LOGIN三久はこくりとうなずいた。「もちろんです。青木さんさえよければ、ですけど。それに、これから引っ越すことになる可能性が高いです」「もちろん、ずっといさせていただきますよ。ゆいちゃんはこんなにいい子ですし、三久さんもいい方ですもの。こんな雇い主さん、なかなか見つかりません」青木は正直な思いを口にした。「ただ、ゆいちゃんのためだけじゃなくて、三久さん自身のためにも気をつけてくださいね。あんなこと、もう二度とあってはいけませんから!」三久は胸を打たれた。「心配してくれて、ありがとうございます。もうあんなことは二度と起こりません」結人の出生をめぐる状況が、これ以上複雑になることはまずないだろう。由樹は今も知らないのだから、これ以上調べることもない。由樹と再婚するのは危険な賭けだ。それでも、あの手段を選ばず高崎家を片づけるのが今は何よりの急務だった。「それで、どこに引っ越すんです?梨々香さんは、いったいどこへ?」青木は思わず尋ねた。「梨々香さんが、お部屋を探してくれたんですか?」梨々香の名前が出た途端、三久は胸を締めつけられた。たった一日で、すべてがひっくり返るなんて。由樹と離婚したあと、またこうして深く関わり合うなんて。ましてや再婚にまで至るなんて、思いもしなかった。梨々香とこんなふうに離れ離れになる日が来るなんて、それはもっと想像もしていなかった。「いいえ。ほかの場所に移るんです」その顔色が曇ったのを見て、青木は慌てて取り繕った。「分かりました。三久さんの行くところなら、どこへでもついていきます。ゆいちゃんのお世話に専念しますね」しばらくして、結人はまた静かに眠りについた。三久が部屋を出ると、哲朗はもう到着していた。ローテーブルの上には、再婚合意書が二通と黒のペンが一本。三久は腰を下ろし、合意書を手に取ってざっと目を通そうとした。そのとき、不意に由樹の声が響いた。「ずいぶん、俺を信用してないんだな」「そんなことないわ」三久は首を横に振り、迷わず最後のページまでめくった。末尾には、由樹の署名がすでに記されていた。流麗な筆致で、書き手の強引な気性がそのまま表れていた。三久はその下に、自分の名前を書き入れた。この合意書は三久が作ったものだ。由樹は何一つ意見を差し挟まなか
三久の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。射抜くような真っすぐな瞳で由樹を見つめ、唇をきゅっと引き結んだまま何も言わない。これは脅しではない。彼に助けを求めるよう、誘いかけているのだ。由樹は立ち上がり、彼女のそばへ歩み寄った。骨ばった長い指で三久の顎をつまみ上げ、自分の鋭い眼差しと無理やり視線を合わせさせた。「お前との貸し借りはあとでゆっくり清算する。その前に、高崎家の連中を片づける」顎が痛んで、三久の目の奥がつんと熱くなった。知らず知らずのうちに、うっすらと涙の膜が張る。「いったい、どういうつもり?」三久の声が震えていた。由樹の指の腹が、彼女の顎のラインをゆっくりとなぞっていく。やがて顔の半分をすっぽりと手のひらで包み込み、長い指先が耳の後ろへと滑り込んだ。甘く親密な仕草のはずなのに、三久は蛇に睨まれた蛙のようなぞっとする冷たさを覚えた。彼の指先はひんやりとして、頬から耳の付け根、そして胸の奥底にまでその冷たさがじわりと染み込んでいく。「再婚だ」由樹の薄い唇がわずかに開いた。静かに落ちてきたのは、たった一言だった。三久の大きな瞳が激しく揺れる。「……何?」「言葉どおりの意味だ」由樹はふっと彼女を放した。「選択肢は二つ。三十分以内に再婚の合意書を作るか、今から俺が高崎家の連中を呼び戻してくるかだ」「あなた!」三久はその手を思いきり払いのけた。頬が真っ赤に染まり、羞恥と苛立ちで声が上ずる。「人の弱みにつけ込むなんて!」由樹の口の端が持ち上がり、冷たい皮肉な笑みが浮かんだ。「人助けと言ってもらおうか」再婚すれば、由樹は三久と結人を守る絶対的な後ろ盾となる。