All Chapters of 凍える愛の終焉に ―さよなら、偽りのマリアージュ―: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

和真の足がピタリと止まる。彼は振り返り、射抜くような冷ややかな視線を沙耶に向けた。「……どういう意味だ?」沙耶は口元を上品に手で覆い、ひどく心配そうな顔を作ってため息をついた。「うちのメイドから聞いたんですけれど……実花さん、パーティーの翌朝、朝の五時頃にひどく慌てた様子でこっそり帰宅したそうですのよ。しかも、首元には生々しい赤や青の痕がちらちらと見えていたとか……本人は何もおっしゃらないけれど、同じ黒田の家で暮らす身として、何かのトラブルに巻き込まれたのではないかと本当に心配で……」さあ、どうする?男なら、愛する女が別の男と一晩を共にしたと知れば、怒り狂うはずよ。沙耶は心の中で暗い嘲笑を浮かべ、和真が逆上して暴れ出すのを今か今かと待ち構えた。ところが――和真の反応は、沙耶の予想とはまるで違っていた。朝の五時……首元の痕……!和真はハッと息を呑んだ。その瞬間、彼の頭の中で全てのパズルのピースが完璧に噛み合ったのだ。僕が彼女を抱き潰し、眠りに落ちた時間。そして、僕自身が熱に浮かされて無数につけてしまったあのキスマーク。何もかもが、あの夜の自分の記憶と恐ろしいほど一致している。間違いない……!あの夜、僕の腕の中で泣いてすがってきたのは、やっぱり実花だったんだ!和真の心に残っていた最後の一ミリの疑念すらも完全に消え去った。彼の瞳は、怒りどころか、狂おしいほどの愛しさと甘い熱を帯びてとろけるように和らいでいく。しかし、和真はすぐに沙耶を鋭く睨みつけた。この女、僕と実花との神聖な愛の夜を、まるで実花が誰かとふしだらな真似をしたかのように言いふらしているのか?和真は不快感を隠すことなく眉をひそめた。「同じ家族でありながら、身内のプライベートを勝手に詮索して、あることないこと下世話な妄想を膨らませるなんて、随分と悪趣味だな。君には何か別の思惑があるんじゃないか?」「え……?」思いがけない反撃に、沙耶の仮面がピシリとひび割れる。和真はフッと冷たく鼻で笑った。「それに、これは僕たち夫婦の寝室の事情だ。部外者である君が口を挟むことじゃない。二度と実花を侮辱するな」そう吐き捨てると、和真は颯爽と踵を返し、上機嫌で廊下の奥へと消えていった。残された沙耶は、その場で完全に硬直していた。…………は?
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第212話

スタッフたちの顔色が変わったのを見て、沙耶は内心でほくそ笑みながらも、表面上は慌てたように両手を振った。「あっ、誤解しないでください!私がこんな話をしたのは、どうか皆様に私の顔に免じて、少しだけ姉を大目に見ていただきたいからなんです。姉は有名な先生に師事していて、絵がとっても得意なんですよ。きっと現場の記録作業などで、皆様のお役に立てるはずですから……!」『有名な先生に師事している』。その言葉は、沙耶が先ほど語った「専属運転手付きでやってくる温室育ちのお嬢様」という人物像と組み合わさることで、最悪のニュアンスを生み出した。つまり、「実力もないのに強力なコネを使ってこのプロジェクトに遊び半分で潜り込んだ」という決定的なアピールである。その言葉を聞いた瞬間、気性の荒い博士課程の大学院生が怒りに顔を真っ赤にして吐き捨てた。「だったら、その足でとっとと帰ってもらえ!俺たちの現場には、そんなお飾りのお姫様を接待してる余裕なんてねぇんだよ!」翌日の夜。実花が発掘のベースキャンプに到着した時、その姿は最悪のタイミングで野次馬の目に留まってしまった。彼女が降り立ったのは、二千万円は下らないVIP仕様の最高級ワンボックスカー。しかも、普段は厳しいはずの警備員が、彼女の顔を見るなり恭しく頭を下げてゲートを通過させたのだ。その光景は、事前に沙耶が語っていた「専属運転手付きでやってくる温室育ちの姉」という人物像と見事に一致していた。