早緑藤四郎の産声は、大阪の湿り気を帯びた路地裏、陽光を拒むような長屋の隅で上がった。彼の人生の頁に、“父親”という文字が刻印されることはついになかった。 母は、夜の帳に身を委ね、酒香と紫煙のなかで日銭を稼ぐ“流浪の女” であった。彼女の生き様がそうであったように、藤四郎の幼少期もまた、定住を許さぬ風の如き日々であった。彼らの家は、常に仮初めの宿に過ぎなかった。ある時は、線路沿いの埃っぽいアパート。またある時は、看板の剥げかけた安宿。土着の根を持たぬ「根無し草」として、彼は街から街へと、季節の変わり目に追い立てられるようにして移り住んだ。学び舎の門をくぐる機会は、砂時計からこぼれ落ちる砂粒ほどに稀少であった。義務教育という名のレールから外れ、世間の営みから隔絶された孤独な少年期。しかし、彼の瞳の奥に宿る知性の灯火は消えてはいなかった。教科書も机もない薄暗い部屋の片隅で、彼は拾い集めた活字に飢えた獣のようにかじりついた。藤四郎にとって、文字を追い、世界の理を解き明かそうとする時間は、唯一、己を泥濘から救い出してくれる静謐な祈りだったのである。運命に根を張る場所を奪われても、彼の精神は、見えぬ星を目指すように高みへと手を伸ばしていた。十歳を数年過ぎた、その季節の匂いさえ思い出せないある日のことだ。部屋から、母の気配が消えた。重たい安物の香水と、湿った煙草の匂い。それらが少しずつ部屋の隅から剥がれ落ち、代わりに満ちてきたのは、無機質な静寂だった。藤四郎はただ、薄暗い四畳半で膝を抱えていた。胃袋が自らを蝕むような鋭い痛みに変わるまで、彼はひたすら“待つ”という受動的な刑罰に耐え続けていた。「おかんはもう俺がいれへんくなったんか…」返事をくれる人もない部屋で一人呟く藤史郎。三日目だったか、あるいは五日目だったか。思考が霞み、輪郭を失いかけた意識の中で、藤四郎はふと立ち上がった。アルミのドアノブは、驚くほど冷たかった。それを回した瞬間、建付けの悪い扉が悲鳴を上げ、彼を外の世界へと放り出す。廊下に溢れていたのは、他人の家の夕飯の匂いや、遠くを走る車の走行音。世界は、彼が餓死しかけていることなど一顧だにせず、残酷なほど活発に駆動していた。アスファルトを踏みしめた瞬間、彼の内側で何かが決定的に入れ替わっ
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