今日のような暴挙は二度と起こらない。「村上さんと結婚するのは、やめたの?」三久は愚かではない。再婚すれば高崎家の魔の手からは逃れられる。けれど、まだ千歳と摩美が残っている。しかも摩美はもうすぐ千歳を連れて深川へやってくる。摩美がなぜ結婚式を取りやめたのかは分からないが、こうしてまた千歳を連れて由樹に会いに来るのなら、この縁談を再び認めたということだ。由樹がこんな時期に自分と再婚するというのは、千歳とは結婚しないという意味ではないのか。「俺のことに口を出したいなら、まず俺の妻になってからにしろ」由樹はソファに
由樹は冷ややかな視線で彼を一瞥した。「答える義理はない」武司はひどくばつが悪そうな顔になったが、それでも愛想笑いを浮かべるしかなかった。「ハハ……ただ、何となく伺ってみただけです。三久は……この何年か私たちのそばにいなかったもので、少し気の強いところがあります。酒井社長のご機嫌を損ねていないかと、それが気がかりでして」由樹の彫りの深い顔には何の表情も浮かんでいない。「それでは、我々はこれで」武司は久留美の背中を押すようにして、逃げるようにエレベーターへ乗り込んだ。由樹はその言葉に応じることなく、二人が去るのを静かに見届けてから、踵を返して三久の家へ入っていった。三久は結人を抱いて戻ってくると、そのまま青木に預けた。「泣き疲れて眠ったみたい。部屋に連れていって寝かせてあげてください」結人の目尻にはまだ涙の跡が残っている。胸が痛んで仕方なかった。青木は結人を抱き取ると、深いため息をついた。「三久さん、まだ産後間もないんですよ。ゆいちゃんだって、まだこんなに小さいんです。こんな無茶、もう絶対にしないでください」「……分かってます」三久の胸はまだ小さく震えていた。すぐには落ち着けそうにない。青木が結人を抱いて部屋へ入っていくと、由樹もすぐ入ってきた。「どうして来たの?」三久はなんとか自分を落ち着かせ、口調はできるだけいつもどおりに保つ。由樹は鷹のような鋭い目を細め、三久の前に歩み寄る。「清算しに来た」三久の心臓が大きく跳ねた。彼が家に押しかけてきて「清算」を持ち出すのは、高崎夫妻の襲来と同じくらい、三久を息苦しくさせた。由樹はソファの前まで行って腰を下ろすと、長い脚を組んだ。リラックスした姿勢に見えるのに、その全身からは王者のような威圧感が濃密に漂っている。三久はその場に立ったまま動けなかった。「用があるなら早く言って。世間話に付き合う気分じゃないの」「気分じゃない?高崎武司にかき回されて慌てふためいたか?」由樹は両手の指を組み、淡々とした眼差しで言った。「なら、高崎家の話をしてやる。座れ」高崎家の話?三久は唇をぎゅっと引き結んだ。まさか彼は、高崎家が乗り込んできたことを知っていてわざわざ駆けつけたのだろうか。「高崎家には昔から不文律がある。家を継ぐ者
「さ、酒井社長」武司は思わずどもり、声が情けなく震えた。「どうして、こちらに?」由樹はエレベーターを降り、ポケットに両手を突っ込んだまま立っている。その眼差しは、氷のように冷え切っていた。とりわけ、三久が二人のボディーガードに両脇を押さえつけられ、口にハンカチを詰められて目に涙を浮かべているのを見た瞬間だ。拘束された細い手首には、見るに耐えないほど痛々しい赤い跡が残っている。由樹の目がすっと細まる。彼は長い脚を振り上げ、ボディーガードを力いっぱい蹴りつけた。その動きはためらいがなく鋭かった。身長二メートル近くある大男が、その一蹴りであおむけに吹き飛ばされたのだ。あっという間に、三久の両脇にいた二人ともが蹴り飛ばされ床に転がった。「あっ!」久留美は短く悲鳴を上げ、足早に武司のもとへ駆け寄る。由樹は三久の前に歩み寄り、口からハンカチを乱暴に抜き取ってやった。自由になった三久はすぐさま久留美のところへ駆け寄り、結人を取り返そうとする。だが、由樹の骨ばった手が三久の腕をがっしりと掴み、引き止めた。