Masuk「文字どおりの意味だ。紗月。契約夫婦であっても夫婦であることに変わりはない。人前で仲のいい夫婦を演じる必要がある以上、お前に一切触れないわけにはいかないだろう」 あまりにも堂々とした口ぶりだった。 後ろめたさなど微塵も感じさせない。 その条項も当然必要なものだと言わんばかりで、こんなにも動揺している紗月のほうが、余計なことを考えすぎているようにさえ思えてしまう。「……嫌です」 紗月は契約書を静かに閉じた。 こんなことをするために離婚したわけではない。 ようやく決心した。 ようやく慎一への想いを手放そうとした。 ようやく苦しみから抜け出そうとしている。 もうこれ以上、慎一と縛られ続ける人生だけは望んでいなかった。「条項は修正してもいい」 慎一は表情一つ変えずに答える。 紗月はゆっくりと首を振った。「慎一……私は、本当にあなたといることが苦しかったから離婚したの」 声は震えていた。「情報が漏れることを心配しているなら、私はこの街を離れます。別の場所で暮らします。あなたの目につくこともありません。会社の脅威になるようなこともしません」 そう言って、契約書を慎一のほうへ押し返す。 署名するつもりはない。 その意思は誰の目にも明らかだった。 慎一は契約書へ静かに視線を落とし、やがて何事もなかったようにそれを手元へ引き寄せる。「紗月」 穏やかな声が響いた。「お前が望まないことを、俺は強要しない」 その言葉に、紗月は胸の奥でそっと息をついた。 拒絶を受け入れてもらえたことに、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。 席を立ち、このまま帰ろうとした、その時だった。 背後から慎一の声が追いかけてくる。「ただ、紗月。俺と条件を交渉できる機会は、これが最初で最後だ。次にお前から取引を持ちかける時、お前はもう主導権を持てない」 穏やかな声だった。 感情を荒らげることも、脅すような口調になることもない。 それでも、その言葉は静かに紗月の胸へ沈み、逃げ場のない重さだけを残していく。 紗月は足を止めた。 ゆっくりと眉を寄せ、小さく笑う。 その笑みには、呆れと諦めが滲んでいた。「そんな日は来ません、朝倉社長。私が望むのは……必要な時以外、これから先、あなたとはもう二度と会わないことです」 * 午後になると、凛子から電話が
慎一が突然そんな理不尽な提案を口にしたことに、紗月は理解が追いつかなかった。 離婚したばかりなのだ。 三年間続いた結婚生活は、紗月にとって苦しみしか残らないものだった。ようやく目を覚まし、その関係から逃れられたというのに、慎一は今さらこんな馬鹿げた形で、二人の繋がりを続けようとしている。「……私には――」「契約上の夫婦でいい、紗月」 紗月の言葉を遮るように、慎一は淡々と言った。「お前の望む条件は用意する。承諾するなら、すぐにでも秘書に契約書を作らせよう」 まるで、ごく当たり前の取引を持ちかけるような口調だった。 慎一は紗月の近況まで把握している。「紗月。最近オーディションを受けただろう。結果はあまり良くなかったらしいな」 その一言に、紗月の肩がわずかに震えた。「その監督についても調べた。実力は二流止まりだ。仮に出演が決まったとしても、その作品一つで、お前の女優としての未来が大きく変わることはない。お前が望むなら、専属の事務所を立ち上げてもいい。芝居がしたいなら、一番いい脚本を用意する。賞が欲しいなら、受賞できるように手を回すこともできる」 慎一が提示する条件は、あまりにも現実離れしていた。 夢物語のような話だった。 紗月は、それが決して空想では終わらないことを知っている。彼には、それだけの力がある。 胸の奥に浮かんだ考えを、紗月は振り払うことができなかった。 由衣を傍に置いていた頃も。 慎一は彼女に、同じような未来を約束していたのだろうか。「……そんなもの、必要ありません。確かに私は演技がしたい。でも、あなたがいなくても、自分の力で前へ進んでいけます」 慎一は喉の奥で低く笑った。「紗月。俺はお前に近道を与えることもできる。芸能界で二度と仕事が来ないようにすることもできる」 感情を交えない声音だった。 淡々としているからこそ、その言葉には逃げ場のない重みがあった。「せっかく役者を目指すなら、楽な道を選べばいい。わざわざ苦労する必要があるのか」「……それでも構いません」 紗月は視線を逸らさなかった。 真っ直ぐ慎一を見つめ返し、静かな声で答えた。「朝倉社長。私は綾瀬さんと違って、芸能界に執着しているわけではありませんから」「……」 一瞬だけ、慎一の表情がわずかに固まる。 短い沈黙のあと、彼はふと何かを思い出
