Alle Kapitel von 私を投獄した後、クズ夫は後悔に狂った: Kapitel 71 – Kapitel 80

100 Kapitel

第71話

峻が鋭く叱りつけた。「動くな。その腕、使い物にならなくなってもいいのか」夕凪はもがいた拍子に傷口をえぐってしまい、激痛で意識が遠のきかけた。峻は夕凪を横抱きにしたまま、駐車場へ向かって大股で歩き出した。刑務所に入ってから今日に至るまで、夕凪が峻とここまで密着するのは初めてのことだった。夕凪はできるだけ峻の体から離れようとした。けれど、腕の中に抱え込まれている以上、逃げようがない。薄いシャツ越しに、峻の高い体温が伝わってくる。その熱が肌に押し当てられ、じわりと内部まで染み込んでくるようだった。耳元では、峻の心音がいやに速く、大きく響いていた。あの氷のように冷酷な男とは思えないほど、乱れている。峻は、焦っているのだろうか。それとも、恐れているのだろうか。いったい何を恐れるというのだ。自分が死ぬことか?それとも腕が駄目になることか?そんなはずがない。自分がどうなろうと、峻には痛くも痒くもないはずだ。峻が心底大切にしているのは清音だけで、彼を焦らせ、怯えさせるのは清音に関することだけだったはずではないか。峻は助手席のドアを開け、腕の中の夕凪を慎重にシートへ座らせた。だがその時、峻はふと後部座席に目を向けた。司が、我が物顔ですでにそこへ乗り込んでいた。峻の顔が一気に険しくなった。振り返り、苛立ちを隠すように金縁の眼鏡を押し上げる。「言ったはずだぞ。夕凪は俺の妻だ。病院へは俺が連れて行く。お前がついてくる必要はどこにもない」司は悪びれもせずに口元を歪めた。「夕凪はあんたの妻かもしれないが、うちの従業員でもある。従業員が怪我をしたんだ。雇い主が病院まで付き添うのは当然だろう。うちは従業員向けの傷害保険にも入っている。俺が手続きしないと、後々治療費やら入院費の処理が面倒になるんだよ」峻の顔色がさらにどす黒くなった。「必要ない。治療費くらい俺が全額払う」司は即座に言い返した。「あんたが払えることくらい知ってるさ。だが、本来払わなくていい金を払う必要はないだろう。使える保険があるのに、わざわざ損を被る意味が分からないな」夕凪は呆れて言葉を失った。出血のせいで頭がくらくらする。傷が痛くてたまらないというのに、この二人の男はこんな状況でまだくだらないマウントを取り合っている。もう峻の車に乗せ
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第72話

無影灯の下で、夕凪は麻酔を打つ間もなく、医師の手で傷口に入り込んだガラス片を一つずつ取り除かれていた。激しい痛みで額にも首筋にも脂汗が浮いた。けれど、処置をしている医師のほうも生きた心地がしていないようだった。夕凪のすぐそばに、峻が仁王立ちしているからだ。夕凪が痛みに耐えきれず、奥歯を噛みしめて小さくうめくたび、峻の鋭い視線が医師の顔に突き刺さる。処置室には暖房が効いている。それなのに、医師の背中はべっとりと冷や汗で濡れていた。涼崎市第一総合病院の院長であり、外科の専門医でもある宇田川隆之(うだがわ たかし)にとって、これは三十年の医師生活で最も簡単な処置のはずだった。だが同時に、最も神経を削られる処置でもあった。指先を少しでも迷わせれば、横から飛んでくる視線だけで寿命が縮む。隆之はピンセットで血のにじむ傷口をそっと開き、奥に微小なガラス片が残っていないか慎重に探った。夕凪はとうとう耐えきれなかった。「痛っ……」峻がすかさず一歩前に出た。「宇田川院長。院長の椅子に飽きたのなら、とっとと引退して家で余生でも過ごすんだな。その席は他の人間に譲ればいい」隆之の肩がビクッと跳ねた。「お、終わりました……!」隆之は震える声で告げ、慌ててピンセットを置いた。すぐに看護師長が前へ出て、夕凪の傷口を消毒し、手際よく包帯を巻いていく。鈍い痛みはようやく少しずつ引いていった。痛みに荒い息を吐いていた夕凪は、落ち着きを取り戻すと、すぐに峻を見上げた。「おばあさまはどうなったの?どうして急に倒れたりしたの?ずっとお元気だったはずでしょう」峻はわずかに沈黙した。「おばあさまが倒れたことを、知っていたのか」夕凪はうなずいた。静江の話になると、峻の顔も重く沈んだ。「半年前、暁乃の娘が生後八ヶ月足らずで亡くなった。おばあさまは相当こたえていたんだ。それから少しずつ体が弱っている。今日で、今月三度目の失神だ。原因はまだ分かっていない」夕凪の胸がズキリと痛んだ。御堂暁乃(みどう あきの)は峻の従妹だ。その娘は、静江にとって初めてのひ孫だった。静江が深く傷ついたのも無理はない。夕凪は黙り込んだ。看護師長が包帯を巻く手元を見下ろしながら、夕凪の声は急に冷ややかになった。「御堂さん。今日のことは感謝しないわ。
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第73話

