بيت / 恋愛 / 洛陽夜曲 / Chapter 161 -الفصل 170

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178 فصول

賓客

宏一の差し伸べた揺るぎない想いを受け止めながらも、鈴華の瞳から溢れる雫は、いっこうに涸れる気配を見せなかった。理性がどれほど冷徹にその事実を納得しようとも、震えるばかりの心はその歩幅に追いつけず、ただ置いてけぼりにされた子供のように立ち尽くしている。「だけど……こんな、あまりにも突然の別れなんて……お兄ぃ……」しゃくり上げる息に遮られ、今にも消え入りそうなその拒絶。涙に濡れた横顔を見つめ、早緑は困ったような、それでいて深い慈しみを湛えた苦笑をその唇に浮かべた。「――大袈裟やなぁ、お嬢。なにもこれが、今生の別れっちゅうわけやあらへんのやから」宏一は手を伸ばすと、愛おしさをそっとぶつけるように、鈴華の柔らかな髪をくしゃりと撫でた。「藤四郎の言うとおりだ。それに……」ふっと目元を和らげ、悪戯めいた光をその瞳に宿す。「あの烏丸の野郎が嫌になったら、いつでもすぐに迎えに行ってやるからさ」哀しみを吹き飛ばそうとするかのような、軽やかな冗談。そう言って破顔した彼の笑顔は、どこまでも温かく、そしてどこか切ない。「お兄ぃ……」溢れる涙の向こう側で、鈴華はただ、その不器用な優しさに救いを見るように、小さく呟いた。---槇村と京司のあいだで交わされた親子盃の余韻も冷めやらぬ数日後、その契りを裏社会の隅々にまで告げる赤状が放たれた。九条組が正式に六穣の直参へと組み込まれたその報せは、波紋のように音もなく、しかし確実に闇の勢力図を塗り替えていく。急激なうねりの中で九条組が激しく揺れ動く中、京司は錨と山城という確かな両腕の支えを得て、ようやく足元を固めつつあった。多忙の濁流に身を置きながらも、京司の胸の奥底には、常に鈴華という消えない灯火があった。幾度となくスマートフォンを握りしめ、その画面を見つめる日々。しかし、張り詰めた糸のような指先が、最後の敷居を越えて動くことはついになかった。液晶の冷たい光が消えるたび、彼は自らの影に向かって、静かに問いかける。(一度裏切ったこの手が、どの面を下げて……。もう一度、あの温もりに触れることなど、許されるはずもないやろうに)自責という名の暗い感情が、彼の胸をどこまでも深く侵食していった。重たい疲労の泥に身を沈めるように、京司は深く椅子に身体を預けた。指先に挟んだ煙草から、青白い
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宏一と京一

錨の表情が、見たこともない硬度で強張っている。「……誰や?」京司の低い問いかけが室内に落ちる。だが、錨が割り切れない沈黙を破るより早く、ドアが音もなく開いた。そこから滑り込んできたのは、宏一だった。「槇村……若頭」予期せぬ稀客に、京司の胸に動揺のさざ波が広がる。辛うじて取り繕った声で、彼は言葉を紡いだ。「槇村のカシラ……今日は一体、どのようなご用向きで?」宏一はその問いを、まるで最初から存在しなかったかのように黙殺した。応える代わりに、彼は応接室の重厚なソファーへ、その大きな身体を深く沈める。やおら胸ポケットから煙草をなぞるように取り出すと、火をつけた。吐き出された紫煙が、ゆっくりと、しかし確実に、部屋の空気を侵食していった。「烏丸。結婚話はどうなった」宏一が呟いた。独り言のようでありながら、その言葉は部屋の空気を一瞬で希薄にする威圧感を孕んでいた。京司は面を硬直させたまま、静かに応えた。「……破談にしました」「何故だ」感情の起伏を削ぎ落とした、刃物のような問いが重なる。「……心に決めた女がいる。それ以上の嘘を吐いてまで、別の女と生きられるほど、俺は器用な男やなかった。ただそれだけです」視線で宏一の本心を計ろうとする京司。だが、宏一の目はどこまでも無機質だった。彼はただ、指先で燃え進む煙草から立ち上る、紫煙の揺らめきをじっと見つめていた。鈴華の面影が、京司の胸をかすめる。彼女の様子を問いかけてみたい、という衝動が微かに芽生えたが、彼はすぐにそれを闇に葬った。(二度と鈴華に近づくなと、釘を刺しにきたんやろう、この男は……)「突っ立ってないで座れよ。お前の部屋だろ」降ってきた声に、京司はわずかに息を呑んだ。主客が転倒したようなその言葉に、胸の奥が微かに揺らぐ。「……失礼いたします」応じながら、京司はゆっくりと腰を下ろした。自分の部屋であるはずの空間が、ひどく他人の場所のように思えた。テーブルを挟み、京司は宏一と対峙していた。この男の顔を見るのは、これで三度目になる。最初は、義理が絡んだあの血生臭い義理事での乱闘。二度目は、つい先日執り行われた盃の儀の席。いずれも視線を交わしただけで、言葉を交わす機会など微塵もなかった。それが今、何の前触れもなく、目の前に腰を据えている。「鈴華とは連絡
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鈴華の願い

