨て台詞を吐く余裕すらなかった。

旬はそこでようやく振り返り、佳奈を見た。眉をひそめ、その目には隠しきれない痛みが浮かんでいる。

「どうしてこんなところで働いているんだ」

佳奈は目を赤くして答えた。

「あのときの騒ぎが大きくなりすぎて……大学を中退して、学歴もないから……こういう場所でお皿を運んで、なんとか生きてるだけで……」

言いながら、大粒の涙がこぼれ落ちる。痩せた肩が微かに震え、頼りなく哀れに見えた。

旬は一度目を閉じ、内ポケットから名刺を取り出して差し出した。

「この人を訪ねてくれ。君にふさわしい仕事を用意してくれるはずだ」

佳奈は名刺を見つめたまま、受け取らない。涙で潤んだ目で彼を見上げ、突然、手を伸ばして名刺を地面に叩き落とした。

「こんなの要らない!」

彼女の声には、泣き叫ぶような悲壮さが混じっていた。

「私が欲しいのは、最初からあなただけ!旬、あなただけなの!」

旬の体が震えた。

「私がこの三年間、どうやって生きてきたか分かる?」

佳奈は彼の胸倉を掴み、涙を溢れさせる。

「毎日あなたのことを考えて……眠れない夜が何度もあって……昔デートした場所にこっそり行って、一日中座っていたこともあった。旬、私たち愛し合っているのに、どうして一緒にいられないの?どうして!」