やはり年の功というべきか。隆之の逃げ足は早かった。処置室に取り残された看護師長だけが、この息の詰まるような空気をまともに浴びている。もう、ここから消えてしまいたい……!看護師長は包帯を巻く手を動かしながら、己の不器用な指先を恨めしく思った。どうしてもっと素早く終わらせられないのかと。峻は間髪を容れず、冷ややかに言い放った。「離婚だと?考えるだけ無駄だ。結婚は二人の問題だ。お前がしたい時にして、やめたい時に勝手にやめられるようなものではない」その声には、明らかな怒りがにじんでいた。峻は本気で腹を立てていた。最近の夕凪は、なぜこうも離婚の話ばかり持ち出すのか。顔を合わせれば離婚。口を開けば離婚。他に話すことはないのか。峻自身にも分からなかった。夕凪が離婚を口にするたび、胸の奥に重い鉛が詰まったようになり、ひどく息苦しくなる。腹が立ち、苛立つ。自分は夕凪を愛していない。夕凪のほうから離婚を望み、自分を解放すると言っているのだ。本来なら喜ぶべきではないか。肩の荷が下りたと思うべきはずだ。たとえ「夫としての責任」から離婚を避けたいのだとしても、ここまで激しい怒りを感じる必要はない。ましてや、胸が痛む理由などどこにもない。まるで、人生でいちばん大事なものを強制的に奪われるかのようだった。心の中が、急にポッカリと空っぽになっていく。この得体の知れない感情は、いったい何なのだ。その時、看護師長がようやく包帯を巻き終えた。彼女は慌ただしく器具を片づけると、逃げるようにそそくさと処置室を出ていった。夕凪は静かに口を開いた。「二人の問題?違うわ。三人の問題よ。あなたが愛しているのは私じゃなくて清音なんだから。あなたが離婚を拒み続ければ、傷つくのは三人になる。あなたと、私と……清音よ」峻の顔が、一気に険しく沈んだ。「清音を巻き込むな。彼女は何も悪くない」その表情が一瞬にして凍りついたのを見て、夕凪は胸の奥で自嘲した。関係ない、ですって?二人が結婚して間もなく、清音は峻の前に戻ってきた。その頃から、峻は夜遅くまで家に帰らなくなった。自分への態度も、露骨なほどにいっそう冷たくなったのだ。他人の結婚生活に割り込んでくる女というのは、どうしてみんな「自分がいちばんの被害者で、誰よりも傷ついている」と思い込めるの
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第74話

