All Chapters of 元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚!: Chapter 381 - Chapter 390

533 Chapters

第381話

ほどなくして、湊と景は赤銅で最も広いVIPルームに到着した。二人がソファの中央へ腰を下ろしたところで、正真が疲れ切った顔をして入ってきた。湊は眉を上げた。「これはこれは珍しい客だな。元気な男の子が生まれてからというもの、俺たちの集まりには一度も来なかったじゃないか」正真は苦笑した。「その話はするな。父親になったばかりの頃はうれしかったが、毎日となると本当に疲れる。今では、妻に頼んでもう一度お腹の中に戻したいくらいだ」湊は面白がるように笑った。「まだそれほど経っていないのに、もう音を上げたのか?本当に大変なのはこれからだぞ。てか、さっきはお前を羨ましがっていた奴もいたんだぜ?」正真はすぐに景へ目を向けた。「俺を?景、お前なら長年蓄えてきた体力もあるし、子どもが何人でも問題ないだろ」景は平然と答えた。「別に急いではいない」湊は笑いをこらえた。「口では急いでいないと言っているが、内心ではどれほど焦っているか分からないぞ」景の顔色がよくないことに気づき、正真は慌てて話題を変えた。「こんな場所で子どもの話をしても面白くないだろ。湊、早く何人か呼んで、酒の相手をしてもらおう」湊が呼び出しボタンを押すと、ほどなくして、スタイルがよく華やかな顔立ちのホステスが数人入ってきた。景は中央に背筋を伸ばして座り、権力者特有の威厳を漂わせていた。目の前に美しい女性たちが並んでも、その眼差しはわずかにも揺れなかった。湊は背が高く細身の女性を隣に座らせ、正真は小柄で愛らしい雰囲気の女性を選んだ。景がまったく反応を示さないため、湊は肘で軽くつついた。「ただその場に合わせるだけだ」景はわずかに目を上げた。「俺がここへ来る条件を忘れたのか?」湊はそれ以上勧めることができず、景のそばへ来ていた女性たちを下がらせた。そのあと何気なくスマホを開き、自分もSNSへ何か投稿しようとしたが、その前に蒼生の新しい投稿が目に入った。湊はスマホを景の前へ差し出した。「見ろよ。ずいぶん仲よく残業しているじゃないか。二人で向かい合って夜食まで食べているぞ」景は目を伏せ、画面を一度見た。その眼差しが、たちまち暗く沈んだ。何気なく撮られた写真で、絃葉の顔全体は写っていない。それでも、白くほっそりとしたあの
Read more

第382話

景が、赤銅のような場所にいるなんて。絃葉の細い指先に、わずかに力が入った。その瞳に暗い影がよぎる。彼女はもう一度動画を再生し、鋭い視線で細部まで確認した。映像の中では、湊と正真の隣に、美しく化粧を施した女性がそれぞれ寄り添っていた。だが景だけは、一人で部屋の隅に座っている。冷ややかで周囲を寄せつけない様子は、その場の退廃的で華美な雰囲気から明らかに浮いていた。ちょうどそのとき、湊がSNSを更新したという通知が表示された。誕生日ケーキを囲み、大勢で祝っている写真が目に入る。そこで絃葉は、ようやく事情を理解した。湊の誕生日会だったのだ。親友である景が出席するのも、無理はない。反射的にメッセージを送り、事情を尋ねようとした。だが、指先が画面に触れる直前で止まった。二人の秘密の結婚生活は、まだ距離感を探っている段階だ。築山グループを率いる景には、仕事上の付き合いや社交も避けられない。何もかも問いただしていたら、夫の帰りを不安に怯えながら待ち続ける、疑り深い妻と何が違うのだろう。凪杜と付き合っていた頃でさえ、絃葉は相手に十分な自由を与えていた。残念ながら、凪杜は彼女の寛容さを好き勝手にしてもいいという意味に受け取り、最後には信頼を裏切った。だが、景は違う。絃葉は彼の人柄を信じている。それ以上に、自分自身の判断を信じていた。スマホをバッグへ戻し、絃葉は車で邸宅へ帰った。特注の浴槽を満たす温かな湯に身を沈め、立ち上る湯気の中で目を閉じる。疲れが少し和らぐと、彼女はアトリエへ入った。家業を引き継いだ今も、絵を描くことだけは決して手放したくない、心のよりどころだった。絵筆がキャンバスの上を自由に走り、淡い光の中に、凛々しく美しい女性の輪郭を描きだしていった。景はSNSに投稿された動画を目にした瞬間、瞳を冷たく曇らせた。映像の中では終始一人で座っていたとはいえ、赤銅のような場所にいるだけで、余計な誤解を招きかねない。彼はすぐに絃葉へメッセージを送った。【今夜は湊の誕生日を祝うために、赤銅へ来ている】だが、いつまで待っても返事はなかった。この時間なら、彼女はすでに家にいるはずだ。普段はどれほど忙しくても、絃葉はすぐに返信してくれていた。待っている一分一分
Read more

