로그인「瀬戸家には戻りません。一生戻るつもりはないわ。もう二度と私に構わないで」実花は汚いものでも見るかのように身を引き、和真の手を避けると、そのまま咄嗟に湊の背後へと身を隠した。その瞬間――湊の中で煮えたぎり、理性を焼き尽くそうとしていた怒りの炎が、魔法でもかけられたかのようにスッと凪いだ。ああ……幼い頃もずっとこうだった。彼女は何か悪戯をして親に叱られそうになると、いつもこうして湊の部屋に逃げ込み、背中に隠れて彼の服の裾をぎゅっと握りしめていた。昔と何一つ変わらない、自分への無意識の依存。それに気づいた途端、湊の眉間のシワは完全に解け、機嫌は最高潮に達した。彼は実花を隠すようにさりげなく一歩前に出ると、その広くて逞しい背中で彼女をすっぽりと庇い立てた。和真も平均より随分と背は高い方だが、湊はさらにその上をいく。鋭く冷酷な美貌を持つ若き王者が、見下ろすように冷ややかな視線を向けると、その場にいるだけで息が詰まるほどの圧倒的な威圧感が放たれた。実花からの拒絶と、目の前の二人のあまりにも自然な距離感。和真の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。彼は湊と、その背後に隠れる実花を交互に見比べ、思わず声を震わせた。「君たち……いつからそんなに親しくなったんだ……?」実花は唇を噛み締め、無言のまま湊のシャツの背中をきゅっと強く握った。彼女はひどく緊張していた。今の読めない湊が、嫉妬に駆られて不用意なことを言い出すのではないかとハラハラしたのだ。別に和真に自分たちの関係を知られること自体はどうでもいい。だが、今は時期が悪すぎる。離婚が成立する直前の今、余計な波風を立てて足枷を増やしたくはない。それに、湊だってこんな形で自分との関係を周囲に公にしたくはないはずだ。背中のシャツを握る小さな手から伝わってくる不安を察したのか。湊は和真を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開いた。「俺たちは……随分と前から顔見知りでしてね」和真が息を呑み、絶句するよりも早く。湊は微かに余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした口調で言葉を継いだ。「前回のパーティーで、瀬戸社長ご自身から直接ご紹介いただいた時からの知り合いですよ。その後、たまたま隣同士だと分かってね。少し話してみたら、驚くほど色々な部分で気が合ったんです」湊の底知れない漆黒の瞳に
エレベーターを降りてホールに出た瞬間、タイミングよく隣の部屋のドアが「ガチャリ」と開いた。会いたいと思ったら、本当に会えちゃった。実花の唇に、自然と柔らかな笑みが浮かぶ。だが、そこに立っていた湊の様子は、どこか異様だった。湊は氷のように冷たい無表情で突っ立っている。いつもは完璧に着こなしているシャツの襟元は珍しく乱れ、目の下にははっきりと濃い隈が浮かんでおり、一睡もしていないことは誰の目にも明らかだった。「……やっと帰ってきたのか」湊の口から飛び出したのは、棘のある冷ややかな声だった。「てっきり、そのまま引っ越したのかと思ったよ」「ええ、そのつもりよ。三日後に引っ越す準備をしているの」実花は昨日の征二郎との会話を思い出し、言葉の裏も読まずに素直に頷いた。その瞬間、湊の纏う空気がさらに数度下がった。彼は低く、嘲るような冷笑をこぼす。「はっ……お前って本当にチョロいんだな。あんな風にほんの少し優しくされただけで、尻尾を振って戻るのか?脳みそ腐ってんじゃないのか?」いくら何でも言い過ぎじゃない?まさかもう、私が征二郎様から厚遇されて黒田家に戻ることを知っているの?相変わらず耳が早いわね。実花は少し眉をひそめたが、彼が黒田家という泥沼に足を踏み入れることを危惧してくれているのだろうと好意的に解釈し、軽く溜息をついた。「別にチョロいわけじゃないわ。でも、向こうの居心地が良くても悪くても、行かなきゃいけないのよ。どうしても、自分自身で直接向き合って確かめなきゃいけないことがあるから」母の過去に一体何があったのか。あの権力者の黒田当主に、あんな歯切れの悪い態度をとらせるような秘密を、絶対に暴かなければならないのだから。実花の瞳に宿る揺るぎない決意を見て、湊は堪えきれないほどの怒りが腹の底から湧き上がるのを感じた。「自分自身で直接向き合うだと……?」湊の声は、地を這うように低く、ドスが利いていた。「瀬戸の妻として、今更責任感でも芽生えたって言うのか?それとも、今までの自分の態度を反省して、関係をやり直すためにヨリを戻そうとでもしているのか?」「……え?」実花はきょとんとして瞬きをした。話が全く噛み合っていない。「世間中を巻き込んで盛大にノロケていたじゃないか。動物園デート、ずいぶんと