「……資格、だと?」宏一は低く、喉の奥で嗤った。その笑声には、持たざる者特有の、冷ややかな悪意が滲んでいる。「えらく清廉潔白に生きてこられたわけだ。あんたという人は」容赦なく突き刺さるその言葉に、京司の脳裏にはかつて錨が投げつけた痛烈な一言が、苦い記憶とともに揺らめいた。――カシラは、本当の貧困をご存じない。己の足元が揺らぐような眩暈を覚えながらも、京司は踏みとどまり、宏一の冷徹な眼眸を射抜いた。「……確かに俺は、底辺の泥水に塗れて生きてきたわけやない。そやけどな!」視線を真っ向からぶつけ、京司は吠えた。その瞳には、己の出自への後ろめたさを超える、烈火のごとき拒絶が宿っていた。「傷つけた女の元へ、何食わぬ顔で戻れるほど、俺の面皮は厚くできてへんのや!」激情の残響を残したまま、京司は力なくソファの底へと沈み込んでいった。燃え尽きた炭のようなその佇まいを、宏一は凝視していた。その双眸からようやく傲慢な笑みが消え、底知れない真実の顔が覗く。「……あいつはな」宏一の口から、不意に彼女の名が零れ落ちた。「オヤジが香港から引き上げてきた時分には、日本語はおろか、およそ人間らしい法も礼節も、何一つ持ち合わせていない無垢な獣だったよ」京司は応えなかった。ただ、暗闇から響くようなその声に、意識のすべてを委ねるしかなかった。「殺すことしか教えられてこなかった。それを、俺と藤四郎で一から『人間』の形に戻してやったんだ」宏一の言葉が、一滴ずつ毒のように京司の胸に染み込んでいく。知りたかったはずの彼女の過去。しかし、その過酷な輪郭に触れれば触れるほど、胸の奥で燻る彼女への慕情が、制御不能な怪物へと膨れ上がっていく――その明らかな予感に、京司は密かな戦慄を覚えていた。宏一の淡々とした告白は、なおも続いた。「九龍の濁流にいた頃から、あいつは何一つ持っちゃいなかった。今日を生き延びる寝床と、飢えを凌ぐわずかな食いもん――それだけが、あいつの世界のすべてだったらしい」鈴華が背負ってきた闇の質量が、京司の胸を容赦なく圧迫し、その輪郭を内側から侵食していく。苦痛に満ちたその感覚に喘ぎながらも、彼は耳を塞ぐことができなかった。彼女の孤独の深淵に、もっと触れたいと渇望する自分がいる。「そんな有り様だったからこそ、この薄暗い泥
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開放

