All Chapters of 愛という名の共謀: Chapter 1 - Chapter 10

11 Chapters

第1話

私は江坂紗月(えさか さつき)。前夫の白川陽翔(しらかわ はると)は、会社が倒産したと言い残し、ビルの屋上から身を投げた。悲しみに押し潰されそうになりながらも、私には生後五か月の娘・江坂つかさ(えさか つかさ)がいた。その子を抱えて、私は数千万円もの借金を背負うことになった。そんな私を不憫に思った幼なじみの江坂慎也(えさか しんや)は、周囲の反対を押し切って、私に結婚を申し込んでくれた。慎也は、つかさを実の娘のように大切にし、誰よりも愛すると約束してくれた。けれど、つかさは不幸にも、それから間もなく肺結核でこの世を去った。心が空っぽになったように日々を過ごしていたある日、私は偶然、慎也と、死んだはずの陽翔が話しているのを聞いてしまった。「やっぱりお前は容赦ないな。会社を潰れたように見せかけて、俺を死んだことにするなんて。まあ、そのおかげで俺は金を持ったまま、絵梨と結婚できたわけだけどな」――芦原絵梨(あしはら えり)。陽翔や慎也と同じ、私の幼なじみの一人だった。「お前も紗月と結婚して一年以上だろ。つかさに手を出してなかったら、本気で紗月に情が移ったのかと思ったぞ」しばらく黙っていた慎也が、低い声で言った。「つかさがいると、絵梨が安心できないんだよ。俺だって、好きであんなことをしたわけじゃない。絵梨が幸せでいられるなら、俺はなんだってする」「紗月がどれだけつかさを大事にしてたか、お前だって知ってるだろ。お前が死なせたって知られたら、一生恨まれるぞ」陽翔が、電話の向こうで面白がるように言った。「だから、このことは墓場まで持っていけ」慎也は大きな窓の前に立ったまま、しばらく黙り込んでいた。やがて、低い声で答える。「大丈夫だ……俺なりに、償っているつもりだ。子どもがいれば、どうしたって情は残る。絵梨も、お前がつかさを理由に紗月と切れなくなるんじゃないかって不安がっていたんだよ。つかさがいなくなれば、絵梨も安心できる。紗月は俺を信じている。真実に気づかせない自信はある」二階の廊下でその言葉を聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。喉が塞がったように息ができない。慎也が顔を上げる前に、私は逃げるように寝室へ戻った。鍵をかけた途端、力が抜け、その場に座り込んだ。陽翔は、死んだは
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第2話

慎也の心臓は早鐘のように鳴っていた。彼は私の背中を、ぽん、ぽん、と何度もやさしく叩いた。けれど、さっきの言葉が本当に私を思ってのものだったのか、それとも絵梨のためのものだったのか、私にはもう分からなかった。陽翔との子でさえなければ、どんな子だって無事に育つことを許されたのだろうか。「慎也」私は彼の胸を押し返した。「つかさはずっと元気だったわ。それなのに、どうして肺結核なんかになったの?」慎也は私の手を取ると、ベッドのそばまで連れていき、そのまま私を抱えるようにして一緒に横になった。彼はひどく胸を痛めているような顔をして、しまいには無理に絞り出したような涙まで見せた。「つかさは、俺たちの宝物だった。あの子がいなくなって、俺だって……」慎也はそこで言葉を詰まらせた。私は天井を見つめたまま、静かに笑った。陽翔は絵梨のために、死んだふりまでして金を持ち逃げした。そして慎也は絵梨のために、私のたった一人の娘を殺した。どうしてこの二人は、絵梨を守るためなら、いつも私を犠牲にするのだろう。……慎也の隣で眠るなんて、できるはずがなかった。布団の中で何度も寝返りを打った。目を閉じても、胸の奥がざわついて、少しも落ち着かない。結局、私はベッドを抜け出し、つかさの部屋へ向かった。まだ半月しか経っていない。それなのに、部屋に残っていたあの子の匂いは、もうほとんど薄れていた。つかさが使っていた小さな掛け布団を胸に抱いた瞬間、堪えていたものが一気に崩れた。その場に座り込み、息もできないほど泣いていると、ふいに指先に鋭い痛みが走った。布団の内側に、銀色の針が一本、潜んでいた。血の滲んだ指先を見つめながら、私は息を呑んだ。慌てて布団をめくると、針は一本だけではなかった。この布団は、つかさが生まれた頃からずっと使っていたものだ。何度も手で洗い、干して、大事にしまってきた。針を取り残すなんて、そんなことは絶対にありえない。また、慎也だ。そう思った瞬間、体の芯がすっと冷えた。こんな細い針が、あの小さな体に刺さっていたのだ。つかさは泣いただろうか。痛いと訴えることもできず、ただ震えていたのだろうか。そう思った瞬間、布団を握る手に力が入った。指先が白くなるほど強く握りしめても、震えは少しも
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第3話

