LOGIN「浅見顧問は現在、前代未聞の歴史的遺物の修復という極めて重要な局面に挑んでおられます。彼女はネット上の騒ぎに一切気づいておりません。我々は、この極度の集中を要する作業において、いかなるものにも彼女の邪魔をさせたくありません。『いかなるもの』にも、です」秘書の言葉には、明確な警告が込められていた。「これ以上、余計な真似をして彼女の邪魔をするな」という、強烈な念押しだった。通話が切れた後。和真は全身の糸が切れた操り人形のように、革張りのチェアに深く沈み込んだ。そのまま、長い間ピクリとも動くことができなかった。目の前のモニターには、先ほど自分が意気揚々と投稿した、実花に代わって世間に向けた「謝罪文」がまだ表示されている。リポストと「いいね」の数は今この瞬間も指数関数的に伸び続け、コメント欄には【本当に理想の夫婦ですね】【こんなに愛されて、奥様は幸せ者だ】といった、二人の愛を称賛する的外れな言葉が溢れ返っていた。先ほどまで彼を気持ちよく酔わせていたその称賛の嵐が、今は自分を嘲笑う鋭い刃のように感じられる。俺は……なんて滑稽なピエロなんだ。もはや自分を誤魔化すことすらできなかった。和真は小刻みに震える指でマウスを握り、自らの手でその投稿の削除ボタンを押した。彼が自宅である観海レジデンスに帰り着いた頃には、すでに深夜をとうに回っていた。しかし和真に眠気など一切なかった。彼は上着を脱ぎ捨てるなり、寝室、書斎、そして納戸と、まるで何かに憑かれたように家中をひっくり返して探し物をし始めた。バタン、ガシャンと物々しい音が響き、その騒ぎに驚いた家政婦の佐藤さんが、慌ててカーディガンを羽織って駆けつけてきた。「和真様、こんな夜更けに一体どうされたんですか?何かお探し物でしたら、私がお手伝いいたしますが……」「……いや、いい。休んでてくれ。ただ、実花が残していった物を探しているだけだ」和真の声は、ひどく掠れ、疲労に満ちていた。その言葉を聞いて、佐藤さんは小さくため息をこぼした。「実花様が出て行かれた時、お持ちになったのは小さなスーツケース一つだけでしたよ。ですから、この家にはもうあの方の私物など、ほとんど残っておりません」……本当に、今頃になってようやく、あの方が完全にこの家からいなくなったことに気づかれたの
方針が決まると、責任者はすぐさま発掘チームの責任者を通じて、デマを流した実習生たちを密かに呼び出し、厳しい雷を落とした。投稿の即時削除を命じるとともに、「浅見実花は白川長官が直々に招き入れた特別顧問であり、コネなどではない」という事実を叩き込み、徹底したかん口令を敷いた。迅速な火消し対応により、ネット上の騒ぎは徐々に沈静化していくように見えた。――だが。誰も予想していなかった。深夜三時、和真が投稿したたった一つのポストが、消えかけていた火種にガソリンを注ぎ込むことになろうとは。和真の公式アカウントは、こう声明を出したのだ。「私の妻・実花はまだ未熟なところがありますが、国のために尽くしたいという純粋な思いからの行動でした。私が彼女に代わって皆様に深くお詫び申し上げます。どうか、彼女の真摯な熱意に免じてお許しください」この投稿が、最悪の決定打となった。表向きは「妻を庇う」体裁をとったこの謝罪文は、事実上、実花が「コネを使ってプロジェクトに潜り込んだ」という疑惑を、身内の立場から完全に認めたも同然だったからだ。鎮火しかけていたネット民たちは、再び爆発した。【ほら見ろ!旦那が直々に謝罪したってことは、コネ参加は確定じゃねぇか!】【瀬戸社長、優しすぎでしょ。妻のこんな不祥事の泥を被って謝罪するなんて、愛が深すぎる……】あのバカ男……!嘉乃は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。必死の思いで鎮火させた炎上を、まさか当の夫が――いや、すでに離婚している元夫が再点火するとは夢にも思わなかったのだ。実花を国家の重要プロジェクトに招き入れるにあたり、当然ながら嘉乃は彼女の身辺調査を徹底的に行っていた。そのため、二人がすでに離婚しているという事実も嘉乃は把握している。自分の承認欲求のために、元妻を泥船に乗せて火をつけるなんてね……呆れて物も言えないわ。嘉乃は呆れ果てて首を横に振ると、傍に控えていた秘書を呼び寄せ、冷ややかな声で次の指示を下した。その頃、和真はまだ瀬戸グループ本社の社長室にいた。「ふぅ……」彼は満足げなため息をつき、深く背もたれに体を預けた。これまで仕事のために深夜まで残業することはあっても、実花のためにここまで身を粉にして動いたのは初めてのことだ。和真の胸の奥には今、甘く濃厚な幸福感と自己陶酔が満ち溢れて
