Tous les chapitres de : Chapitre 281 - Chapitre 290

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第281話

「なら聞くが、彼女の体にあるホクロやアザの位置、あるいは当時身につけていた物など……証明できるものは何かあるのか?」湊の冷徹な問い詰めに、百合は言葉を詰まらせ、あからさまに動揺して目を泳がせた。全身全霊を建三に捧げて生きてきた百合が、自分の腹を痛めて産んだ娘ですら、その手で育てたことなどあるはずがなかった。百合の価値観において、子育てとは「女を老けさせる忌むべき労働」に過ぎなかったのだ。愛する建三の前に、やつれて生活感の滲んだ姿など絶対に晒したくはない。だからこそ、娘が産まれた時も、機嫌が良い時に少しあやす程度だった。赤ん坊がひとたび泣き喚いたり、オムツの交換が必要になったりすれば、すぐさま乳母の園田澄江(そのだ すみえ)に放り投げ、自分は高価なハンドクリームや美容液を塗りたくるために部屋へと引きこもっていたのだ。――そんな過去を思い出し、百合はふと湊へと複雑な視線を向けた。実を言えば、湊が産まれた最初の一年間だけは、百合も自らの手で彼を育てていた。初めて産んだ息子だった。雪のように白く、柔らかな小さな塊を見つめていた時、彼女の心にもほんのわずかな母性というものが芽生えていたのだ。夜中に起きてミルクを飲ませ、オムツを替えるという、眠れぬ夜を過ごした時期も確かにあった。けれど、やがて建三が彼女を求め始めた。愛する建三と逢瀬を重ねるため、百合は少しずつ湊の世話を疎かにしていった。ある日のこと。百合はまだ一歳にも満たない湊をベッドに放置し、電話越しに建三と甘い愛の言葉を交わしていた。しかし、ふと視線をやると、ベッドの上の小さな湊が、底知れない漆黒の瞳でじっと自分を見つめていたのだ。その冷たい視線に居心地の悪さを覚えた百合は――「見なければ気にならない」という身勝手な理由だけで、厚手のコートを赤ん坊の頭の上から無造作に被せつけた。そのまま、三時間も放置した。小さな赤ん坊は、声を上げることすらしなかった。もしもあの時、夫である幸四郎が「息子を見たい」と突然帰宅しなければ、百合が慌ててコートを剥ぎ取ることもなかっただろう。その時、小さな湊は窒息しかけており、呼吸はすでに風前の灯火だった。同じような虐待にも似た放置は、一度や二度ではなかった。やがて、わずか一歳にしかならない赤ん坊の湊は、母親である百合に対して一切の甘えを
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第282話

そもそも、湊があの百合と同じ車に乗るはずもなく、二台の車に分乗することになったのだ。出発する直前、百合は実花の手を縋り付くように握りしめ、「生き別れの娘と水入らずで乗りたい」と喚き散らしていた。それだけにとどまらず、湊を忌々しそうに睨みつけ、口を極めて罵倒したのだ。「この忌み子が!疫病神!全部あんたのせいよ。あんたさえ生まれなければ、私たちがこんなふうに引き裂かれることもなかったのに!父親が早死にしたのも、あのジジイが病院でくたばりかけてるのも、全部あんたの報いよ!」浴びせられる汚らわしい呪詛の数々。それは鋭利な針のように、湊の心へと容赦なく突き刺さっているはずだった。だが、湊は氷のように冷徹な瞳のまま、一言も返さず沈黙を貫いていた。百合は、愛人である建三に対してはどこまでも甲斐甲斐しく愛情を注ぐくせに、実の息子である湊にだけは、抑えきれない狂気と暴力性を剥き出しにして当たり散らす。自分が今こうして不自由のない暮らしを享受し、無事に生き永らえていること自体、湊がわずかに残した温情のおかげだということなど、この女の頭には微塵もないのだ。理不尽に罵倒されながらも、痛みに慣れきってしまったかのように無言で耐える湊。その痛々しい姿を目の当たりにした瞬間、実花の胸は激しく締め付けられ、鋭い痛みが全身を駆け巡った。我慢の限界だった。実花は表情を一変させると、握られていた百合の手を激しく振り払った。その凛とした瞳には、怒りの炎が宿っていた。「あなたに、彼を侮辱する資格なんてありません。湊は疫病神なんかじゃないわ!過去に何があったのかは知りません。でも……たとえ母親であるあなたが愛さなくとも、この人を愛してくれる人は絶対にいます。――湊は、愛されるに値する人だからです!」毅然と言い放たれた言葉に、百合は顔を真っ赤にしたり青ざめさせたりしながら、怒りと屈辱で言葉を失った。その瞬間。湊の瞳の奥に渦巻いていた暗澹たる陰鬱が、潮が引くように消え去った。実花は、一秒の躊躇いもなく湊を選んでくれたのだ。後部座席に並んで座る実花と湊の間には、重い沈黙が横たわっていた。それぞれが胸の内に複雑な思いを抱え、言葉を失っている。運転席の山崎は、何事も起きていないかのような完璧なポーカーフェイスでハンドルを握ってい
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第283話