扉の向こうから絵梨の笑い声が聞こえただけで、慎也の目元は分かりやすく和らいだ。普段は私を気遣うふりをしているくせに、その瞬間、私の存在など忘れたようだった。「絵梨も来ていたのか」私より先に扉を開けて中へ入った慎也の声は、隠しきれないほど弾んでいた。口元も、無意識のうちにほころんでいる。私があとに続いて部屋に入ると、それまで賑やかだった空気がふっと止まった。陽翔の両親の顔から、分かりやすく笑みが消える。絵梨は七か月になるお腹を撫でながら、ちらりと私を見た。それから、何でもないことのように首を傾げる。「つかさちゃんは?」言った直後、今さら気づいたというように、絵梨は慌てて口元を押さえた。「あ……ごめんね、紗月。お腹の子が生まれたら、つかさちゃんと一緒に遊ばせたいって、ずっと思っていたから。つい」そこで彼女は、傷口に塩を塗るように続けた。「つかさちゃんが肺結核で亡くなったこと、すっかり忘れていて」本当にうっかりなのか、わざとなのか。そんなこと、絵梨自身が一番よく分かっているはずだった。「絵梨、あなた……」私が言い終えるより先に、慎也がすっと私の前に立ちはだかった。まるで私から守るように絵梨の肩へ手を添え、彼女をソファに座らせる。「大丈夫だ。紗月も、そんなことで責めたりしない」低く穏やかな声でそう言ってから、彼は振り返って私を見た。「そうだろ?」娘を殺した二人が、何食わぬ顔で私の前に立っている。声を抑えようとすればするほど、喉の奥が震えた。「うっかり口にしたのか、わざと言ったのか。あなたが一番分かっているでしょう」その瞬間、慎也の眉がわずかに寄った。「紗月」名前を呼んだだけだった。けれど、その低い声だけで、これ以上は許さないと言われているのが分かった。絵梨は一瞬目を丸くし、それから顔を覆ってすすり泣き始めた。「ごめんなさい、おじさん、おばさん。陽翔のこともあったから、少し顔を見に来ただけだったの。紗月が嫌な思いをするなら、私、帰るね。つかさちゃんのことだって、あの子が小さい頃から知ってるんだよ。そんなふうに言われるなんて、悲しいよ」絵梨は片手で腰を支え、大きなお腹をかばいながら、つらそうに立ち上がろうとした。腰がソファから少し浮いた、そのときだった。
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第4話

