تسجيل الدخول優介の言葉を聞いた瞬間、紗月は何を言われたのか理解できなかった。 慌ててソファから立ち上がる。 心臓が嫌な音を立てるように激しく脈打ち、胸の奥から不安が込み上げてくる。「優介くん、閉じ込められたって……どういうこと? それより、今どこにいるの? 私が迎えに行こうか?」 紗月の声を聞いて少し落ち着いたのだろう。 優介は今いる場所をすぐに教えてくれたものの、すぐにその言葉を打ち消すように小さく首を振った。「紗月お姉さん……僕がそっちに行ってもいい?」 震える声のまま、言葉を続ける。「姉ちゃん、自分の部屋に閉じ込められてるんだ。父さんも母さんも、僕を部屋に入れてくれなくて……」「もちろん。迎えに行こうか?」「ううん、大丈夫。タクシーで行きますから」 凛子は帰国してから実家で暮らしている。優介が言っている部屋とは、おそらく凛子の自室なのだろう。 優介が来るまでの間、紗月は何度も凛子へメッセージを送り、電話も繰り返しかけてみた。 けれど、返信は一つも返ってこない。 電話も何度鳴らしても繋がることはなかった。 携帯電話を取り上げられてしまったのかもしれない。 午後、父親から届いたメッセージを見た途端、凛子の表情が一変したことを思い出す。 あの時には、すでに何かが起きていたのだ。 そう考えると、胸騒ぎはますます大きくなるばかりだった。 幸い、優介は思っていたより早くやって来た。 インターホンが鳴ると、紗月は急いで玄関へ向かい、扉を開ける。 そこに立っていた優介は俯いたまま、ひどく心細そうな様子だった。 目元は赤く腫れ、紗月の顔を見た途端、堪えていた涙がまた瞳いっぱいに滲んでいく。 泣きそうになりながら、それでも必死に涙をこらえていた。 まだ成人にも満たない少年なのだ。そんな姿を目の当たりにした瞬間、紗月の胸はぎゅっと締めつけられた。 紗月は何も言わずに優介の手を取り、そのままリビングへ案内する。 ティッシュを手渡し、それからキッチンへ向かって温かいココアを淹れた。 優介の好きな飲み物だった。「紗月お姉さん……お父さんが、姉ちゃんを年上のおじさんと結婚させるって……」 紗月もソファへ腰を下ろし、何があったのか静かに尋ねる。優介は両手でマグカップを包み込み、しばらく俯いたまま黙っていた。 ようやく覚悟を決めたように、小さ
凛子の反応は、明らかにどこかおかしかった。 普段は何があっても動じない彼女が、こんなふうに取り乱した表情を見せることなど滅多にない。紗月は心配そうに眉を寄せ、そっと手を伸ばして凛子の手に触れた。 そのまま優しく包み込むように握り、小さく微笑む。「凛子。私たち、友達でしょう? 凛子が私を心配してくれるように、もし何かあったなら、私にもちゃんと話してほしい」 紗月が思いのほか真剣な表情をしていたからだろう。 凛子は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせた。 思いがけない言葉だったのだろう。 すぐに大げさなくらい明るい笑みを浮かべると、今度は自分から紗月の手を握り返した。 温かな掌が紗月の手を包み込み、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと力がこもる。 その温もりはすぐに離れ、凛子は照れ隠しをするように笑った。「大丈夫。さっき父からメッセージが来ただけなの。だから、ちょっと驚いちゃって……ごめんね、心配させちゃった。知ってるでしょう? 私、お父さんとはちょっと複雑だから」 困ったように肩をすくめ、小さく息をつく。 凛子の父親は、数年前に会社を上場させた経営者だった。 上場を果たしてからというもの、会社を背負う責任や重圧が一気に増したせいなのか、以前よりも短気で独善的な性格になり、家族との関係も少しずつ変わってしまったらしい。 紗月もこれまで、凛子から家のことを少しずつ聞かされてきた。 母親もまた経営者で、幼い頃から夫婦そろって家を空ける日が多く、凛子は両親と一緒に過ごす時間がほとんどなかったという。 