コール音は数回と鳴らず、すぐに繋がった。スピーカーから、低く焦燥感の滲む声が飛び込んでくる。「実花、実花なのか……っ!」ようやく自分から連絡をくれたことに、歓喜を隠しきれない様子だった。「どうしたんだ、僕に会いたくなったのか?」そんな戯言を実花は容赦なく切り捨て、本題を切り出した。「前言っていた、私の本当の両親の話よ。知っていることを教えて」電話の向こうで、和真が困ったように息を吐き出す気配がした。「実花、今どこにいるんだ。迎えに行くよ。まずは顔を見て話そう」一向に核心を話そうとしない元夫の态度に、実花は探るように踏み込んだ。「私には……本当の兄がいるの?」――その問いを投げかけた瞬間。通話の向こう側が、ぴたりと沈黙に包まれた。和真は、否定しなかったのだ。その重すぎる沈黙に、実花と湊の心臓は再び凍りつくように跳ね上がった。「和真、私、もう全部知っているのよ。これ以上隠すつもり?」実花はさらに畳みかけたが、和真はその揺さぶりには乗ってこなかった。「実花、僕を試そうとしないでくれ。本当のことが知りたいなら、僕に会いに来てほしい」受話器の向こうから、甘く懇願するような低い声が漏れる。「安心して。君の嫌がるようなことは絶対にしない。ただ……もう一度だけでいいから、二人きりで話すチャンスをくれないか」一方、実花たちが慌ただしく飛び出していった後の篠宮家の本館。静まり返った広大なダイニングで使用人たちが後片付けを進める中、家政婦の一人である澄江は、車輪の音が遠ざかった玄関のほうを落ち着かない様子で見つめていた。その青ざめた顔には、隠しきれない動乱が張り付いている。手が激しく震え、次の瞬間、手にしていた金彩の飾り皿を床へと滑り落としてしまった。甲高い音を立てて陶器の破片が散らばる。「澄江さん、落ち着きなさい」控えていた執事が、低く鋭い声で窘めた。「も、申し訳ございません……っ!」澄江は戦々恐々とした様子で頭を下げ、慌てて破片を拾い集め始めた。しかし、その瞳の奥には拭いようのない恐怖と焦燥が渦巻いていた。高級私立病院の最上階。湊が訪れるとあって、フロア全体はあらかじめ完全に封鎖され、人払いがなされていた。手配されていた専属の医師たちが手際よく準備を進め、実花と百合
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第284話

