Todos los capítulos de 元夫の目は節穴?名門令嬢が電撃再婚!: Capítulo 361 - Capítulo 370

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第361話

二枚の写真の間には、その年に彼女と出会ったときの出来事と、当時抱いた想いを文章で書き添えていた。手間も時間もかかる作業だった。膨大な記憶をたどらなければならないうえ、資料の作成能力まで問われる。景が自らプレゼン資料を作るなど、もう何年もしていなかった。だが、これは二人の物語の始まりを記すものだ。ほかの誰かに任せる気にはなれなかった。景は、このスライドを生涯大切に保管しようとまで考えていた。いつか二人が子や孫に囲まれるようになったら、後の世代にも自分たちの愛の軌跡を見届けてもらいたい。景は、驚くほど真剣に取り組んでいた。一つ一つの言葉を慎重に選び、幼い頃から培ってきた文章力を余すところなく注ぎ込んだ。思い出に浸るほど、運命に導かれてきたという感覚が強くなっていく。絃葉は、初めから自分の運命の女性だったのだ。途中で起きた紆余曲折など重要ではない。最も大切なのは、最後に二人が結ばれたということだった。絃葉はゆっくりと入浴を楽しんだあと、景の古いシャツを身にまとって浴室から出てきた。寝室は静まり返り、ベッドには誰もいない。書斎からだけ明かりが漏れていた。彼女は足音を忍ばせて近づいた。景はわずかに眉を寄せ、画面を真剣に見つめている。仕事に集中しているようだった。「景?こんな遅くまで仕事をしているの?」絃葉は心配そうに声をかけ、彼へ歩み寄った。景は隠し事をしているところを見つかったかのように、耳まで一瞬で赤くなった。そして、音を立ててノートパソコンを閉じる。絃葉は彼の不自然な様子に気づき、不思議そうに尋ねた。「あれ?もしかして、見てはいけないもの?」実は近づいたとき、彼女は画面をちらりと目にしていた。女性らしき写真が映っており、景はキーボードを打ちながら、口元にかすかな笑みまで浮かべていた。まさか......女性とやり取りをしていたのだろうか。胸の奥にわずかな疑念が生まれたが、絃葉は口には出さなかった。景は低い声で答え、立ち上がった。「ああ、社外秘の資料だ」薄着の絃葉は裸足で、シャツの裾から白くすらりとした脚が見え隠れしていた。景は彼女へ近づくと、その体を軽々と抱き上げた。温かな吐息が頬をかすめる。彼は真面目な顔で尋ねた。「どうして最近、いつも俺の
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第362話

二人で朝食を済ませたあと、景がふいに提案した。「二つの家をつなげてから、家事代行に掃除を頼んでも、どうしても細かいところまで行き届かなくなって......専属の家政婦を雇おうと思っているんだが、どう思う?家に他人がいると落ち着かないか?」絃葉の脳裏に、伊藤の姿が浮かんだ。凪杜と別れてからも、伊藤は時折、彼女を気遣うメッセージを送ってきていた。少し前にも、何か手伝えることはないかと尋ねてくれたばかりだ。伊藤は料理上手で、立場をわきまえた振る舞いのできる人だった。絃葉とも非常に気が合っていた。ただ......彼女は、過去の記憶につながる人でもある。絃葉は一瞬ぼんやりしたあと、答えた。「私は構わないよ。誰か心当たりがあるの?」景はうなずいた。「以前来てもらった家事代行の中に、よく働いてくれた人がいた。都合を聞いてみるよ」絃葉は口元をナプキンで拭いた。「今日は療養施設へ行って、おじいちゃんと小正月の予定を相談するつもりなの。それから蒼生と細谷グループの年末業務を片づけたら、休みに入れるわ」景が提案した。「それなら、明後日には多磨城へ帰ろうか?車は俺が手配する」絃葉は予定を頭の中で確認し、笑顔で応じた。「ええ。それじゃあ、旦那さんに手配をお願いしようかしら」彼女が何気なく「旦那さん」と口にしたのは、これで二度目だった。最初は、景に年越しそばを届けたときだ。今回は景の耳にも、はっきりと聞こえていた。胸の奥が温かくなる。「今、俺を何と呼んだ?」絃葉はきょとんとした。「え?別に何も呼んでいないけど......」景は目に笑みを浮かべた。「今の言葉を、もう一度言ってみて」そこでようやく気づいた絃葉は、頬をうっすらと赤くした。「手配をお願いすると言っただけよ。旦那さんなんて呼んでいないわ。聞き間違いじゃない?」景は思わず笑った。「そこまで必死に否定すると、かえって認めているように聞こえるな」二人は顔を見合わせて笑い、温かな空気に包まれた。療養施設に着くと、絃葉は祐一郎に小正月の予定を切り出した。やはり彼女の予想どおり、祖父は健二一家と一緒に過ごすことを心待ちにしながらも、絃葉が反感を抱くのではないかと心配していた。その表情には、相反する思いがありありと浮かんでいる。
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第363話

