Tous les chapitres de : Chapitre 171 - Chapitre 180

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第171話

 慎一の足が止まった。 その瞳に微かな光が揺らぎ、俯いたままの紗月へ向けられる。 紗月のそばに優介の姿はなかった。おそらく何か理由をつけて、先に帰るよう説得したのだろう。 慎一はさりげなく周囲へ視線を巡らせ、本当に紗月が一人でいることを確かめてから、悠然と口を開いた。「どうした、友枝さん」 慎一に旧姓で呼ばれたのは、これが初めてだった。 紗月は一瞬、何を言われたのか理解できず、その場で呆然と立ち尽くす。 返事がないまま数秒が流れ、慎一がもう一度口を開いたことで、ようやく我に返った。「用がないなら、俺は忙しい。先に行く」「朝倉社長……! あの……その……」 本当に容赦なく立ち去ろうとする慎一を見て、紗月は衝動的に呼び止めた。 けれど、口からこぼれたのは意味を成さない言葉ばかりで、肝心の用件をどうしても切り出せない。 慎一も今回は急かすことはしなかった。 焦りを隠しきれずにいる紗月を、ただ静かに見下ろしている。 ここ数日、まともに眠れていないのだろう。 目の下には、昨日よりもさらに濃い隈が落ちていた。 外出前にファンデーションで隠した形跡はあるものの、顔全体に滲む疲労や憔悴までは、化粧では覆い隠せていない。 言葉を探し続ける紗月を見つめるうちに、慎一はいつしか時間さえ忘れていた。 やがて紗月が、ひどく言いづらそうに唇を開く。「……あの契約は、まだ有効なんですか」 その一言を耳にした瞬間、慎一はようやく我に返った。 喉の奥で低く笑いが漏れる。 胸につかえていた重苦しいものが、音もなく消えていくようだった。 目に見えて、慎一の機嫌が和らいでいく。 紗月が高瀬の会社を訪れたと報告を受けたあと、慎一は高瀬社長と会うためだけに、自社の案件を一つ譲ることになった。 だが、一つの案件で紗月から譲歩を引き出せたのなら、その程度の代償など安いものだった。「紗月、言ったはずだ。昨日を過ぎてから俺に縋っても、同じ条件では済まないと」 紗月は顔を青ざめさせ、口を閉ざした。 ここでまた怖じ気づき、逃げられては困る。慎一はスマートフォンを取り出すと、迷うことなく久我へ電話をかけた。「話の続きは車で聞く」 久我はすぐに駆けつけた。 慎一が連絡を入れてから、一分も経たないうちに車が二人の前へ滑り込む。慎一の後ろに立つ紗月の姿を認めると、久
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第172話

 目の前に立つ慎一の表情は暗く沈み、何を考えているのか少しも読み取れなかった。 休憩室の扉に鍵をかけたあとも、彼は紗月へ近づこうとはしない。ただ、その双眸だけが値踏みするように紗月の全身をなぞっている。 まるで、まな板の上に載せられ、値がつくのを待つ魚にでもなったような気分だった。 以前、この休憩室を訪れたとき、紗月は久しぶりに幸せな気持ちを味わっていた。 母親に傷つけられた自分を、慎一が慰めてくれたのだ。 あれから、まだそれほど時間は経っていない。それなのに、慎一も紗月も、何もかもが変わってしまったように思えた。 紗月は慎一から遠く離れたいと願っている。 だが慎一は、彼女を再び自分のそばへ縛りつけようとしていた。 その目的が何なのか、紗月にはまるで分からない。 もしかすると、朝倉グループの評判は、本当にそこまで深刻な状況に陥っているのだろうか。 重苦しい沈黙が二人の間に流れた。 紗月が警戒を解かないままでいると、慎一は肩をすくめ、小さく鼻で笑う。 そのまま酒棚へ歩み寄り、ひと目で高級品と分かる赤ワインを一本取り出した。「紗月。俺が何をしたいかは問題じゃない」 ボトルを手の中でゆっくりと転がしながら、慎一は淡々と言葉を続ける。「契約を取り戻したいなら、お前が何を差し出せるかだ。一度反故にされた契約は、交渉の場ではもう効力を失っている。もう一度交渉したいなら、それ相応の誠意を見せてもらわないとな」「……私にもう一度、奥様の役を演じさせて、この危機を乗り切りたいのではなかったのですか?」 紗月は数歩近づいたところで足を止め、勇気を振り絞って問いかけた。 それでも、その声には拭いきれない不安が滲んでいる。 昨日まで、契約を急いでいたのは慎一のほうだった。 それなのに今、追い詰められているのは紗月であり、慎一には焦る様子など微塵もない。「考え直した」 慎一はワインボトルを眺めながら、淡々と続ける。「確かに、俺は少し視野が狭かったらしい。グループの危機を収める方法は一つじゃない。広報部の危機評価でも、こちらが何もしなくても、この程度のゴシップはいずれ世間から忘れ去られるという結論だった。俺は待てる。だが、お前は待てるのか?」「……」「早出社長は今回の縁談をずいぶん急いでいるらしい。本気で恋に落ちたんだろうな。一日でも早く、お
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第173話