湊は書類を受け取り、冷ややかな視線を落とした。示されていたのは、白血球の数値がわずかに基準値を上回っているという点だけだった。それも異常値と断定できるほどのものではない。軽い炎症や身体の疲れ、ストレスなどでも容易に変動する範囲内だ。「……分かった」湊は短く頷き、それ以上は何も言わずに書類を山崎へと預けた。篠宮家の広大な屋敷へと戻った時、湊の視界の端に、遠くの中庭で言い争う家政婦の澄江とその娘の姿が映り込んだ。だが、湊は冷淡に一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。澄江とあの娘の折り合いが昔から酷く悪いことは耳にしていたが、湊にとってはどうでもいい他人の家庭事情に過ぎない。気にかける価値すら覚えなかった。一方、湊たちの車列が屋敷の敷地内に入ってきたのを目撃した澄江は、血相を変えて娘の腕を乱暴に引っ張ると、その華奢な身体を物陰へと強引に隠した。「あんた、なんで戻ってきたんだい!篠宮家の屋敷には近づくなって、あれほどきつく言っただろうが!」澄江は周囲を警戒しながら、押し殺した声で激しく娘を罵倒した。吐き出される言葉の端々には、どす黒い嫌悪が滲み出ている。娘は二十代前半。白の清楚な布地のワンピースを身に纏い、豊かな黒髪をさらりと肩へ流していた。その透き通るような清らかな顔立ちを前にしても、澄江の瞳には母親らしい情愛の欠片すら浮かばない。それどころか、骨張った荒れた手で娘の長い髪を容赦なく掴み上げると、万力のような力で引きずり回した。「痛っ……お母さん……っ」痛みに呻く娘を、澄江は蛇のような目つきで睨みつける。「誰に色目を使ってるんだい、この安っぽい女が!髪を束ねろって言っただろう!だらしなく下ろしやがって。母親がここで召使いやってるってのに、自分だけお嬢様にでも化けたつもりかい!?」それだけに飽き足らず、澄江は娘が着ているワンピースの襟元を乱暴に引っ張り、引き裂かんばかりの勢いで罵声を浴びせた。「こんな服さっさと脱ぎ捨てなさい!地味なズボンに穿き替えるんだよ!」痛みに耐えかねて身体を縮こまらせながらも、娘は深く傷ついた様子を見せることもなく、ただ青ざめた唇を震わせていた。物心ついた頃から続く、あまりに日常的な虐待だった。娘はおずおずと小さな鞄から封筒を取り出すと、震える手で差し出した。「お
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第285話

本館へ戻った一行は、度重なる騒動にすっかり体力を奪われ、それぞれ自室へと引き取っていった。湊は百合を離れの小邸宅へと強制的に連れ戻させると、二度と勝手な真似ができないよう、厳重な見張りを配置した。翌朝、東の空が白み始める前のことだった。湊のスマートフォンが震え、病院の主治医から直通の連絡が入った。「篠宮社長、DNA鑑定の緊急解析が完了いたしました。――実花様と百合様の間には、血縁関係は一切認められませんでした。詳細な鑑定報告書につきましては、追って至急お届けいたします」昨日、実花と交わした会話の時点で疑念の大半は晴れていた。だが、こうして医師からの決定的な結果を耳にして、湊の胸を押し潰していた重い鉛が、ようやく完全に消え去った。湊は息を一つ吐き出し、部屋の扉を開けた。するとほぼ同じタイミングで、向かいの部屋の扉が開き、実花が姿を現した。その目元にうっすらと浮かぶ隈が、彼女もまた一睡もできずに夜を明かしたことを雄弁に物語っていた。「……ずいぶん早いな」湊が低く問いかけると、実花は小さく頷いた。「ええ……」実花はそれ以上、言葉を続けなかった。昨夜一晩中、胸の中で渦巻いていた葛藤を湊に打ち明けて、余計な心配をかけたくなかったのだ。ベッドに入って目を閉じても、取り返しのつかない不安ばかりが頭を巡って眠れなかった。「考えたって仕方ないわ、朝になれば結果が分かるんだから」と自分に言い聞かせては、次の瞬間には「湊を昔のように『お兄ちゃん』としてだけ慕っていれば、こんな苦しい思いをしなくて済んだのに」と、自分を責めさいなんでしまう。そんな堂々巡りの思考に囚われているうちに、気づけば夜が明けていたのだ。廊下に響いた足音に気づいて扉を開けてみれば、そこには湊が立っていた。疲労の色は隠せないはずなのに、その彫刻のように整った美貌には、何の陰りもなかった。実花が何を恐れ、何を案じているのかを、湊は痛いほど察していた。引き寄せるようにその細い身体をそっと腕の中へと抱き締めると、自分のスマートフォンを差し出す。「これを見ろ」画面に表示されていたのは、病院から送られてきたばかりの検査速報だった。【DNA鑑定結果:血縁関係は認められず】その文字列を目にした瞬間、実花の唇からふっと安堵のため息が零れ落ちた。昨
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第286話