「この話を、ずっと胸の内にため込んでいた。いつかきちんと話せる機会を見つけて、お前に伝えたいと思っていたんだ。あの頃、お前が私のもとを離れ、あの貧しい若者について行ったまま5年間も戻らなかったことには、私にも大きな責任がある。私は、お前の気持ちを十分に尊重してやれなかった。幼い頃からランウェイに憧れていたことを知りながら、そんなことは令嬢がするものではないと決めつけ、頭ごなしに反対した。その後、お前が絵を学びたいと言ったときも、芸術など何の役にも立たないと考え、無理に経営の道へ進ませようとした。景との縁談についても、事前にお前の意見を聞かなかった。二人をまず引き合わせ、互いを知る機会すら設けず、一方的に話を決めてしまった。そのせいで、お前たちは十分に理解し合うことができず、お前は腹を立ててあの男について行き、5年もの間、苦労することになった。あの5年間、お前は意地になって私に連絡しなかった。それなのに年長者である私まで、意地を張ってしまった。もし私から歩み寄っていれば、もっと早くあの男の嘘に気づき、お前も大切な5年間を無駄にせずに済んだかもしれない......このことを思い出すたび、私はお前の両親にも、お前にも、申し訳ないことをしたと思うんだ......」絃葉の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。祖父とこれほど率直に心を打ち明け合える日が来るとは、一度も思っていなかった。彼女は声を詰まらせながら言った。「おじいちゃんのせいじゃないの......むしろ私は今、後悔しているの。あのとき意地を張って経営学部ではなく美術大学を選ぶべきではなかったし、自分の恋を信じるあまり、頑なにすべてを押し通すべきでもなかった。そのせいで、ずいぶん遠回りをしてしまって......おじいちゃんの判断は、多くの点で正しかった。あの頃の私が、聞かなかったせいで......」祐一郎も目を赤くし、彼女の頭を優しくなでた。「以前の私は、あまりにも先を急ぎすぎていた。孫娘はお前一人しかおらず、私自身も年を取っていたから、まだ頭がしっかりしているうちに、お前の進む道を整えておきたいとばかり考えていたんだ。いつも、私の立てた計画どおりに歩んでほしいと願いながら、お前が本当にそれを望んでいるのか、一度も尋ねようとしなかった。今、お前が芸術の道でこれほど立派
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第364話

