All Chapters of 私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

翌朝早く、夕凪は起きると身支度を整え、薄くメイクをした。鏡の中の自分が、少しでも元気そうに見えることを確かめた。――そう。今日は、負けられない勝負の日だ。地下鉄に乗り、さらにバスを乗り継いで、ようやく瀬戸グループの本社ビル前にたどり着いた。空へ向かってそびえる高層ビルを見上げた途端、夕凪の胸が鈍く痛んだ。懐かしさと悲しさが入り混じった。幼い頃、夕凪はこの場所の隅々まで知っていた。ここは、もう一つの家だった。幼い夕凪にとっては、何より身近な遊び場でもあった。社員たちが近づくことすら恐れる社長室も、夕凪にとっては楽しい思い出の詰まった場所だった。祖父は夕凪のために、社長室の中へ小さな隠し部屋まで作ってくれた。大切な取引先を迎えるときや、部下から報告を受けるとき、夕凪はいつもその部屋でおもちゃを広げて遊んでいた。その部屋は今も、祖父と夕凪だけの秘密だった。長い年月を経て、再び瀬戸グループの前に立っている。だが、あの頃とは何もかも変わってしまった。冷たい風の中で、どれほど立ち尽くしていただろう。夕凪はようやく勇気を振り絞り、建物の中へ足を踏み入れた。ところが入った途端、大勢の人が足早に入口へ押し寄せてきた。避ける間もなく人波に押され、夕凪は脇へよろめいた。危うく転ぶところだった。白いスニーカーを履いていたから持ちこたえられたものの、ヒールのある靴なら、間違いなく床に倒れていただろう。何事なの?社員が反乱でも起こしたの?わけがわからないまま、夕凪は目の前の人々を見回した。よく見ると、社員証を下げた男女が自ら二列に分かれ、顔認証ゲートから正面玄関まで長い通路を作っていた。全員が背筋を伸ばし、うやうやしい表情を浮かべていた。人垣の後ろへ追いやられた夕凪は、隅で背伸びをしながら様子をうかがった。いったい、何が始まるのだろう。大切な取引先でも来ているの?ここまで社員を並ばせるのだから、よほどの大物に違いない。そのとき、顔認証ゲートの向こうから、二人分のハイヒールの音が高く響いた。社員たちは一斉に頭を下げ、声をそろえた。「奥様、お嬢様、お気をつけてお帰りください!」続いて夕凪の目に飛び込んできたのは、百合子と志織の顔だった。志織は、一流ブランドの今季のスーツに、真っ白なファーコートを羽織
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第112話

百合子と志織が立ち去ると、集まっていた社員たちはたちまち散っていった。夕凪だけが、その場に体をこわばらせたまま立ち尽くしていた。誰も夕凪に目を留めず、その正体に気づく者もいなかった。今の夕凪は服装も地味で、手は荒れ、硬いたこまでできていた。とても名家の令嬢には見えず、華やかな志織とはまるで別世界の人間だった。それに夕凪は、中学生になってから学業を優先し、瀬戸グループへ来ることが少なくなっていた。大学に入ってから今日まで、一度も足を運んでいなかった。社員たちが顔を知らないのも無理はなかった。まして、先ほどの社員は若い者ばかりだった。ここ数年で入社した者がほとんどで、夕凪を知っているはずもなかった。しばらくして、夕凪は深く息を吸った。胸にたまった重苦しさを追い出した。今は、それよりも急いでやらなければならないことがあった。夕凪が子どもの頃、瀬戸グループの入館ゲートは社員証をかざす方式だった。だが今は、顔認証に変わっていた。夕凪はゲートを通れず、受付へ向かうしかなかった。近づくと、受付にいた二人の女性が興奮した様子で話していた。「さっきの若い人、誰?すごくきれいで、品があったけど」「入ったばかりだから知らないのね。社長のお嬢様よ。社長が目に入れても痛くないほど可愛がっているの」「いいなあ。生まれたときからお嬢様なんて、うらやましい……」「本当に恵まれてるよね……」夕凪は心の中で冷たく笑った。