「烏丸――お前に問いたい。鈴華を、一生守り抜く覚悟があるか」宏一の正面から射すような眼差しに、京司の身体は刹那、凍りついたように強張った。しかし次の瞬間には居住まいを正し、その視線を真っ向から受け止める。迷いなど、とうに心の奥底で削ぎ落とされていた。「あります。この命が尽き果てようとも、生涯をかけて彼女を守り抜いてみせます」京司の胸を焦がすような決意の言葉を、宏一はただ黙って聞き届けた。灰皿の底へ、燻る煙草をゆっくりと押し潰す。立ち上がる彼の影が長く伸びた。「そうか」ぽつりと零されたその一言だけを空間に残し、宏一は背を向けて歩き出す。「槇村の、若頭……!」すがり付くような京司の呼び声すら、彼の歩調を狂わせることはできない。ドアノブが静かに回り、張り詰めた部屋の空気が外へと逃げていく。その境界線で、宏一は足を止めた。振り返りはしない。ただ、声音にほんのわずかな、悪戯っぽい揺らぎを混ぜて呟いた。「お前が迎えに行かなければ、鈴華はいつまでだって待ち続けるぞ。――しわくちゃの婆さんになってでもな」それが彼なりの祝福だった。宏一はそのまま、消えていった。「若頭……」遠ざかる宏一の背を、京司はただ無言の眼差しで見送っていた。(許されたんやろうか。それとも…俺たちの行く末を認めてくれたんか)問いかける声は、自身の内側にしか響かない。しかし、宏一が残していった気配には、鈴華に対する兄としての深く、痛切なまでの情愛が、血の匂いのように濃く染みついていた。それを京司は、己の肌でしかと受け止めていた。足音が完全に途絶えた室内。張り詰めていた空気が微かに弛緩する。京司は再び深くソファーへ身体を沈め、肺腑に溜まった重苦しい空気をすべて吐き出すように、大きく息を吸い込んだ。 長い間、己の骨肉を縛りつけていた重い鉄鎖が、音もなく一枚剥がれ落ちたかのような――そんな静かな解放感が、寄せる波のように胸を満たしていく。京司はただ一人、煙草の煙を燻らすように、その余韻を深く身体の奥底へ沈めていった。 事務所を後にした宏一は、重い鉄扉の閉まる音を背に、早緑の待つ車へと歩を進めた。その歩調に迷いはなく、振り返って未練を確かめるような真似は一度としてしなかった。アスファルトを踏みしめる乾いた足音だけが、夜の底に響く。「……や
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親子

宏一と早緑が去り、喧騒の引いた大阪の街。その片隅に、鈴華はただ一人取り残されていた。京都から戻って以来、京司からの連絡もない。六穣会の事務所を包むのは、いつもと異なる沈黙だった。重厚なイタリア製ソファの革の匂いと、微かな緊張感の中、部屋に満ちているのは鈴華と槇村の二人きりの気配だけだ。鈴華は静かに立ち働き、槇村のために深黒のエスプレッソをカップへ注ぐ。芳醇な湯気が、二人の間に漂う不透明な時間をゆっくりと解きほぐしていくようだった。「こうして君と二人きりで言葉を交わすのは、一体いつ以来だろうね」低い声が静寂を撫でる。鈴華はカップを置き、静かに眼差しを向けた。「ええ、本当に……。お忙しい貴方の背中ばかりを追いかけてましたから。こうして顔を見るのさえ、どこか懐かしく感じられます」陶器が擦れるかすかな音を立て、鈴華は静かにカップをテーブルへと戻した。「……どうして私を、組長付きから外されたのですか」その問いには、落とされた影のように重く固い響きが宿っていた。けれど、対峙する槇村の返答は、どこか掴みどころのない軽やかさを纏っている。「だって、このまま俺と一生、世界の果てまで駆け回るつもりかい?」「その覚悟なら……香港から買われてきたあの日から、とうに固めています」言葉を重ねる鈴華の瞳には、凛とした決意の光が宿っていた。しかし、槇村はただ静かにその熱を受け止め、低く問いを投げかける。「……鈴華。俺がなぜ、お前に盃を与えなかったのか、その意味が分かるかい?」予期せぬ問いかけに、鈴華の表情が一瞬揺れた。惑いを隠すように伏せられた睫毛の影から、絞り出すような声が漏れる。「それは……買い取られた身の私が、貴方と盃を交わすほどの身分ではないからかと」槇村の顔に、拍子抜けしたような色が浮かぶ。どこか呆れたような、けれど愛おしいものを見るような眼差しだった。「そんな風に胸を痛めていたのかい?……余計な思いをさせてしまったね。すまないことをした」「……えっ?」意図せぬ言葉に、鈴華は息をのむ。槇村はいつもの柔らかな表情を取り戻すと、手元で揺れるエスプレッソへ静かに唇を寄せた。漆黒の液体を一口含み、息を吐く。「お前のことを、そんな風に見たことなんて一度もないよ。……あの日、金を積んだのはね。それ以外に、君を救い出す術が
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自由