絃葉は祐一郎に付き添って多磨城へ戻り、当然ながら依子や健二の一家とも顔を合わせた。景は、彼女の楽しい正月気分が邪魔されることを心配し、二人が戻ってくる前に、わざわざ健二と長い時間電話で話をしていた。具体的に何を話したのか、絃葉は知らない。だが今回帰ってみると、健二も依子も、以前より明らかにおとなしくなっていた。絃葉の部屋も、かつて両親が暮らしていた部屋も、昔のまま残されている。誰かが勝手に手を加えた形跡はなかった。依子は家族を連れ、屋敷の北側にある、長年使われていなかった離れにおとなしく入った。どうやら、自分たちの立場をようやく理解したらしい。絃葉も表面上は礼儀正しく接したが、それ以上の言葉を交わそうとはしなかった。祖父と楽しい正月を過ごしたいという思いから、小正月を迎える数日前、彼女は多磨城の古い商店街へ出かけ、まゆ玉飾りや鏡餅の買い足し、小正月の飾りの品などを買ってきていた。使用人たちと一緒に屋敷の内外を隅々まできれいに整え直し、玄関やそれぞれの入り口には正月の佇まいを彩る飾りが整然と掲げられていた。古い屋敷はすっかり華やかになり、正月らしいにぎやかな雰囲気に包まれた。絃葉がこうして松の内の時期に実家で過ごすのは、もう6年近くぶりだった。今年は西尾家に新たな家族も加わったため、使用人たちは朝早くから休む暇もなく働いていた。台所からは包丁の軽快な音が響き、新春のお祝い料理を準備する香りが絶えず漂ってくる。絃葉は一日中、機嫌よく過ごしていた。夜7時半になると、広いリビングのテレビでは特別番組が流れ、家族全員が大きな食卓を囲み、にぎやかに祝いの料理を味わった。祐一郎は、ぽち袋を分厚い束になるほど用意していた。まず健二の息子と娘に一つずつ渡し、そのあと絃葉にも差し出した。「絃葉、新しい年は仕事も恋も実り多く、毎日を明るく幸せに過ごせるよう祈っているよ」「ありがとう、おじいちゃん」絃葉は両手で受け取ったが、祖父から渡されたぽち袋が二つあることに気づいた。祐一郎は、意味ありげに彼女へ目配せする。絃葉はすぐに察した。もう一つは、景のために用意してくれたものだ。祐一郎が配り終えると、依子もぽち袋を取り出し、一人ずつ手渡していった。絃葉の番になると、依子は明らかに不満そうな顔をした。それで
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第365話

好きな人と一緒なら、何をしていても心は満たされる。二人は車に乗り込んだ。絃葉が祖父から景へ渡すよう預かっていたお年玉を取り出そうとすると、景のほうが先に、今夜受け取ったぽち袋をすべて取り出し、彼女の手に押し込んだ。「じいさんと両親からもらったお年玉だ。じいさんは君の分もわざわざ用意してくれたんだ。受け取ってくれ」絃葉は目を細めて笑い、遠慮することなくすべて受け取った。「ありがとう。うちのおじいちゃんも景の分を用意してくれたの。それじゃあ、私が代わりに預かっているわ」景は柔らかく微笑んだ。「ああ」絃葉は顔を横へ向け、静かに景を見つめた。胸を覆っていた重苦しさは、この瞬間にすっかり消え去り、あふれんばかりの確かな幸福に変わっていた。「ねえ、テレビの特別番組を見ながら、俺が何を考えていたか分かる?」景は運転に集中していたが、彼女の視線を感じ取ったかのように、自然な仕草で手を伸ばした。二人の指が、本能のように絡み合う。絃葉は小さな声で尋ねた。「何を考えているの?」「ずっと先の未来、俺たちが年を取り、周りを大勢の子どもたちに囲まれて、家族みんなで心から笑い合っている姿を想像していた」景の声は、どこまでも優しかった。「今夜のように、無理に楽しそうに振る舞いながら、その場になじめずにいるのではなく、本当に心の底から幸せだと思える家族になりたい」絃葉の胸が、かすかに震えた。愛し合う二人は、考えることまで自然と重なるものらしい。今夜、健二の子どもたちが祖父に挨拶をしてる姿を見たとき、彼女はふいに理解した。祖父と長年支え合って生きてきたにもかかわらず、自分が必死に逃れようとしていたものの正体を。絃葉は祖父を愛し、祖父も彼女を愛していた。だが二人だけで正月を迎えるたび、心にはいつも埋められない空白が残っていた。両親と祖母が亡くなったことで、この家にあるはずだった団らんと笑いも失われてしまったのだ。二人きりで大きな食卓を囲むのは、あまりにも寂しかった。幼い頃から今まで、絃葉はどんな行事も心から楽しめたことがなかった。大人になることに期待を抱いたこともない。あの頃、凪杜と一緒になるためにあれほど必死になったのも、結局は自分の家庭が欲しかったからだ。両親が残してくれなかった、温かくにぎや
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第366話