喉が裂けんばかりに泣き叫んだ。

旬は彼女の苦痛に歪んだ顔を見つめた。冷静な仮面が砕け散り、瞳の奥に深い苦悩と葛藤が渦巻いている。絞り出すような声だった。

「俺だって……同じだ。でも、家庭に戻らなければ、君を守れなかった。佳奈、分かってくれ」

腕時計に目をやり、まるで時間に急かされるように顔をしかめた。

「彼女が車で待っている。もう行かないと」

踵を返そうとした瞬間、佳奈が背後から飛びつき、腰にしがみついた。顔を背中に押し当て、むせび泣く。

「行かないで……お願いだから行かないで……旬、ずっと会いたかった……」

旬の体が硬直した。

佳奈は彼の前に回り込み、背伸びをして、何もかもを振り切るように唇を重ねた。

旬は最初の数秒、応えなかった。微かに顔を背けて避けようとすらした。

けれど佳奈のキスは、すべてを懸けた情熱と絶望に満ちていた。涙がキスに混じり、涙の塩辛い味が彼の口の中へと流れ込んでいく。

晶は観葉植物の陰に隠れ、目を見開いたまま、その光景を見つめていた。

旬の手が、ゆっくりと握りこぶしを作るのが見えた。手の甲に青筋が浮かび上がる。

固く閉じた目のまつ毛が、激しく震えているのが見えた。

最後の抵抗を試みるように、喉仏が上下に動くのが見えた。

そして――

彼が勢いよく目を開くのが見えた。いつもは冷ややかなその瞳に、晶が一度も見たことのない、狂おしい炎と、長く押し殺されていた欲望が燃え上がった。

彼はもはや自分を抑えることも、ためらうこともしなかった。片手で佳奈の後頭部を掴み、激しく、キスを返した。
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第1話
桐生旬(きりゅう しゅん)が家庭に戻って以来、かつて自分を夢中にさせた女子大生について二度と口にすることはなかった。妻の結城晶(ゆうき あきら)には、とても優しかった。毎日定時に帰宅し、晶の好みをすべて覚えていて、生理のときには温かい生姜湯を作り、彼女が悪夢を見れば、強く抱きしめてくれる。誰もが口を揃えて、旬のことを模範的な夫だと褒めた。だがある日、二人が行きつけのレストランで食事を終え、会計を済ませて帰ろうとしたとき、少し離れた場所から騒ぎ声が聞こえてきた。「ちょっと触ったくらいで何だよ!清純ぶるな!」酔っ払った客が、ウェイトレスの手首を引っ張っている。「こういう店で働いてるってことは、金持ちの男を釣るためだろうが!」ウェイトレスはうつむき、長い髪で顔を隠したまま、泣き声を絞り出した。「お客様、離してください……」晶が何気なく視線を向けると、その場に凍りついた。セクハラを受けているウェイトレスは、藤波佳奈(ふじなみ かな)――三年前、晶の結婚をあわや壊しかけた、あの女だった。その瞬間、旬が晶の手を握る力が急に強まり、指の骨が軋むほどだった。けれど彼はすぐに平静を取り戻し、横を向いて穏やかに言った。「行こう」晶は何も言わず、彼に手を引かれるまま地下駐車場へと向かった。車のそばまで来ると、旬が足を止めた。「晶、スマホを席に忘れたみたいだ。ちょっと取ってくるから、車で待っていて。すぐ戻る」晶は静かに彼を二秒ほど見つめ、頷いた。「分かった」旬はほっと息をつき、踵を返してエレベーターへと早足で向かった。その歩調は、いつもより明らかに速い。晶は冷たい車体に寄りかかり、目を閉じた。胸の奥を、細く鋭い痛みが貫く。嘘をついている。彼のスマホは、スーツの内ポケットに入ったままだ。晶は車には乗らず、踵を返して彼の後を追った。ハイヒールがコンクリートの階段を打ち、虚ろな反響音を立てる。一歩、また一歩。まるで、とうに穴だらけになった自分の心を踏みしめているようだった。レストランの裏口は半開きになっていた。晶がそっと隙間を広げて覗くと、佳奈に絡んでいた酔っ払いがまだいて、悪態をつきながら彼女の手首を掴んで離さない。旬が歩み寄り、何も言わず、酔っ払いの顔面に拳を叩き込んだ。酔っ払いは殴られて
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第2話