 紗月のような人間は、幼い頃に捨てられた経験から、自分には愛される価値がないという思いを抱えている。 そのせいで愛情に飢えていながら、本人はそのことにすら気づいていなかった。 祖父は惜しみなく愛情を注いでくれた。けれど、紗月は常に祖父へ引け目を感じていたため、その愛を心から安心して受け取ることができなかったのだ。 本来なら家族のぬくもりを最も必要とする時期に、それを与えられなかった。 だから紗月はおそらく、この先も一生、自分が一度も手にできなかった形のない感情を求め続けるのだろう。 家族の情も、友情も、愛情も。 紗月にとって、一度結ばれた縁は何よりも尊い。 どれほど傷つけられても、そう簡単には手放せないものだった。 もともと紗月の手の中にあるものは、あまりにも少ない。 だからこそ、凛子という存在が、彼女にとってどれほどかけがえのないものなのか――慎一は誰よりも理解していた。 紗月にとって、本当の意味で友人と呼べる相手は凛子ただ一人。 紗月が一瞬たりともためらうことなく、グラスの赤ワインを飲み干す。 その様子を見届けた慎一は、静かに目を伏せ、口元にかすかな笑みを浮かべた。 紗月がグラスをテーブルへ戻すや否や、慎一はボトルを手に取り、再び赤ワインを注いでいく。 交渉とは、互いに条件を差し出し、利益を交換するものだ。 望むものを手に入れたいのなら、それに見合うだけの代価を支払わなければならない。 それすら持たないのなら、残されたものは自分自身を差し出すことだけだ。 紗月は接待の席に出た経験などなかったが、酒席に蔓延る悪習については耳にしたことがあった。 だが、実際にその立場へ置かれて初めて知る。 想像していた以上に、それは苦しかった。 一杯飲み干しただけで、頬はうっすらと赤く染まり、腹の底からじわりと熱が広がっていく。 目の前には、再びなみなみと注がれた赤ワイン。 紗月は困ったように眉を寄せ、そのグラスを見つめた。それでも迷ったのは、ほんの数秒だけだった。 意を決したようにグラスを持ち上げ、再び赤ワインを喉へ流し込む。 慣れない酒を一気にあおったせいで、喉が焼けるように熱くなり、危うく咳き込みそうになる。 もともと紗月は赤ワインが苦手だった。 強い酸味と渋み、そして葡萄特有のほろ苦さが舌にまとわりつき、飲み込むたびに苦
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第174話