海城の夜空には花火が次々と打ち上がり、暗い空をまばゆいほど鮮やかに彩っていた。街を行き交う恋人たちは寄り添いながら歩き、どの顔にも幸せそうな笑みが浮かんでいる。凪杜はきらめく夜空を眺めながら、ふと昨年の今頃を思い出した。あの頃は絃葉と野々花の間を行き来し、二人の相手をするだけで精いっぱいだった。それが今では、たった一人で年を越そうとしている。あまりにも皮肉な話だと、自分でも思った。以前の凪杜は、正月に何か特別な意味があるとは思っていなかった。家族で一度食卓を囲むだけで、普段と変わらず時間が過ぎていくものだと考えていた。だが、多額の借金を抱え、周囲の人々からも見放され、実の両親にさえ正月に帰ってくるなと言われた今になって、ようやく理解した。家族がそろうことが、どれほどかけがえのない幸せなのかを。重い足を引きずりながら、凪杜は無意識に、絃葉と過ごした5年間を振り返っていた。毎年大晦日になると、彼女は祝いの料理を食卓いっぱいに用意して、家で静かに彼の帰りを待っていた。絃葉は心から、家族そろって幸せな正月を迎えることを望んでいた。いつか二人の間に子どもができ、一緒に年を越せたらどれほど幸せだろうと、何度も凪杜の耳元で語っていた。だが凪杜は毎年、彼女とほんの少し食事をするだけで、仕事を理由に家を出ていた。そして野々花の家へ向かい、彼女と那乃葉の母娘に付き添って年を越した。絃葉は二度、彼との子どもを身ごもった。そのたびに、どうしても子どもを産みたいと願っていた。それなのに凪杜は、残酷にも彼女を流産させ、中絶まで迫った。当時の彼は、自分が残酷なことをしているなど、まるで思っていなかった。むしろ絃葉の体を気遣い、妊娠による危険を負わせたくないからだとさえ考えていた。今になってようやく、自分がどれほど愚かだったのかを思い知った。もし二人の間に子どもがいたなら、絃葉の性格からして、ここまできっぱり自分のもとを去ることはなかっただろう。景とこれほど早く結ばれることもなかったはずだ。絃葉は子どもを心から愛する女性だ。血のつながらない那乃葉でさえ、実の娘のように大切にしていたのだから。――そう考えた瞬間、凪杜は自分の頬を力いっぱい平手打ちした。今の彼には、行く場所もなかった。かつて
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第367話

絃葉はしばらく呆然としたあと、目の前の男をじっくりと観察した。彼は悠より少し背が高く、身長は180センチほどだった。知的で品のある整った顔立ちをしており、どこか奔放な色気をまとった湊とは、まったく異なる雰囲気だった。「初めまして、生野朝陽(しょうの あさひ)と申します。築山社長とは以前、ビジネスサミットでお会いして、国際情勢についても意見を交わしました。覚えていらっしゃいますか?」朝陽は笑顔で挨拶し、景へ目を向けた。景は少し考えたあと、軽くうなずいた。「ああ、もちろんです。こちらへどうぞ」四人が向かい合って席に着くと、湊だけがその場に立ったまま取り残され、ひどく居心地が悪そうに見えた。無意識に彼らのあとを追おうとしたが、悠が表情を険しくした。「どっかに行きなさいよ。あんたと同じ席には座りたくないの」湊は彼女を一度見たものの、何も言わず、黙って隣のテーブルへ腰を下ろした。絃葉と景は顔を見合わせた。突然の展開に、二人とも気まずさを覚えていた。景が立ち上がった。「先に話していてくれ」彼は落ち着いた足取りでバーの片隅へ向かい、店のオーナーと小声で言葉を交わしたあと、何かを手渡した。絃葉には、それが何なのか見えなかった。だが景が、何かサプライズを用意しているような気がした。悠と朝陽は、どうやらまだほとんど親しくないらしい。席に着いてからも、二人の間にはほとんど会話がなかった。悠は上の空でスマホを手にし、指先を素早く動かしてメッセージを打ち込んでいる。絃葉が隣のテーブルへ目をやると、湊も同じように下を向いて文字を打っていた。それを見て、彼女はすぐに事情を察した。そのとき、バーの照明が徐々に暗くなり、司会者がステージへ上がってマイクを手にした。「皆様、こんばんは。ある男性が、愛する奥様のために特別な贈り物をご用意されました。どうぞスクリーンをご覧ください」絃葉は頬杖をつき、期待に胸を膨らませながらスクリーンを見つめた。景が彼女の隣へ戻り、ごく自然に腰へ腕を回した。その目は真剣にスクリーンへ注がれ、表情には緊張と優しさが入り交じっていた。シンガーソングライターがギターを奏でながら、静かに歌い始めた。スクリーンに赤ん坊の写真が映し出される。絃葉は一目で分かった。写真
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第368話