第383話

景はマリの言葉を完全に無視し、再びスマホを確認した。画面には、相変わらず新しいメッセージが表示されていない。眉間のしわが、ますます深くなった。そのとき、突然スマホが震え始めた。画面には「絃葉」という名前が表示されている。景はほとんど反射的に立ち上がり、大股で廊下へ向かって電話に出た。「もしもし?」声が自然と優しくなる。電話の向こうから、少し申し訳なさそうな絃葉の声が聞こえてきた。「さっきまでアトリエで絵を描いていて、スマホを見ていなかったの。そっちはずいぶん騒がしいけど、まだ外にいるの?」「まだ」という言葉に、景の瞳がわずかに揺れた。やはり彼女は、とっくに知っていたのだ。「赤銅にいる。湊の誕生日を祝っているんだ」「写真、見たわ」絃葉は笑いを含んだ声で尋ねた。「楽しんでる?」「それなりに」景は一度言葉を切ったが、やはり聞かずにはいられなかった。「君は......俺がこういう場所へ来るのを気にしないのか?」「私、景を信じているから」その一言に、景の胸がわずかに震えた。さらに彼女の真意を確かめようとした、そのときだった。背後からマリの甘えるような声が聞こえてきた。「築山様、こんなところに隠れて、電話をしているんですか?」電話の向こうが、突然静まり返った。絃葉の心臓が、反射的に強く縮んだ。――今夜の景にも、女性の相手がいるということなのか。絃葉が口を開こうとした瞬間、電話の向こうで激しい物音が響いた。その直後、通話は突然切れた。もう一度かけ直してみたが、景のスマホは電源が切れていた。いったい、何が起きたのだろう。絃葉は明かりもつけず、ベッドに横たわったまま、黙って天井を見つめていた。突然聞こえてきた女性の声によって、静かな水面のようだった心に、幾重もの波紋が広がっていく。眠気は一瞬で消え去った。過去にも覚えたことのある不安が、激しい波のように押し寄せてきた。絃葉が沈んだ気持ちでいると、悠から電話がかかってきた。「あのね、絃葉......私、今から京城へ行きたいの......一緒に来てくれる?」絃葉は一秒だけ迷い、きっぱりと答えた。「分かった」――景の眼差しが一瞬で冷えた。口を開こうとしたそのとき、泥酔した男が突然
Read more