押し問答になりかけたとき、絵梨がこちらへ歩いてきて、私の腕にそっと手を添えた。「お父さん、お母さん。紗月はまだ、気持ちの整理がついていないんだと思う。少しだけ分かってあげて。だって、娘を亡くしたばかりなんだから」お父さん、お母さん?私が思わず目を見開くと、絵梨は待っていたかのように、にこりと笑った。「二人がこの先、寂しい思いをするのは見ていられなくて。だから私、二人の娘になることにしたの。この子が生まれたら、おじいちゃん、おばあちゃんって呼ばせてあげられるし」よくもそんなことが言えたものだ。胸の奥から、吐き気にも似た嫌悪感が込み上げてきた。陽翔は死んでいない。ならば、命日と呼ばれる今日に、この家が悲しみに包まれるはずもなかった。四人は何事もなかったように庭でバーベキューを始め、私は一人で二階へ上がり、つかさのものをまとめた。服。哺乳瓶。使いかけのタオル。どれも、あの子が確かにここにいた証だった。途中で一度だけ、慎也が様子を見に来た。彼はドアのそばに立ち、困ったようにため息をつく。「紗月、家ならまだしも、ここでまで感情的になるなよ。あの二人だって、つらいんだ。つかさの物を全部持っていくなんて、そこまでしなくてもいいだろ」私は答えなかった。手も止めなかった。つかさに関わるものを、この人たちのそばに一つだって残しておきたくなかった。荷物をまとめて部屋を出ようとしたとき、絵梨がふいに私のバッグを奪い取った。「何が入ってるの?」そう言いながら、絵梨は指先でつまむようにして、つかさの服を一枚ずつ引っ張り出していく。私はバッグの反対側を掴んだ。「つかさのものよ。触らないで」「やだ、そんなに怒らなくてもいいじゃない。ちょっと見るくらい、いいでしょ?」私が止めようとすればするほど、絵梨は面白がるように中を漁った。やがて私たちは、バッグを挟んで引っ張り合う形になった。「放して!」絵梨は悪意を隠そうともせず、唇の端を上げた。「嫌だって言ったら?」次の瞬間、強く引かれた拍子に、私の手の中でバッグの紐がぶつりと切れた。絵梨はそれを見るなり、わざとらしく「あっ」と声を上げた。私が一瞬気を取られた、その隙だった。彼女はつかさの遺品を奪い取ると、誰もいない庭へ駆け出し
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第5話

尻から地面に落ちただけのはずだった。それなのに、腹の奥だけが、抉られるように痛んだ。「絵梨!」慎也は私には目もくれず、その場に膝をついた。必死に絵梨の名を呼びながら、彼女の胸元に手を当てる。「絵梨と腹の子に万が一のことがあったら、絶対に許さない!」陽翔の両親も、支え合うようにして駆け寄ってきた。「なんて恐ろしい女なの……!つかさを死なせたばかりか、絵梨まで殺そうとするなんて!」陽翔の父は杖を握りしめ、怒鳴りながら私に向かって振り下ろした。私は痛みに耐えながら、とっさに腕で頭をかばった。立ち上がろうとしても、腹の痛みがひどく、体に力が入らない。「この疫病神が……!うちの血を絶やす気か!」「あなた、もっと打って!今日こそ分からせてやらなきゃ、この女はまた同じことをするわ!」重く振り下ろされた杖が、私の頭を打った。視界がぐらりと揺れる。私は歯を食いしばり、痛みに耐えながら、その杖を必死につかんだ。「何だ、やり返すつもりか!」その声が響いた直後、絵梨が目を覚ました。彼女は胸元を押さえ、堰を切ったように泣き出す。慎也は痛ましげに顔を歪め、絵梨を大事そうに抱き寄せた。「絵梨、聞こえるか?大丈夫だ、俺がついてる。すぐ病院に連れていくからな」彼は絵梨を抱き上げると、私の横をまっすぐ通り過ぎた。私を見ることはなかった。ほんの一瞬でさえ。私はその場に崩れたまま、全身の痛みに息を詰まらせていた。腹の奥が熱く、重く、何か大切なものが体の中から流れ出ていくようだった。そして、足元に広がる赤を見た。その瞬間、ようやく分かった。生理が遅れていたのは、悲しみで体調を崩していたからではなかった。私は、妊娠していたのだ。けれど、お腹にいたはずの子は、もういない。父親の手で、殺された。痛みをこらえながら、自分で救急車を呼んだ。病院に運ばれ、いくつもの検査を受けたあと、手渡されたエコー写真には、妊娠八週とはっきり記されていた。医師は気の毒そうに目を伏せた。「残念ですが……赤ちゃんは、もう助かりません。このまま処置に入ります。子宮の中をきれいにする必要があります」私はエコー写真を握りしめたまま、ぽつりと涙を落とした。つかさを失ったばかりなのに、この子まで守れなかった
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第6話