三久は感情を爆発させまいと必死だった。目に映るのは息子だけだ。邪魔をする者には誰彼構わず噛みつきかねないほどの切羽詰まった様子だった。「放して!」由樹は長い腕を伸ばして三久を胸に抱き寄せ、冷ややかな視線を高崎夫妻へ向けた。「あの子をこちらへ」久留美はおどおどと視線を泳がせ、武司の後ろへさらに身をすくめた。「酒井社長、あの……実はですね、三久は私たちの実の娘でして。家に連れて帰るために迎えに来たんです」武司は必死に平静を装い、顔に無理やり笑みを貼り付けて口を開いた。「話せば長くなります。またいずれ機会があれば、ゆっくりお話ししますよ。考えてみれば、私たちも不思議なご縁があるものです」由樹の表情はピクリとも変わらず、底知れぬ威圧感を放ったままだった。「もう一度だけ言う。あの子を、こちらへ」一言ずつ区切るように、由樹は低く言い放った。目に見えない凄まじい威圧感が武司を襲った。武司ほどの年齢になれば、これまでどんな修羅場もくぐり抜けてきたはずだった。それでも、由樹の放つ凄まじい気迫にはどうしても耐えきれない。彼は意を決して口を開いた。「酒井社長、三久はもう百栄グループを辞めております
三久はドアノブを握る手にぎゅっと力を込め、少しあとずさってさりげなく子ども部屋へ通じる廊下を塞いだ。「やっぱりな、お前は酒井社長のそばに長くいすぎて、自分まで大した人間になったつもりなんだろう」武司はリビングを出ると、三久の前に立ちはだかった。「でも、お前が今頼ってるのは九洲グループだ。神崎洲人なんて、人柄にしても実力にしても、酒井社長とは比べものにならない。よりによってそんな相手に乗り換えて、酒井社長の顔に泥を塗ったうえ、百栄グループまで敵に回した。九洲グループだって、いつまでもお前を庇ってくれるとは限らない。酒井家との関係を修復するためなら、いずれお前を切ることだってある。そうなったとき、誰がお前を守るんだ?酒井家にいつ報復されるか怯えながら生きていくことになるぞ」ビジネスの観点から見れば、武司の分析は実に的を射ていた。「まあ……!」久留美はさっと青ざめて声を上げた。「だめよ、それならなおさら私たちと一緒に帰ってきなさい。たとえ酒井家を敵に回したって、あなたをいじめさせたりしないわ!」そう言うなり、久留美は駆け寄って三久の腕を強く掴んだ。「さあ、お母さんと一緒に帰りましょう」三久が抵抗するより早く、武司ももう片方の腕を強引に掴んだ。「お前たち、お嬢様の荷物をまとめてやれ!」号令と共に、ドアの外に控えていたボディーガードたちがどっとなだれ込んでくる。玄関は一気に男たちで埋め尽くされ、三久は押されたり引っ張られたりしながら、半ば強引に外へ連れ出された。室内から青木の悲痛な声が響く。「何をするんですか!?真っ昼間から子どもを奪うつもり!?」「うわあああん……」ゆいの火のついたような泣き声が、一瞬でマンションじゅうに響き渡った。「ちょっと、あなたたち、何するんですか!まだ一か月ちょっとの赤ちゃんなんですよ。そんな乱暴に扱ったら怪我しちゃいます。早く返してください!」物がぶつかり合う騒々しい音に混じって、青木の切羽詰まった叫び声が聞こえてくる。三久の胸はきりきりと締めつけられた。彼女は咄嗟に力を振り絞って久留美を力いっぱい突き飛ばし、身を翻して部屋へ駆け戻る。不意を突かれた久留美は壁に背中を打ちつける。よろめいたその身体が勢い余って、武司の行く手までも阻んだ。二人とも、三久を引