 慎一と初めて出会った幼い頃から、ともに成長し、結婚し、そして離婚するまで――。 紗月は一度たりとも、慎一という人間を理解できたことがなかった。 慎一は幼い頃から冷静で、自分の感情を滅多に表へ出さない。 喜びも、怒りも、悲しみも。 どんな感情も胸の奥深くへ押し込み、その本心を誰にも見せようとはしなかった。 だから紗月は、これまで一度も慎一の本音を見抜けたことがない。 そして今も、それは変わらない。 意味ありげに自分を抱き寄せ、思わせぶりな言葉を囁く慎一が、何を考え、何を望んでいるのか……紗月には少しも分からなかった。 酒の熱で頭はぼんやりとしていたが、それでも意識の片隅には、かろうじて理性が残っている。 慎一が欲しているもの。 今さら自分から何を得ようとしているのか、紗月には見当もつかなかった。 ただ一つ分かっていることがある。 離婚は、慎一が本当に望んだ結末ではなかったということだけは。 祖父に頼み込み、無理を言って離婚させてもらったのは紗月のほうだ。 慎一も納得していたわけではないだろう。紗月への憎しみだって、今なお消えてはいないはずだ。 ただ、自分の過ちで一人の命を失ったからこそ、一時の罪悪感に駆られ、紗月に許しを乞おうとしただけなのではないか。 けれど、あの子を失った痛みは、慎一よりも紗月のほうがはるかに深い。 そもそも慎一は、あの子の誕生を望んでいなかった。あれほど自分を憎んでいた彼が、自分との子どもを望むはずがない。 その事実を思い返しただけで、紗月の胸は再び強く締めつけられた。 目の奥が熱を帯び、涙がにじんで視界を滲ませる。 無理に手に入れたこの結婚で、紗月はもう十分すぎるほど報いを受けた。それなのに、どうして終わることさえ許されないのだろう。「……朝倉社長が欲しいものは、私の身体ですか? 性欲さえ満たせれば、それで満足なのですか」 男というものは、本当に理解できない。愛していなくても、どうして欲情することができるのだろう。 慎一は紗月を憎んでいるのに、それでも彼女を抱こうとする。 あるいは慎一にとって、身体を重ねることさえ、復讐の一つなのかもしれない。 どれだけ考えても、慎一の本心だけは見えてこなかった。 あまりにも直接的な問いかけに、慎一はわずかに眉を寄せた。 涙をいっぱいに溜めた紗月の瞳を目
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第175話

 もし紗月が祖父に泣きつく前に、ほんの一言でも、自分へ想いを打ち明けていたなら――。 それでも自分は、あれほど激しく怒っただろうか。 信頼していた相手に裏切られたと決めつけ、許せないとまで思っただろうか。 慎一も、紗月が自分に好意を抱いている可能性を、一度も考えなかったわけではない。 だが、紗月はその想いを一度たりとも口にしなかった。 慎一自身も大学へ進学してからは目まぐるしい日々に追われ、恋愛へ意識を向ける余裕などなかった。 だから、その可能性を確かめようとすることもなく、いつしか考えないようになっていた。 慎一は昔から、人の感情を察することが得意ではない。 幼い頃から数え切れないほどの好意や告白を向けられてきた。 それでも学生時代、一度として誰かに心を動かされたことはない。 紗月と同じように、慎一にも友人と呼べる存在はほとんどいなかった。 ただし、その理由は紗月とはまったく違う。 紗月が人とのつながりを求め続けていたのに対し、慎一は誰かを心から信用したことがなかった。 差し伸べられた好意も親愛も、自ら距離を置き、受け入れようとはしなかった。 そんな慎一にとって、湊斗だけは唯一の例外だった。 あまりにもしつこい性格で、一度決めたら目的を果たすまで決して諦めない。そんな彼にまとわりつかれ続け、慎一も根負けするように友人として受け入れた。 もしも――花奈が現れていなければ。祖父から紗月と結婚するよう言われても、慎一はそこまで強く反発しなかっただろう。 よりにもよって花奈と出会ったあとだった。 しかも慎一が紗月に、好きな人ができたと打ち明けた直後に、紗月は自分を裏切り、祖父へ泣きついたのだ。  花奈が去るとき、慎一のもとに残されたのは一本の電話だけだった。 電話口で、彼女は泣いていた。 慎一は自分よりも、もっと彼にふさわしい女性と結婚するべきなのだと。 ごく普通の家庭に生まれた自分では、慎一のような家柄の人とは釣り合わないのだと、涙ながらに告げた。 その電話を最後に、花奈とは二度と連絡が取れなくなった。 祖父が金を渡し、花奈を自分のもとから去らせたのだ。 それでも慎一は、祖父へ怒りをぶつけることができなかった。 だから、ぶつける相手を失った怒りも、行き場のない悔しさも、その矛先はいつしか紗月へ向いていた。 紗月を
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第176話