コン、コンと、短いノックの音が響いた。続いて、断りもなく扉が押し開けられる。峻は医師か看護師だと思い、顔も上げずに言い放った。「出ていけ」しかし、入ってきた相手は峻の言葉など聞こえないふりをして、そのままベッドのそばまで歩み寄ってきた。峻が顔を上げると、そこには何食わぬ顔をした司が立っていた。峻は苛立ちを隠そうともせず、司を睨みつける。「空気が読めないのか。夫婦で込み入った話をしている最中だ。何をしに入ってきた」言い終えるより早く、司の手から何かが放物線を描いて飛んできた。峻は反射的にそれを受け取る。自分の車のスマートキーだった。司は片眉を上げ、口元にからかうような笑みを浮かべる。「何をしにって、あんたの車のキーを返しに来たに決まってるだろ」司はわざとらしく、やれやれというようにため息をついた。「本当はさ、あんたがついているならもう大丈夫だと思って、病院まで送ったらすぐに帰るつもりだったんだぜ。それなのに、あんたが俺に『車を回せ』なんて命令するから、こうしてわざわざ届けに戻ってきてやったわけだ。いやあ、まいったね。まさかこんなお邪魔虫みたいなタイミングになるとはな」司は困ったように肩をすくめてみせた。峻には痛いほど分かっていた。司はすべて分かった上で、わざと嫌がらせでやっているのだ。峻の顔がさらに険しく歪む。本当に、今すぐ殴り飛ばしたくなる男だ。司は峻の殺気などどこ吹く風で、夕凪のほうへ身をかがめた。青白い顔をのぞき込み、労るように頬と額へ手を伸ばす。「どうだ。熱は出てないか」傷口が炎症を起こしていれば、発熱することもある。だが、司の手が夕凪の肌に触れそうになった瞬間、その手は横から乱暴に払いのけられた。「用があるなら口で言え。気安く俺の妻に触るな」峻の声は絶対零度だった。司はもう一度片眉を上げ、ゆっくりと体を起こした。真正面から峻の殺気立った視線を受け止める。二人の長身の男が向かい合っただけで、夕凪には処置室の空気がビリビリとひび割れたように感じられた。目に見えない刃が何度もぶつかり合い、激しく火花を散らしているようだった。夕凪は怪訝そうに眉を寄せた。この二人は、いったい何をしているのだろう。二人とも、心の中にはそれぞれ『本当に愛している別の相手』がいるはず
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第75話

司は目を丸くして、心外だというように声を上げた。「おいおい、何がゴミ置き場だよ。俺が従業員に用意している寮は、広くて住み心地もいい部屋なんだぜ。勝手なこと言ってうちの評判落とすなよ」峻は司の戯言を完全に無視した。夕凪だけを真っ直ぐに見て、短く告げる。「行くぞ」「帰らないって言ったでしょう。御堂峻、あなたは……本当に話が通じないの?今の私には仕事があるわ。住む場所だってある。一人でちゃんと暮らしているし、今の生活で十分なのよ。少なくとも、過去の六年間よりはずっと楽しいわ。どうしてあなたは、いつも私の前に現れて、私の人生の邪魔をして、私を傷つけるの」夕凪は本当は、もっと棘のある言葉を投げつけるつもりだった。けれど、目の前にいるのが「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻だという事実が脳裏をよぎり、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。それでも、「過去の六年間よりはずっと楽しい」というその一言は、峻の胸をハンマーで殴るように重く打った。ズキリとした鈍い痛みが、胸の奥深くに沈んでいく。夕凪の胸もまた、同じように苦しく軋んでいた。刑務所を出てから今日まで、夕凪は峻の前でずっと平静を装ってきた。顔を合わせるたびに声を荒らげることもなく、取り乱すこともなく、ただ冷たく距離を置くことに徹してきた。けれどこの瞬間、ずっと押し殺してきた苦い感情が胸の奥から堰を切ったようにこみ上げてきた。目の奥が熱くなる。視界が涙で滲み、峻の姿がぐにゃりとぼやけていく。「もうそのくらいにしておけよ」夕凪の涙を見た瞬間、司の顔から飄々としたふざけた色が消え失せた。整った顔立ちからいつもの軽薄さが抜け落ち、目つきがスッと鋭くなる。「彼女は怪我人だ。今、これ以上感情を乱すような話をするな。言いたいことがあるなら後にしろ。彼女をこれ以上、追い詰めるんじゃない」峻の氷のような視線が司をかすめ、再び夕凪へと戻る。数秒の重い沈黙のあと、峻は何も言わずにきびすを返し、背を向けた。峻が処置室を出ていった直後、夕凪はとうとうこらえきれなくなった。ぽろぽろと、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちる。そのまま、どれくらい泣き続けたのか分からない。司はずっとそばにいた。何も言わず、泣き止むのを急かしもせず、ただ静かに彼女の傍らで待っていた。やがて夕凪の嗚
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第76話

