بيت / 恋愛 / 洛陽夜曲 / Chapter 151 -الفصل 160

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東京支部

大阪の喧騒をいなすように、そのバーはひっそりと佇んでいた。琥珀色の灯りが満ちるカウンターの片隅。並んで腰を下ろした二人の間には、濃密な沈黙と、どこかちぐはぐな空気が流れている。「珍しいなオヤジ。あんたがこんな場所に誘うなんて」槇村が不満げに視線を落とした先には、場違いなほど鮮烈な、橙色のノンアルコールカクテルがガラスの縁を濡らしていた。夜の闇を拒絶するようなその色彩は、彼の頑なな心を映しているようでもある。「たまには親子の語らいをってのは変かい?」宏一は、息子のまとう刺々しい警戒心を、むしろ愉しむように細めた目で眺めた。グラスを傾けるその指先には、年輪のような余裕が滲んでいる。都会の夜の片隅で、交わるようで交わらない二人の視線が、静かに火花を散らしていた。「あんたがこういった真似をする時は、たいていが嫌な話だ」苦々しさを隠そうともせず、槇村は手元のロックグラスを一気に傾けた。琥珀色の液体が喉を焼き、氷がカランと、夜の底で虚しく乾いた音を立てる。その無骨な拒絶を、槇村はどこか哀愁を帯びた苦笑いで受け止めた。「否定はしないよ」吐き出された言葉は、重く、そして静かに、二人の間のわずかな隙間へと沈み込んでいった。「宏一が大阪の地を踏んでから、もうどれほどになるだろうな」「さあな……七年、いや、八年か。急に何なんだよ」槇村の瞳の奥にある真意を計りかね、宏一は探るような視線を返す。「東京支部を、お前に任せたい」唐突に投げつけられたその一言は、静まり返った部屋に重く響いた。あまりに予期せぬ申し出に、宏一はただ、言葉を失うしかなかった。「俺が東京に……」槇村の口から零れ落ちた言葉は、にわかには現実の音として響かなかった。宏一の脳裏に、夕暮れの光のなかで微笑む鈴華の姿が、鮮烈なほどの色彩を伴ってよぎる。だが、その残像を掻き消すように、槇村の低い声が追い打ちをかけた。「鈴華は連れてはいけないよ」自身の秘められた独白をそっくりそのままなぞられたような衝撃に、」宏一の思考は完全に停止した。店の空気が急激に重さを増し、胸を圧迫する。影のなかに沈む槇村の瞳が、自分のすべてを暴いているようで、宏一はただ彫刻のように硬直するしかなかった。
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これからの六穣会

宏一の指先が、捕らえられた小鳥のように微かに震えた。槇村の言葉は絶対の命であり、そこに抗う余地など初めから存在しない。拒絶の二文字を浮かべることすら許されないと知りながら――それでも、胸の奥底にくすぶる鈴華への想いだけが、冷徹な論理の隙間でどうしても歪にきしんだ。せき止められなくなった本音が、痛切な吐息とともに零れ落ちる。「鈴華は……俺と、俺や藤四郎と一緒にいた方が幸せなはずだ。俺の手で、あいつを守ってやれる」押し潰されそうな沈黙を破ったのは、槇村の低く、酷薄なほどに静かな声だった。「……鈴華は、君が思うほど脆くないよ。それに」槇村の射抜くような視線が、宏一の動揺を真っ向から縫い留める。「鈴華を守るのはもう俺達の役目じゃない」感情の沸点に達した宏一は、椅子から身を起こすと同時に激昂した。「あいつならいいっていうのか⁉」空気を震わせるほどの語気。だが、対峙する槇村の心は、平静を保ち静まり返っていた。「良い悪いの話じゃない。鈴華の人生を決めるのは鈴華自身だ」その揺るぎない正論は、宏一の怒りをどこまでも空回りさせる。やり場のない苛立ちをぶつけるように、宏一は再び激しく椅子に腰をかけたが、その背中には苦い沈黙が広がっていた。二人の間に横たわる沈黙を、店のBGMだけが穏やかに満たしていた。その静寂を、宏一の低い声が小さくひび割る。「鈴華は……またあんたの護衛をするのか?」問いかけは、淀んだ空気を震わせて消えた。「……いや。護衛には、新しい人間を雇った」淡々とした、しかし拒絶を孕んだ響き。「何故だ?」宏一の瞳に焦燥が走る。「鈴華は……あいつは本当に、それで納得しているのか?」槇村の眉が、困惑に小さく寄せられた。「うーん……納得、してもらうしかないな」諦念を帯びた呟きに、宏一の言葉が鋭く重なる。「まだ話してないのかよ」「最近は特に忙しくてね。ほとんど日本に居なかったから」言い訳めいた言葉を濁らせながら、槇村は手の中のグラスを傾け、喉へと流し込んだ。空になったグラスが、カウンターの木肌に寂しげな音を立てて戻される。その乾いた音に気づいたバーテンダーが、次の注文を伺うように一歩近づいた。だが、槇村はただそっと手をかざし、無言のままそれを制した。「六穣会はこれからもっと大きくなる。関西だけじゃなく、関
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これからの六穣会