二人は強く抱き合い、キスを重ねる。互いを骨の髄まで刻みつけようとするかのように、周囲のすべてが無に帰していく。晶はその場に立ち尽くしていた。手足が氷のように冷たくなる。全身の血の気が引き、次の瞬間には一気に逆流して、目眩がした。三年前のあの時、もう心は死んだと、もう痛むことはないと思っていた。しかし、違った。死んだはずの心でも、まだこれほどまでに切り刻まれる痛みを感じるのだ。すべては、いつから変わってしまったのだろう。十六歳。彼はクールで誰より優秀な男子生徒で、晶は眩しいほど自由奔放な学園のマドンナだった。彼は耳を赤くしてラブレターを差し出した。「晶、俺と付き合ってくれ。ずっと、好きでいるから」十八歳。受験が終わった日、彼は全校生徒と教師の前で、彼女への愛を世界に向けて宣言した。二十二歳。会社を継いだばかりの頃、どんなに忙しくても必ず晶を迎えに来た。顔を見ないと落ち着かないのだと言って。二十五歳。盛大な結婚式で、彼は片膝をつき、目を真っ赤にして言った。「晶、この先俺が愛するのは、君だけだ」誰もが言った。旬は晶のことになると周りが見えなくなる、と。けれど結婚三年目、すべてが変わった。帰りは遅くなり、スマホのパスワードは変わり、知らない香水の匂いがするようになった。そしてついに、晶の追及に耐えられなくなった彼は白状した。藤波佳奈という女子大生を愛してしまった、と。魂が響き合うのだと言った。こんな情熱もときめきも、初めてだと言った。離婚してほしい、財産は何もいらない、と言った。晶の世界は、その瞬間に崩れ落ちた。彼女は信じられなかった。一生好きでいると誓ってくれたあの少年は、酒の席では自分の代わりに杯を干し、自分のために拳を振り上げ、共に泣き、笑ってくれた、あの旬は彼女にああいう言葉を言ったなんて。晶は泣いた。喚いた。取り乱した。すべてのプライドを捨てて、彼に縋りついた。けれど旬は、冷たい目で言った。「晶、すまない。もう愛していないんだ」晶は狂ったように佳奈の大学を調べ上げ、乗り込んで大騒ぎを起こし、「略奪女」のレッテルを完全に貼り付けた。その結果、佳奈は大学から退学勧告を受けた。佳奈は晶を憎んだ。車で晶を撥ね、左脚をタイヤで轢いた。激痛の中、晶は見た。車内に座る佳奈の、怨念
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第3話
晶はベッドに横たわっていた。全身が激しく痛む。それでも、電話越しの生々しい音は一つ残らず耳に届いていた。心臓が、粉々に砕け散った。通話が繋がって数秒後、ようやく電話の向こうから旬の声が聞こえてきた。平静を装っているが、まだ熱を帯びた、抑えきれない情欲の滲む声だ。「もしもし?晶?ごめん、言い忘れてた。会社で急に海外とのビデオ会議が入って、どうしても抜けられなくてさ。先に出たんだ。自分で車を運転して帰ってくれ。気をつけてな。終わったらすぐ帰るから」彼は晶の返事すら待たなかった。何かから逃れるように、慌てて電話を切った。「ツーツーツー……」無機質な通話終了の音が、嘲笑のように響く。看護師は電話を手にしたまま、気まずそうに、そして同情を込めた目で晶を見た。晶はベッドに横たわっていた。顔には血の気がなく、瞳は恐ろしいほど虚ろだった。しばらくして、口元がかすかに動いた。笑おうとしたのだろうか。けれど、無理に作ったその歪な笑みは、泣き顔よりもずっと痛々しかった。全身の力を振り絞り、少しだけ体を起こす。声はかすれ、途切れ途切れだった。「家族は……いません……私が自分で……サインします」晶は震える手で、入院同意書に一画一画、自分の名前を書いた。最後の一画を書き終えた瞬間、力が尽きた。ペンが床に転がり落ちる。目の前が真っ暗になり、再び意識を失った。次に目が覚めたのは、消毒液の匂いが充満する個室だった。「晶?目が覚めたか?」聞き慣れた、気遣うような声がベッドの傍から聞こえた。旬だ。昨日と同じスーツを着ている。目の下には薄い隈。顔には隠しきれない心配と、罪悪感が浮かんでいた。「具合はどうだ?まだ痛むか?」晶は間近にある彼の顔を見つめた。そして――襟元から半分覗く、首筋に残った赤黒いキスマークを。心臓が、またしても錆びたナイフで抉られたように痛んだ。息が詰まる。昨夜、彼は佳奈と一緒にいた。晶があの酔っ払いに殴られ、冷たい床の上で虫の息だった時、彼は佳奈とキスをしていた。晶が病院に運ばれ、家族のサインが必要だった時、彼は佳奈と肌を重ねていた。そして今、何事もなかったかのようにここに座り、妻を心配する良き夫を演じている。なんて皮肉だろう。この男……本当に吐き気がする。「晶?」旬