絃葉は振り返り、景の瞳をまっすぐ見つめた。「これが、あなたの言っていた社外秘の資料?」あの夜、景が慌ててノートパソコンを閉じたとき、彼女が一瞬だけ目にした女性の写真。あれはほかでもない、絃葉自身の写真だったのだ。思いがけない驚きと喜びが、胸いっぱいに広がっていった。景はわずかにうなずいた。「気に入ってくれたかな?」絃葉は彼の手の甲に自分の手を重ね、指を絡めた。「ええ」景は腰に回した腕に力を込め、彼女を胸の中へ抱き寄せた。「これからも毎年、続きを加えていくつもりだ」そばにいた悠は、感動の涙を拭いながらグラスを掲げた。「絃葉が本当の幸せを見つけたことに、乾杯!大切にすることも知らない最低男なんて、もう過去よ!」朝陽も笑顔でグラスを掲げた。「おめでとうございます」隣のテーブルでは、湊が一人でグラスの強い酒を飲み干していた。悠の言葉に込められた意味を察し、思わず口元を引きつらせる。とうとう我慢できなくなった彼は立ち上がり、悠の手首をつかんだ。「外へ出ろ。話がある」悠は冷たい顔で答えた。「悪いけど、あんたと話すことなんて何もないわ」湊は彼女の返事など聞こうともせず、腰を抱えて一気に持ち上げると、そのまま強引に肩へ担ぎ、背を向けて歩きだした。あまりにも突然の出来事に、その場にいた全員が呆然とした。朝陽が立ち上がろうとすると、景が静かに制した。「二人はまだ互いに気持ちが残っている。まだ彼女を好きになっていないのなら、少しだけ二人に時間を与えてください」朝陽は事情を察して再び席に着き、落ち着いた態度で答えた。「築山社長の言う通りかもしれませんね」――その頃、凪杜は誰もいない執務室からメッセージを送っていた。【絃葉......俺は君に会いたい】だが、いつまで待っても返事はなかった。凪杜がSNSを更新すると、悠が投稿したばかりの短い動画が表示された。そこには、景が絃葉のために心を込めて作ったスライドの一部が映り、最後には抱き合う二人の姿が大きく映し出されていた。絃葉は景の腕の中に寄り添い、花が咲いたような美しい笑顔を見せている。悠は動画に、こう書き添えていた。【尊すぎる......!】凪杜の胸に鋭い痛みが走った。彼は勢いよくスマホを壁へたた
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第369話