第384話

マリが小声で教えた。「この方は......京城財界の御曹司、築山景様よ。早く謝って」駿はようやく事態を理解し、次の瞬間、その場に勢いよくひざまずいた。「築山様、も、申し訳ございません!あなたとは知らず、とんでもない無礼を働いてしまいました!スマホは弁償します。今すぐ新しいものをご用意しますから、どうかお許しを......私も志村家も見逃してください。ほ、本当に反省しています......」つい先ほどまで傍若無人に振る舞っていた駿が、今は床に土下座し、必死に頭を下げて謝罪していた。その一部始終を、変装して店内へ潜り込んでいた芸能記者が、物陰から見つめていた。暗がりの中で、カメラのシャッター音がひそかに鳴った。物音を聞きつけ、湊と正真がVIPルームから慌てて駆けつけた。湊は駿と面識があったため、すぐに間へ入った。「景、落ち着けって。志村さんも酒を飲みすぎただけだ」景は駿を冷たく一瞥した。すでに楽しむ気など完全に失っていた。「先に帰る」スタッフが慌てて床のスマホを拾い、景へ差し出した。景は粉々になった画面を見つめたあと、陰鬱で鋭い視線を駿へ向けた。そして背を向け、大股でその場を立ち去った。店の前では、運転手がすでに専用車を用意して待っていた。景は険しい顔で後部座席へ乗り込み、画面の割れたスマホを佳樹へ投げ渡した。中に保存されている機密データや写真を、必ずすべて取り出すよう命じる。京城の邸宅へ戻った頃には、すでに夜も更けていた。広大な敷地に建つ6階建ての邸宅で、前後の庭だけでも数百平方メートルはある。当時、60億円という破格の値段で購入した、景が京城で普段暮らしている家。だが、広大な邸宅の中は静まり返り、ひどく寂しい。管理しているのは、執事一人と使用人二人だけだ。物音を聞きつけ、使用人の佐藤が迎えに出て、景のコートを受け取った。「夜食をご用意いたしましょうか?」景は夜に酒を飲んだだけで、ほとんど何も食べていなかった。今になって、胃が焼けるようにかすかに痛み始めている。「卵雑炊を作ってくれ」景が淡々と告げると、佐藤は返事をして台所へ向かった。景は食卓の前に座り、スマホへケーブルをつないで起動しようとした。だが画面は、いつまで経っても真っ暗なままだった。
Read more

第385話

悠は苦笑した。目尻には、涙がきらめいていた。「本当は悔しいの。先に私へ近づいてきたのは彼なのに......今になって、わざと近づいたり離れたりして......」車は赤銅の前に止まった。京城で最も名高い歓楽施設は、この時間もまばゆい照明に包まれ、人々が華やかな享楽に酔いしれていた。二人がロビーへ入った直後、2階からにぎやかな声が聞こえてきた。声のするほうを見上げると、マリが泥酔した湊を支えながら、階段を下りてくるところだった。その後ろには、華やかな服装をした御曹司たちが数人ついている。湊が顔を上げると、悠の冷たい視線と正面からぶつかった。彼はその場で固まった。「ゆ、悠ちゃん?どうしてここに?」悠はその場に立ったまま、一語ずつはっきりと告げた。「江越様が、どれほど華やかな夜遊びをしているのか見に来たのよ」湊は慌ててマリを押しのけ、足早に悠の前へ向かった。「話を聞いてくれ。今日は――」「今日は何?」悠は彼の言葉を遮った。「仕事の付き合いだったから?断れなかったから?それとも誕生日だったから?あんたの言い訳はもう聞き飽きたわ」悠の後ろに立っていた絃葉は、その場全体を静かに見回した。だが、景の姿はどこにもない。もう家へ帰ったのだろうか。絃葉は無意識にポケットのスマートフォンへ触れた。そこで、午後に届いたあのメッセージを最後に、景から連絡がないことを思い出した。「悠、もう行きましょう」絃葉は静かに声をかけた。「別のどこで話そう」しかし湊は、悠の手を勢いよくつかんだ。その瞳には、抑えきれない喜びが浮かんでいた。「行かないでくれ......悠ちゃん、もしかして俺の誕生日を祝うために、わざわざ京城まで来てくれたのか?」「考えすぎよ」悠は冷たく手を振り払った。「私は絃葉に付き添って来ただけ。あんたなんか......」そのとき、背後から甘く愛らしい声が聞こえてきた。「お兄ちゃん、酔っていると聞いたから、迎えに来たの」皆が振り返ると、柑奈が上品なロングドレスにキャメル色のロングコートを合わせ、笑顔で階段のそばに立っていた。だが悠の姿を目にした瞬間、その笑みが凍りついた。悠はその光景を見つめ、ふいに笑った。その笑い声には、言葉では表せないほどの寂
Read more