時計の針が刻一刻と進む中、ラボ内には静かな呼吸音だけが響いている。やがて、ケース内の湿度が一定の数値に達した時だった。黒い塊が、ほんのわずかに震えたように見え――そして、微かに柔らかくほぐれたのだ。「……私の、気のせいか?」集団の中から、誰かの掠れた呟きが漏れた。その変化はあまりにも微細で、極度の緊張が見せた幻覚だと疑いたくなるレベルだったからだ。「いや、気のせいじゃない!確かに広がっているぞ!」普段は厳格な老教授が、額に滲んだ汗を拭うことすら忘れ、ガラスケースに顔がくっつきそうなほど身を乗り出した。「まだだ。もう少し時間をかけて観察しよう」慎重派の学者がそれを制し、さらに経過を見守る。それから三十分後。黒い塊は、明らかに一回りほど外側へ広がり、肉眼でもはっきりと分かるほど柔らかくほぐれていた。「間違いない……!このアプローチは正しいぞ!!」「やった……っ!」その瞬間、張り詰めていたラボの空気が弾け、小さな歓声が巻き起こった。プレッシャーに耐え続けていた何人かの研究者は、感極まって目頭を赤くしている。皆の歓喜を背に受けながら、実花もまた、これまで張り詰めていた神経をそっと緩めた。自信に満ちた態度で提案したとはいえ、内心では彼女も気が気ではなかったのだ。これほど重要で、取り返しのつかない遺物を前にしてプレッシャーを感じないはずがない。彼女が背負っていた重圧は、ここにいる誰よりも大きかった。実花は短く息を吐いて心を落ち着かせると、歓喜に沸く面々に向かって静かに微笑んだ。「方向性が正しいと証明されましたね。このまま現在の湿度を保った状態で一晩静置し、明日の朝、改めて状態を確認してから……いよいよ本格的な剥離作業に入ります」時刻はすでに深夜を回っていた。誰もが極限の疲労を抱えている。「浅見顧問、本当にご苦労様でした。明日は厳しい戦いになりますから、今夜はどうかゆっくりお休みください」チームの責任者が、心からの敬意を込めて実花を労った。彼女の圧倒的な専門知識と、逃げずに責任を背負う覚悟。それは、ここにいるすべての専門家たちから「ただの若い娘」ではなく「真のプロフェッショナル」として認められた瞬間でもあった。「ありがとうございます。それでは、お先に失礼します」実花が軽く頭を下げ、
「だめだ……下手に触れば、完全に崩壊してしまうぞ」「かといって、このまま放置するわけにもいかない」名だたる専門家たちが実験台を囲み、疲労困憊の表情で頭を抱えていた。彼らはすでに丸一日、この問題に付きっきりで一睡もしていない。実花もまた、現場に到着するなりこのラボに直行し、ずっと彼らと共に解決策を議論していた。彼女の専門は古美術の修復であり、考古学そのものの専門家ではない。しかし、彼女には極限まで劣化してカビが生え、炭化寸前になった古文書や古い楮紙を修復してきた圧倒的な経験と技術があった。実花はガラス越しに、その黒い塊をじっと見つめた。触った時の感触や柔らかさは違うけれど……あの独特の繊維の崩れ方、私が以前修復した炭化楮紙の状態にすごくよく似ているわ。沈黙が支配するラボの中で、実花は静かに、しかし凛とした声で口を開いた。「もし他に手立てがないのでしたら……物理的剥離を試してみるのはいかがでしょうか?」その言葉に、専門家たちが一斉に顔を上げる。「あの黒い塊の劣化状態は、私が過去に扱ってきた極度に炭化した古い楮紙の組織構造に非常に似ています。もしかすると、私の修復技術と原理を応用すれば、形を崩さずに表面の層を剥離できるかもしれません」その提案に、ラボの中が一瞬、水を打ったように静まり返った。