 しばし、沈黙が流れた。 紗月は慎一の答えを待ち続ける。けれど返ってきたのは言葉ではなく、次第に冷え切っていく眼差しだけだった。 薄く結ばれた唇は、見る間に不機嫌そうな一直線を描いていく。 その表情を見つめているうちに、紗月はふと自嘲したくなった。 こんなことを尋ねた自分のほうが、よほど滑稽ではないか、と。 今さら、慎一が何を考えているのか知ろうとするなんて。 そんなことに意味があるはずもなかった。 慎一が何を思っていようと、この三年間で紗月は十分すぎるほど傷ついてきた。 今さら二言三言、本心を打ち明けられたところで、気持ちが変わることなどない。 愛情は、とっくに擦り切れてしまった。 慎一に期待することも、何かを望むことも、もう何一つ残ってはいない。「……もう結構です、朝倉社長。これ以上話しても意味はありません。何かしたいことがあるのなら、好きになさってください。凛子を助けていただけるのなら――」 最後まで言い切る前に、慎一が不意に口を開いた。「昨日、俺が出した条件を受け入れろ」 紗月の腰へ回していた腕を、慎一はゆっくりとほどく。 そのまま彼女の手からワイングラスを取り上げると、一歩、また一歩と、わずかに距離を取るように後ろへ下がった。 突然腕の中から解放され、紗月は一瞬、何が起きたのか分からず立ち尽くす。 数秒遅れて我に返ると、確かめるように口を開いた。「……契約上の夫婦になる、というお話ですか」「そうだ」「……」 紗月は再び口を閉ざした。 俯いたまま、しばらく自分の靴先を見つめていた。 やがて、その視線は先ほど誤ってこぼした赤ワインの染みへと静かに移る。 慎一は、これでも譲歩したつもりなのだろう。 前回の機会を逃した以上、次はもう簡単には済ませない――そう言っていたはずなのに。 巡り巡って彼が求めたものは、結局あのときと何も変わっていなかった。「朝倉社長。どうして、私でなければならないんですか。あなたが望みさえすれば、契約上の妻になりたい女性はいくらでもいるはずです。それに、朝倉社長夫人の顔を知っている人も、ほとんどいません。ですから、私でなくても――」「紗月」 最後まで言わせることなく、慎一が低く遮った。「俺はもう譲歩した。どうせ最後には俺を頼るしかない。それ以上、くだらない言い訳を並べるな」 何
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第177話

 紗月が契約を受け入れた瞬間、慎一は自分でも気づかぬまま、胸の奥に張り詰めていたものがふっとほどけるのを感じていた。 扉のほうへ数歩歩み寄ると、スマートフォンを取り出し、秘書へ短く連絡を入れる。 数分も経たないうちに休憩室の扉がノックされ、秘書は二部の契約書を慎一へ手渡した。「署名しろ」 慎一は紗月のもとへ戻ると、契約書を先ほどのバーカウンターへ無造作に置く。 紗月は黙ったまま署名欄へ視線を落とし、自分の名前を書き記した。 今回は、前回のように契約内容へ目を通すことさえしなかった。どうせ読んだところで、何かが変わるわけではない。 署名を終えると、書類を揃え、静かに慎一へ差し出す。 慎一は万年筆を取り出し、流れるような手つきで自らの名を書き入れた。 その表情からは、何一つ感情を読み取ることができない。 喜んでいるのか、それとも違うのか。 紗月には、もう分からなかった。 自嘲するように、小さく息をつく。「おめでとうございます、朝倉社長。ようやく、お望みどおりになりましたね」 慎一は喉の奥で低く笑った。 その笑みにどんな意味が込められているのか、紗月には読み取れない。「紗月、契約が成立した以上、まずはその話し方から改めたらどうだ」「朝倉社長、私の話し方に問題があるとは思えません」「そうか。だが、昔のお前は俺をそんなふうには呼ばなかった」 紗月は一瞬、言葉を失った。 敬語に改めたことを、慎一が気に留めているとは思いもしなかったのだ。 そんな些細なことにまでこだわる彼に、紗月はわずかに眉をひそめる。何か言い返そうと口を開きかけたとき、慎一の手が、たった今署名したばかりの契約書の上に置かれていることに気づいた。 紗月の視線を察した慎一は、人差し指で契約書を二度、かすかに叩く。 まるで、声なき警告を与えるように。「……慎一」 紗月は小さく息をのみ、どこか諦めを滲ませながら呼び直した。「……これで、いい?」 返ってきたのは、慎一の喉の奥で零れた小さな笑いだけだった。 慎一は契約書を手に取り、一部を自分のもとへ収めると、残る一部を紗月へ差し出す。 紗月は一瞬ためらったものの、静かにそれを受け取った。 どんな内容であれ、契約は契約だ。 手元に保管しておくべきものなのは間違いない。「契約が成立した以上、お約束も果たしていた
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第178話