言葉の裏にある不器用な問いかけを、実花は確かに受け止めていた。もしあの日、湊と結ばれていなかったら。実花のお腹の中に、この奇跡のような小さな命が宿ることもなかったのだ。この授かりものに対して、実花は心から感謝していた。実花は優しく、小さく首を横に振った。「……ううん」その微かな否定に、湊の瞳が弾かれたように眩い輝きを帯びた。「それに、私からも……話しておきたいことがあるの」実花は大きく息を吸い込み、少しだけ震える声で言葉を紡ぎ出した。「私の母の身に……昔、本当は何が起きたのかが分かったのよ」実花が口にしたのは、自分を育ててくれた養母、由紀子のことだった。打ち明けるのを躊躇っていたのは、決して湊の誠意を疑っていたからではない。相手が、あの黒田家と冴島家という強大すぎる二大名家だからだ。もし湊が実花ひとりのためにその巨大な敵と全面戦争を始めれば、篠宮家の若き当主としての立場は根底から揺らぎ、親族からの激しい反発に晒されることになる。それどころか、篠宮グループが被る損害は、数百億円規模にまで膨れ上がるかもしれないのだ。「実は、俺も昔の件を調べていたところだ。全部はっきりしてから話そうと思っていたんだが」不安そうに揺れる実花の瞳を覗き込みながら、湊はどこまでも穏やかな声で告げた。思いがけない言葉に、実花の目頭がじわりと熱くなる。「湊も……調べてくれていたの?」だが、胸を満たした温もりは、次の瞬間には湊を案じる焦燥へと変わっていた。実花は慌てて首を振る。「でも、これは私の問題よ。巻き込まないわけにはいかないわ。相手の規模が大きすぎるもの……篠宮家の当主であるあなたが、これ以上首を突っ込むべきじゃない」「俺を何だと思っているんだ?」湊は呆れたように眉を寄せ、しかしその眼差しは優しかった。「礼司さんと由紀子さんには、昔から本当によくしてもらった。あの二人のために真相を暴くのは、俺にとっても当然の筋道だ」「それでも……もし相手が、想像もつかないほど強大な力を持っていたら?篠宮グループの利益を大きく削るような事態になったらどうするの?」実花は顔を上げ、必死の眼差しで湊を見つめた。その憂いに沈んだ顔を見て、湊は思わず低く笑い声を漏らす。「ずいぶん見くびられたものだな。俺がそんなに
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第287話

「大丈夫だ。俺に任せろ」湊の瞳の奥に、凍てつくような冷たい怒りが走った。言うが早いか、湊はその場で端末を取り出し、迷いなくある番号へと発信した。相手が応答するや否や、低く冷徹な声で手短に指示を下す。「黒田正一と瑠美の夫婦、そして息子の大貴――あの一家全員を、二十四時間体制で徹底的に尾行しろ。どんな些細なことでもいい、奴らの弱みと不正の証拠をすべて洗い出すんだ」あまりに迅速で容赦のない行動力。自分ひとりで背負い込んできた重荷を、当たり前のように隣で担いでくれる湊の存在に、実花の冷え切っていた心へじんわりと温かな火が灯った。……一方、離れで暮らす百合の頭の中は、DNA鑑定の結果でいっぱいだった。愛する建三は手足の自由を失って以来、日ごとに塞ぎ込み、生きる気力すら失いかけている。もし生き別れの愛娘を連れてきて顔を見せられれば、きっと建三の心も晴れやかになるはずだった。娘を連れて行くのだという一心で、百合は早朝から本館のロビーで待ち構えていた。だが、どれほど待っても湊が二階から降りてくる気配はない。しびれを切らした百合の視界に、中庭の扉から連れ立って入ってくる実花と湊の姿が飛び込んできた。朝の光を浴びながら、親しげに微笑み合って歩いてくる二人。眩いばかりの穏やかな笑顔と、二人の間に流れる甘く濃密な空気感。それを目にした瞬間、百合の胸に言い知れぬ不快感が湧き上がった。百合の姿を認めた途端、湊の表情は底知れぬ冷たさへと逆戻りした。実花を背に庇うように一歩前に出ると、静かに促す。「実花、先に乗って上で待っていなさい」実花をその場から離れさせた後、湊は病院から送られてきたばかりの検査報告を無言で百合の端末へと転送した。そして、虫けらでも見るような冷淡な眼差しを投げかける。「自分で見ろ」百合は慌てて画面を開いた。しかし、そこに並んでいた【血縁関係は認められない】という無慈悲な文字列が、彼女の目を容赦なく突き刺した。信じられない。信じるはずがなかった。百合は顔を真っ青に染め、次の瞬間には甲高い声を上げて湊に掴みかからんばかりに詰め寄った。「嘘よ!こんなの絶対にデタラメだわ!あんたね……あんたが裏で手を回して、鑑定結果をすり替えたんでしょう!?」狂乱状態で喚き立てていた百合の視線が、ふと湊の左
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第288話