宏一の声の震えは、微かな、しかし確かな亀裂となって静寂を打った。「それは……あいつを、認めたってことか!?」吐き出された問いの重さに、槇村はただ、静かに視線を落とす。「……そうだね。俺の裁量で、烏丸君を六穣会に迎えた。本来なら、九条組から彼一人だけを引き抜く算段だったんだ」宏一の顔に、苦渋の影が深く刻まれていく。言葉を失った彼の沈黙を、槇村の低く、穏やかな声が満たしていった。「けれども、彼は九条組を見捨てなかった。己の矜持も、背負った看板もすべて投げ打って、泥をすすりながらでも仲間を守り抜く道を選んだんだよ。彼はね」「九条組を……」宏一の張り詰めていた輪郭から、わずかに棘が失われた。「組長の宇治宮はもはや再起不能だ。服役も、相応のロングになるのは間違いない。……俺個人の思惑としてはね、烏丸君を迎えた後、抜け殻となった九条組をそっくりそのまま手に入れる算段だったんだが」「……結果的に京都は、もはやオヤジのものじゃねぇか」吐き出された呟きは、感嘆ともつかない響きを帯びていた。宏一はグラスに残った琥珀色の液体を、喉の奥へと一気に流し込んだ。「……烏丸君はね、私に額を擦りつけ、九条組の命脈を繋いでくれと懇願したのだよ。伝統の重みを背負う若頭という男が、プライドのすべてをかなぐり捨てて、だ。……お前にそれほどの覚悟があるかい、宏一」槇村の静かな、しかし刃のような問いかけに、宏一の表情は一瞬にして凍りついた。唇が微かにわななく。だが、彼は自らの胸の奥底にある熱情を絞り出すようにして、辛うじて言葉を返した。「……やれるさ! 俺だって、あんたや鈴華……六穣会を護るためなら、この命がどうなったって構やしない!」槇村の唇が、小さく弧を描いた。鈴華という存在の重さを知る者同士の、それは暗黙の肯定だった。「まあ鈴華の為ならそうするだろうね宏一は」再び神妙な面持ちに戻った槇村の視線が、宏一の輪郭を冷徹に切り取る。「俺はね、将来六穣会をお前に託したいと思ってる」時間の流れが止まったかのような錯覚の中、宏一はただ、「オヤジ……」とだけ、低く呟くしかなかった。「だが、今のお前なら――六穣会と鈴華を天秤にかけた時、どちらに傾く?」槇村の放った問いは、鋭利な刃となって宏一の胸の奥深くを抉った。「それ……は……」即座に言葉を
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宏一の背負うもの