現場で泥にまみれて働いている学生の一人がこれを目撃し、強烈な不公平感と嫉妬に駆られる。彼はこっそりとスマートフォンで実花の姿を盗撮し、悪意たっぷりの尾ヒレをつけて内輪のグループチャットに拡散した。実花という最悪の比較対象が現れたことで、沙耶の株は現場でさらに上がることになった。「同じ姉妹なのに、どうしてこうも違うんだ?」「妹の沙耶ちゃんはあんなに気が利いて真面目なのに、姉はコネ頼りのお姫様かよ」周囲の同情と称賛を集めながら、沙耶は裏でさらに手を引いていた。発掘現場のキャンプ内だけで燻っていた不満は、沙耶が匿名アカウントを使って巧妙に煽ったことで、瞬く間にSNSへと延焼していく。【バックに強力なコネがあるっていいよね。国の重要プロジェクトすら、お嬢様の箔付けの道具にできるんだから。
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第213話

「だめだ……下手に触れば、完全に崩壊してしまうぞ」「かといって、このまま放置するわけにもいかない」名だたる専門家たちが実験台を囲み、疲労困憊の表情で頭を抱えていた。彼らはすでに丸一日、この問題に付きっきりで一睡もしていない。実花もまた、現場に到着するなりこのラボに直行し、ずっと彼らと共に解決策を議論していた。彼女の専門は古美術の修復であり、考古学そのものの専門家ではない。しかし、彼女には極限まで劣化してカビが生え、炭化寸前になった古文書や古い楮紙を修復してきた圧倒的な経験と技術があった。実花はガラス越しに、その黒い塊をじっと見つめた。触った時の感触や柔らかさは違うけれど……あの独特の繊維の崩れ方、私が以前修復した炭化楮紙の状態にすごくよく似ているわ。沈黙が支配するラボの中で、実花は静かに、しかし凛とした声で口を開いた。「もし他に手立てがないのでしたら……物理的剥離を試してみるのはいかがでしょうか?」その言葉に、専門家たちが一斉に顔を上げる。「あの黒い塊の劣化状態は、私が過去に扱ってきた極度に炭化した古い楮紙の組織構造に非常に似ています。もしかすると、私の修復技術と原理を応用すれば、形を崩さずに表面の層を剥離できるかもしれません」その提案に、ラボの中が一瞬、水を打ったように静まり返った。最初は、数人のベテラン教授たちが眉をひそめ、難色を示した。無理もない。材質すら判明していない未知の遺物に対して、古美術修復の技術をいきなり試すなど、あまりにもリスクが高すぎる。もし方法が間違っていて、このかけがえのない歴史的遺産が完全に崩壊してしまったら、一体誰が責任を取れるというのか。しかし、実花が論理的かつ具体的なプロセスを説明し始めると、彼らの表情は徐々に変わっていった。「いきなり触るわけではありません。まずは恒温環境のまま、ケース内の湿度を微細に上げていきます。もしその黒い塊が、水分を吸ってわずかでも膨張したり、柔らかくなる兆候を見せた場合、その材質は紙に近い植物繊維である可能性が高い。つまり、私の修復アプローチが通用するという証明になります。逆に何の反応も示さなければ、その時点ですぐに実験を中止します。これなら、遺物を傷つけるリスクを最小限に抑えられるはずです」教授たちは顔を見合わせ、その目には疑念か
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第214話

時計の針が刻一刻と進む中、ラボ内には静かな呼吸音だけが響いている。やがて、ケース内の湿度が一定の数値に達した時だった。黒い塊が、ほんのわずかに震えたように見え――そして、微かに柔らかくほぐれたのだ。「……私の、気のせいか?」集団の中から、誰かの掠れた呟きが漏れた。その変化はあまりにも微細で、極度の緊張が見せた幻覚だと疑いたくなるレベルだったからだ。「いや、気のせいじゃない!確かに広がっているぞ!」普段は厳格な老教授が、額に滲んだ汗を拭うことすら忘れ、ガラスケースに顔がくっつきそうなほど身を乗り出した。「まだだ。もう少し時間をかけて観察しよう」慎重派の学者がそれを制し、さらに経過を見守る。それから三十分後。