最初は、数人のベテラン教授たちが眉をひそめ、難色を示した。無理もない。材質すら判明していない未知の遺物に対して、古美術修復の技術をいきなり試すなど、あまりにもリスクが高すぎる。もし方法が間違っていて、このかけがえのない歴史的遺産が完全に崩壊してしまったら、一体誰が責任を取れるというのか。しかし、実花が論理的かつ具体的なプロセスを説明し始めると、彼らの表情は徐々に変わっていった。「いきなり触るわけではありません。まずは恒温環境のまま、ケース内の湿度を微細に上げていきます。もしその黒い塊が、水分を吸ってわずかでも膨張したり、柔らかくなる兆候を見せた場合、その材質は紙に近い植物繊維である可能性が高い。つまり、私の修復アプローチが通用するという証明になります。逆に何の反応も示さなければ、その時点ですぐに実験を中止します。これなら、遺物を傷つけるリスクを最小限に抑えられるはずです」教授たちは顔を見合わせ、その目には疑念か
スタッフたちの顔色が変わったのを見て、沙耶は内心でほくそ笑みながらも、表面上は慌てたように両手を振った。「あっ、誤解しないでください!私がこんな話をしたのは、どうか皆様に私の顔に免じて、少しだけ姉を大目に見ていただきたいからなんです。姉は有名な先生に師事していて、絵がとっても得意なんですよ。きっと現場の記録作業などで、皆様のお役に立てるはずですから……!」『有名な先生に師事している』。その言葉は、沙耶が先ほど語った「専属運転手付きでやってくる温室育ちのお嬢様」という人物像と組み合わさることで、最悪のニュアンスを生み出した。つまり、「実力もないのに強力なコネを使ってこのプロジェクトに遊び半分で潜り込んだ」という決定的なアピールである。その言葉を聞いた瞬間、気性の荒い博士課程の大学院生が怒りに顔を真っ赤にして吐き捨てた。「だったら、その足でとっとと帰ってもらえ!俺たちの現場には、そんなお飾りのお姫様を接待してる余裕なんてねぇんだよ!」翌日の夜。実花が発掘のベースキャンプに到着した時、その姿は最悪のタイミングで野次馬の目に留まってしまった。彼女が降り立ったのは、二千万円は下らないVIP仕様の最高級ワンボックスカー。しかも、普段は厳しいはずの警備員が、彼女の顔を見るなり恭しく頭を下げてゲートを通過させたのだ。その光景は、事前に沙耶が語っていた「専属運転手付きでやってくる温室育ちの姉」という人物像と見事に一致していた。現場で泥にまみれて働いている学生の一人がこれを目撃し、強烈な不公平感と嫉妬に駆られる。彼はこっそりとスマートフォンで実花の姿を盗撮し、悪意たっぷりの尾ヒレをつけて内輪のグループチャットに拡散した。実花という最悪の比較対象が現れたことで、沙耶の株は現場でさらに上がることになった。「同じ姉妹なのに、どうしてこうも違うんだ?」「妹の沙耶ちゃんはあんなに気が利いて真面目なのに、姉はコネ頼りのお姫様かよ」周囲の同情と称賛を集めながら、沙耶は裏でさらに手を引いていた。発掘現場のキャンプ内だけで燻っていた不満は、沙耶が匿名アカウントを使って巧妙に煽ったことで、瞬く間にSNSへと延焼していく。【バックに強力なコネがあるっていいよね。国の重要プロジェクトすら、お嬢様の箔付けの道具にできるんだから。
和真の足がピタリと止まる。彼は振り返り、射抜くような冷ややかな視線を沙耶に向けた。「……どういう意味だ?」沙耶は口元を上品に手で覆い、ひどく心配そうな顔を作ってため息をついた。「うちのメイドから聞いたんですけれど……実花さん、パーティーの翌朝、朝の五時頃にひどく慌てた様子でこっそり帰宅したそうですのよ。しかも、首元には生々しい赤や青の痕がちらちらと見えていたとか……本人は何もおっしゃらないけれど、同じ黒田の家で暮らす身として、何かのトラブルに巻き込まれたのではないかと本当に心配で……」さあ、どうする?男なら、愛する女が別の男と一晩を共にしたと知れば、怒り狂うはずよ。沙耶は心の中で暗い嘲笑を浮かべ、和真が逆上して暴れ出すのを今か今かと待ち構えた。ところが――和真の反応は、沙耶の予想とはまるで違っていた。朝の五時……首元の痕……!