宏一の声の震えは、微かな、しかし確かな亀裂となって静寂を打った。「それは……あいつを、認めたってことか!?」吐き出された問いの重さに、槇村はただ、静かに視線を落とす。「……そうだね。俺の裁量で、烏丸君を六穣会に迎えた。本来なら、九条組から彼一人だけを引き抜く算段だったんだ」宏一の顔に、苦渋の影が深く刻まれていく。言葉を失った彼の沈黙を、槇村の低く、穏やかな声が満たしていった。「けれども、彼は九条組を見捨てなかった。己の矜持も、背負った看板もすべて投げ打って、泥をすすりながらでも仲間を守り抜く道を選んだんだよ。彼はね」「九条組を……」宏一の張り詰めていた輪郭から、わずかに棘が失われた。「組長の宇治宮はもはや再起不能だ。服役も、相応のロングになるのは間違いない。……俺個人の思惑としてはね、烏丸君を迎えた後、抜け殻となった九条組をそっくりそのまま手に入れる算段だったんだが」「……結果的に京都は、もはやオヤジのものじゃねぇか」吐き出された呟きは、感嘆ともつかない響きを帯びていた。宏一はグラスに残った琥珀色の液体を、喉の奥へと一気に流し込んだ。「……烏丸君はね、私に額を擦りつけ、九条組の命脈を繋いでくれと懇願したのだよ。伝統の重みを背負う若頭という男が、プライドのすべてをかなぐり捨てて、だ。……お前にそれほどの覚悟があるかい、宏一」槇村の静かな、しかし刃のような問いかけに、宏一の表情は一瞬にして凍りついた。唇が微かにわななく。だが、彼は自らの胸の奥底にある熱情を絞り出すようにして、辛うじて言葉を返した。「……やれるさ! 俺だって、あんたや鈴華……六穣会を護るためなら、この命がどうなったって構やしない!」槇村の唇が、小さく弧を描いた。鈴華という存在の重さを知る者同士の、それは暗黙の肯定だった。「まあ鈴華の為ならそうするだろうね宏一は」再び神妙な面持ちに戻った槇村の視線が、宏一の輪郭を冷徹に切り取る。「俺はね、将来六穣会をお前に託したいと思ってる」時間の流れが止まったかのような錯覚の中、宏一はただ、「オヤジ……」とだけ、低く呟くしかなかった。「だが、今のお前なら――六穣会と鈴華を天秤にかけた時、どちらに傾く?」槇村の放った問いは、鋭利な刃となって宏一の胸の奥深くを抉った。「それ……は……」即座に言葉を
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早緑の決意

槇村との別れの後味は、苦い泥のように宏一の胸に沈殿していた。会長の命という大義名分の前には、東京への道筋はとうに敷かれたレールに過ぎない。離れがたいのは、住み慣れた浪速の街ではない。宏一の思考のすべてを縛りつけるのは、ただ、置き去りにしてゆく鈴華の面影だけであった。「俺が東京へ行くと知れば、あいつはどんな顔をするだろうか…」ふいに沸き上がったそんな感傷は、しかし、彼の唇に浮かんだ自嘲の笑みによってたちまち掻き消された。「あいつのお守りはもう、俺の役目じゃないんだな…」呟きは誰に届くこともなく、夜の隙間にぽつりと落ちて消えた。 所在なく歩を進める宏一の傍らに、一台の車が寄り添うように速度を落とした。「カシラ、迎えにきたで」遮るガラスの向こうから届いた早緑の声は、張り詰めた空気を弛ませるような明るさを孕んでいる。「藤四郎……」「なんや? 辛気臭い顔して。またオヤジにでも絞られたんか」宏一は小さく、吐き捨てるように舌を鳴らすと、促されるまま助手席へ滑り込んだ。二人の沈黙と微かな熱を乗せた車輪が、滑らかな軌道を描いて夜の街へと漕ぎ出していく。「東京支部を俺に任せたいそうだ。藤四郎……俺は東京に行く」感情の起伏を綺麗に排した宏一の告白は、かえって重い質量を持って藤四郎の耳に届いた。瞬間、世界が急停止する。激しい摩擦音とともに、車は不自然な姿勢でその場に縫い付けられた。「馬鹿野郎! 突然止まるんじゃねえ!」「東京支部を!? すごいやんか、カシラ!」弾けるような声が、緊迫した車内の空気を鮮やかに塗り替えていく。宏一とは対照的に、彼の瞳にはすでに、まだ見ぬ大都会の灯りが映っているかのようだった。「今の東京は、どこを歩いても他所の地雷が埋まってるようなもんだ。シノギのルートもまだ安定しちゃいない。要するに、一番分の悪いババを引かされたんだよ」宏一は吐き捨てるように毒づいた。その言葉の棘など最初から意に介していない風で、早緑の瞳の奥にある興奮の火は、一向に消える気配を見せない。「何言うてますの。会長がそこを任せるて決めたっちゅうことは、それだけカシラの実力を買うてる証拠やないですか。……あの『大阪の狂犬』が、今度は東の空で何に化けるんか、うち、今からゾクゾクしてますわ」早緑の言葉が、宏一の頑なな輪郭を
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宏一の決断