もし社員たちに、志織は瀬戸家の本当の令嬢ではなく、自分こそ正真正銘の令嬢だと明かしたら、どんな顔をするだろう。だが、すぐにその考えを打ち消した。今の夕凪には、まだ「前科者」というレッテルがついて回っていた。自分の素性が公になれば、瀬戸グループ全体にまで悪影響が及ぶかもしれない。夕凪はもう一度深呼吸し、気持ちを落ち着かせてから受付へ歩み寄った。「こんにちは。瀬戸夕凪と申します。田村社長にお会いしたいのですが」二人の会話が、ぴたりと止まった。受付の女性は夕凪を上から下まで眺めた。「ご予約はございますか?」「いいえ。お手数ですが、堂島剛造の件で大事な話があると、田村社長にお伝えください」女性は怪訝そうに夕凪を見たが、結局は社長室へ内線をかけた。電話を切ると、女性はうなずいた。「社長がお会い
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第113話

夕凪は驚きのあまり、ぽかんと口を開けた。まさか、本当に開くとは思わなかった。そのとき、部屋の中から慎一郎の声が聞こえてきた。少し耳を傾けて、夕凪は慎一郎がスピーカー通話で誰かと話しているのだと気づいた。慎一郎の声には、焦りと苛立ちがにじんでいた。「つまり、蒼海グループと錦城グループ、桐生グループに加えて、さらに二社がこの案件に名乗りを上げたということか?」「はい、社長。御堂グループを除けば、涼崎市の大手企業は軒並み参入する構えです」「御堂グループを除いて?」慎一郎は、いぶかしげに聞き返した。「ええ。御堂グループは涼崎市最大の企業です。神崎グループと提携すれば、市場への影響力が大きくなりすぎる。優位に立つどころか、独占を警戒されることになります。ですから、今回の競争には加わらないでしょう」相手は少し間を置き、さらに続けた。「もう一つ理由があります。御堂峻は並外れた経営感覚と手腕の持ち主です。株主たちからの信頼も年々高まり、今やグループの誰よりも圧倒的な影響力を持っています。それだけの自信がある男ですから、神崎グループに取り入るつもりもなければ、特別視もしていません」峻の名を口にした相手の声には、かすかな畏れと敬意が混じっていた。さすがは「冷徹無比な帝王」と恐れられる男だ。その会話を聞きながら、夕凪は頭をめぐらせた。夕凪には商才もなく、企業同士の争いに関わった経験もない。だが不思議なことに、相手が言わんとしていることはすぐにわかった。神崎グループは首都・京央を代表する大企業で、御堂グループは涼崎市最大手だ。両社が手を組めば、市場を独占しかねず、業界への影響力も大きくなりすぎる。行政がそれを看過するはずはない。慎一郎は苛立たしげに吐き捨てた。「御堂グループの話はもういい。あの御堂峻という若造は、私も瀬戸グループも最初から眼中にないんだ!」少し間を置いてから、慎一郎は続けた。「来月、神崎グループ本社から特別代表が涼崎市へ来る。だが、到着日は誰にもわからない。聞くところによると、ただの社員ではなく、経営中枢を担う人物らしい」慎一郎の声に、力がこもった。「何としても、涼崎市へ到着する正確な日時を突き止めろ。私が誰より先に出迎えられるよう、必ず手配するんだ」「承知しました、社長」慎一郎が電話を切ったところで、
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第114話

夕凪の全身に、激しい戦慄が走った。剛造を陥れた黒幕が慎一郎だということは、すでに知っていた。覚悟もしていたつもりだった。それでも、慎一郎が剛造を口汚く罵るのを実際に耳にすると、全身の血が一気に冷えていくような衝撃を受けた。どうして、こんなことができるの?剛造は祖父の右腕として、創業期から瀬戸グループを支えてきた人物だ。かつて競争相手の卑劣な罠で祖父が危険にさらされたときには、自ら前に出て祖父を救ったこともある。その後、祖父を陥れた相手に報復し、ひどい怪我を負わせたことで、一年六ヶ月服役することになった。だが模範囚として認められ、一年で仮釈放された。その日、祖父は自ら刑務所まで剛造を迎えに行ったのだ。