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第4話
翌日の夜になって、ようやく旬が帰ってきた。手には上品なギフトバッグを提げ、顔には優しい笑みを浮かべて、寝室のドアを開けて入ってきた。「晶、見て。これ、何だと思う?君が一番好きなブランドの限定ブレスレット、知り合いに頼んで海外から取り寄せてもらったんだ」彼は窓辺に座ってぼんやりしている晶を見つけ、歩み寄ってプレゼントを差し出した。「何日も入院してて退屈だっただろ?今夜、取引先のパーティーがあるんだ。気分転換に一緒に来ないか?」晶はプレゼントを受け取らず、ただ静かに彼を見上げた。旬はそこで初めて、壁際に置かれたスーツケースに気がついた。「これは……?」一瞬、怪訝な顔をする。「古い服を整理したのよ。寄付しようと思って」晶は淡々と答え、立ち上がった。「パーティー?いいわよ」旬は軽く頷き、それ以上深くは追求しなかった。パーティーは五つ星ホテルの華やかな宴会場で開かれていた。ドレスアップした人々が、談笑しながらグラスを交わしている。旬が晶の手を引いて現れると、多くの視線が集まった。晶がこのような公の場に姿を見せるのは、実に久しぶりのことだったからだ。旬は彼女を重要な取引先に紹介し、常に気遣うような振る舞いで、絵に描いたような仲睦まじい夫婦の姿を演じていた。晶もそれに合わせて微笑み、頷く。けれど心の中は、氷のように冷え切っていた。その時、酒器を載せたトレイを持つウェイトレスが近づいてきた。佳奈だった。彼女は旬の姿を見て明らかに動揺し、足元をふらつかせた。手にしたトレイが大きく傾き――ワイングラスが晶に向かってこぼれ落ちる!旬はほとんど本能的に、晶を庇うように自分の背後へと引き寄せた。こぼれた赤ワインはすべて彼のスーツにかかった。その様子を見ていた宴会場のマネージャーが血相を変えて駆け寄り、旬がワインを浴びたのを見て激怒し、佳奈を乱暴に押しのけた。「何をやっているんだ!この方が誰だか分かっているのか!?早く謝れ!」佳奈は突き飛ばされた肩を押さえ、目を赤くして深く頭を下げた。「申し訳ありません、桐生社長……奥様……わざとじゃないんです……」マネージャーがさらに厳しい言葉を浴びせようとした瞬間、旬が鋭く怒鳴った。「やめろ!」マネージャーの腕を強く掴み、氷のような目で睨みつける。
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第5話
晶は血の滲む額を押さえながら、混乱の渦にある宴会場をよろよろと後にした。病院には行かなかった。近くの小さな診療所を見つけ、簡単に消毒してガーゼを貼ってもらっただけだ。家に戻ると、室内は相変わらず空っぽで、ひどく冷え切っていた。顔についた血を洗い流し、ソファに座ってスマホを開く。SNSのトレンド動画、そのトップに映っていたのは――旬だった。動画は郊外にある有名な青雲寺で撮影されたものだった。お百度参りをすれば、最も霊験あらたかなお守りが手に入ると言われている。動画の中の旬は、血で汚れたスーツのジャケットを脱ぎ捨て、薄手のシャツ一枚になっていた。彼の表情は厳粛で、眼差しには揺るぎない決意が宿っている。山頂の本堂に向かって、険しい石段を登り続けていた。傍らで記者がマイクを向けている。「桐生社長、どなたのために祈願されているんですか?ご家族でしょうか?」旬は動きを止めた。額からは汗が滴り落ちている。彼はカメラを真っ直ぐに見据え、穏やかで、それでいて揺るぎない眼差しで、一言一言はっきりと告げた。「俺が最も愛する人のためです。彼女の無事を祈っています」最も愛する人。晶は画面を見つめた。敬虔な祈りと疲労のせいで、いっそう精悍さを増した彼の顔を。心臓を見えない手で鷲掴みにされ、力任せに引き裂かれるようだった。息ができない。視界が暗く明滅する。晶は乱暴にスマホを伏せた。画面が真っ暗に沈む。けれど胸を締めつける、あの窒息しそうな痛みは消えてくれなかった。ソファの上で身を丸め、自分を強く抱きしめる。それでも、少しの温もりも感じられなかった。それから数日、旬は家に帰ってこなかった。晶も、以前のように狂ったように電話やメッセージを送るような真似はしなかった。ただ淡々と自分の身の回りを片づけていった。引っ越し業者に連絡を取り、持っていくものを整理し、海外移住のためのビザの手続きを進めた。そしてその夜、下腹部にあの馴染みのある鈍い痛みが走った。生理が来たのだ。この数年間、生理のたびに晶はひどい痛みに襲われた。旬はそれを知っていて、いつもお腹を温めるカイロと、温かいはちみつ湯を用意しておいてくれた。夜は背後から抱きしめ、大きな掌で下腹部を温めてくれた。晶は痛みを堪えながら一人でキッチンに向かい、お湯を沸かし