早緑はきょとんとした眼差しを宏一に投げた。「何言うてますんや?そんなん当たり前やろ?」弾むようなその声は、自らの東京行きをいささかも疑っていない響きを帯びていた。「……俺に無理についてくる必要はないぞ。お前は生まれも育ちも大阪だろう?」宏一のどこか引き留めるような、あるいは突き放すような言葉。それを聞いた瞬間、早緑の顔からいつもの軽やかさが消えた。彼は珍しく、神妙な面持ちで、じっと宏一を見つめ返した。「カシラ。俺は確かに六穣会の組員で、オヤジに盃をもらった身ぃや。そやけどな、俺がここに、六穣会におんのは……宏一さん、あんたがおるからなんや。たとえ親から勘当され、籍を削られたって、俺はどこまでもあんたについていくで!」「藤四郎……」迷いのない瞳に宿る、痛いほどの熱量。藤四郎の放った言葉は、夜の静寂を切り裂いて宏一の胸に突き刺った。そのあまりにも重い覚悟の前に、宏一はこれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。 諦念か、それとも覚悟か。宏一はふっと肩の力を抜くと、可笑しそうに声を立てて笑った。「ははっ……まったく物好きな奴だよ。お前は」凍りついていた空気が融けるように、藤四郎の唇にも馴染みの笑みが戻った。「そうやろ? こんなおもろい奴めったにおらへんで? 宏一さん」通い合った互いの熱量を乗せて、駆動音が夜の底に響く。車は滑るように速度を上げ、どこまでも続くアスファルトの路面を力強く捉え始めた。 古都の夜気は冷たく、九条組の周囲を取り囲む警官たちの足音だけが不気味に響いていた。ようやく戻ってきた京司を迎えたのは、逃げ惑う嵐の後のような、荒涼とした事務所の空気だった。辛うじて逮捕を免れたものの、魂を抜かれたような組員たち。その中で、若頭補佐の錨と山城だけが、崩壊寸前の組織を繋ぎ止めようと死に物狂いで電話にかじりついている。「遅うなってもうて、すまん」低く、だが確かな質量を持った京司の声が響いた瞬間「カシラ!」という悲鳴にも似た歓声が上がった。一斉に注がれる視線。それは、暗闇の中で溺れる者が、一条の光に縋り付こうとするかのような、痛々しいほどの不安と期待に満ちていた。「錨。事情聴取の首尾はどないやった」京司の自室へ招かれた錨と山城は、重苦しい沈黙を破るように事の顛末を吐き出した。「内部抗争を企
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九条の血脈

「九条組は、六穣会の傘下に入る」京司の口から零れ落ちたその一言は、錨と山城の思考を瞬時に凍りつかせた。喉の奥まで出かかった反論は、形を成す前に乾いた空気へと消えていく。ただ、突きつけられた過酷な現実に、二人は言葉を失い立ち尽くすしかなかった。「お前らも思うところはあると思う。納得できひんやつも出てくるやろう。…けどな」重い沈黙を破り、京司は自らの言葉に、血の滲むような決意を込めて続けた。「俺は…若頭として九条組の灯を消したくはないんや。たとえよそもんの軍門に降り、その軍門にすがろうとも…九条の名だけはこの地に刻み残したい」山城の拳は、白くなるほど固く握りしめられている。その表情には、困惑と、割り切れない怒りが滲んでいた。「……本気ですか、カシラ」絞り出すような声だった。「ウチが、あの六穣会の傘下に入るなんて。先代から受け継いだこの看板を、あいつらの下に敷くっていうんですか」京司は小さく息を吐いた。その動作には微塵の動揺もない。「看板を捨てるわけやない。泥を塗るわけでもない。……看板を『守る』ための決断や」「守る?」山城が思わず声を荒らげ、すぐに周囲を気にするように声を潜めた。「頭下げて軍門に降ることが、どうして守ることになるんですか!若い奴らだって納得しませんよ!」「なら、このまま意地張り続けて、残った若い奴ら全員路頭に迷わせるか?」京司の低い、だが刃のように鋭い声が室内に響いた。山城は息を呑み、言葉を詰まらせる。京司は一歩も引かぬ鋭い眼光で、懐刀である男達を真っ直ぐに見据えた。「時代の流れを見んかい。牙剥き出しにして狂犬みたいに吠えるだけの極道は、もう生き残れん。六穣会の資金力、それに政財界にまで伸びる根の深さは、今のウチが逆立ちしたって敵う相手やない。もしこのまま他組織と抗争がはじまれば、数ヶ月持ちこたえたところで、九条組は跡形もなく潰される。お前や、お前が目ぇかけとる若い奴らの命と一緒に、な」京司は言葉を落ち着かせるように、ゆっくりと続けた。「俺が欲しいんは、虚栄のプライドやない。九条組いう『家族』の命であり、未来や。今、六穣会の傘下に入るんは、敗北やない。少なくとも俺はそう思うとる」一呼吸置き、京司は若頭補佐の肩にそっと手を置いた。「カシラ…」「頼む。俺の決断に、力を貸してく
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京司と錨