気になった実花は、すぐにスマートフォンのカメラでその紙切れを撮影し、薫にメッセージを送った。【ねえ薫、これって何の書類か分かる?】敏腕弁護士である薫からの返信は、あっという間に返ってきた。薫:【これは警察の書類ね。被害届や告訴状の取り下げ書の控え、もしくは相談記録の一部だと思う。当事者同士で示談が成立して、「これは民事上のトラブルだから警察は介入しません、立件は見送りますよ」って時に使われる定型文ね】薫:【ただ、このフォーマットはずいぶん古いものよ。少なくともここ十数年は使われていないはず。これ、どこで見つけたの?もっと詳しい情報があれば、私の伝手で過去の記録を調べてあげられるかもしれないわよ】実花は切れ端と写真を交互に見つめ、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと文字を打ち込んだ。実花:【ううん、大したことじゃないの。古い荷物の中からたまたま見つけただけだから。わざわざありがとう、薫】実花はスマートフォンを手に取り、先ほど登録したばかりの征二郎の番号をタップした。「実花さん、こんなに早く連絡をくれるとは!もしかして、もう決心してくれたのかな?」電話口から聞こえる征二郎の声には、明らかな喜びと期待が滲んでいた。「征二郎様。母が家を出た『本当の理由』を教えてください。嘘偽りのない真実が知りたいのです」征二郎は明らかに言葉を詰まらせた。少しの沈黙の後、躊躇いがちに声が返ってくる。「……そのことなら、先ほど話した通りだよ。私が彼女に政略結婚を強要したことが原因で……」「母の日記を見つけました。あの日、本当に何があったのか、すべて書かれていました」実際には母は過去について一言も残してなどいなかったが、実花は声のトーンを微塵も変えることなく、平然と嘘をついた。長年、弱肉強食のビジネス界を生き抜いてきた黒田の当主であっても、この不意打ちには心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けたはずだ。それでも彼は、必死に表面上の冷静さを保とうとした。「……由紀子の日記に、何と書いてあったと言うんだね?まさか、私の知らない事実でも……」「『伯父さん』たちのこと。そして……『警察』のことです」実花が適当にふたつのキーワードを投げかけると、電話の向こうは不気味なほど水を打ったように静まり返った。息が詰まるような、長い沈黙。
「だが……」征二郎はすがるような眼差しで実花を見つめた。その姿は、絶対的な権力者ではなく、ただの弱々しい老人のように見えた。「君がいてくれて、本当によかった。私に、罪滅ぼしの機会を与えてはくれないだろうか」「私には、母の代わりにあなたを許す権利はありません」実花は極力感情を殺し、淡々と事実を告げた。「それに、私は浅見家の養女です。血の繋がりがないことは、ご存じなのでは?」「そんなことはどうでもいい!」征二郎は身を乗り出し、熱を帯びた声で訴えかけた。「君が黒田家に戻る意思さえあるなら、今日から君は私の正当な孫娘だ。誰一人として君の身分を疑う者などいない。もし望むなら、今日にでも手配をしよう」実花がピクリとも動かないのを見て、征二郎はさらに魅力的なカードを切ってきた。「いいかい、黒田家に入れば、もう二度と誰からも見下されることはない。君は今、瀬戸家の和真と結婚しているのだろう?あの家で、肩身の狭い思いをしているのではないか?だが、黒田の看板があれば、瀬戸家だって決して君を蔑ろになどできないんだよ」「……少し、考えさせてください」黒田家の絶大な権力を盾にされても、実花の心は凪いだ水面のように微塵も揺らがなかった。「それと、訂正させてください」実花はすっと立ち上がり、静かに付け加えた。「瀬戸和真は、もうすぐ『元夫』になりますから」「元夫……?離婚するということか?」征二郎が目を丸くして驚く。「ええ。詳しいことは、また機会があればお話しします」実花はかすかに微笑み、静かに頭を下げた。「今日はここで失礼します。すべてが急すぎて、私には少し時間が必要ですから」「……そうか。分かった」征二郎の顔には明らかな落胆の色が浮かんだが、彼はそれ以上、無理に引き留めようとはしなかった。プライベートクラブを後にした実花は、そのまま両親が生前暮らしていた実家のマンションへと向かった。父が亡くなってから、彼女はこの部屋をろくに片付けていなかった。和真との離婚騒動やアートコンクールで心身ともに余裕がなかったというのもあるが、一番の理由は、まだ『心の準備』ができていなかったからだ。自分を愛してくれた両親が、もうこの世のどこにもいない――その残酷な事実を、実花はまだ完全に受け入れることができずにいた。