結婚する前の紗月は、自分が朝倉家でどんな存在なのか、最後まで分からずにいた。 祖父は何度も「家族だ」と言ってくれた。 慎一もまた、同じような言葉を口にしたことがある。 それでも紗月は、自分が本当の意味で朝倉家の一員になれたとは思えなかった。 自分の身体には、朝倉家とは違う血が流れている。 名字だって、朝倉とは何の縁もない。 ――友枝。 それが、実の父親の姓だった。 もっとも、紗月には父親の記憶などほとんどない。 祖父から、学者だったと聞かされただけで、生きているのか、それとももうこの世にいないのかさえ分からなかった。 だから結婚し、戸籍上の姓が「朝倉」へ変わった時。 これでようやく、自分も本当の意味で家族になれたのだろうか――そんなことを初めて考えた。 少なくとも、朝倉家に堂々と居場所を持ち、「朝倉家の人間」としてここにいてもいいのだと、そう思えた。「……」 けれど今、慎一の口から再び「家族」という言葉を聞いても、胸に込み上げるのは、どうしようもない悲しさだけだった。 慎一の態度が少しずつ変わったのも、もう夫婦ではなくなったからなのだろうか。 婚姻という繋がりさえなくなれば、二人はまた昔のように、兄妹にも似た関係へ戻れる。 ――慎一は、そんなふうに思っているのだろうか。 もっとも、その変化も、紗月を流産させてしまったことへの罪悪感から来るものなのかもしれない。 この三年間、慎一が紗月にしてきたことは、あまりにも残酷だった。 それでも彼は、人の痛みを楽しむことに喜びを覚えるような人間ではない。 だからこそ、今さらになって償いたいと思う気持ちが芽生えたとしても、不思議ではなかった。 けれど―― 慎一がどんな思いを抱えていようと、紗月には滑稽にしか思えなかった。「離婚した以上、もう家族ではありません。朝倉社長」「……その言葉、祖父さんの前でも同じように言えるか」 その一言に、紗月は言葉を失う。 反論したいのに、何も言い返せなかった。 開いていた資料を静かに閉じ、膝の上へ揃えて置くと、慎一を真っ直ぐ見つめる。 その瞳には、隠し切れない警戒が宿っていた。「……結局、何が言いたいんですか」 慎一はわずかに口元を緩める。 そしてポケットから小さな箱を取り出し、そっと紗月の手のひらへ載せた。 紗月は戸惑いながら箱を
紗月は、慎一と由衣のことにこれ以上首を突っ込むつもりはなかった。 もう離婚している以上、慎一が由衣と結婚し、新しい家庭を築こうと、それは慎一自身が選ぶ人生だ。自分にはもう何の関係もない。 芸能人のゴシップなど、どうせ長くは続かない。 毎日のように新しい話題やニュースが生まれては消えていく。 由衣は人気女優ではあるものの、国民的な知名度を持つほどではない。週刊誌や芸能記者にとっても、もっと追いかける価値のある相手はいくらでもいるはずだった。 ところが、その騒動は紗月の予想に反し、いつまで経っても収束する気配を見せなかった。 まるで誰かが裏で糸を引いているかのように、由衣に関する記事は連日のように配信され、世間の関心は日を追うごとに過熱していく。 芸能界に興味のない紗月でさえ、スマートフォンを開けば、おすすめ記事やニュースアプリの通知には由衣の名前が並んでいた。 騒動は朝倉グループや慎一にも飛び火し、世間の注目はますます大きく膨れ上がっていく。 やがて一部のゴシップ誌は慎一本人の写真まで入手し、「立場を利用して女優に枕営業を強要した」「利用するだけ利用して捨てた」など、事実無根の記事を次々と書き立て始めた。 これまで慎一が築き上げてきた愛妻家のイメージまで、「すべて世間向けの芝居だった」と厳しく非難されるようになる。 その影響は株式市場にも及び、朝倉グループの株価は連日のように下落を続けた。 