第386話

タクシーは真夜中の静まり返った通りを走り抜け、やがて重厚な装飾が施された鉄製の門の前で止まった。絃葉は料金を支払い、広々とした高級住宅街の歩道へ降り立った。風が音を立てて吹き抜け、薄手の服の裾を巻き上げる。骨まで凍えるような寒さだった。彼女は無意識に襟元をかき合わせ、夜の闇と広い庭園の奥にたたずむ巨大な邸宅を見上げた。ところどころにともる外廊下の照明だけが、淡い黄色の光を放っている。深い夜の中、邸宅は一層静かで、近寄り難く見えた。彼女が想像していた「京城財界の御曹司」の住まいと、まったく変わらない。壮麗で豪華でありながら、人の温もりを感じさせないほど冷たい場所だった。絃葉は大きく息を吸い、以前景から教えられた暗証番号を入力した。電子音が短く鳴り、門が開いた。丁寧に手入れされていながら、今は深く静まり返って見える前庭を通り抜け、邸宅の正面玄関へ向かう。もう一度暗証番号を入力すると、重厚な木製のドアが音もなく開いた。「どなたですか?」警戒心のにじむ、中年女性の声が奥から聞こえてきた。その直後、寝間着姿の使用人、佐藤が姿を現した。真夜中に突然入ってきた見知らぬ絃葉を目にして、明らかに驚いている。声にも強い警戒がにじんでいた。「どうして、この家の暗証番号をご存じなのですか?」邸宅に使用人がいるとは思っていなかった絃葉も、少し驚いた。「こんばんは。景に会いに来たのですが、彼はどこにいますか?」佐藤は、目の前の若く美しい女性を観察した。真夜中に一人で訪れ、事前の連絡もしていない。景が女性を泊めるため、この家へ連れてきたことも一度もなかった。それでも暗証番号を知っているのだから、景とはよほど親しい関係なのだろう。ある程度察した佐藤は、少し口調を和らげた。「旦那様は、もうお休みになっています。失礼ですが、どちら様でしょうか?」「西尾絃葉と申します。彼の......友人です」絃葉は一度言葉を切った。自分が何者なのか、どう説明すればいいのか、とっさには分からなかった。玄関のコートハンガーには、景のスーツジャケットが掛かっている。それを見て、彼女は少し安心した。景は確かに、ここにいる。「西尾様ですね」佐藤はうなずいた。「旦那様は、今夜あまりご機嫌がよくな
Read more

第387話

どうして絃葉がここにいるのだろう。――今夜は酒を飲みすぎたのか?いや、せいぜいワインを半分ほど飲んだだけだ......景は驚きのあまり、夢を見ているのだと思い込み、絃葉の手へと腕を伸ばした。ところが、本当に彼女の柔らかく滑らかな手に触れることができた。夢だとすれば、この感触はあまりにも生々しい。驚きで全身の毛が逆立ちそうになったその時、絃葉がゆっくりとベッドの端に腰を下ろし、そっと尋ねた。「どう?私に会えた感想は」景はほとんど反射的に身を起こした。絃葉を見つめたまま、その顔は完全に固まっている。「絃葉、本当に君なのか?」絃葉は笑ってうなずいた。「ええ、紛れもなく本物よ」景には、どうにも信じ難かった。「いや......どうしてこんな時間に京城にいるんだ?もう家で寝ていたんじゃ......?」絃葉はわずかに眉を寄せた。「私が突然現れたの、嬉しくなかったみたいね」景は彼女をじっと見つめた。表情こそ極めて平静だったが、その胸の内では、言葉にできないほどの喜びと興奮が激しく渦巻いていた。彼は絃葉を勢いよく抱き寄せた。「来るなら、どうして一言知らせてくれなかった......」「メッセージを送ったけど、返事がなかったの」「今夜、スマホを落として壊してしまったんだ。電源も切れている。すまない。予備のスマホの番号も、早く君に教えておくべきだった」景は絃葉をきつく、これ以上ないほど強く抱きしめた。今この瞬間が夢なのではないかと不安だった。しかし、腕の中の感触があまりにも確かで、夢ではなく現実なのだと分かった。絃葉は、彼が思っていたほど自分に無関心ではなかったのだ。きっと彼が今夜、赤銅のような店へ行ったと知り、それで......真夜中に様子を確かめに来たに違いない。きっとそうだ。絃葉は驚いたように口元をほころばせた。「落として壊したの?そんなこと、景らしくないわね」景はそれ以上説明しなかった。今はただ、思いもよらない喜びに心のすべてを奪われていた。「そんなことはもうどうでもいい......今すぐ君にキスしたい」景は絃葉の頬を両手で包み、身をかがめて唇を重ねた。その口づけは穏やかでありながら、いつまでも途切れることなく続き、彼の眼差しには次第に欲望の色がにじんでいった。絃
Read more