翌日、夕凪は腕の傷がまだ痛むのも構わず、警察署へ向かった。圭吾から事件の話を聞きたくて、じっとしていられなかったのだ。「捜査の結果、写真に写っていた女性は、君の大学時代のルームメイト、葉山蓉子(はやま ようこ)で間違いないと裏が取れた」圭吾の声は硬かった。夕凪の体がこわばった。写真を見た時から、蓉子ではないかとは思っていた。それでも、圭吾の口から決定的な事実を聞かされると、すぐには受け止めきれなかった。夕凪は痛ましげに眉を寄せた。「蓉子が……?それはつまり、清音を死なせた実行犯が蓉子だということですか?でも、どうして蓉子がそんなことを……彼女には、清音を殺す動機なんてありません」大学時代、蓉子とは同じ寮の部屋でルームシェアをして暮らしていた。特別に親しかったわけではない。かといって、仲が悪かったわけでもない。少なくとも、恨みを買うような覚えはなかった。圭吾は少し間を置いてから続けた。「葉山さんが大学を卒業した年、両親が相次いで重い病に倒れたんだ。家の金は治療費に消えたが、父親はまもなく亡くなった。母親は半身不随になり、それからずっと寝たきりの状態になった」常に誰かの介助がなければ生活できない状態だ。圭吾はさらに言葉を継いだ。「葉山さんには弟もいた。当時はまだ小学四年生で、金もかかるし、そばで面倒を見る大人も必要だった。家族を養うことも、母親と弟の介護や世話も、すべて葉山さん一人の肩にのしかかったんだ」夕凪は大きく目を見開き、息が詰まった。「そんな……卒業した直後に、蓉子の家でそんな過酷なことが起きていたなんて……私は、本当に何も知りませんでした」圭吾は静かに夕凪を見た。「君以外のルームメイトたちは事情を知っていて、少しずつ見舞金を出していたそうだ。君が知らなかったのは、卒業後、大学の同級生との連絡をほとんど絶っていたからだ」夕凪の顔からさっと血の気が引いた。圭吾の言う通りだった。一つの理由は、瀬戸グループの令嬢であるという本当の身分を知られたくなくて、卒業後は同級生たちと距離を置いていた。もう一つ目の理由は、卒業してすぐに峻と結婚したからだ。旧友とゆっくり連絡を取り合うような時間的な余裕など、当時の夕凪にはなかった。夕凪はかすれた声で言った。「私が蓉子を助けなかったから……見捨てたと思っ
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第77話

蓉子。そして、志織。なぜ、あの二人だったのか。夕凪はふと思い至った。もし本当に黒幕が志織なのだとしたら、この件に百合子が関わっていないはずがない。夕凪は志織の性格をよく知っている。傲慢で、わがままで、人を見下すことには長けているが、思考は浅はかだ。こんな手の込んだ陰謀を一人で組み立てられるほど、頭が回るとは思えない。すべてを裏で操れるのは、もっと冷酷で、狡猾で、細部まで緻密に計算できる人間だ。次に圭吾は、蓉子と志織のつながりを徹底的に洗うはずだ。本当に志織が黒幕なのか。それとも、その背後にさらに別の誰かが潜んでいるのか。まだ事件の全容が明らかになったわけではない。夕凪の潔白が完全に証明されたわけでもない。それでも、真実には確実に近づいている。そう思うと、胸につかえていた重い鉛が少しだけ軽くなった気がした。帰りのタクシーの中で、夕凪は自分の乗る車が、対向車線を猛スピードで走り去る黒い高級車とすれ違ったことに気づかなかった。その高級車のハンドルを握っていたのは、峻だった。十分前。会議中だった峻の携帯に、沙代から電話が入った。沙代の声は切羽詰まっており、今にも泣き出しそうに震えていた。とにかく今すぐ来てほしいと、何度も懇願を繰り返した。峻は一切迷わなかった。重役たちが並ぶ会議室を後にし、残りの進行を柊吾に丸投げすると、自らステアリングを握って涼風家へと車を走らせた。玄関の扉が開くや否や、峻は長い脚で一気に中へ踏み込んだ。「何があったんです。すぐ病院へ行きますか」「ううっ……ああぁ……」ベッドの上で、憲一が胸をかきむしるようにして苦しげに呻いていた。沙代はそのそばでただ涙をこぼすばかりで、何もできずにいる。峻の顔色がサッと沈んだ。すぐさまベッドのそばへ歩み寄る。「おじさん、どこが苦しいんですか」また転倒して脚を痛めたのか。それとも、以前からの持病が悪化したのか。峻の鋭い視線が、憲一の体を上から下まで素早く確かめる。憲一は呻きながら、自身の胸を強く押さえた。「こ、ここが苦しいんだ……」峻は一瞬、動きを止めた。すぐに険しく眉を寄せる。心臓か。だが憲一は、さらに絞り出すような苦しげな声を出した。「昨夜、また清音の夢を見たんだ……不憫で……胸が痛くて、たまらないんだよ……」峻はピ
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第78話