実花は少し驚きながら、通話ボタンをスライドした。「征二郎様?まさかご本人からお電話をいただけるとは思っていませんでした。何か私にお手伝いできることでしょうか」「実花さん、実は君に折り入って話があるんだ。直接会って話したいのだが、少し時間をくれないだろうか」電話の向こうから、征二郎の穏やかで慈愛に満ちた声が響いた。「ええ、構いませんよ」実花はふたつ返事で了承した。黒田沙耶の陰湿な嫌がらせには辟易しているが、この国のアート界の重鎮である黒田当主には、なぜか初対面の時から不思議と惹かれるものがあり、自然な好感を抱いていたのだ。ちょうど新しい車を手に入れたばかりだったこともあり、実花はさっそく運転手の鈴木に頼んで、征二郎が指定した会員制の高級プライベートクラブへと向かった。入り口には屈強な黒服のSPが数名立っており、物々しい雰囲気が漂っている。通された奥の特別室には、すでに征二郎が待っていた。実花が入室するのを見ると、彼は傍らに置かれた立派な木彫りの杖を突き、ゆっくりと立ち上がった。当たり障りのない挨拶をいくつか交わした後、征二郎は単刀直入に本題を切り出した。「君の母親の旧姓は、黒田由紀子だ。彼女は黒田の人間であり……私もまた、黒田だ」すべてを語ることはしなかったが、その一言だけで、彼が何を伝えたいのか実花には痛いほど理解できた。実花の心臓が、トクンと大きく跳ねる。まったく予期していなかったわけではない。母の身内がまだこの世のどこかで生きていることは知っていた。それに以前、湊から「征二郎様は、君のご両親にずいぶんと興味があるらしい」と意味深に告げられたこともあり、心の準備はある程度できていた。だからこそ、今こうして征二郎から事実を突きつけられても、驚きで取り乱すようなことはなかった。だが、驚きがないことと、それを受け入れることはまったくの別問題だ。黒田家ほどの権力がありながら、なぜ母が苦しんでいたあの長い年月の間、ただの一度も手を差し伸べなかったのか。彼女の胸の奥には、拭いきれない怨嗟の念がくすぶっていた。それに、両親が他界し、自分一人で泥水にまみれながら必死に生きてきた今更になって、「血の繋がった家族」などと言われても困るのだ。実花はしばし沈黙した。やがて、凛とした冷ややかな瞳で目の前
「ええ。ありがとう、薫」実花は深く安堵し、心強い親友の身体をぎゅっと抱きしめた。---翌朝。実花がマンションに帰り着いたのは昨日の夕方だったが、極度の緊張から解放された反動か、そのままベッドに倒れ込み、泥のように眠ってしまった。精神的にも肉体的にも限界まで削られていた彼女は、十数時間たっぷりと眠り続けたことで、ようやく本来の生気を取り戻していた。しかし、彼女が眠りこけていたこの十数時間は、世間をひっくり返すには十分すぎる時間だった。和真が抱える優秀な広報チームが徹夜で作業を進め、彼の公式SNSアカウントから、完璧に編集された一枚の写真と短い動画が投稿されたのだ。それは瞬く間に拡散され、ネット上で爆発的な反響を呼んでいた。添えられた一文は、ごくシンプルなものだ。【瀬戸和真と、妻の実花。】画面に映る二人は、誰もが息を呑むほどの美男美女だった。実花は花が綻ぶような眩しい笑顔を浮かべ、和真は少し首を傾けながら彼女を見つめている。その視線は、甘く蕩けてしまいそうなほど深い愛情に満ちていた。二人の圧倒的なビジュアルだけでもネット民を熱狂させるには十分だったが、何よりも、その表情があまりにも自然で、「ビジネス夫婦」の作り笑いには到底見えなかったのだ。超一流企業のトップであるセレブ夫婦が、高級ホテルやレストランではなく、ごく普通の恋人たちのように『動物園』ではしゃいでいる。その親近感も相まって、世間の反応は絶賛の嵐へと変わった。【嘘でしょ!?あの瀬戸夫妻が動物園デート!?庶民的すぎて好感度バク上がりなんだが! 尊い!】【和真さんのこの視線、甘すぎて見てるこっちが照れる……これで実花さんが略奪女とか言ってたアンチ、息してる?】【どう見ても愛し合ってる夫婦じゃん。デマ流した奴、完全に終わったな】一方、この世論の劇的な反転を目の当たりにした沙耶は、怒りのあまり最新型のスマートフォンを床に激しく叩きつけた。「どういうことよ……ッ!」ギリッと歯鳴りをさせ、ひび割れた画面を憎々しげに睨みつける。あの高城凛はいったい何をしているの?自分の立場をアピールする最大のチャンスが目の前にあるというのに、なぜしゃしゃり出てこない?それに瀬戸和真のあの態度は何?20年間もこじらせていた高城凛への異常な執着は突然治ったとでもいうの
一見すると、妻を思いやる完璧な夫の台詞だ。だが、実花にはわかっていた。これは彼なりの、ちっぽけな罪悪感の清算に過ぎない。実花がいつものように「遠慮しておくわ」と物分かりよく断ることを、彼は最初から確信しているのだ。「ううん、せっかくだから行くわ」実花の返答に、和真は虚を突かれたように動きを止めた。「……え?今、なんて言った?」「行くと言ったの。体調ももう大丈夫だし、あなたの友人たちに挨拶しておくのもいいかと思って」実花は静かに微笑んだ。どうせ、彼らと顔を合わせる機会なんて、この先二度と訪れないのだから。翌日の夜。指定されたのは会員制のプライベートラウンジだった。開放的な
「まだ起きていらしたんですか?」心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」一度目のコール。誰も出ない。二度目のコール。やはり応答はなかった。「もう
胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ
夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時