墓前を離れる前に、私は小さな金の延べ棒を二つ、墓石のそばの目立たない場所にそっと忍ばせた。「つかさ。ママ、ずっと考えていたの。でも、本当にあなたのものだと言えるのは、これしかなかった。本当はね、一年に一本ずつ買って、いつかあなたが大きくなったときに持たせてあげるつもりだったの。借金取りが家まで押しかけてきたときも、これだけはどうしても売れなかった」言い終えた途端、私は顔を両手で覆って泣き崩れた。張り詰めていたものが、そこでようやく切れた気がした。空が暮れかける頃になって、私はやっと立ち上がった。「次に来るときは、必ずあなたを苦しめた人たちに、ちゃんと罪を償わせるから」……翌朝早く、私は空港へ向かった。そこで初めて、慎也から何十件ものメッセージが届いていることに気づいた。【絵梨が無事だったからまだよかった。もし腹の子にまで何かあったら、お前を一生許さなかった】【少しは自分が何をしたのか考えろ。あの状態の絵梨に手を出すなんて】【一度、本気で病院に行ったほうがいい。今のお前はまともじゃない】【絵梨は目を覚ましてからずっと泣いてる。眠っていても急に怯えて起きるんだぞ】【今すぐ来て謝れ】【返事くらいしろ。見てるんだろ】下へスクロールしても、似たようなメッセージばかりが続いていた。もう読む気にはなれなかった。最後のほうで、慎也はようやく短い一文だけを送ってきていた。【明日帰ったら、一度ちゃんと話そう】私はそのメッセージを最後に、彼をブロックした。そして、そのまま飛行機に乗った。続きは、弁護士と話してもらえばいい。つかさを殺したことには、何も感じなかったのかもしれない。けれど、自分の子の命まで、その足で絶ったと知っても、本当に平気でいられるのだろうか。……慎也は病院で絵梨のそばにつき、リンゴの皮をむいていた。けれど、手元が狂い、刃先が指をかすめる。絵梨はそれを横目で見て、不満そうに唇を尖らせた。「慎也、せっかく一緒にいられるのに、どうしてそんなに上の空なの?誰のこと考えてるの?」慎也は答えなかった。ただ、無意識にスマホへ目を向ける。返事は、まだ一通も来ていない。あれだけメッセージを送ったのに、紗月からは何の反応もなかった。怒るべきなのだろう。
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第7話

視線を落とすと、離婚届の下にもう一枚、検査結果の用紙が挟まっていた。そこには、はっきりと記されている。江坂紗月、妊娠八週。慎也は真っ青な顔で、その場に立ち尽くした。妊娠八週。紗月が、妊娠していた。自分の子を、身ごもっていた。その意味を理解した瞬間、慎也の口元が抑えきれずに緩んだ。紗月との間に、子どもができたのだ。けれど、すぐに視線は離婚届へ戻る。慎也はしばらくそれを見つめたあと、ふっと笑みを消し、離婚届をろくに読みもせずテーブルの端へ押しやった。大丈夫だ。紗月には、もう自分以外に頼れる相手などいない。それに、今の紗月はつかさを失って傷ついている。そんな彼女が、お腹の子まで手放せるはずがない。子どもがいるなら、紗月は必ず戻ってくる。慎也はそう信じていた。うれしさと焦りが入り混じり、じっとしていられなくなった慎也は、家の中を何度か歩き回ったあと、慌てて紗月に電話をかけた。けれど、つながらない。別の番号からかけても、結果は同じだった。慎也の胸に、じわじわと焦りが広がっていく。彼はすぐ秘書に電話を入れた。「何としてでも妻の居場所を探せ。見つけたらすぐ連絡しろ。俺が迎えに行く」妊娠八週なら、まだお腹が目立つ時期ではない。気づかなかったのも無理はなかった。けれど、あのとき自分は紗月を蹴った。もし、お腹の子に何かあったら――そこまで考えて、慎也は苛立つように自分の太ももを叩いた。すぐに紗月へメッセージを送る。【紗月、俺が悪かった】【検査結果を見た。赤ちゃんがいたんだな】【体は大丈夫か?今どこにいる】【頼むから返事をしてくれ】【帰ってきてくれ。これからは三人でちゃんとやり直そう】【つかさの分まで、この子を大事にしよう】何通も送った。けれど、返事は一向に来なかった。浮き立っていた気持ちが、少しずつ冷えていく。慎也はローテーブルの上に置かれた離婚届を見つめたまま、ようやくソファに腰を下ろした。そして、この数日間に起きたことを、ひとつずつ思い返し始めた。ふと、昨日の紗月の言葉が頭をよぎった瞬間、慎也ははっと顔を上げた。「慎也。自分には何の罪もないとでも思っているの?」昨日、紗月がそう問い返したとき、その瞳には深い悲しみと憎しみが滲
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第8話