黒い塊は、明らかに一回りほど外側へ広がり、肉眼でもはっきりと分かるほど柔らかくほぐれていた。「間違いない……!このアプローチは正しいぞ!!」「やった……っ!」その瞬間、張り詰めていたラボの空気が弾け、小さな歓声が巻き起こった。プレッシャーに耐え続けていた何人かの研究者は、感極まって目頭を赤くしている。皆の歓喜を背に受けながら、実花もまた、これまで張り詰めていた神経をそっと緩めた。自信に満ちた態度で提案したとはいえ、内心では彼女も気が気ではなかったのだ。これほど重要で、取り返しのつかない遺物を前にしてプレッシャーを感じないはずがない。彼女が背負っていた重圧は、ここにいる誰よりも大きかった。実花は短く息を吐いて心を落ち着かせると、歓喜に沸く面々に向かって静かに微笑んだ。「方向性が正しいと証明されましたね。このまま現在の湿度を保った状態で一晩静置し、明日の朝、改めて状態を確認してから……いよいよ本格的な剥離作業に入ります」時刻はすでに深夜を回っていた。誰もが極限の疲労を抱えている。「浅見顧問、本当にご苦労様でした。明日は厳しい戦いになりますから、今夜はどうかゆっくりお休みください」チームの責任者が、心からの敬意を込めて実花を労った。彼女の圧倒的な専門知識と、逃げずに責任を背負う覚悟。それは、ここにいるすべての専門家たちから「ただの若い娘」ではなく「真のプロフェッショナル」として認められた瞬間でもあった。「ありがとうございます。それでは、お先に失礼します」実花が軽く頭を下げ、
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第215話

方針が決まると、責任者はすぐさま発掘チームの責任者を通じて、デマを流した実習生たちを密かに呼び出し、厳しい雷を落とした。投稿の即時削除を命じるとともに、「浅見実花は白川長官が直々に招き入れた特別顧問であり、コネなどではない」という事実を叩き込み、徹底したかん口令を敷いた。迅速な火消し対応により、ネット上の騒ぎは徐々に沈静化していくように見えた。――だが。誰も予想していなかった。深夜三時、和真が投稿したたった一つのポストが、消えかけていた火種にガソリンを注ぎ込むことになろうとは。和真の公式アカウントは、こう声明を出したのだ。「私の妻・実花はまだ未熟なところがありますが、国のために尽くしたいという純粋な思いからの行動でした。私が彼女に代わって皆様に深くお詫び申し上げます。どうか、彼女の真摯な熱意に免じてお許しください」この投稿が、最悪の決定打となった。表向きは「妻を庇う」体裁をとったこの謝罪文は、事実上、実花が「コネを使ってプロジェクトに潜り込んだ」という疑惑を、身内の立場から完全に認めたも同然だったからだ。鎮火しかけていたネット民たちは、再び爆発した。【ほら見ろ!旦那が直々に謝罪したってことは、コネ参加は確定じゃねぇか!】【瀬戸社長、優しすぎでしょ。妻のこんな不祥事の泥を被って謝罪するなんて、愛が深すぎる……】あのバカ男……!嘉乃は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。必死の思いで鎮火させた炎上を、まさか当の夫が――いや、すでに離婚している元夫が再点火するとは夢にも思わなかったのだ。実花を国家の重要プロジェクトに招き入れるにあたり、当然ながら嘉乃は彼女の身辺調査を徹底的に行っていた。そのため、二人がすでに離婚しているという事実も嘉乃は把握している。自分の承認欲求のために、元妻を泥船に乗せて火をつけるなんてね……呆れて物も言えないわ。嘉乃は呆れ果てて首を横に振ると、傍に控えていた秘書を呼び寄せ、冷ややかな声で次の指示を下した。その頃、和真はまだ瀬戸グループ本社の社長室にいた。「ふぅ……」彼は満足げなため息をつき、深く背もたれに体を預けた。これまで仕事のために深夜まで残業することはあっても、実花のためにここまで身を粉にして動いたのは初めてのことだ。和真の胸の奥には今、甘く濃厚な幸福感と自己陶酔が満ち溢れて