祖父と剛造は、互いに命を預けられるほど固い絆で結ばれていた。慎一郎もまた、祖父が一から育てた人間だ。それなのに、どうして祖父の心を踏みにじるようなことができたのだろう。夕凪はこわばった背筋を伸ばし、冷ややかに口を開いた。「知っていますか?堂島さんは今、道路清掃の仕事でどうにか暮らしています。たとえ過去に過ちがあったとしても、おじいさまとの関係を考えれば、少しは手を差し伸べるべきです」「あいつの自業自得だ!私に逆らったから――」慎一郎は鼻を鳴らした。だが途中で失言に気づき、ぴたりと口を閉ざした。「もういい、それ以上言うな!ここは会社だ、家じゃない。くだらない騒ぎを起こすな。いつまで子どもみたいなことを言ってるんだ!」慎一郎は苛立たしげに手を振った。夕凪は拳をきつく握りしめた。冷たい目で慎一郎を見据え、重ねて訴えた。「言ったはずです。堂島さんに手を差し伸べてください。少なくとも毎月、暮らしを支えるための援助をして、老後を保障すべきです」「なぜ私がそんなことをしなければならない?」慎一郎は勢いよく顔を上げた。怒りで顔色が変わり、頬がひくひくと引きつっていた。「あいつはもう瀬戸グループを辞めた人間だ。会社の金をどう使おうが、あいつには一切関係ない」夕凪は間髪を入れず、冷たく言い返した。「堂島さんに関係がないなら、あなたにはあるんですか?会社のお金を全部、自分のものだと思っているんですか?それとも、あの親子のものだとでも?」夕凪の声に、次第に怒りがこもっていった。「さっき見ました。二人とも全身を一流ブラ
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第115話

慎一郎があんな言葉を口にするとは、夕凪は夢にも思っていなかった。その瞬間、ようやく気づいた。心のどこかで、まだわずかな期待を捨てきれずにいたのだ。慎一郎にも、自分に対する情が残っている。父親として、少しは愛してくれている。志織のほうを可愛がっているのは、自分が人を殺して刑務所に入ったせいで、偏見を持たれているからだ。そう思おうとしていた。だが、違った。慎一郎は自分に偏見を持っているのではない。その目にはもう、実の娘である自分の姿など映っていなかった。むしろ、親子の縁など今すぐにでも切りたいと思っているのだろう。どうして、こんな人になってしまったの?その理由はわからない。だが、目の前の男にこれ以上何かを期待する必要はない。それだけは、はっきりとわかった。夕凪の目から、最後に残っていた温もりが消えた。「言いましたよね。瀬戸グループは堂島さんや、ほかの退職者にも生活支援金を支給しなければなりません。おじいさまの遺言書にも、その条項が明記されています」夕凪は一歩前へ出た。声は、先ほどよりも冷え切っていた。慎一郎は口元に嘲るような笑みを浮かべ、事もなげに答えた。「確かに、遺言書にはそういう条項がある。だが、すべての退職者に支援金を払っていないわけじゃない。堂島剛造を含め、受け取っていない連中は、在職中に会社へ損害を与えた者ばかりだ。それが発覚したから、受給資格を取り消した。それだけのことだ」慎一郎はゆっくりと、いかにも筋が通っているように話した。夕凪には何もできないと、初めから高をくくっているのだ。慎一郎にとって、夕凪は幼い頃から甘やかされ、いつまでたっても大人になれない娘だった。よく言えば純粋で世間知らず、悪く言えば愚か者だ。しかも昔から、恋愛のことしか頭にない。峻以外のことなど、何も見えていないと思っていた。だが慎一郎の言葉を聞いても、夕凪は眉ひとつ動かさなかった。「そうですね。あなたには、あなたなりの言い分があるのでしょう。でも私は今、すべての退職者に生活支援金を支給するよう要求しています」「要求だと?」慎一郎は、夕凪が正気を失ったのかと思った。そのとき、夕凪はスマホを取り出し、一本の動画を再生した。画面を見た途端、慎一郎の顔色が一変した。先ほどまで浮かべていた得意げな笑みも、侮るような態度も、