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第6話
晶は悲鳴を上げ、手にしたスマホを男に向かって投げつけた。男の額を直撃し、男は呻いて一瞬動きを止める。その隙に逃げようとしたが、髪を鷲掴みにされ、床に叩きつけられた!男がのしかかってくる。生温かく濁った息が顔にかかる。晶の顔をはっきり見ると、男の目から凶暴な光が消え、卑しい欲望の色に変わった。「へえ、なかなかいい顔してるじゃねえか。死ぬ前に、少し楽しませてもらおうか……」「離して!」晶は必死にもがき、手足を振り回して男を蹴りつけた。男は苛立ち、腹に重い拳を打ち込むと、傍らの装飾用カーテンタッセルを引きちぎり、あっという間に彼女の両手首をきつく縛り上げた。晶は絶望した。身をよじると、涙が止めどなく溢れてくる。少し離れた床に投げ出されたスマホに視線を向けた。画面はまだ光っていた。そこには「桐生旬に発信中……」の文字がある。やがて、自動的に通話が切れた。彼は出なかった。すぐ家の外にいるのに!着信画面を見たはずなのに――それでも、出なかったのだ!男が寝間着を引き裂き、気味の悪い手が体を這う。吐き気がこみ上げ、底知れぬ恐怖と絶望が晶を飲み込んでいく。心が崩壊しかけたその瞬間、晶は拘束された両手で、ベッドサイドの真鍮製スタンドライトをなりふり構わず掴み、男の頭に向けて渾身の力で振り下ろした!鈍い音とともに、男の動きが止まる。頭を押さえ、一瞬呆然としている。晶はこの隙を逃さず、必死の思いで這い起き、開いた窓へと突進した!一瞬の躊躇いもなかった。男が再び飛びかかってきた瞬間、彼女は窓から暗闇へと身を躍らせた!――ドンッ!体が急速に落下する。無重力感。直後、凄まじい衝撃と激痛が全身を貫いた。芝生の上に叩きつけられ、全身の骨がバラバラになったかのような痛みに、指一本動かせない。激痛に耐えながらわずかに頭を上げ、屋敷の門の外、道路脇へと視線を向けた。旬の車が、まだそこに停まっている。ただ、車体が規則正しく、微かに……揺れていた。窓は閉め切られている。けれど車内の薄暗がりに、二つの人影が重なり合って動く輪郭がうっすらと見えた。その瞬間、晶はすべてを悟った。なぜ、彼が電話に出なかったのか。なぜ、目と鼻の先にいながら、命がけで助けを求める電話に何の反応も示さなかったのか。彼は忙しかった
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第7話
それから数日間、旬は仕事の大半をキャンセルし、片時も病室を離れずに晶へ付き添った。晶は彼を拒絶して暴れることもなく、話しかけられても一切応えなかった。まるで魂の抜けた人形のようだった。ある日の午後、旬が主治医に呼ばれ、今後の治療方針を聞くために診察室へ向かった隙のことだった。枕元のスマホが短く震えた。見知らぬ番号からのメッセージだった。【結城さん、私と旬がまた連絡を取り合ってること、ずっと前から気づいてたんでしょう?三年も猶予をあげたのに、あなたは結局、彼の心を繋ぎ止められなかったみたいね。旬ったら、夢の中でも私の名前を呼んでるのよ。正妻の座にしがみついたところで、何の意味があるの?所詮、愛されない哀れな女ね】送り主は、間違いなく佳奈だった。晶は添えられた密会を匂わせる写真と文面を見つめた。心には、もう何の波も立たない。ただ静かにその番号をブロックし、スマホを伏せた。その日の夕方。看護師が車椅子を押して、晶を脚のCT検査へ連れて行こうと病室を出た時のことだ。廊下の正面から、制服姿の警察官が二人、真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてきた。「結城晶さんですね?」晶は戸惑った。「はい……そうですが、何か?」「藤波佳奈さんに対する傷害教唆の疑いで、事情をお聞きしたい。あなたが何者かを雇い、彼女に薬品をかけさせた疑いが出ています。藤波さんは顔と腕に重度の火傷を負いました。署まで任意同行をお願いできますか」晶は目を見開いた。信じられない思いで警察官を見つめる。「私が?彼女に薬品を?」ちょうどその時、診察室から戻ってきた旬が警察官の言葉を耳にし、血相を変えて駆け寄ってきた。「待ってください、何かの間違いでしょう?妻がそんなことをするはずがない!」警察官は厳しい表情のまま、手にしていたファイルの一部を示した。「すでに実行犯を確保しており、供述と送金記録の裏付けが取れています」旬は横からその資料をひったくるように覗き込んだ。内容に目を通すにつれ、顔色が沈み、その目が急速に冷え切っていく。次の瞬間――彼はその資料のコピーを、晶の顔に向かって激しく叩きつけた。数枚の紙片が宙を舞い、床に散らばる。「晶!」フロアに響き渡るような凄まじい怒声だった。彼を見上げたその瞳には、驚愕、怒り、そして底知れぬ失望が渦巻いてい
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第8話
「でも……」佳奈はまだ迷っているふりをした。「これをあなたがやったって知ったら……彼女がまた騒ぎ出すんじゃ……」「安心しろ。絶対に気づかせない。終わったら跡形もなく処理する。これからは、もう誰にも君を傷つけさせない」晶の心臓が、完全に砕け散った。千万もの破片になって、引き裂かれた。痛い。言葉にならないほど痛い。薬品で焼かれるより、骨を折られるより、どんな肉体の傷よりも――何千倍も、何万倍も痛い。最も愛した男。七年間、同じベッドで眠ってきた夫。その男が、他の女のために――自分にこんな仕打ちを?次の瞬間、麻袋の口がきつく縛られ、何か重いものが押し込まれた。ずしりと体の上にのしかかってくる。石だ。「んんっ……!」晶は狂ったようにもがき、叫ぼうとする。けれど喉から出るのは、くぐもった嗚咽だけだった。麻袋が乱暴に持ち上げられた。大きな水音――直後、彼女の体は氷のように冷たい川の中へ投げ込まれた。冷たい水が四方八方から押し寄せる。布越しに口と鼻を塞ぎ、肺の奥まで流れ込んでくる。息ができない。凍てつく冷たさ。そして、底なしの絶望。晶は袋の中で必死にもがく。けれど手足は縛られ、石の重みに引きずられ、体は為す術もなく水底へと沈んでいく。もう駄目だ、溺れ死ぬ――そう思った瞬間、麻袋が勢いよく水面へ引き上げられた。激しくむせ返りながら、冷たい空気を貪るように吸い込む。だが数秒と経たないうちに、また容赦なく水中へ沈められた。引き上げられては、沈められる。また引き上げられては、また沈められる。まるで猫が鼠をもてあそぶような、残酷な拷問。水面に出るたびに得られるわずかな呼吸は、次に来るさらに深い絶望と恐怖を連れてくるだけだった。氷のような川の水が、無数の針となって皮膚を刺す。骨を貫く。心臓を抉る。死の淵に立つ恐怖と、極限の苦痛の中で、無数の記憶が、堰を切ったように溢れ出した――十六歳の春。桜の木の下で、顔を真っ赤にしながら差し出されたラブレター。不器用な筆跡。けれど、滾るような想い。十八歳の冬。留学に旅立つ空港の搭乗口。きつく抱きしめられた。顎が髪に触れる。少し震える、けれど揺るぎない声。「晶、待っててくれ。帰ってきたら、絶対に君を嫁にする」二十二歳。初めて彼女のために作ろうとした料理。焦げて真っ黒にな
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第9話