第388話

その夜、二人は飽くことなく求め合い、半月余り募らせてきた思いを、余すところなく埋め合わせようとするかのように愛し合った。東の空が白み始めて、ようやく互いを抱きしめたまま深い眠りに落ちた。景の胸に巣食っていた不安は、絃葉が真夜中に突然現れた瞬間、すっかり消え去っていた。彼の気持ちはジェットコースターのように、どん底から一気に天まで舞い上がった。失ったと思っていたものを取り戻したような喜びは、極上の酒よりも彼を酔わせた。朝の光が厚いカーテンの隙間から差し込み、寝室の床に細長い光の帯を落としていた。景はとっくに目を覚ましていたが、起き上がるのが惜しく、腕の中で眠る女性を静かに見つめていた。穏やかで美しい寝顔。長いまつ毛が、目元に淡い影を落としている。景はたまらず身をかがめ、彼女の唇に細かな口づけを落とした。絃葉はそのキスで目を覚ました。まだ眠気の残るなか、腰に広がる重だるさに気づき、無意識に手を当てて揉む。時刻を確認した彼女は、少し焦った口調で言った。「そろそろ海城へ戻らないと。午後に年次総会が......そういえば、景にも招待状、届いていなかった?」景はもともと、その催しにさほど興味を持っていなかった。しかし絃葉も出席すると聞いた途端、目がぱっと輝いた。「ああ、招待されている。君は行きたいのか?」絃葉は身を起こし、ベッドのヘッドボードにもたれた。その眼差しには強い決意が宿っている。「ええ。顔を出しておくだけでも意味はあるわ。今の西尾グループには人脈を広げることが必要だもの。優秀な経営者と知り合って、今後の事業につながる新しい提携先を探したいの」そう話す彼女の瞳には、仕事へのひたむきな情熱がきらめいていた。だが、景の胸はきゅっと締めつけられる。彼女のそばには、すでに細谷蒼生という類いまれなビジネスの才に恵まれた男がいる。それなのに、さらに多くの男と知り合おうというのか?景は何食わぬ顔で探りを入れた。「そういう場にはエリートを名乗っていても、実力の伴わない者が少なくない。本当に力のある人間ほど、そうした付き合いには加わりたがらないものだ」絃葉は気にする様子もなく、口元を緩めた。「それでも行ってみないと。一歩踏み出さなければ、新しい道は切り開けないでしょう?」景はそれ以上何も言わなかった。
Read more