事態は、紗月の想像をはるかに超える深刻さへと発展していった。 そんな日々が数日続いた、ある夜。 慎一から一本の電話がかかってきた。『紗月。少しだけ、会えないか』 受話器越しに聞こえてきた声はひどく疲れ切っていて、いつもの張り詰めた響きはない。 時計を見ると、時刻は夜九時を回っていた。 紗月は気が進まなかった。 離婚した今となっては、慎一と二人きりで会う理由など、どこにもない。 だが、その声からは珍しく焦燥が滲んでいた。『少し話すだけでいい。話が終わったら、すぐ帰る』 その電話をかけている時点で、慎一はすでに紗月の住むマンション近くの駐車場に車を停めていた。 あとは、紗月が頷くのを待つだけだった。 受話器越しに伝わる紗月のためらいを感じ取りながらも、慎一は膝の上で指先を一定のリズムで静かに叩いていた。 焦る様子はない。 紗月は根
バンッ、と食卓を叩く音が響いた。「何を考えとるんじゃ!」 祖父はもともと芸能番組には興味がない。テレビがついていても、祖父にとってはせいぜいBGM代わりだった。 朝倉家では昔から、食卓での厳しい決まりごとはない。子どもたちがテレビを見ながら食事をしていても、祖父は咎めるような人ではなかった。 もっとも、慎一も紗月も、幼い頃からそんな習慣はなかったが。 今日は慎一が珍しくテレビをつけたものだから、祖父も少し不思議に思っていた。 まさか、こんな番組を見るためだったとは。 紗月の表情がみるみる曇っていくのを見ていると、慎一を一発殴ってやりたい気持ちさえ込み上げてきた。 祖父が怒りを露わにしても、慎一はほとんど表情を変えなかった。「由衣が会社に無断で出演を決めた。社長として確認するのは当然だ」 由衣が会社に無断で出演を決めることは、慎一の予想どおりだった。 いや、正確には――慎一自身が社内の人間を通じて、「話題になるような発言を求めている番組がある」という情報を、それとなく由衣へ流していたのだ。 由衣なら、必ず食いつく。 そして、彼女が何を狙っているのかも、慎一には最初から分かっていた。 テレビの中では、由衣がなおも笑顔で話し続けている。「もちろん、私は社長には離婚なんてしてほしくありません。社長は私にとって、大切な理解者であり、恩人でもあります。私の可能性を見つけてくださって、もっと大きな舞台へ立たせてくださいました。本当に感謝していますし……社長がいてくださるだけで、私はいつも安心できるんです」 その口ぶりは、慎一を心の底から慕っているようだった。 言葉を紡ぐたび、恋する少女のようなはにかみが頬に滲み、ふと目元を潤ませる。 何かを思い出したように伏せる視線も、寂しさを隠すように浮かべたかすかな笑みも、カメラは逃さず映し出していた。 その一つひとつの仕草が計算され尽くしているかのようで、それでいて、見る者には思わず守ってあげたくなるような儚さだけが残る。 紗月はそれ以上見ていられず、静かにカップを置いて席を立とうとした。 そのとき、不意に慎一の喉から、くすりと小さな笑いが漏れた。 思わず顔を上げる。 けれど慎一は、いつの間にか視線をテレビへ戻していて、もう紗月のほうを見てはいなかった。 由衣が出演したその番組は、午前中の
思い返せば思い返すほど、あの頃の記憶が次々と胸の奥から溢れ出してくる。 そのたびに胸の奥が重く塞がれたように苦しくなり、息苦しさだけが募っていく。 けれど、何がこんなにも苦しいのか、自分でもうまく言葉にはできなかった。 ようやく眠りについたものの、その夜も安らかな眠りにはならなかった。 ここ数日と同じように、何度も悪夢にうなされ、そのたびに夜中に目を覚ます。 久しぶりにこの家へ戻ってきたせいなのかもしれない。 家政婦がいつもきれいに掃除をしてくれていたおかげで、結婚前に使っていた自室は、あの頃とほとんど変わらないままだった。 紗月はこの家で慎一と共に育った。 この部屋の隅々には、慎一との思い出が今もなお残っている。 家具も、棚に飾られた小物も、本棚に並ぶ本も。 棚の片隅に置かれた目立たない小さな置物でさえ、慎一と一緒に選んだものだった。 眠っては目を覚まし、また眠っては眠りにつく――そんな夜を何度も繰り返し、翌朝、家政婦に朝食の時間だと呼ばれて部屋を出る頃には、紗月は寝不足ですっかり体が重くなっていた。 