家族で食卓を囲むことも少なく、忙しい両親に代わって、幼い凛子の成長を一番近くで見守ってきたのは、いつも家の使用人たちだった。 そんな家庭で育ったからだろうか。 優介が自分に優しくしてくれる紗月へ、人一倍懐いている理由も、少しだけ分かる気がした。「何でもないならよかった……でも、さっきの凛子、本当にすごく怖い顔をしてたよ」 紗月がそう言うと、凛子は照れ隠しをするように肩をすくめ、小さく笑った。「ごめん、ごめん。さっちゃんも知ってるでしょう? お父さんから連絡が来る時って、大体ろくな話じゃないのよ。何年か前なんて、お見合いしろって言われたこともあったんだから。あの時はちょうど海外留学が決まって、そのまま逃げちゃったけど……まさか今さらまた――」「
「文字どおりの意味だ。紗月。契約夫婦であっても夫婦であることに変わりはない。人前で仲のいい夫婦を演じる必要がある以上、お前に一切触れないわけにはいかないだろう」 あまりにも堂々とした口ぶりだった。 後ろめたさなど微塵も感じさせない。 その条項も当然必要なものだと言わんばかりで、こんなにも動揺している紗月のほうが、余計なことを考えすぎているようにさえ思えてしまう。「……嫌です」 紗月は契約書を静かに閉じた。 こんなことをするために離婚したわけではない。 ようやく決心した。 ようやく慎一への想いを手放そうとした。 ようやく苦しみから抜け出そうとしている。 もうこれ以上、慎一と縛られ続ける人生だけは望んでいなかった。「条項は修正してもいい」 慎一は表情一つ変えずに答える。 紗月はゆっくりと首を振った。「慎一……私は、本当にあなたといることが苦しかったから離婚したの」 声は震えていた。「情報が漏れることを心配しているなら、私はこの街を離れます。別の場所で暮らします。あなたの目につくこともありません。会社の脅威になるようなこともしません」 そう言って、契約書を慎一のほうへ押し返す。 署名するつもりはない。 その意思は誰の目にも明らかだった。 慎一は契約書へ静かに視線を落とし、やがて何事もなかったようにそれを手元へ引き寄せる。「紗月」 穏やかな声が響いた。「お前が望まないことを、俺は強要しない」 その言葉に、紗月は胸の奥でそっと息をついた。 拒絶を受け入れてもらえたことに、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。 席を立ち、このまま帰ろうとした、その時だった。 背後から慎一の声が追いかけてくる。「ただ、紗月。俺と条件を交渉できる機会は、これが最初で最後だ。次にお前から取引を持ちかける時、お前はもう主導権を持てない」 穏やかな声だった。 感情を荒らげることも、脅すような口調になることもない。 それでも、その言葉は静かに紗月の胸へ沈み、逃げ場のない重さだけを残していく。 紗月は足を止めた。 ゆっくりと眉を寄せ、小さく笑う。 その笑みには、呆れと諦めが滲んでいた。「そんな日は来ません、朝倉社長。私が望むのは……必要な時以外、これから先、あなたとはもう二度と会わないことです」 * 午後になると、凛子から電話が
慎一が突然そんな理不尽な提案を口にしたことに、紗月は理解が追いつかなかった。 離婚したばかりなのだ。 三年間続いた結婚生活は、紗月にとって苦しみしか残らないものだった。ようやく目を覚まし、その関係から逃れられたというのに、慎一は今さらこんな馬鹿げた形で、二人の繋がりを続けようとしている。「……私には――」「契約上の夫婦でいい、紗月」 紗月の言葉を遮るように、慎一は淡々と言った。「お前の望む条件は用意する。承諾するなら、すぐにでも秘書に契約書を作らせよう」 まるで、ごく当たり前の取引を持ちかけるような口調だった。 慎一は紗月の近況まで把握している。「紗月。最近オーディションを受けただろう。結果はあまり良くなかったらしいな」 その一言に、紗月の肩がわずかに震えた。「その監督についても調べた。実力は二流止まりだ。