絃葉と健二による後継者争いは、今にも火蓋が切られようとしていた。祖父が多磨城へ戻ってからというもの、書斎には古参の株主たちが入れ代わり立ち代わり訪れている。日野も、もうすぐ西尾グループの経営戦略が大きく見直されることを、それとなく示していた。確実だと思われていた絃葉の後継者としての立場は、健二の出現によって揺らぎ始めている。絃葉はすでに、運命がもたらした変化を穏やかに受け入れていた。祖父の考えにも薄々気づいていたが、今はただ、幸先がよくなるよう願っていた。三人は車で山の麓へ向かった。休日とあって、参拝客が途切れることなく押し寄せ、駐車場にも空きが見つからない。景は離れた場所に車を止め、三人は歩いてお寺へ向かった。絃葉の体力は、驚くほど優れていた。見た目は細身でか弱そうなのに、歩きだすと足取りは軽く、まるで疲れを知らない。リュックを背負い、悠と昔の面白い出来事を振り返りながら、楽しげに歩いている。景は二人の後ろを、急ぐことなくついていった。その表情はいつになく凛としていた。カジュアルな服装をしていても、生まれながらの圧倒的な存在感は隠しきれず、多くの女性参拝客が思わず振り返っていた。山門にたどり着くと、悠の予想に反し、湊がそこで待っていた。黒いカジュアルウェアをまとい、両手をポケットに入れ、リュックを背負って立つ姿は堂々としていた。悠はすぐに事情を察し、景を振り返った。「私たちがここへ来るって、景が教えたの?」景は慌てて両手を振った。「俺と絃葉が来るとは言ったが、君が一緒だとは話していない」湊が近づき、悠の髪をそっとなでた。「景を責めるな。絃葉が来るなら、君も必ず一緒だと思ったんだ。それで、ここで待っていた」悠は彼の手を払いのけ、不機嫌そうに離れていった。「誰も待っていてなんて頼んでないわ」湊は諦めず、そのあとを追った。「悠お嬢様、いったいどうすれば許してくれるんだ?」言い争いながら、二人は次第に遠ざかっていった。絃葉は察したように景の手を引き、先に境内へ入った。二人だけで話せる時間を作ってやるためだった。彼女はお線香を一本求め、ほかの参拝客にならって火をともし、本堂へ向かって一礼してから香炉へ立てた。本堂に入ると、絃葉は合掌して一礼する。その姿は、
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第370話

景が口を開こうとしたそのとき、背後から聞き覚えのある声が響いた。「偶然だな。絃葉じゃないか」絃葉が声のほうへ振り返ると、蒼生が母親に付き添って参拝に来ていた。「蒼生さん、おばさま」絃葉は足早に近づき、笑顔で新年の挨拶をした。蒼生の母親は親しげに彼女の手を握った。「まあ、ますますきれいになったわね。蒼生からよく話を聞いているのよ。今は二人で一緒に仕事をすることも多いそうね。私もうれしいわ」絃葉は穏やかに微笑んだ。「ありがとうございます。蒼生さんには、仕事でずいぶん助けてもらっています」一枚の枯れ葉が舞い落ち、彼女の髪に引っかかった。蒼生はごく自然に手を伸ばし、その葉をそっと払った。「山の上は風が強い。薄着だから、早めに戻ったほうがいい。俺たちもまだ用事があるから、先に失礼するよ」彼は優しく微笑んで別れを告げると、母親とともに立ち去った。少し離れた場所では、景が静かに立ち、今の一幕をすべて見つめていた。立ち去る直前、蒼生と景の視線が一瞬交わり、二人は互いに軽く会釈した。景の瞳がわずかに暗く沈んだ。絃葉と海城で長い時間を過ごしてきたというのに、仕事上、これほど親しくしている男性がいるとは知らなかった。蒼生......景は記憶をたどった。過去に開かれたビジネスサミットでは、細谷グループの社長である細谷蒼生も何度か出席しており、名刺を交換したこともある。話しぶりは知的で洗練され、若い経営者の中でも確かに際立った存在だった。だが絃葉は、これまで景の前で一度も彼の名を口にしたことがない。二人がここまで親しく、相手の母親とも気心が知れていることなど、まったく知らなかった。景は遠ざかっていく背中を見つめ、感情の読み取れない口調で言った。「彼は、かなり優秀な男だな」絃葉は何気なく答えた。「ええ。グループが海城で事業基盤を築けたのは、この5年間、彼が尽力してくれたからよ。今では細谷もメイヨも西尾グループの中核企業になっている。彼の功績はとても大きいわ」彼女は遠ざかる背中を見送り、その瞳には喜びと安堵が浮かんでいた。この数年間、絃葉は恋愛にかまけ、危うく本来すべきことまで台なしにするところだった。蒼生が海城で細谷を守ってくれていなければ、今頃、西尾グループ内での彼女の立場はさ
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