第389話

絃葉が彼の邸宅に泊まるのは、これが初めてだった。景はそれをことのほか大切に考え、早くから執事の清水と使用人の佐藤に、豪華な朝食を用意するよう言いつけていた。絃葉は階下へ下り、食卓いっぱいに並んだ和洋さまざまな朝食を目にすると、思わず立ち止まった。「あれ?今日はほかにもお客様が来るの?」景は微笑みながら玄関先から鮮やかな赤いバラの花束を持ってくると、彼女の前へ差し出した。「いや、誰も来ない。これは君をもてなすためだ――この家の女主人である君を」絃葉は花束を抱えた目の前の凛々しい男を見つめ、胸に幾重ものさざ波が広がるのを感じた。彼女は手を伸ばして景のネクタイを引き寄せ、その唇に音を立ててキスをした。清水と佐藤が見ている前で、景の耳は目に見えて分かるほど赤くなっていく。彼は軽く咳払いをすると、何事もなかったように椅子を引いた。二人が食卓に着くと、絃葉は笑いを含んだ眼差しで彼を眺めた。「築山社長、耳が赤いよ?」景は表情一つ変えなかった。「少し暑いだけだ」絃葉は、さも納得したようにうなずいた。「もしかして、照れているの?」景がこれほど気まずそうにしている姿を見るのは、彼女も初めてだった。清水と佐藤は笑いをこらえながら、察しよくキッチンへ下がっていった。景は返す言葉が見つからず、話題を変えた。「絃葉、今回の年次総会にはさまざまな人間が集まる。それに、君はこれまで経済界で積極的に活動してこなかった。西尾グループの内部が二つに割れたという噂も広まっているから、君に対して厳しいことを言う者もいるだろう。先に覚悟はしておいたほうがいい」絃葉の瞳に光がよぎった。その口調は穏やかでありながら、揺るぎない意志に満ちていた。「分かっているわ。でもこれは、いつかは踏み出さなければならない一歩でしょう?」景はうなずいた。「俺も一緒に出席しようか?」しかし、絃葉はやんわりと断った。「それは駄目よ。景と一緒に出席したら、みんな私たちの関係を勘繰るに決まっているもの。まだ公表するつもりはないの」景は眉をわずかに寄せた。「それなら、誰と出席するつもりだ?」「蒼生さんよ。彼がパートナーを務めてくれるから」景は彼女をじっと見つめ、意味ありげな口調で言った。「君とあの男は......仕事の上で
Read more

第390話

絃葉が海城へ戻る飛行機に乗り込んだ頃、凪杜はマンションの姿見の前に立っていた。シワだらけのスーツに不器用な手つきでアイロンをかける姿からは、慣れていないことがありありと分かる。蒸気がゆっくりと立ち上るなか、彼はふと、絃葉が隣に立っている幻を見た。細い指で手際よくネクタイを結び、肩の皺を優しく伸ばしてくれる姿を。あの頃の彼は自信と活力に満ちていたが、今では見る影もなく落ちぶれていた。例年なら、経営者年次総会の招待状は早々に彼のデスクへ届けられていた。しかし今年は、開催直前になっても、金の箔押しが施された招待状が届くことはなかった。自分がすでに、この世界から締め出されたことは分かっている。だが、CKファイナンスと結んだ業績保証契約の期限が目前に迫っていた。最後の土壇場で形勢を覆せなければ、澤木グループは完全に他人の手へ渡ってしまう。あの会社は、彼と絃葉がともに築き上げてきたものだ。みすみす水の泡になるのを、黙って見ているわけにはいかない。凪杜は方々を当たって主催者に連絡をつけ、どうにか一枚だけ招待状を手に入れた。今夜は、西尾グループで新たに任命された二人の社長が、そろって出席するらしい。彼はどうしても確かめたかった。謎に包まれた東地域社長は、彼が今も忘れられずにいる絃葉なのか。もし彼女なら――倒産寸前の澤木グループにも、まだ救いの道が残されているかもしれない。凪杜の知る絃葉は、心優しく、情にもろい。窮地に陥った自分を見捨てることなど、きっとできないはずだ。窮地に追い込まれ、あらゆる相手に頭を下げて助けを乞う日々に、彼の心はすでに限界まで追い詰められていた。絃葉が本当に、西尾家の令嬢であってほしいとさえ願っていた。もしそうなら、必ず手を差し伸べてくれる。自分がこのまま破産し、会社を清算する羽目になるのを、黙って見過ごすはずがない。絃葉が長年抱き続けてきた自分への思いが、そう簡単に消えてなくなるはずはないと、彼は今も信じて疑わなかった。年次総会当日の夜、海城で最も豪華なホテルの宴会場は、きらびやかな照明に包まれていた。凪杜は早々に会場へ到着していた。かつてのように大々的に振る舞い、名刺を配って有力者との人脈を築こうとはせず、会場の片隅で静かに待っていた。――今回の経営者年
Read more
PREV
1
...
3738394041
...
54
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status