仮に出演が決まったとしても、その作品一つで、お前の女優としての未来が大きく変わることはない。お前が望むなら、専属の事務所を立ち上げてもいい。芝居がしたいなら、一番いい脚本を用意する。賞が欲しいなら、受賞できるように手を回すこともできる」 慎一が提示する条件は、あまりにも現実離れしていた。 夢物語のような話だった。 紗月は、それが決して空想では終わらないことを知っている。彼には、それだけの力がある。 胸の奥に浮かんだ考えを、紗月は振り払うことができなかった。 由衣を傍に置いていた頃も。 慎一は彼女に、同じような未来を約束していたのだろうか。「……そんなもの、必要ありません。確かに私は演技がしたい。でも、あなたがいなくても、自分の力で前へ進んでいけます」 慎一は喉の奥で低く笑った。「紗月。俺はお前に近道を与えることもできる。芸能界で二度と仕事が来ないようにすることもできる」 感情を交えない声音だった。 淡々としているからこそ、その言葉には逃げ場のない重みがあった。「せっかく役者を目指すなら、楽な道を選べばいい。わざわざ苦労する必要があるのか」「……それでも構いません」 紗月は視線を逸らさなかった。 真っ直ぐ慎一を見つめ返し、静かな声で答えた。「朝倉社長。私は綾瀬さんと違って、芸能界に執着しているわけではありませんから」「……」 一瞬だけ、慎一の表情がわずかに固まる。 短い沈黙のあと、彼はふと何かを思い出
結婚する前の紗月は、自分が朝倉家でどんな存在なのか、最後まで分からずにいた。 祖父は何度も「家族だ」と言ってくれた。 慎一もまた、同じような言葉を口にしたことがある。 それでも紗月は、自分が本当の意味で朝倉家の一員になれたとは思えなかった。 自分の身体には、朝倉家とは違う血が流れている。 名字だって、朝倉とは何の縁もない。 ――友枝。 それが、実の父親の姓だった。 もっとも、紗月には父親の記憶などほとんどない。 祖父から、学者だったと聞かされただけで、生きているのか、それとももうこの世にいないのかさえ分からなかった。 だから結婚し、戸籍上の姓が「朝倉」へ変わった時。 これでようやく、自分も本当の意味で家族になれたのだろうか――そんなことを初めて考えた。 少なくとも、朝倉家に堂々と居場所を持ち、「朝倉家の人間」としてここにいてもいいのだと、そう思えた。「……」 けれど今、慎一の口から再び「家族」という言葉を聞いても、胸に込み上げるのは、どうしようもない悲しさだけだった。 慎一の態度が少しずつ変わったのも、もう夫婦ではなくなったからなのだろうか。 婚姻という繋がりさえなくなれば、二人はまた昔のように、兄妹にも似た関係へ戻れる。 ――慎一は、そんなふうに思っているのだろうか。 もっとも、その変化も、紗月を流産させてしまったことへの罪悪感から来るものなのかもしれない。 この三年間、慎一が紗月にしてきたことは、あまりにも残酷だった。 それでも彼は、人の痛みを楽しむことに喜びを覚えるような人間ではない。 だからこそ、今さらになって償いたいと思う気持ちが芽生えたとしても、不思議ではなかった。 けれど―― 慎一がどんな思いを抱えていようと、紗月には滑稽にしか思えなかった。「離婚した以上、もう家族ではありません。朝倉社長」「……その言葉、祖父さんの前でも同じように言えるか」 その一言に、紗月は言葉を失う。 反論したいのに、何も言い返せなかった。 開いていた資料を静かに閉じ、膝の上へ揃えて置くと、慎一を真っ直ぐ見つめる。 その瞳には、隠し切れない警戒が宿っていた。「……結局、何が言いたいんですか」 慎一はわずかに口元を緩める。 そしてポケットから小さな箱を取り出し、そっと紗月の手のひらへ載せた。 紗月は戸惑いながら箱を