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第216話

「浅見顧問は現在、前代未聞の歴史的遺物の修復という極めて重要な局面に挑んでおられます。彼女はネット上の騒ぎに一切気づいておりません。我々は、この極度の集中を要する作業において、いかなるものにも彼女の邪魔をさせたくありません。『いかなるもの』にも、です」秘書の言葉には、明確な警告が込められていた。「これ以上、余計な真似をして彼女の邪魔をするな」という、強烈な念押しだった。通話が切れた後。和真は全身の糸が切れた操り人形のように、革張りのチェアに深く沈み込んだ。そのまま、長い間ピクリとも動くことができなかった。目の前のモニターには、先ほど自分が意気揚々と投稿した、実花に代わって世間に向けた「謝罪文」がまだ表示されている。リポストと「いいね」の数は今この瞬間も指数関数的に伸び続け、コメント欄には【本当に理想の夫婦ですね】【こんなに愛されて、奥様は幸せ者だ】といった、二人の愛を称賛する的外れな言葉が溢れ返っていた。先ほどまで彼を気持ちよく酔わせていたその称賛の嵐が、今は自分を嘲笑う鋭い刃のように感じられる。俺は……なんて滑稽なピエロなんだ。もはや自分を誤魔化すことすらできなかった。和真は小刻みに震える指でマウスを握り、自らの手でその投稿の削除ボタンを押した。彼が自宅である観海レジデンスに帰り着いた頃には、すでに深夜をとうに回っていた。しかし和真に眠気など一切なかった。彼は上着を脱ぎ捨てるなり、寝室、書斎、そして納戸と、まるで何かに憑かれたように家中をひっくり返して探し物をし始めた。バタン、ガシャンと物々しい音が響き、その騒ぎに驚いた家政婦の佐藤さんが、慌ててカーディガンを羽織って駆けつけてきた。「和真様、こんな夜更けに一体どうされたんですか?何かお探し物でしたら、私がお手伝いいたしますが……」「……いや、いい。休んでてくれ。ただ、実花が残していった物を探しているだけだ」和真の声は、ひどく掠れ、疲労に満ちていた。その言葉を聞いて、佐藤さんは小さくため息をこぼした。「実花様が出て行かれた時、お持ちになったのは小さなスーツケース一つだけでしたよ。ですから、この家にはもうあの方の私物など、ほとんど残っておりません」……本当に、今頃になってようやく、あの方が完全にこの家からいなくなったことに気づかれたの
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第217話

その日の夜、公式アカウントは再び新たな発表を行った。【浅見実花顧問に国家特別功労賞を授与し、特別報奨金として200万円を贈呈する】この発表により、実花への評価は完全な手のひら返しで称賛の嵐に変わった。その一方で、無惨に崩壊したのは和真と瀬戸グループの信用である。【愛妻家で一途な社長キャラとか言って、自分の嫁がどんな凄い仕事してるかすら知らなかったのかよ。恥ずかしすぎるだろ】【そもそも、あの夫婦愛のアピール全部演技だったんじゃないの?金持ちの政略結婚に真実の愛なんてあるわけないし】【浅見先生、デマを信じて叩いてマジでごめんなさい!あなたは本物の天才です!】この猛烈な逆風を受け、瀬戸グループの株価は音を立てて暴落していった。一方、発掘現場にいる沙耶は、恐怖で完全に顔を引きつらせていた。まさか、あの実花がこんなに凄まじい地位にいるなんて……!彼女は心底安堵した。自分が直接手を下さず、裏で他の実習生を煽ってデマを流させておいて本当に良かったと。現に、あの嘘の告発ポストをした学生たちは、今日からパッタリと現場から姿を消しているのだ。だが、沙耶自身もプロジェクト内での居場所を完全に失いつつあった。冷静になったスタッフたちが過去の彼女の言動を思い返せば、あの「健気な妹」のアピールが、すべて実花を貶めるための意地悪な誘導だったことは一目瞭然だからだ。周囲の態度は、目に見えて冷たくなっていた。「沙耶ちゃんのこと、真面目でいい子だと思ってたのに……全部あざとい演技だったのね」「あの子のSNS見た?現場の写真を勝手にアップして、さも自分が重大な発見に関わってるみたいに匂わせてたんだよ。