「鈴華はもう十分に私へ……六穣会に報いてくれた。これからは繋ぎ止められた糸を切り、自由に生きてほしい。それが俺の望みだよ」槇村の淡々とした言葉には、確かな慈愛が滲んでいた。「……自由」その二文字をなぞる鈴華の唇が、頼りなく揺れる。自由――長きにわたる籠のなかで育った彼女にとって、その言葉の持つ意味はあまりに茫洋としており、果てしなく遠い異国の海のようだった。「鈴華が希望するなら、このまま六穣会に……この裏社会に身を置き続けても構わない。ただ、表の世界で温かな幸福を掴む選択肢を残しておきたかった。だからこそ、俺はお前を盃で縛らなかったんだよ」「私は……私など、あなたにそれほどの想いを寄せていただく価値などない人間です……」自らの価値を頑なに拒絶するその言葉は、あまりに不器用で、悲しいほどに震えていた。「三合会の奴らが君をどう思っていたかは分からない。でも、俺や宏一、早緑……六穣会の人間がみんな、君を大切に思っていたことだけは本当だ。これから先、どこでどう生きていくとしても、それだけは忘れないで」静まり返った部屋で、鈴華の頬を涙がすっと伝い落ちた。香港のあの息もできないほど過酷な底辺でさえ、彼女は決して弱音を吐かず、涙も見せなかった。いまその頬を濡らしているのは、過去への悲しみや憎しみなんかではなかった。 卓上に珈琲器を静かに滑らせ、槇村は重い腰を上げた。「それじゃあ、俺は行くよ。しばらく大阪は若頭補佐の東に預ける。何か大事があれば彼の指示を仰いでくれ。……本音を言えば、早緑に任せたかったんだけどね」どこか諦念の混じった苦笑を浮かべ、彼は肩をすくめた。「破門の身となっても宏一についていくって言って、まるで聞き入れなくてね」「……早緑さんらしいですね」槇村の去った事務所には、深い沈黙だけが残されていた。そこにぽつりと佇む鈴華。おそらく、彼と再び相まみえるのは数か月、あるいはもっと気の遠くなるような先の話に違いない。けれど、孤独が彼女を苛むことはなかった。灰の中で消えることなく灯り続ける埋火のように、槇村から与えられた深い愛が、彼女の胸の深層をずっと温め続けていた。車内に滑り込んだ槇村は、静かにドアを閉めると「空港まで頼む。急いでくれ」と短く告げた。運転手はバックミラーにも目をやらず、前方
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それぞれの近況

六穣会という巨大な影に呑み込まれてからの数か月は、目まぐるしく、どこか現実味がなかった。古くからの看板を惜しんで静かに去っていく背中があれば、利権という甘い蜜の匂いに誘われてすり寄ってくる見知らぬ顔もある。交錯する欲望が街の雑踏に溶けていく中、新たな体制となった九条組は、少しずつだが着実に息を吹き返しつつあった。その中心にいるのは京司だ。彼という揺るぎない軸を得て、組の空気からあの冷え切った焦燥感が消え、かつての生々しい活気が戻り始めている。金の流れもまた、六穣会の描く地図に従って書き換えられていった。長年背後で糸を引いていた山城銀行の頭取・高頭は、九条組との不透明な融資が暴かれ、あっけなく表舞台から引きずり下ろされた。かつて築いた蜜月も、崩れる時は一瞬だった。嵐の去った沈黙の中で、梨花からの着信が一度だけ京司の端末を揺らした。だが、彼は画面を伏せたまま動かない。京司がその呼び出し音に、応える事はなかった。恨むほどの価値すら、今の彼女には見出せなかった。湧き立つ感情は何もなく、ただ底なしの空白があるだけだ。京司の胸を焦がし、その生き方を縛り続けている火種は、昔も今もたったひとつ。京司の心を占めていたのは、後にも先にも、あの遠い日に置き去りにしてきたたった一人の女の影だけだ。静かな部屋の中で、スマホのブルーライトだけが京司の顔を淡く照らしていた。発信ボタンの上に置いた親指が、微かに震える。幾度となく繰り返された、無意味な躊躇い。(情けないな……俺、いつからこんな臆病になったんやろ)自嘲気味に息を吐き、画面を伏せる。部屋に再び暗闇が戻る。鈴華に拒絶されるのが怖いわけじゃない。本当は知っているのだ。あの日犯した裏切りを許せず、自分の首を絞め続けているのは、彼女ではなく、他ならぬ自分自身なのだと。夜の静寂が深く落ちた九条組の事務所には、無機質な蛍光灯の光と、書類をめくるカサついた音だけが響いていた。京司と錨、二人の男が黙然と事務処理に没頭している。「山城はどうしたんや」煙草の煙のように吐き出された京司の問いに、錨は淀みなく答えた。「今宵は古参の重鎮方との接待ですよ」「……お前、またあいつに押し付けたな」視線を上げた京司の呆れを含んだ声に、錨はどこか涼やかな微笑を浮かべてみせる。「彼にとっては、
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大阪へ