どこに、どんな形の印が刻まれているのか、澄江はその瞳の奥に焼き付けていた。だが、それをこの母親に教えるわけにはいかない。絶対に。澄江はすっと視線を伏せ、感情を殺した声で告げた。「滅相もございません。私がお嬢様のお身体をお拭きしていた頃には、そうした目立つ痣などは見当たりませんでした」その言葉を聞いた瞬間、百合の顔に露骨な落胆が広がった。あの娘の身体には、目印になるような痣など最初からなかったのだ。実花を確かめる手がかりを失ったことに苛立ちを覚えたのか、百合は小さく舌打ちを鳴らすと、それ以上澄江に目もくれず立ち去っていった。遠ざかる百合の背中を、澄江は物陰からじっと見つめていた。そして、その姿が完全に見えなくなると、額にびっしりと浮き出た冷や汗を、震える手でそっと拭った。実花の待つ二階へと階段を上がっていた湊のポケットで、ピロリ、と無機質な着信音が鳴った。湊は不快そうに眉をひそめた。こんな時に誰からの邪魔立てだ。苛立ちを押し殺して取り出した画面には、見覚えのない番号からのメッセージが灯っていた。【湊さん、私、妊娠したの。あなたの子よ】――以前、空港で届いたあの悪質なメッセージと同じ番号だった。相手が誰であろうと知ったことではない。湊は迷うことなく、その通知をゴミ箱へ放り込み、番号を完全に着信拒否へと叩き込んだ。今の湊には、他人の戯言に付き合っている余裕など爪の先ほどもなかった。誰の顔も見たくない。二階の廊下を進む足取りは、鉛のように重かった。漆黒の瞳の奥には、底の見えない暗闇が渦巻き、押し殺しきれない暴力的な怒気がわずかに漏れ出ている。自室の扉を開け、中へ入ると、背後で重い音を立てて鍵を閉めた。厚手の遮光カーテンを引いて、部屋を完全な暗闇に閉ざそうとする。窒息しそうな静寂の中で、胃の腑から湧き上がる醜い感情を、一人きりで噛み砕いて消化するために。すべてを腹の底に呑み込み、次にこの扉を開ける時には――何事もなかったかのように冷徹で無敵な篠宮家の当主に戻っていればいい。ずっと、そうやって生きてきたのだから。だが、カーテンに手を伸ばしたその時だった。「……湊、大丈夫?」背後から、柔らかく微かな声が降ってきた。湊の指先が、微かに凍りつく。恐る恐る振り返ると、そこには実花が佇んで
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第289話