ただの承認欲求の塊じゃん」「あはは、メッキはいつか剥がれるってことだね。どんだけ猫被ったって、浅見顧問の足元にも及ばないくせに」冷ややかな視線と陰口に晒され、沙耶は針の筵に座らされているような強烈な屈辱を味わっていた。浅見顧問……?その時、沙耶の脳裏にある記憶がフラッシュバックした。以前、自分が修復チームで実習をしていた時にも、確かに「浅見顧問」と呼ばれる人物がいた。その時、遠目から見た彼女の横顔に、ひどく見覚えがあると感じたのを思い出す。今思えば……あれは実花だったんじゃないの!?そういえば以前、実花が白々しくも「実習について教えてほしい
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第218話

その日の夜、和真は高級会員制クラブのVIPルームで、昔なじみの友人たちと酒を飲んでいた。そこにいるのは、以前和真が実花を連れて行った集まりにいたメンバーばかりである。あの時の彼らは、実花を「つまらない女」と露骨に見下し、こぞって高城凛を擁護しては実花を冷笑していた。それが今や、事態はドラマよりも劇的な大逆転を遂げている。凛は海浜市のセレブ界隈から完全に姿を消し、あれほど彼女を溺愛していたはずの兄・駿大すら、今では妹の話題を一切口にしなくなった。対照的に、彼らが見下して笑い者にしていた実花は、今や誰もがひれ伏すほどの遥か高みへと登り詰めてしまったのだ。実花のニュースが飛び交う中、VIPルームの空気はひどく気まずく、重苦しい沈黙が落ちていた。やがて、和真と幼馴染の御曹司の一人が、探るような作り笑いを浮かべて口火を切った。「いやあ、実花さん、まさかあんなに凄い人だったなんてな!和真の経営手腕に加えて、あんな国宝級の奥さんがついてるんだから、瀬戸家はもう完全に安泰だな」以前、実花を仲間外れにして嘲笑っていたことなど、まるで記憶にないかのような見事な手のひら返しである。それに便乗するように、別の男も調子よく身を乗り出した。「そうそう!こないだの集まりじゃ、実花さんすぐに帰っちゃっただろ?あれ、俺たちがちゃんと楽しませてあげられなかったからだよな。マジで反省してるよ。どう?今度改めて、俺たち主催で実花さんの慰労と祝賀を兼ねたパーティーでもやらないか?「うちの親父なんて、『和真くんを見習え!経営の手腕もさることながら、あんな素晴らしい奥さんを射止めるなんて完璧じゃないか!』って俺に説教してくるんだぜ?」友人たちの底抜けに明るい賞賛と媚びを浴びながら、和真はクリスタルグラスを握りしめ、顔面を土気色にしていた。彼らだけではない。今や世間の誰もが、和真と実花を「理想の夫婦」だと持て囃している。だが、和真自身だけが知っているのだ。これほどまでに素晴らしく、価値のある実花は――もう、自分の妻ではないということを。「……実花は、ああいう騒がしい場が好きじゃないんだ」和真はひどく乾いた声で、なんとかその一言を絞り出した。かつては、妻が自分たちの華やかな輪に馴染めないのを見下し、参加を断るための都合のいい言い訳として使っていた言葉だ。
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第219話

「素晴らしいわ!実に素晴らしい心がけね!」嘉乃は手放しで褒め称えた。「もちろん、私としてもあなたとは長期的な専属契約を結びたいと思っていたところなの。だから、それはあなたからのお願いには入らないわ。他に望みはないかしら?原則の範囲内であれば、私の権限で最大限の便宜を図るわよ」国家プロジェクトのトップからの、事実上の白紙小切手。並の人間であれば、莫大な地位や名誉、あるいはさらなる金銭を要求するだろう。だが、実花はスマートフォンを握りしめ、嘉乃の予想を完全に裏切る条件を口にした。「二十年前の、ある民事トラブルに関する警察の通報記録を閲覧させてほしいのです」実花という人間は、行動を起こす前に必ずすべての道筋を計算し尽くす。一歩踏み出すごとにあらゆる可能性を想定し、最悪の事態に備えて何重ものセーフティネットを張っておくのが彼女のやり方だ。