十分後。峻は自らハンドルを握り、運転席に座っていた。助手席には、清音とまったく同じ顔をした女が座っている。頭の中には、先ほど憲一から言われた言葉がまだ響いていた。「峻くん。詩乃ちゃんは私たちを気遣って、わざわざ手料理を作って持ってきてくれたんだよ。君はこれから会社に戻るんだろう?ついでに、この子を家まで送ってやってくれないか」峻はまだ状況を完全に飲み込めずにいた。赤の他人であるはずの詩乃が、なぜ憲一と沙代から娘同然に扱われているのか。助手席の詩乃は、白いショート丈のダウンジャケットに色落ちしたジーンズ、履き慣れたスニーカーという出で立ちだった。髪は高い位置でポニーテールにまとめ、メイクもごく薄い。若さだけが取り柄の、飾り気のない近所の親しみやすい若い女性といった雰囲気だ。オーダーメイドの高級スーツに身を包んだ峻とは、同じ車内の空間にいるだけでひどく不釣り合いだった。車に乗った瞬間から、詩乃は無意識に体を縮こまらせていた。頭を低く垂れ、両手を膝の上でぎゅっと握りしめている。峻の顔を直視しようともしない。息の音すら立てないように怯えているのが分かった。本当のところ、詩乃は峻の車になど一秒たりとも乗りたくなかったのだ。この男の放つ威圧感が強すぎる。隣にいるだけで、体温が奪われていくようだ。厚手のダウンを着ているのに、その冷気が布地を通り抜け、骨の髄まで染み込んでくるような気がした。「君は、あの二人に『娘』として迎えられたのか」運転席から不意に低い声が降ってきて、詩乃の肩がビクッと跳ねた。「は、はい」ただ返事をしただけでは、峻が納得するはずもないと詩乃はすぐに察した。詩乃はこくりと唾を飲み込み、おずおずと口を開いた。「数日前、スーパーへ買い物に行った時に、偶然お二人と出会ったんです」その時、憲一と沙代は詩乃の顔を見るなり、ひどく取り乱したのだという。二人は突然詩乃に駆け寄り、強く抱きしめ、周囲の目も気にせずに声を上げて泣き崩れた。「清音!生きていたのね、うちの娘!」そう何度も叫び続けたのだという。あとになって、詩乃は二人が取り乱した事情を知った。憲一と沙代の愛娘は三年前、交通事故で亡くなっていた。そして詩乃の顔は、その娘である「清音」と瓜二つだったのだ。だから二人は一瞬、死んだ娘が帰ってきたのだ
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第79話