 受話器の向こうでは、凛子が興奮した様子で次から次へと言葉を重ねていた。 たった二日の間に、天国と地獄を何度も行き来するような出来事を経験したのだ。胸に溜め込んでいた思いを、一つ残らず紗月に聞いてもらいたくてたまらないのだろう。 何より、一刻も早く紗月に会いたがっていた。『さっちゃん、今どこにいるの? 私が会いに行く』 紗月は、すぐそばまで歩み寄ってきた慎一へ目を向けた。 口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。 けれど、その瞳に宿る温度はどこまでも冷たく、微笑んでいるはずなのに、ひどく意地の悪い表情に見えた。「紗月、教えてやれ。あいつを助けるために、また俺のところへ戻ってきたってな。それを聞いても、あいつが今みたいに笑っていられるか、見ものだ」 慎一は、凛子が自分を快く思っていないことを知っていた。だからこそ、その事実を紗月自身の口から聞かせようとしているのだった。 慎一は分かっていた。 こんな言葉を口にすれば、紗月が動揺することも。 案の定、紗月の身体はぴくりと強張る。 慎一の声が電話の向こうまで届いてしまうのではないか。そんな不安から、紗月はスマートフォンを両手で強く握り締めた。 幸い、慎一はスマートフォンとは反対側の耳元へ唇を寄せ、囁くように声を潜めていたため、凛子へ聞こえることはない。「ついでに伝えておけ。弟の面倒くらいちゃんと見ろとな。年上の女の家へ勝手に泊まり込むような真似はさせるな。それから、自分の親父の会社で人の妻と抱き合うとは、節度を疑うな」 慎一が言葉を紡ぐたび、熱を帯びた吐息が紗月の耳朶をかすめる。 くすぐるような熱に耐えきれず、紗月は反射的に身を引こうとした。 耳元で囁かれる声に意識を奪われ、凛子が電話の向こうで何を話しているのか、ほとんど頭へ入ってこない。 優介の話題を何度も繰り返す慎一を見ていると、その存在がよほど引っかかっているのだと嫌でも伝わってきた。「凛子、今日は……」 よほど興奮しているのだろう。受話口から聞こえる凛子の声は、離れていてもはっきりと分かるほど大きかった。 今すぐ会いたいと訴える声は、すぐそばにいる慎一にもはっきり聞こえているだろう。 慎一の前で凛子と長く話したくなかった紗月は、彼の様子を一度だけ窺ったあと、すぐに視線を伏せ、小さな声で凛子の誘いを断った。「ごめんなさい、
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第179話