「篠宮先生、都会ってどんなところですか?きれいですか?」子どもたちの問いに、私はうなずいた。外の世界は広くて、見たことのないものがたくさんあって、とても賑やかな場所なのだと話した。そして、いつかみんなにも、自分の目でその景色を見に行ってほしいと伝えた。すると、一人の子が首をかしげた。「そんなにいいところなら、先生はどうしてここに来たんですか?」私は一瞬、言葉に詰まった。忘れたはずのあの日々が、また目の前にちらついた。たった一週間のうちに、私は人がどれほど平気で人を傷つけ、どれほど残酷になれるのかを思い知らされた。けれど、子どもたちの澄んだ目を見ていると、そんな現実を口にする気にはなれなかった。だから私は、少し笑って答えた。「ここも、とてもきれいな場所だからよ。来たくても来られない人が、たくさんいるくらいにね」夕凪町での私の一番大きな悩みは、明日の授業をどうするか、それくらいだった。半月後、弁護士から新しいスマホに連絡が入った。【篠宮様、江坂慎也氏らを相手取った訴訟につきまして、裁判所に訴状が受理されました。近日中に先方へ通知が届く見込みです】私は唇を結び、ゆっくりと顔を上げた。夕凪町の空は、どこまでも青かった。けれど、つかさはもう二度とこの空を見ることはできない。……慎也が血眼になって紗月を捜していた頃、彼のもとにも裁判所からの通知が届いた。それとほとんど同じ頃、陽翔から電話がかかってきた。「おい、どういうことだよ。お前、俺のことを紗月に話したのか?俺が生きてるって、あいつにバラしたのかよ!あれから一年以上経ってるんだぞ。それなのに今になって、紗月が俺を訴えやがった!」慎也の手が震えた。次の瞬間、彼は弾かれたように立ち上がる。「何だって?」電話の向こうで、陽翔はまだ怒鳴り続けていた。けれど慎也には、言い返す余裕などなかった。日記には、陽翔の偽装死についてはっきり書いた覚えがない。紗月が知っているのは、せいぜい、つかさの死に自分が関わっていたことくらいだと思っていた。だが、違った。紗月はもう、すべてを知っている。だとしたら――いったい、どこで知ったのか。慎也の顔から、すっと表情が消えた。彼は車のキーをつかむと、そのまま大股で家を出た。
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第9話