「まだ高崎家に戻ってもいないのに、そんなに後継ぎのことが気になるのか?」武司は不機嫌そうに眉をひそめた。「正直に言えば、高崎家では昔から、次の世代に健康な子どもが生まれるかどうかをかなり重く見てきた。だが、お前のお母さんは違う。あの頃、お前を守るために妊娠のことを周りに知られないようにして、無事に産んで育てようとしていた。ところが途中でそれが知られて、家の中でひと悶着あった。その時、俺が家の問題をこれ以上大きくしたくなくて、結局、お前のことを表に出さなかったんだ。そのせいで、お母さんがお前を捜すのにもずいぶん時間がかかった。そうでなければ、もっと早く見つけられていたはずだ。お前にとって理不尽だったことは分かってる。だが、だからといって、お母さんにそこまで冷たくすることはないだろう。この先もずっと、自分を責めながら生きろっていうのか?」武司が言い終えると、久留美の目から止めどなく涙があふれた。こらえきれない嗚咽が口の端から漏れ出る。世間の常識からすれば、三久が今ここで親子の名乗りを拒むのは、冷酷で恩知らずと言われても仕方がない。なにしろ、高崎家に戻って令嬢となれば立場は一変し、暮らしは今とは比べものにならないほど良くなるのだから。三久が名乗りたいかどうかなど、誰も気にしない。大事なのは高崎家が娘として迎え入れたがっていること、そして久留美がこの何年も彼女を忘れられずにいたという事実なのだ。「本当は、高崎家に戻って顔に泥を塗ってしまうのが心配なんです」三久は言い方を変えた。「私は未婚で子どもを身ごもりました。子どもは……父親が分からないんです」その言葉に、久留美の泣き声がふっと途切れた。「父親が、分からない?」「構わん」武司は気にするなと言わんばかりに手を振った。「深川で高崎家の悪口を言う者などいない。ただ、この先お前も結婚することを考えて、お前さえよければ、こういう計画がある」三久のまぶたがぴくりと震えた。視線を床に落とし、表情は薄く静かなままだった。「どんな計画ですか」武司は声を少し落とし、秘密めかして言う。「智和の子は、お前の子と同じ日に生まれたんだ。お前の子を智和の養子にすればいい。そうすれば、その子も高崎家の子だ。将来は高崎家を継ぐこともできる。お前は高崎家の令
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒
深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。【ついにママになりました。男の子で〜す!】一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。「……なんで来たの」三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな
財界の宴会の場で由樹に出くわすたびに、洲人は必ず何かしら突っかかってくる。とはいえ、真正面からぶつかっても由樹には到底歯が立たない。だから彼は代わりに、由樹の周りにいる人間に矛先を向けるのだ。たとえば、三久のような、立場の弱い者に。三久はすぐさま踵を返し、人目につかない裏口から出ようとした。だが、洲人はすでに獲物である三久を見つけていた。周りの取り巻きを強引に押しのけて、足早に追いかけてくる。三久が宴会場を出て、人気のない角の廊下に差し掛かった途端、行く手を阻まれた。「やあ。早坂さんじゃないか。見間違いかと思ったよ」由樹が冷徹で口数が少なく、整った顔立ちに一切の隙が
宴会場では、由樹が動くたびに自然と人の輪ができた。財界の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながらも、次々と彼のもとへ挨拶に訪れる客が途切れることはない。「由樹さん」千歳が横に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。由樹の腕が一瞬だけわずかに固まったが、すぐにふっと力が抜けた。「ちょうどよかった、紹介しよう。こちらは金子(かねこ)会長だ」千歳は由樹にぴたりと寄り添いながら、愛くるしい笑顔を向けた。「金子様、父からお噂はかねがね伺っております。今日ようやくお会いできて光栄です」「千歳ちゃんが小さい頃、抱っこさせてもらったことがあるんだよ……」金子会長は千歳と和やかに言葉を