無機質な部屋に残されたのは、京司と錨の二人だけだった。エアコンの微かな運転音だけが、やけに大きく耳に届く。京司は、錨の顔をじっと見据えた。相変わらず、何を考えているのかさっぱり分からない能面のような顔だ。「錨……六穣会へ行くんか?」問いかけても、錨の表情はピクリとも動かない。京司はふっと視線を落とし、自嘲気味に口元を歪めた。「……お前の言う通りやったな。俺は、本当の金の苦労ってやつを知らん。お前から見たら、ただの痛い『お山の大将』やったんかもしれんな」自分の格好悪さを吐き捨てるような、乾いた声。その瞬間、錨の表情が劇的に変わった。「カシラ!」それは、普段の錨からは想像もつかないほど、感情の乗った剥き出しの声だった。「私は決して、そんな風に思ったことはありません!」その一言には、静かに、けれど確かに熱い温度が宿っていた。珍しく感情を剥き出しにした錨の姿に、京司は一瞬だけ目を見開いた。いつも淡々と任務をこなし、何を考えているのか分からなかった男の必死な声。「……そうか」京司は小さく呟くと、視線を落としてふっと息を漏らした。その表情には、どこか憑き物が落ちたような穏やかさが混じっている。窓の外、京都の夜に散らばるネオンは、どこか冷ややかで現実味がない。京司は薄汚れたガラスに額を押しつけるようにして、その光の群れをただ見つめていた。反射する自分の顔が、街の灯りに溶けていく。「俺は、六穣会の……槇村の力を借りてでも、九条組を立て直す。……まともなやり方じゃもう無理や。けどな、薬にだけは絶対に手を出さん。それだけは譲れん」ぽつりと言い捨てた京司の背中に、錨は視線を落とした。胸ポケットからタバコを取り出しかけ、そのまま指先で弄ぶ。その表情には、時代の流れに取り残された者特有の、諦めにも似た重い影が落ちていた。「昔ながらの『極道』しか知らん九条にとって、それは……相当な茨の道になりますよ?」「ああ……わかっとる」吐き出された京司の声は低く、まるですべての重力を引き受けたかのように、部屋の空気を沈み込ませた。彼は窓辺からゆっくりと、時間をかけるようにして錨の方へと向き直る。その目はまっすぐに、揺るぎない確信をもって錨を射す。逃げ場を塞ぐような、あまりに純粋で、切実な眼差しだった。「……そやから、お前の力
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旅立ち①