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第116話

慎一郎は、不意にぞくりと身を震わせた。なぜか胸の内に、奇妙な感覚が湧き上がってくる。今、目の前に立っているのは、かつての愚かで世間知らずな少女ではない。夕凪の姿に、瀬戸宗正(せと むねまさ)の面影が重なって見えたのだ。瀬戸宗正は夕凪の祖父であり、瀬戸グループの創業者でもある。慎一郎が瀬戸家の婿になる前は、瀬戸グループのマーケティング部に勤める一介の社員にすぎなかった。いつも上司の顔色をうかがい、頭ごなしに怒鳴りつけられる毎日だった。ところが、どういうわけか瀬戸家の令嬢がそんな慎一郎を愛した。宗正は初めこそ結婚に反対したものの、娘の決意に根負けし、やがて慎一郎を受け入れた。瀬戸家の令嬢と結婚した途端、慎一郎の立場は一変した。かつて慎一郎を罵り、ことあるごとに難癖をつけていた上司は、全社員の前で土下座し、平身低頭して詫びたほどだった。それから宗正は慎一郎を自らのそばに置き、社内のあらゆる実務から株主総会での経営判断まで、一つひとつ教え込んだ。上流階級の集まりにも連れて行き、慎一郎が人脈を築けるように取り計らった。その後、宗正は突然病に倒れ、わずか半年でこの世を去った。慎一郎は瀬戸グループを正式に引き継ぎ、社長の座に就いた。今でこそ、慎一郎は瀬戸グループで絶大な権力を振るい、誰にも口出しを許さない。だが、師であり父親同然でもあった宗正の厳しさと、彼に対する畏れは骨の髄まで刻み込まれ、今なお拭いきれないトラウマとなっていた。その宗正と、今の夕凪の表情があまりにもよく似ていた。慎一郎の胸が、激しくざわめく。いや、そんなはずはない。確かに夕凪は宗正の孫だ。だが、昔から何も考えようとしない、世間知らずな小娘だった。そんな夕凪が、宗正のようになるはずなどない。「どうしますか。まだ拒むおつもりですか?……分かりました。なら、言った通りにします。どんな結果になろうと、お互い自分で責任を取るしかありませんからね」夕凪はスマホをしまい、背を向けて立ち去ろうとした。「待て!」慎一郎はそこで、ようやく我に返った。先ほどまで頭の中は宗正のことでいっぱいで、夕凪の言葉などほとんど耳に入っていなかったのだ。「……分かった。要求を飲もう」慎一郎は歯を食いしばって答えた。どれほど腹立たしく、不本意でも、今は折れるしかない
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第117話

それは慎一郎から司のスマホに送られてきた、作成されたばかりの生活支援金の支給リストだった。対象者の氏名と支給額、支給時刻まで、はっきりと記されている。支給処理が行われたのは、ほんの一時間前だった。驚くほど対応が早い。どうやら慎一郎は、夕凪にあの動画をネットで拡散されることを心底恐れたらしい。慎一郎には、夕凪がなぜ誕生パーティーでのあの場面を撮影していたのか、どうしても理解できなかっただろう。三年前、罠にはめられて刑務所へ送られて以来、夕凪は何かがおかしいと感じたとき、できる限りその場の様子を記録し、証拠を残すようになっていた。あの事件が、拭いきれないトラウマとして心に深く刻み込まれていたからだ。その自己防衛の習慣が、こうして何度も自分を救ってくれることになろうとは思いもしなかった。「見事だったな!」クラブのオーナー室で、二人はハイタッチを交わし、今回の勝利を喜び合った。司は目を輝かせながら夕凪を見つめていた。「夕凪、実は俺、お前が失敗したら、どうやって相手に仕返ししてやろうか考えてたんだ。それが、まさか……」いつもの軽薄な様子はすっかり消え、その整った顔には、感心を通り越して畏敬の念さえ浮かんでいる。「相手は瀬戸グループのトップだぞ。いくらでも部下を動かせる立場なのに、夕凪はたった一人で乗り込んだ。よくあそこまで強気に出られたな……」司は今なお信じられない様子で、しみじみと感嘆した。夕凪はかすかに笑った。「社長だから何だというんですか?神様ではないのですから、結局は一人の人間です。