お腹の赤ちゃんは、まだ安定期にも入っていないのだ。こんな激しい情事に流されてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。実花は青ざめ、必死の力で湊の逞しい腕を押し返しながら、乱れかけた服の裾をぎゅっと握りしめた。「だめ……湊、だめなの……っ!」ぴたりと、湊の動きが凍りついた。見下ろしてくる漆黒の瞳には、ドロドロとした情欲と、抑えきれない暗い怒りが渦巻いている。「……俺じゃ嫌なのか?」掠れた声が、低く実花の耳朶を打つ。「和真なら良くて……俺は駄目だっていうのか?」「違っ、違うの!そういうことじゃなくて……っ」あまりの誤解に実花は慌てて否定したが、これ以上どう説明していいか分からず、半ば泣きそうになりながら声を絞り出した。「とにかく、駄目なものは駄目なの……っ」実花の瞳に浮かんだ涙と切羽詰まった拒絶に、湊の焼き切れそうだった理性が、かろうじて冷水を浴びせられたように息を吹き返した。湊は深く息を吐き出し、組み敷いた実花の姿をじっと見つめた。実花の潤んだ瞳も、熱っぽく染まった頬も、そして湊の首に無意識のまま回された細い腕も――とてもではないが、湊そのものを拒絶しているようには見えなかった。だが、男として限界まで昂ぶった熱は、もはや引き返すことすら許さないほど張り詰めていた。湊は必死に息を整え、我慢強い声音で問いかける。「……俺が駄目なのか?それとも、今日が駄目なだけなのか?」「今日……っ、今日が、駄目なの……」恥ずかしさのあまり実花は顔から火が出るほど赤くなった。今日が駄目だということは、裏を返せば、湊自身を拒んでいるわけではないという告白に他ならない。その途端、湊の胸を覆っていた暗雲が嘘のように晴れ渡り、目に見えて機嫌が直っていくのが分かった。湊は唇の端をわずかに持ち上げ、からかうように囁いた。「じゃあ、明日はいいのか?明後日はどうだ?」「ど、どっちも駄目……っ!」予想外の即答に、湊は一瞬きょとんと目を丸くした。だが、すぐに何かに思い至ったように納得の表情を浮かべる。「……ああ、そういうことか。あの日なのか?」「……っ、うん」実花は真っ赤な顔のまま、小さく頷いた。嘘をつくのは苦しかったが、今はこれで誤魔化すしかない。もしも――湊に、お腹に宿った命のことを打ち明けた
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第290話

そう告げた瞬間、湊の鋭い視線が実花の顔に釘付けになった。わずか数秒の間、湊の呼吸すら止まっていた。篠宮家の当主として、これまでに数え切れないほどの修羅場や危地を冷徹に切り抜けてきた男だ。湊が何かの事態を前にして緊張することなど、まずあり得ない。だが、今この瞬間だけは違っていた。自分の真意は十分に伝えたはずだ。聡明な実花なら、これがどういう意味を持つのか痛いほど理解しているだろう。だが同時に、湊は実花がこれを強引な押し付けだと感じて怯えたり、嫌がったりしはしないかと、内心で激しく警戒していた。実花の表情にわずかでも拒絶の色が浮かばないか、瞬きすら惜しんで見つめているのだ。一方の実花はといえば、頭の中が【祖父への紹介】という重たい言葉で真っ白になり、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がっていた。まさか、こんなに早く当主の祖父に対面することになるなんて、夢にも思っていなかったのだ。だって、自分たちはまだ――正式に恋人同士だと確かめ合ってすらいないというのに。篠宮守三。巨大財閥・篠宮グループの絶対的な精神的支柱であり、このP国において篠宮家を揺るぎない頂点へと導いた、生ける伝説のような人物だ。でも……湊は私のことを、一体どんな立場で紹介するつもりなのかしら?激しく波打つ胸を押さえながら、実花は戸惑いと不安の渦の中へと沈み込んでいった。「お祖父様に会いに行くなんて……やっぱり、私なんかが行ってもいいのかしら」実花は落ち着かない手つきで、着ている服の裾をぎゅっと握りしめた。「構うものか」湊は身を起こして実花の傍らへと歩み寄ると、深みのある瞳で見つめ下ろした。「祖父は昔からずっと知っているんだ。俺が海浜市にいた頃、隣の一家にどれほど温かく世話になったかということをな。ずっと昔から、お前たちに直接会って礼を言いたいと口にしていた。……ただ、礼司さんと由紀子さんがもういないのが悔やまれるが」そこまで口にした湊の表情に、微かな痛恨と、深い哀悼の翳りが過った。……そっか。お隣さん、としての立場なのね。実花は密かに胸を撫で下ろした。だが、その安堵と同時に、胸の奥がきゅっと音を立てて冷えていくような、言い知れぬ寂しさを覚えてしまう。湊はそのわずかな落胆を見逃さなかった。ふっと口元を緩めると、実花へと
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