錨の瞳は、京司の姿を捉えたまま微動だにしなかった。いや、網膜に焼き付いたその光景から、ただの一瞬も逃れることができなかったのだ。京司の全身から立ち上る、肌を焼くほどの熱意の奔流が、錨の胸の最も柔らかい場所を深く貫いていた。「カシラ……どうか、頭をお上げください」震える吐息のような、哀切極まる懇願が、沈黙の底へ落ちていく。「……あなたにそこまで魂を削るようにして頭を下げられて、背中を向けられるほど、俺の胸は空っぽじゃありませんよ」降伏を自嘲するような、けれどその瞳には深い熱を宿していた。---数日後の幹部会。幹部がすがり付くような目を向ける。そんな幹部達に京司の言葉が重くのしかかる。「看板にすがって組織ごと沈むか? それとも、痛みをこらえて生き残るかだ。六穣会の傘下に下ろうとも九条組の名は消えへん。親父の不始末は、俺たちが新しい『任侠』の形を見せることで帳消しにするんや」その瞳には、冷徹なまでの覚悟と、組を思う烈火のような情熱が同居していた。京司はすぐさま行動に移った。まずは、薬物汚染の酷かった一部の不穏分子を即座に絶縁・破門処分にし組織の「膿」を完全に絞り出した。同時に、槇村の助力のもと、これまで組長が裏で手を染めていたフロント企業や、まっとうな金融・不動産のシノギを一本化するための新しい絵図を引き始めた。「おい、お前ら」京司の呼びかけに、事務所に集まった若い衆が一斉に背筋を伸ばす。「これから忙しくなるで。警察の目はこれまで以上に厳しくなる。だが、法を犯さずとも、新しいシノギのやり方はなんぼでもある。ついてくる覚悟のある奴だけ残れ」静かだが、腹の底に響くような京司の言葉に、若い衆の目に少しずつ生気が戻っていくのがわかった。バラバラになりかけていた九条組という巨体が、京司という新たな強固な背骨を得て、ゆっくりと、しかし確実に立ち上がろうとしていた。 大阪六穣会の事務所には、去り行く季節特有の、埃っぽくも物寂しい静寂が澱んでいた。積み上げられた荷物と、各部署へと引き継がれる書類の束。宏一と早緑の二人は、黙々とその残務を片付け、過去を整理していく。指先が紙を繰る乾いた音だけが、部屋の輪郭をかろうじて保っていた。「お兄ぃ‼」その静寂は、乱暴な突風によって一瞬で吹き飛ばされる。勢いよく開
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旅立ち②

早緑の言葉を置き去りにしたまま、鈴華はまっすぐに宏一へと詰め寄った。その瞳には、切迫した色が浮かんでいる。「東京に行くって、本当なの……!?」宏一は視線さえ向けず、淡々と手元の作業を続けていた。机の上の書類をめくる乾いた音だけが、二人の間に流れる。「あの日、親父から東京支部を任された。来週には、向こうに籍を移す」「そんな、突然……」鈴華の声が、落葉のように小さく震えた。「大阪の方は、どうするの!?」「それは親父が考えることだ」突き放すような冷ややかな響きを残し、書類を整え終えた宏一が席を立とうとする。その瞬間、鈴華の指先が彼のジャケットの裾を強く、引きちぎらんばかりに握りしめた。「私も……一緒に行く」その一言が落ちた瞬間、氷のようだった宏一の横顔に、一筋のひび割れが生じるように、一瞬だけかすかな動揺がよぎった。ようやく、宏一が鈴華へと視線を移した。しかし、その瞳には何の色彩も宿ってはいない。「…お前の身の振り方に関しては、親父から何も指示を受けていない。連れていくことはできない」感情の起伏を綺麗に削ぎ落とした声が、静かに、そして残酷に室内の空気を凍らせる。鈴華の顔から血の気が引き、表情が強張っていく。拒絶の言葉を受け止めたその瞳の奥には、今にも溢れ出しそうな、薄い涙の膜が張りつめていた。「――嫌っ!」いつもは波立つことのない彼女の心が、張り詰めた糸が弾け飛ぶようにして、剥き出しの叫びとなった。水を打ったように静まり返るオフィス。そこに穿たれたのは、鈴華の、身を切るような悲痛の残響。叫びが空気を震わせた刹那、彼女の瞳からは、それまで懸命に堰き止めていた境界が崩壊したかのように、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。「嫌よ……。お兄ぃと、早緑さんと……いつも、三人一緒だったじゃない……っ」「お嬢……」早緑の口から漏れたのは、祈りのようでもあり、諦めにも似た掠れた声。揺れる瞳には、割り切れない幾重もの悔恨と憂いが複雑に絡み合い、翳りとなって落とされている。ただただ、泣きじゃくる鈴華の姿を、縛り付けられたように見つめることしか、今の彼にはできなかった。「……鈴華」沈黙を破ったのは、宏一の静かな、だがひどく重みのある声だった。彼はゆっくりと歩み寄り、泣き崩れる鈴華の前に膝をついた。視線の高さを合
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