人間なら、必ず弱点がある。そこを突けばいいだけで、恐れるに足りません」司は何度もうなずいた。その目に宿る感嘆の色が、ますます強くなっていく。だが、夕凪は司のその目を見ているうちに、妙な違和感を覚えた。――待って。この人、また何か突飛なことを考えているんじゃ……夕凪は考えを振り払い、真剣な顔で司を見た。「そうだ、ちょうど相談したいことがあります。メディアには、あれはただの冗談だったと説明してもらえませんか?私たちはただの友人で、その……恋人同士なんかじゃないって」ところが、続く司の一言に、夕凪は思わず頭を抱えたくなった。司は目を丸くし、心底驚いたような顔で聞き返した。「どうしてだ?俺たち、恋人じゃないのか
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第118話

夕凪は司ときちんと話し合い、二人の関係をメディアの前で訂正してもらうつもりだった。ところが目的を果たせなかったばかりか、かえって調子を狂わされるばかりだった。その後、司は電話に出ると、さも急用ができたような顔をして、そのままオーナー室を出て行った。分が悪くなって逃げたのだと、夕凪にはわかっていた。だが、どうすることもできない。慎一郎のような相手と対峙しても怖くはなかったのに、司のように平然とはぐらかす相手ほど、厄介で手に負えない。夕凪は初めて、そのことに気づいた。そのとき、夕凪のスマホが鳴った。見覚えのない番号だった。「瀬戸様でいらっしゃいますか?涼崎創博造園設計会社の者です。求人サイトで瀬戸様のプロフィールを拝見し、ご連絡いたしました。涼崎大学で造園設計を専攻されていたとのことですが、弊社で働くことにご興味はございますか?」若い女性の丁寧な声が聞こえた。夕凪は呆然とした。創博造園設計会社?涼崎市で三本の指に入る造園設計会社だ。そんな大手から声がかかるなど、想像もしていなかった。しかも、夕凪はこの会社に履歴書を送った覚えがない。「恐れ入りますが、御社はどちらで私の経歴をご覧になったのでしょうか?」夕凪が尋ねると、女性はすぐに答えた。「求人サイトのスカウトサービスを利用しておりまして、条件に合う方を探していたところ、瀬戸様のプロフィールを見つけまして……」夕凪はようやく納得した。てっきり、司が裏で手を回したのかと思っていた。だが次の瞬間、返事に迷った。もちろん、働きたい。願ってもない話だ。しかし夕凪はまだ無実を証明できておらず、今も人殺しの前科者という汚名を背負っている。会社に過去を知られれば、すぐに解雇されるだけでなく、経歴詐称として損害賠償を求められるかもしれない。浮き立っていた心が、一気に沈んだ。夕凪は理由をつけ、遠回しに断ることにした。「申し訳ありません。私には実務経験がないので、お役に立てないかと思います」千載一遇のチャンスを手放すのは、胸が締め付けられるほどつらかった。だが、女性は変わらず穏やかな声で説明した。「実は弊社で先日、大規模な造園プロジェクトを受注したのですが、現在の人員だけでは対応が難しい状況です。そのため、デザイナーのアシスタントを務める期間限定のスタ
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第119話

心から夕凪のために喜んでくれたのは、多恵だけだった。「本当によかったね、夕凪!」多恵は喜びに顔をほころばせ、夕凪の手を握った。夕凪も胸を高鳴らせ、うれしそうに頬を赤らめた。だが、続く一言で、その笑顔がたちまち引きつった。「これで、オーナーの隣に立っても恥ずかしくない、お似合いの女性になれるね。私まで嬉しいよ!」夕凪は返す言葉もなかった。――私が就職したのは、司さんに釣り合うためなの?どうしてそんな発想になるんだろう。それでも、夕凪はあえて誤解を解こうとはせず、すぐに笑顔を取り戻した。多恵さんが喜んでくれるなら、それでいい。その夜、夕凪は早く眠ろうとしたものの、興奮してなかなか寝つけなかった。翌朝早くに起き、身支度と薄化粧を済ませると、夕凪は電車で創博へ向かった。