和真はハッと息を呑んだ。その瞬間、彼の頭の中で全てのパズルのピースが完璧に噛み合ったのだ。僕が彼女を抱き潰し、眠りに落ちた時間。そして、僕自身が熱に浮かされて無数につけてしまったあのキスマーク。何もかもが、あの夜の自分の記憶と恐ろしいほど一致している。間違いない……!あの夜、僕の腕の中で泣いてすがってきたのは、やっぱり実花だったんだ!和真の心に残っていた最後の一ミリの疑念すらも完全に消え去った。彼の瞳は、怒りどころか、狂おしいほどの愛しさと甘い熱を帯びてとろけるように和らいでいく。しかし、和真はすぐに沙耶を鋭く睨みつけた。この女、僕と実花との神聖な愛の夜を、まるで実花が誰かとふしだらな真似をしたかのように言いふらしているのか?和真は不快感を隠すことなく眉をひそめた。「同じ家族でありながら、身内のプライベートを勝手に詮索して、あることないこと下世話な妄想を膨らませるなんて、随分と悪趣味だな。君には何か別の思惑があるんじゃないか?」「え……?」思いがけない反撃に、沙耶の仮面がピシリとひび割れる。和真はフッと冷たく鼻で笑った。「それに、これは僕たち夫婦の寝室の事情だ。部外者である君が口を挟むことじゃない。二度と実花を侮辱するな」そう吐き捨てると、和真は颯爽と踵を返し、上機嫌で廊下の奥へと消えていった。残された沙耶は、その場で完全に硬直していた。…………は?
「まだ起きていらしたんですか?」心配そうに顔を覗かせた佐藤さんに、実花は何か答えようとしたが、喉が焼けるように痛んで声にならない。かろうじて短く息を漏らすのが精一杯だった。近寄ってきた佐藤さんが実花の額に手を触れ、息を呑んだ。「なんて熱……!ひどい熱ですよ」「少し、雨に降られたから……」実花は力なく微笑んだ。「薬は、もう飲んだわ」「そんな場合じゃありません!こんなに熱くては大変なことになります」佐藤さんは慌ててスマートフォンを取り出した。「和真様に連絡します。すぐに戻ってきていただかないと」一度目のコール。誰も出ない。二度目のコール。やはり応答はなかった。「もう
胸の奥がひどく重くなるのを感じ、実花は深く息を吸い込んだ。次に、和真のスケジュール管理ツールを開く。画面に並んでいたのは、目を疑うような記録の羅列だった。【凛:人間ドック】【凛:航空券・ホテル手配】【凛:誕生日】【凛:……】実花に関する記述を探そうと画面をスクロールし続け、ようやく最下部で見つけたのは、三年前に入籍した日の短いメモだけだった。実花は背もたれに身を預け、冷え切った指先を見つめた。感情を無理やり押し殺し、別のフォルダへと手を伸ばす。和真が最近購入した不動産、株式の取引履歴――専門的な数字の羅列は完全には理解できなかったが、構わなかった。見つけ
夜、七時半。瀬戸家の邸宅にあるキッチンは、温かな湯気に包まれていた。白身魚の蒸し物が湯を上げ、牛肉の煮込みが照りよく仕上がっていく。綺麗に切り揃えられた豆腐が、コンロの上の出汁のなかでことことと心地よい音を立てていた。そこへ、リビングのドアを開けて和真が帰ってきた。ダークカラーのチェスターコートに、仕立ての良いスーツ。首元のネクタイは少しだけ緩められている。夕食の準備をしている実花の姿を目にして、彼の鋭い目元がほんのわずかに和らいだ。実花はキッチンで手を動かしたままだ。帰宅の気配に気づいても、振り返りもせず、作業の手を止めることもしない。以前の彼女なら、和真が時
場内は水を打ったような静寂に包まれた。和真の顔が瞬時に険しくなり、周囲の参列者たちは思わず息を呑む。言葉を失った凛は、目に涙を溜めていかにも「悲劇のヒロイン」といった体で震えていた。和真は結局、無言のまま焼香台へと進んだ。遺影の前に立つ彼の背筋はあくまで真っ直ぐだったが、どういうわけか、胸の奥が妙に締め付けられるような感覚に襲われていた。実花は最後まで、一度も彼の方を見ようとはしなかった。香炉に線香を立て、和真は振り返る。床に膝をつく実花の細い背中を見つめ、迷った末にようやく言葉を絞り出した。「実花……僕は、ここに残るよ」「和真くん……っ」その時、凛が不意に額を押さ