錨の放ったたった一言が、京司の刻んでいた時を瞬時に凍りつかせた。「……何やて?」押し殺していたはずの感情がせきを切って溢れ出し、身体が勝手に背中の椅子を押しやっていた。「いつや!?……戻るんやろ!」荒らげた声が静寂な室内に鋭く刺さる。問い詰める眼光の鋭さに、今度は錨の方が言葉を失った。露わになった京司の途方もない狼狽——その瞳の揺れを前に、錨はただ目を見開くばかりであった。その錨の困惑に満ちた佇まいに触れ、京司の内に吹き荒れていた暴風が、ふっと熱を失っていく。彼は自らの引き散らかした情動を拾い集めるように、緩やかに冷静の岸辺へと踏み戻っていった。「……すまん」錨へと掠れた声を落とし、京司は吸い寄せられるように再び椅子へと腰を下ろした。香港——鈴華が産声をあげた場所。彼女は古巣である三合会の渦中へ舞い戻ろうとしているのだろうか。それとも、別の何かが動いているのか。険しさを増していく京司の思考を遮るように、錨が言葉を挟み込む。「六穣会の幹部筋から流れてきた、信憑性の乏しい噂ではあります。……ですが、鈴華さんが香港という選択肢を胸に秘めていること自体は、事実のようです」京司は動揺を悟られまいと、意識して表情の筋を固定した。鈴華が日本を離れる。香港へ戻ってしまえば、もう二度と視線を交わすこともないのだろう。不意に差し込まれたその未来の光景に、胸の深部が嫌な音を立てて鳴った。正体のわからない焦燥が胃のあたりを重く押し潰し、喉の奥を急速に乾かしていく。静寂が支配する部屋に、ただ錨の刻むキーボードの打音だけが淡々と響いていた。京司は石像のごとく微動だにしない。深まる時間のなか、苦悩を宿した険しい表情のまま、一人深く深く沈黙の椅子に沈み込んでいた。――やがて作業を終えた錨が、静かに部屋を出ていく。ドアが閉まる音すら、今の京司には届かない。思考の渦のなかで、彼はただひとり、深く沈み込んでいた。気づけば、窓の隙間から薄桃色の朝日が滲みだし、夜の澱みを払うように事務所の床を白々と照らし始めていた。「……」京司はひとつ息を吐き、静寂を破ることすら憚られる無言のまま席を立った。重い足取りで部屋を辞すると、そこには当番の若衆たちが息をひそめるように控えていた。京司の影を認めた瞬間、彼らは背筋を正し、規律正し
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告白