都会の通勤地獄を身をもって味わうのは、これが初めてだった。エスカレーターで駅のホームへ下りた途端、目の前の光景にめまいがしそうになった。辺りは見渡す限り人で埋め尽くされている。涼崎市の人間が全員ここに集まったのではないかと思うほどだった。夕凪は人波に押され、流されるまま車内へ押し込まれた。前後左右を人に挟まれ、息をするのも苦しい。だが、夕凪はまだましなほうだった。隣の若い女性は足が床から浮きそうなほど圧迫され、青ざめた顔で「痛い……押さないで……」と小声で訴えていた。しかし、その悲痛な声は誰にも届かない。誰もが無表情のまま、少しでも車内の奥へ詰めようと必死だった。車内は異様なほどの沈黙に包まれていたが、人々の苛立ちや疲労が肌から直接伝わってくるようだった。生ぬるい熱気の中に、汗やきつい香水、誰かの湿ったコートの匂いなどが入り混じり、息が詰まりそうだった。ようやく電車を降り、地上へ出た夕凪は、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。朝からすっかり体力を奪われた。それでも、心は驚くほど明るく、軽かった。どれほど肉体的に大変でも、自由を奪われて刑務所で過ごした日々に比べれば、何でもない。病院と刑務所は、人生を見つめ直す場所だと言う。夕凪は自らの経験を通じて、その言葉が真実だとよくわかっていた。涼崎創博造園設計会社は、市の中心部にあるオフィスビルの三フロアを占めていた。役員から一般社員まで、約五百人が働く大手企業だ。受
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第120話

夕凪は、もう一つ気になることに気づいた。話を聞く限り、市の関係者でさえ、視察の知らせを受けたのは今朝だったらしい。だが慎一郎は、数日前から知っていた。この情報をつかむために、相当な手間と資金をつぎ込んだのだろう。慎一郎はすべての望みを、神崎から来るその人物に託しているようだった。すぐ隣で、二人の女性が声を潜めて話していた。「ねえ、知ってる?今回神崎グループから来る大物って、副社長らしいよ」「えっ、どうして知ってるの?」「うちの父が、その……ちょっと市役所の方に顔が利くから」声は小さかったが、夕凪にははっきりと聞き取れた。どうやら彼女の父親は、市の行政に関わる仕事をしているらしい。「えー、副社長なの……」もう一人の女性は、少し残念そうに肩を落とした。「副社長の何が不満なの?」「だって、若くてイケメンな後継者が来るんだと思ってたんだもん。少女漫画に出てくるような、強引でオレ様な財閥の御曹司!でも副社長なら、社長と同じくらいの年齢のおじさんかもしれないでしょう?」興奮したかと思えば、今度は口を尖らせる。表情が目まぐるしく変わった。「もう、恋愛小説やショートドラマの見すぎよ」友人は呆れた顔で、彼女の額を軽く小突いた。夕凪も思わず笑いをこらえた。二人は新卒らしく、とても若い。かつての自分と同じように、純粋で無邪気だった。けれど現実に、そんなおとぎ話はない。財閥を率いる人間にとって何より優先されるのは、自分と一族の利益だ。そこに純粋な愛情が入り込む余地などない。目的のためなら、愛情さえ道具として利用する。欲しいものを手に入れるためなら、手段など選ばないのだ。そのとき、会議室のドアが開き、一人の女性が入ってきた。高級ブランドを思わせるツイードのセットアップに、手入れの行き届いた短い髪。大きな黒縁眼鏡をかけていた。ハイヒールを鳴らして歩く姿を見ただけで、バリバリの管理職だとわかる。案の定、女性はよく通る声で早口に告げた。「営業部主任の森本です。今、担当案件を手伝ってくれるアシスタントが至急二人必要です」誰もが、希望者を募るのだと思った。だが森本茜(もりもと あかね)は言葉を切り、鋭い目で全員を見回すと、独断で二人を指差した。「あなたと、あなた。ついてきて!」そう言い残
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