亡き養母――由紀子の死の真相を探るため、当初は黒田家に潜入して少しずつ証拠をかき集めるつもりだった。それが無理なら、湊に助けを求める。それでも駄目なら、最悪の場合……元夫の和真や、冴島夜行を利用することすら辞さない覚悟だった。たとえ彼らに関わることで自分がどれほど甚大な代償を払うことになろうとも、真実に辿り着くための「手段」であることに変わりはないのだから。誰にも頼れず、たった一人で孤独に生き抜いてきた日々。彼女はそうやって何万通りもの対策を練り、その一つ一つに伴う痛みを飲み込んで、今まであらゆる困難を乗り越えてきたのだ。だが、他人に縋るよりも自分の力で切り開くのが一番確実だ。目の前に転がり込んできたこの国家からの特権は、実花にとってこれ以上ない最高のカードだった。要求を口にした瞬間、激しい動悸が胸を打つ。長年追い求め続けてきた真実の尻尾を、ようやく掴みかけている。黒田家は、一体どんな秘密を隠しているの……?嘉乃の動きは驚くほど迅速だった。彼女の手配により、わずか三十分後には、二十年前の養母に関する警察の記録がスキャンされ、実花のスマートフォンに送信されてきた。実花は深く息を吸い込み、震える指でファイルを開いた。画面をスクロールするにつれ、彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。……そういうことだったの。ああ、そういうこと!ギリッと奥歯を噛み締める実花の目から、堪え
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第220話

薫は言葉を区切り、苦渋に満ちた顔で首を振った。「相手が自分から警察に出頭して、自白でもしない限り……天地がひっくり返っても無理ね」その言葉を聞いた瞬間、実花はハッと息を呑んだ。最初から分かっていた答えだ。それでも、法律の専門家からきっぱりと断言された現実は、あまりにも重く冷酷だった。打ちひしがれる実花を見て、薫が慰めの言葉をかけようとしたその時、実花は無理やり口角を引き上げて笑みを作った。「教えてくれてありがとう、薫。……もう少し時間が経って、心が落ち着いたら、また一緒に飲みに行こうね」そう言って事務所を後にする実花の細い背中は、今にも倒れてしまいそうに頼りなく揺れていた。その痛々しい後ろ姿を見送りながら、薫は複雑な思いを胸に抱く。この世の中、誰もが重い荷物を背負って生きてるのね……-黒田家の本邸。沙耶は実花よりも一足先に、ほうほうの体で逃げ帰っていた。国家プロジェクトの現場で完全に孤立し、周囲からの冷遇と徹底した仲間外れに耐えきれなくなったのだ。「どうして帰ってきたんだ?」書斎で彼女を出迎えた征二郎の声に、かつての甘やかすような響きや称賛の色は一切なかった。「実花がプロジェクトであれほど重要なポストに就いているとは……しかも、昨日今日の話ではないのだろう?あのように重大な事実を、なぜもっと早く私に報告しなかった?」「お祖父様、それは私のせいではありませんわ……」沙耶は瞳の奥で燃え盛る嫉妬の炎を必死に押し殺し、いかにも可哀想な被害者を装って涙ぐんだ。「実花さんがわざと隠していたんです。あの人は用心深くて、私たちのことを本当の家族だなんて少しも思っていません。私が現場で雑用のような下働きばかりさせられていた時も、実花さんはあの地位にいて権力を持っていたのに、黒田家のために便宜を図ってくれることなんて一度もありませんでした」その言葉を聞き、征二郎は僅かに心を波立たせた。実花がすぐに黒田家を受け入れられないのは仕方がないと理解してはいるものの、これほど大きな隠し事をされていたという事実は、彼の胸に小さな蟠りを生じさせていた。自分の言葉が響いたのを見て取り、沙耶はさらに畳み掛ける。「ご存知ありませんの?今、実花さんは世間で飛ぶ鳥を落とす勢いです。そのおこぼれで瀬戸家まで甘い汁を吸っているというの
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