紗月は、慎一と由衣のことにこれ以上首を突っ込むつもりはなかった。 もう離婚している以上、慎一が由衣と結婚し、新しい家庭を築こうと、それは慎一自身が選ぶ人生だ。自分にはもう何の関係もない。 芸能人のゴシップなど、どうせ長くは続かない。 毎日のように新しい話題やニュースが生まれては消えていく。 由衣は人気女優ではあるものの、国民的な知名度を持つほどではない。週刊誌や芸能記者にとっても、もっと追いかける価値のある相手はいくらでもいるはずだった。 ところが、その騒動は紗月の予想に反し、いつまで経っても収束する気配を見せなかった。 まるで誰かが裏で糸を引いているかのように、由衣に関する記事は連日のように配信され、世間の関心は日を追うごとに過熱していく。 芸能界に興味のない紗月でさえ、スマートフォンを開けば、おすすめ記事やニュースアプリの通知には由衣の名前が並んでいた。 騒動は朝倉グループや慎一にも飛び火し、世間の注目はますます大きく膨れ上がっていく。 やがて一部のゴシップ誌は慎一本人の写真まで入手し、「立場を利用して女優に枕営業を強要した」「利用するだけ利用して捨てた」など、事実無根の記事を次々と書き立て始めた。 これまで慎一が築き上げてきた愛妻家のイメージまで、「すべて世間向けの芝居だった」と厳しく非難されるようになる。 その影響は株式市場にも及び、朝倉グループの株価は連日のように下落を続けた。 事態は、紗月の想像をはるかに超える深刻さへと発展していった。 そんな日々が数日続いた、ある夜。 慎一から一本の電話がかかってきた。『紗月。少しだけ、会えないか』 受話器越しに聞こえてきた声はひどく疲れ切っていて、いつもの張り詰めた響きはない。 時計を見ると、時刻は夜九時を回っていた。 紗月は気が進まなかった。 離婚した今となっては、慎一と二人きりで会う理由など、どこにもない。 だが、その声からは珍しく焦燥が滲んでいた。『少し話すだけでいい。話が終わったら、すぐ帰る』 その電話をかけている時点で、慎一はすでに紗月の住むマンション近くの駐車場に車を停めていた。 あとは、紗月が頷くのを待つだけだった。 受話器越しに伝わる紗月のためらいを感じ取りながらも、慎一は膝の上で指先を一定のリズムで静かに叩いていた。 焦る様子はない。 紗月は根
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎
由衣を連れて地下駐車場まで下りると、慎一はようやく、自分にぴたりと寄り添っていた彼女を少し強めに引き離した。 今度ははっきりと力を込めており、由衣がこれ以上まとわりつくことは許さない。「次からは、断りもなく来るな」「えー、社長ってひどい。利用したらそれで終わりなんて。奥様、顔色すごく悪かったですよ? 今ごろ上でこっそり泣いてるかも」 由衣はにこにこと笑いながら、両手で慎一の腕を掴み、甘えるように揺らした。 だがその言葉には、どこか底の見えない悪意が滲んでいる。 慎一はそんな彼女を見つめ、ふっと笑
翌朝、紗月が目を覚ますと、昨日よりもさらに体調が悪かった。 全身に力が入らず、めまいがして、手足は冷えきっている。歩くだけでも、身体が小刻みに震えているような感覚さえあった。 キッチンで薬を飲んでいると、ちょうど慎一も部屋から出てきた。アイランドキッチンに置かれた薬をちらりと目にしたが、彼はほんの一瞬視線を流しただけで、気にかける様子はまるでない。 紗月は彼がすでに出勤用の服に着替えていることに気づく。 まだ時間は早いのに、彼は今すぐにでも出ていきたいというように、どこか落ち着かない様子だった。この家に一秒でも長くいたくな
距離が近づくにつれ、紗月の纏う香水の匂いと、肌から伝わってくる異様な熱が、慎一の眉を思わずひそめさせた。「……気持ち悪い匂いだな」 彼女が体調を崩しているのか、それとも本当に病気なのか。そんなことは一切気にも留めない。 男の手つきには、微塵の情けもなかった。その触れ方は、欲望によるものですらない。ただ鬱積した感情をぶつけるための、乱暴な接触にすぎない。 紗月は彼の触れた感覚を受け止めながら、ゆっくりと目を開けた。 視線が合った瞬間、胸が締めつけられるように高鳴り、思わず口づけを求めるように身を起こそうとする。 その気配はすぐに見抜かれた。 慎一は露骨に嫌悪を滲ませ、顔を背ける