鈴華へかけた電話は、無機質な呼び出し音を数回繰り返した末、機械的な留守番電話の音声が流れた。その拒絶のような沈黙が、京司の焦りをさらに煽り立て、衝動のままに大阪へと車を走らせる。──鈴華と会って、俺は一体どうしようというのだ。脳裏をいくつもの不揃いな感情が駆け巡る。伝えたい言葉を幾度となく組み立てては解きほぐし、なにひとつ答えを出せぬまま、眼前に大阪の街明かりがじわりと滲みはじめていた。大阪、六穣会ビル。その無機質な佇まいの前に、京司は立っていた。この聳え立つ高いビルのいずれかのドアの向こうに鈴華が存在するのかどうかすら、定かではない。たとえ直参の若頭であろうと、アポなしで乗り込めばどう扱われるかは火を見るより明らかだった。まともに取り合ってもらえる保証など、どこにもない。──悩んだところで、何が始まるわけでもない。京司は短く息を吐き出すと、腹を括ってビルの入り口へとその足を踏み出した。正面のドアに手をかけかけた瞬間、背後の空気がわずかに揺れた。耳を掠めたのは、脳裏にこびりついて離れないあの声だ。「……京司……さん?」弾かれたように振り返る。そこに立っていたのは、いくら夢の中で手を伸ばしても届かなかった、本物の鈴華だった。「鈴華……」溢れ出した喜びの表情は、一瞬で固く強張った。彼女の傍らに置かれた巨大なスーツケース――それが影のように落ち影を引いている。今すぐにでも遠い場所へ飛び立ってしまうような予感が、京司の胸を冷たく締め付けた。「どうしたんですか? 京都で何か……」彼の内の嵐を知る由もなく、鈴華の声だけが静けさを揺らす。不意に現れた彼の身を心から案じるその眼差しが、かえって二人の間に横たわる距離を際立たせていた。とっさに伸ばした手が、鈴華の華奢な肩を強く捉えていた。破裂しそうな感情を抑えきれず、叫びが漏れる。「行くなっ‼」「えっ……!?」京司のただならぬ気迫に押され、鈴華の瞳が大きく揺れた。しかし、一度解き放たれた京司の言葉は、熱を帯びたまま怒涛のように押し寄せる。「俺が……一度裏切ったこの俺に、こんなことを頼む資格なんてないのは解ってる……! けどな……っ」逃げ場を無くすように鈴華の目を見つめ、京司は魂を削るように言葉を絞り出した。「香港にもどこにも行かんでくれ。俺の側
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金石の契り

「香港に戻るって……どういうことですか?」思いもよらぬ京司の問いに、鈴華の瞳が戸惑いの色に揺れた。その反応を受け、今度は京司の表情に困惑の影が落ちる。「……君が香港へ去ってしまうと、そんな噂を聞いたものだから。それに、その足下の荷物は……」促されるように、鈴華は自身の傍らに佇むスーツケースへ視線を落とした。「ああ、これですか。香港で本当によくしていただいた方が亡くなって……そのお墓参りに向かっていたんです。関空に降り立ったのは、ほんのさっきのことで」鈴華の紡いだ言葉が、静かに空気を満たしていく。その瞬間、京司の体を縛りつけていた目に見えない緊張が急速にほどけ、全身からふっと力が抜けていった。その場に膝を折り、京司は両手で顔を覆った。(何をやってるんや、俺は……。他人の噂話などに踊らされ、焦って勝手に先走って……ああ、くそ)湧き上がる羞恥と激しい自己嫌悪が、容赦なくその胸を圧し潰す。まともに鈴華の顔を仰ぐことすらできず、ただ視線を地に落とすしかなかった。そんな彼の不格好な姿を、鈴華はただ静かに見つめていた。やがてかすかな衣擦れの音を立てて歩み寄ると、京司と同じ目線までその身を低くかがめる。「京司さん……顔をあげてください」落ちてきた声の優しさに、京司の耳たぶが熱く染まる。彼は戸惑いと気まずさを抱えたまま、ゆっくりと鈴華のほうへ視線を巡らせた。鈴華の抑えきれない情熱と、京司の困惑と愛おしさが混ざり合った瞬間の温度感が伝わるよう、文学的な描写で整えました。その顔に浮かんでいたのは、京司がこれまでに一度も目にしたことのないほどの、深みのある笑みだった。「私……嬉しかったんです。きっと、これまでの人生で一番と思えるくらいに」「鈴華……」呟いた瞬間だった。屈んでいた鈴華が、弾かれたように京司の胸元へと思いをぶつけてきたのは。不意を突かれた京司は均衡を崩し、無様に地面へと尻もちをつく。「お、おい……」戸惑い混じりの声をあげる京司のことなど、今の鈴華の耳には届いていない。彼女の細い腕が、しがみつくように京司の背へと回され、ぎゅっと力強く込められた。「私……絶対に離れませんからね!京司さんに何言われようと、絶対に」絞り出すような必死の訴えに、京司の強張っていた輪郭が、解けるように柔らかく綻んでいく。彼は息を一つ吐くと、そ
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