 ほどなくして、ドレスサロンのスタッフたちがやってきた。 紗月が今夜身につけるドレスを選べるよう、秘書は別の部屋を用意していた。 そこも休憩室として使われているらしい。室内の設備も家具も真新しく、誰かが使用した形跡はほとんど見当たらない。 こうした機会のためだけに用意された部屋なのかもしれない。 秘書に案内され、部屋の中央に置かれたソファへ腰を下ろしながら、紗月はぼんやりとそんなことを思っていた。 次々と、色とりどりの輝きを放つドレスが何列にもわたって運び込まれる。 白い手袋をはめたスタッフたちは、一着ずつ丁寧に広げ、紗月が見やすいよう目の前へ並べていった。 紗月はパーティーにもドレスにも、それほど興味がない。 すべてを見終える前に、できるだけ目立たない一着を選び、この場を早く終わらせようとした。 慎一が手配していたのは、ドレスだけではなかった。 ヘアメイクを担当する専門チームまで待機していたのだ。 卒業式を除けば、これほど本格的に着飾るのは、紗月にとって初めての経験だった。 これほど多くの人に身支度を整えられることにも慣れておらず、メイクを施されている間も、ドレスを試着している間も、どこか落ち着かない。 スタッフに褒められても困ったように微笑むことしかできず、どう返せばいいのか分からなかった。 すべての支度が終わる頃には、三時間もの時間が過ぎていた。 その間、慎一は一度も姿を見せない。 秘書が支度の終了を知らせたのだろう。 スタッフたちが一礼して部屋を出ていき、広い室内に紗月だけが残ったところで、ようやく扉が静かに開いた。 入ってきたのは慎一だった。 紗月が選んだのは白いドレス。指先が触れる生地は驚くほど柔らかく、なめらかだった。 照明を受けるたび、素材の美しい艶がごく淡い青みを帯びて揺らめく。 全体のデザインはいたってシンプル。 袖だけは透け感のあるチュールで仕立てられ、控えめな愛らしさが添えられていた。 散りばめられた小さなダイヤモンドも決して華美ではない。近くで見れば、その繊細な細工の美しさに思わず目を奪われる。 数あるドレスの中で最も控えめな一着を選んだつもりだった。 それでも、決して安価な品ではないことくらい、紗月にも分かる。 胸元へ散りばめられた小さなダイヤモンドを指先でそっとなぞっていると、視界の
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第180話

 これまで慎一は、パーティーや晩餐会の類に、自ら足を運ぶことなど一度もなかった。 彼の仕事は、そうした華やかな社交の場に頼らずとも十分に成り立っている。もともと賑やかな場所を好む性格でもなく、招待状が届いても決まって断ってきた。 今日に限って、その招待状の存在を思い出した。 紗月と偽りの夫婦として契約を交わした瞬間、少し前に届いていた業界関係者の交流パーティーへの招待状が、不意に脳裏をよぎったのだ。 車はほどなくして、高級ホテルの正面玄関へ滑り込んだ。 ドアマンがすぐに駆け寄り、慎一と紗月のために恭しくドアを開ける。 ホテルの前には、すでに数人の記者たちが待ち構えていた。慎一が車から降りた瞬間、一斉に駆け寄り、由衣との関係について矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。 その様子に気づいた警備員が慌てて制止に入ろうとした。 慎一は片手を軽く上げ、その動きを止める。「構わない」 穏やかな笑みが、その端正な顔に浮かんでいた。 報道陣を前にしても微塵も動じず、余裕を崩さない。 こうした場で人目を集めることにも、質問を浴びることにも、慎一はすっかり慣れていた。 紗月は違う。 こんな状況を経験したことなど一度もない。思わず顔を伏せ、その場を離れようと足を踏み出しかける。 慎一は笑みを絶やさぬまま手を伸ばし、逃がさないように紗月をそっと引き寄せた。腕の中へ収めたまま報道陣へ視線を向け、穏やかな口調で紗月を紹介する。「こちらは私の妻です。人前へ出ることを好まない性格ですので、これまで公の場で紹介することは控えていました。今回の報道では、私が綾瀬さんのために妻と離婚したという話まで出ているようですが、そのような事実は一切ありません」 慎一の声は終始穏やかだった。 一語一句をはっきりと言い切り、聞き間違える余地すら与えない。「朝倉社長、今回奥様を公表された理由をお聞かせください」 言葉が途切れた一瞬を逃さず、一人の記者がすぐさま問いかけた。 慎一はその記者へ視線を向け、口元に笑みを浮かべる。 紗月の肩を抱く腕には、わずかに力がこもった。 紗月もカメラへ顔を向け、懸命に笑みを作る。自分でも分かるほど、その笑顔はぎこちなかった。「妻に根拠のない誹謗中傷や憶測が向けられることだけは避けたかった。そのためにも、この機会に、私たち夫婦の関係に何の問題もな
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