旬は、佳奈のもとで丸三日間を過ごした。この三日間、二人はほとんどホテルの部屋から出ることがなかった。リビングから寝室へ、バスルームからバルコニーへ――部屋のあらゆる場所に、二人が狂ったように肌を重ねた痕跡が残されていた。佳奈の若く瑞々しい肉体には、ある種の魔力が宿っているかのようだった。長く抑え込んでいた旬の欲望に、いとも簡単に火をつける。彼は飽くことを知らない獣のように、最も原始的な方法で確かめ続けた。この取り戻した情熱を。結婚という枷から本当に解き放たれ、生き返ったのだということを。三日目の午後、ようやく放蕩の末の疲労と満足感を全身にまとい、旬は屋敷へと車を走らせた。玄関の暗証番号を入力し、重厚な扉を押し開ける。異様なほどの静けさ、どこか冷え切った空気が、正面から押し寄せてきた。旬は玄関に立ち、微かに眉をひそめた。以前は、どんなに遅く帰っても、リビングには温かなオレンジ色のフロアランプが灯っていた。キッチンからは彼女が作ったスープの匂いが漂い、花瓶に生けられた花のほのかな香りがした。あるいは、ソファで静かに本を読む彼女が、ページをめくる微かな音を立てていた。今は、何もない。旬はジャケットを脱ぎ、ソファに放り投げた。何気なく視線を巡らせ――ふと、動きが止まった。リビングの中央。イタリア製の高価な大理石のローテーブルの上に、見慣れない厚い封筒と書類がぽつんと置かれている。理由もなく胸がざわつき、早足で歩み寄った。手に取る。一番上に置かれた書類の印字が、目に飛び込んできた――【離婚届受理証明書】二秒ほど、動けなかった。こわばった指先で、その書類を手に取る。つまり、晶がついに離婚の手続きを済ませたのだ!狂喜が、何の前触れもなく頭のてっぺんまで突き抜けた。心臓が胸の中で激しく暴れ、鼓膜がびりびりと震える。――離婚した!ついにあの女と離婚できたのだ!この三年間の見えない枷。息の詰まる結婚という牢獄。それがついに――完全に、解き放たれたのだ!彼女がいつ手続きをしたのか、いつここを出て行ったのか、そんなことを考える余裕すらなかった。巨大な解放感に飲み込まれ、ほとんど反射的にスマホを取り出した。興奮で指先が微かに震えている。佳奈の番号をタップした。電話はワンコールで繋がった。「旬?
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第10話
その日の夜、佳奈が屋敷に迎え入れられた。純白のワンピースを身にまとい、佳奈は軽やかな蝶のように旬の腕の中へ飛び込んできた。そして顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめた。「旬、これ夢じゃないよね?本当にここで暮らせるの?ここが……これから私たちの家になるの?」「ああ、俺たちの家だ」旬は彼女の髪に唇を落とし、力強く抱きしめた。「今日からここは、君と俺だけの場所だ」佳奈は興奮して屋敷の中を駆け回り、あちこちを触っては嬉しそうに覗き込んでいる。主寝室の巨大なダブルベッドを見て、頬をほんのり赤らめた。けれどすぐに、不満げに鼻に皺を寄せた。「旬、このベッド……前の奥さんと使ってたやつでしょ?私、これで寝たくない。他の女の匂いがする。新しいのに替えて?それからこのカーテンも、ドレッサーも、クローゼットも……全部嫌!全部新しくしたい!」「ああ、好きにしろ」旬は甘やかすように笑った。「明日デザイナーが来る。君の好きなように変えさせればいい。気に入らないものは、全部捨てちまえ」「旬、優しい!」佳奈は跳び上がって彼の首に腕を回し、自ら唇を重ねた。情欲は、たちまち火を噴いた。二人は、かつて旬と晶が毎晩眠っていたあの巨大なベッドに倒れ込み、互いの衣服を荒々しく引き裂いた。旬は荒い息を吐きながら、ずっと夢に見ていたその若い肉体を激しく貪り、最も原始的な行為で、長すぎた空白を埋めるように体を重ね合わせた。理性が飛ぶほどの快楽の中、ふと目を開けると、興奮で赤く上気した佳奈の顔が映った。妖艶で、蠱惑的だ。けれど視線は、無意識のうちに頭上の見慣れたシャンデリアへ滑り、傍らのベッドサイドランプへと向かった――晶が長い時間をかけて、一つ一つ丁寧に選んだものだ。今、欲望をぶつけ合っているこのマットレスも、晶が特注で作らせたものだった。彼の腰に負担がかからないようにと。彼女はいつも、自分が眠る側のヘッドボードに柔らかなクッションを置いていた。眠る前に、それに寄りかかって静かに本を読むのが好きだったからだ。そんな些細な、どうでもいいような日常の残像が――この瞬間に限って、やけに鮮明に脳裏をよぎる。旬の激しい動きが、ほんの一瞬、ぴたりと止まった。「旬……?」佳奈が甘く不満げな声を上げ、腕を彼の首に絡めて引き寄せる。旬は強く目を閉じた。場違い
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