井山鈴夏(いのやま すずか)は二十九歳。肺がんのステージⅣを宣告された、シングルマザーだった。残りわずか三ヶ月という時間のなかで、娘にいったい何を残してやれるだろう。できる限りのお金を貯めること?写真をたくさん撮ること?手紙を書いておくこと?ビデオを撮ること?それとも――柚乃(ゆずの)を連れて、実の父親である小野寺光也(おのでら みつや)に会いに行くこと?でも光也は、もうすぐ別の女と結婚しようとしている。四歳の柚乃には、これから引き取って育ててくれる人間が必要だった。このまま身寄りがなくなれば、いじめや世間の冷たい視線に晒されるだけでなく、生きていくことすら難しくなるかもしれない。悩み抜いた末に、鈴夏は冬木市へ戻ってきた。人口二千万人を超えるこの大都市で、引っ越したうえに完全に連絡を絶った人間を探し出すのは容易なことではない。それでも鈴夏は光也の親友、桐島翔(きりしま しょう)に何日もかけて頼み込んだ。数日後。ようやく風情ある邸宅で、光也との対面が叶ったのだ。かつて、熱い生姜湯に息を吹きかけて冷ましてから口元へ運んでくれたその男は今、井山実奈(いのやま みな)の濡れた黒髪を、愛おしそうに笑いながら梳かしていた。話が弾んだのか、光也は実奈の髪をひと房すくって指に絡め、ふと動きを止めた。とろけるような優しさを湛えたその瞳には、実奈の姿だけが映っている。やがて、翔に連れられて立ち尽くす鈴夏たちに気づき、実奈が驚いたように声を上げた。「お姉ちゃん!」その声に引き寄せられるように、光也がようやくこちらへ視線を向けた。「光也、実は鈴夏、ここ数日ずっとお前を探してたんだ。急ぎの用があるみたいだから、少し話を聞いてやってくれないか」翔が間に入って説明するあいだも、光也は冷ややかに沈黙したまま母娘を見つめていた。その視線が最後に止まったのは柚乃の、小さな姿だった。光也の息が、一瞬だけ止まる。記憶がよみがえったのだ。数日前、偶然出くわしたあの可愛い女の子――まさか、鈴夏の娘だったとは。柚乃は光也を見上げると、ちょこんと愛らしくお辞儀をした。「おじさん、こんにちは!」……実のところ鈴夏は、最初から柚乃を連れてくるつもりはなかった。数日前、この街の空港に降り立ったときのことだ。目を離したほんのわずか
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