峻は前を向いたまま、淡々と言った。「顔は同じだ。だが、お前は清音とは違う」詩乃は一瞬、きょとんとして何を言われたのか分からない顔をした。もう少し問い詰めようとしたところで、車が静かに停車した。「着いた」詩乃はそこでようやく、自分の住むアパートの前に車が停まっていることに気づいた。もう着いてしまったのか。清音の事をもっと聞きたかったが、峻の冷たい横顔はそれ以上の質問を許す雰囲気ではなかった。詩乃はおとなしくシートベルトを外し、車を降りた。「送ってくださって、ありがとうございました。御堂社長、失礼します」詩乃は少し身をかがめ、車内の峻に向かって小さく手を振った。緊張はまだ残っていたが、最後に見せた笑顔は素直で、ひだまりのようにやわらかかった。峻は何気なくそちらへ視線を向けただけだった。だが、その瞬間、峻の胸の奥が大きく跳ねた。冬の薄い日差しの中で笑う詩乃の顔は、あまりにも無防備だった。作り物ではない、少しの翳りもない無邪気な笑み。その笑い方が、かつての清音の面影と重なったのだ。詩乃が背を向け、アパートのエントランスへ入っていく。峻はしばらく、その後ろ姿を無言で見つめていた。やがて峻は目を伏せ、すぐに元の冷徹な表情に戻った。漆黒の瞳の奥には、細かく砕いた氷のような冷たさが戻っている。峻はスマホを取り出し、柊吾へ電話をかけた。「はい、社長」「白石詩乃の身辺調査を続けろ。少しでも不自然な点があれば、裏の裏まで全部洗い出せ」柊吾は電話の向こうで二秒ほど沈黙し、答えた。「かしこまりました」通話を切ると、峻はすぐさま別の番号へ発信した。「彼女の様子は?」電話の向こうから、緊張した男の声が返ってきた。「あの、彼女は今日、一度だけ外出されました。お戻りになってからは、ずっと寮のお部屋で休んでおられます」峻の眉が不快げに寄った。怪我をしているのに、わざわざ外へ出たのか。やはり昨夜のうちに、無理やりにでも俺の家へ連れて帰るべきだった。「今夜も仕事に出るつもりか」峻の声がさらに数度下がる。「いえ、とんでもございません!オーナーから、ここ数日は瀬戸さんに絶対に仕事をさせるなと厳しく命じられておりますので、どうかご安心ください」峻は冷たく鼻を鳴らした。司のやつめ、少しは
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第80話

待って、まさか……!自分と峻が夫婦だという事実が、このクラブの全員に知られてしまったのだろうか?夕凪はその場でピタリと足を止めた。全身の血がサッと冷え、背筋に強烈な寒気が走る。どうして?もし本当に知られたのだとしたら、もうここにはいられない。けれど、三年前の事件の真相はまだ明らかになっていない。濡れ衣も晴れていないのだ。今このクラブを追われたら、一体どうすればいいの?また昔のように、行く場所もなく、食べるものにも困り、寒さに震えて耐える日々へ戻るしかないのだろうか?その時、一人の女が近づいてきた。クラブの経理部を取り仕切る責任者だ。普段は夕凪とすれ違うたびにツンと顎を上げ、底辺の清掃員など視界にも入らないといった顔をしている女だった。ところが今は、夕凪を見た瞬間に足を止めた。次の瞬間、女は小走りで駆け寄ってきて、顔いっぱいに露骨な媚び笑いを浮かべた。「若奥様!若様がオフィスでお待ちですよ」夕凪は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。直後、ドクンと胸が強く跳ねる。若様?峻が来ているの?夕凪はハッと息を呑み、どうにか声を絞り出した。「どこのオフィスにいるんですか?オーナーの部屋ですか?」女は一瞬、きょとんとした。けれどすぐに誤魔化すような笑顔を作り直し、さっきよりさらに揉み手をするように腰を低くした。「はい、若奥様。どうぞお急ぎくださいませ」夕凪は小さくため息を吐いた。来るものは来る。ここで逃げたところで、あの峻がこのクラブで何をしでかすか分かったものではない。夕凪は仕方なく向きを変え、鉛のように重い足取りで司のオフィスへ向かった。その背中を見送る経理の女の目に、一瞬だけ醜い不満と嫉妬がよぎったことに、夕凪は気づかなかった。夕凪は扉を叩き、中へ入った。しかしオフィスにいたのは、司だけだった。夕凪は戸惑い、部屋の隅々まで視線を走らせる。「御堂さんはどこにいますか?」司はデスクの上に投げ出していた長い脚を下ろし、立ち上がった。「御堂峻?あいつが来たのか?」夕凪は目を丸くした。「あなたのところに来たんじゃないんですか?みんなが私のことを『若奥様』って呼んで、『若様』があなたのオフィスにいるって言っていたんですよ!」その「若様」とは、峻のことではないのか?司も目
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