部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から慎一も姿を現した。 彼の部屋は昔から紗月の部屋のすぐ隣にある。 慎一も紗月と同じようによく眠れなかったのだろう。顔色は決して良いとは言えなかった。 それでも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいて、その機嫌の良さだけは隠しようがなかった。「おはよう」 慎一が先に声をかける。 紗月は一瞬だけ慎一へ視線を向けると、すぐに俯き、そのまま彼の脇を通り過ぎようとした。 だが、どれほど距離を置きたいと思っていても、幼い頃から身についた礼儀が、挨拶を完全に無視することだけは許さなかった。 慎一の横を通り過ぎる際、小さく「……うん」とだけ返し、そのまま足を止めることなく歩いていく。 もちろん、「おはよう」と返したわけではない。 紗月なりに示した、ささやかな拒絶だった。 朝食の席では、慎一が珍しくテレビをつけ、芸能情報を扱う情報番組へチャンネルを合わせた。 彼には食事中にテレビを見る習慣などない。 まして、自分から芸能番組を流すなど、これまで一度もなかった。 その様子に祖父も紗月も不思議そうな顔をする。 だが、番組へ由衣がゲストとして出演している姿が映った瞬間、紗月は小さく眉を寄せ、胸の奥に言いよ
電話を切ってから四時間後、ようやく慎一は酒席を切り上げ、家へ戻る気になった。 すでに時刻は深夜十二時に近い。 それでも席に残っていた者たちは、立ち上がった慎一を見て、忘れたようにおべっかを並べる。「社長、もうお帰りですか? 奥さまのところへ急いで戻られるんですか?」 その一言をきっかけに、周囲も次々と追従し、慎一の“良き夫”ぶりを持ち上げ始めた。 今がどれほど遅い時間かなど、誰も気にしていない。「さすがは社長ご夫妻、相変わらず仲睦まじいですね。奥さまが羨ましいですよ、こんなに有能で、しかも奥さまを大切にされている男性と結婚できて」「本当ですよ。社長は毎月、奥さまのためにサプラ
朝倉紗月が玄関の扉を開け、部屋の中がこれまで幾度となく迎えてきた夜と同じように、がらんとして冷え切っているのを目にした瞬間、その瞳に濃い失望がよぎった。 今日もまた、彼は帰ってきていない。 紗月の顔色は病的なほど赤く、目尻は熱を帯びたようにじんと痛み、そこには気づかれないほどかすかな赤みも滲んでいた。 まるで次の瞬間には涙がこぼれ落ちてしまいそうなのに、それでも必死に強がって堪えているかのようだった。 数歩進んだだけで足元から力が抜け、彼女はそのままソファへと崩れ落ちた。戸籍上の夫がまた家に帰ろうともしない――その事実だけではない。 身体にこもる異様な熱もまた
家。 二度目のアラームが鳴り響いて、玄関でぼんやり立ち尽くしていた紗月は、ようやく我に返った。 目の奥がじんと痛み出し、手の甲で押さえて和らげようとする。だが触れた肌は熱く、熱はまったく引いていなかった。 この体調では休んだほうがいいのではないかと、そう思いかける。 けれど、部下の体調など一切気にも留めず、ただ頭ごなしに怒鳴りつける部長の性格を思い出し、結局は考えるのをやめた。 そのまま部屋へ戻り、出勤の支度を始める。 結婚してから、紗月はようやく契約を結んだばかりだった芸能事務所を辞め、ほぼ話がまとまっていたドラマ出演の契約も断った。 すべては慎一の「妻が外で目立つのは好
やがて由衣を迎えに来た車が到着した。 まるでこの世の終わりでも訪れたかのように名残惜しげに別れを告げる彼女を見ても、慎一はその場に立ったまま、形だけの笑みを浮かべるだけだった。 そしてそのまま踵を返し、自分専用の駐車スペースへと向かう。 すでに運転手は彼からの連絡を受けて車内で待機しており、まるで時間を計算していたかのように、慎一が後部座席のドアに手をかける寸前、すぐに車を降りて恭しくドアを開けた。「ありがとう」 運転手の名は久我誠。 二十年以上前、朝倉家に仕える補佐役として働いていた人物で、ここ数年で慎一の専属運転手兼個人秘書となった。 長年この家に仕えてきた彼にとって、慎