「まさか、あの女があそこまでするなんて思わないじゃない。私とこの子が無事だったからよかったけど、一歩間違えたら本当に殺されていたのよ。それなのに、何日経っても顔も見せないなんて。紗月って、昔からすぐ自分だけが可哀想みたいな顔をするのよ。ほんと、変わらないんだから」慎也は拳を握ったまま、低い声で告げた。「紗月が、離婚したいと言っている」さっきまで紗月の妊娠を不快そうにしていた絵梨の目が、ぱっと輝いた。彼女は緩みそうになる口元を必死に押さえながら、慎也を見上げる。「本当に?紗月って、あんなに大事にされていたのに、何も分かっていないのね。自分の子を守れなかったからって、周りに当たり散らしているだけじゃない。でもね、慎也。紗月があなたの子を産むかもしれないと思うと、私、やっぱり嫌なの。私だけを愛してるって言ってくれたでしょう?それなのに、どうして紗月との子どもなんて作ったの?つかさちゃんの時と同じように、その子も……」慎也は、自分の耳を疑った。「もう黙れ!」思わず怒鳴ると、絵梨の肩がびくりと跳ねた。「お前は……どうしてそんなことを平気で言えるんだ」慎也は息を整えるように一度目を閉じ、それから絵梨を睨んだ。「正直に言え。陽翔が生きていることを、紗月に話したのはお前なのか」慎也が絵梨に声を荒らげたのは、初めてだった。絵梨は呆然と彼を見つめた。やがて我に返ると、信じられないというように目を潤ませる。「慎也……怖いよ。そんなふうに怒鳴られたら、お腹の子にもよくないでしょう?私、紗月のことを悪く言いたかったわけじゃないのに。どうして私が責められるの?」絵梨はまばたきをしただけで、すぐに涙を浮かべた。これまでの慎也なら、その顔を見るだけで折れていた。けれど今回は違った。彼の怒りは、少しも収まらなかった。慎也は絵梨の手首をつかみ、逃がさないように力を込めた。「もう一度聞く。陽翔のことを紗月に話したのは、お前なのか」絵梨は小さく肩をすくめ、痛いと訴えながら身をよじった。「そんなに強く握らないでよ……あれはただ、うっかり口が滑っただけなの」「うっかり、だと?」慎也の声が低く震えた。「さっきの電話、全部聞いていた。お前、わざと紗月を追い詰めたんだろ! 俺の前では、
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第10話

本当の意味で幼なじみだったのは、慎也と紗月のほうだった。陽翔と絵梨が二人の輪に加わったのは、中学に入ってからだ。「慎也、待ってよ!」「慎也、クラスの子にいじめられた」「お父さんとお母さん、出張でいないの。今夜は慎也の家に泊まっていいって」「慎也って……ほんと、なんでそんなに意地悪なの?」思い返せば、紗月はいつだってまぶしかった。笑うときも、怒るときも、泣きそうな顔で強がるときも、彼女は誰よりも鮮やかに慎也の記憶の中にいた。すべてが少しずつおかしくなり始めたのは、絵梨が現れてからだった。……慎也は弁護士を通して、私に連絡を取ってきた。相手が何も言わなくても、電話の向こうにいるのが誰なのかはすぐに分かった。「証拠が足りないことくらい、分かっているわ。諦めろと説得するつもりなら、何を言っても無駄よ」慎也は日記にもメッセージの履歴にも、決定的な証拠を残していなかった。すぐに彼らを刑務所へ送るのは難しい。けれど、構わなかった。今の私には、時間だけはいくらでもある。「一審で終わると思わないで。だめなら控訴する。あなたたち全員に、必ず罪を償わせるまで、私は絶対に諦めない」誰一人、逃がさない。慎也が口を開いたとき、その声は少し掠れていた。「紗月、ごめん……少しだけ、話をさせてくれないか。絵梨のことは、本当に悪かった。お前がいなくなってから、やっと気づいたんだ。俺が本当に愛していたのは、お前だったんだって。今まで俺がしてきたことは、最低だった。俺はずっと絵梨を愛しているつもりでいた。でも、俺たちはこんなに長い時間を一緒に過ごしてきたのに、俺は……紗月。俺たち、昔みたいには戻れないか?」その言葉を聞いて、私はただ、笑いたくなるほど皮肉だと思った。「つかさを殺しておいて、まだ私に許されると思っているの?」私は思わず笑った。「慎也。死ぬべきだったのは、あなたのほうよ」電話の向こうで、慎也が息を呑む気配がした。「陽翔にも伝えて。あなたたち三人を、私は絶対に許さない。示談にも応じないし、途中で手を引くつもりもない。もう、あなたと直接話すことは何もない。用があるなら弁護士に言って。二度と私に連絡してこないで。あなたの声なんて、もう一生聞きたくない」慎也は長い沈黙のあと、
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