All Chapters of 夫の初恋が帰国。身代わりの私は対テロ部隊へ: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

「隊長!この度認識番号を引き継ぎ、国際対テロ特殊部隊として任務に参加することを申請させていただきます!」広い会議室に村上怜奈(むらかみ れいな)の声が響く。目の前には亡き兄・藤原蓮(ふじわら れん)の戦友たちが制服姿で並び、胸部の部隊章や国旗が輝いて見えた。隊長は、蓮の認識番号が刻まれたプレートを怜奈に渡す際、少し手を震わせていた。「村上、本当にこの道を行くのか?」かすれた声で隊長が問う。「君のお兄さんは……」「覚悟はできています。あの時、兄が成し遂げられなかったことを、今、私が最後までやり抜くつもりです!」壁の国旗を見つめながら、怜奈は幼い頃に蓮から敬礼を教わった記憶がフラッシュバックする。蓮はいつも言っていた。「怜奈、もう少し手を高く上げるんだ」と。隊長は背を向けて涙を拭う。「いいだろう。ようこそ、国際対テロ特殊部隊へ。2週間後のX国への派遣、君も同行してくれ!」怜奈は大きく頷き、警察署から出ると、ちょうどスマホが鳴った。村上家本家の執事からの電話だ。「怜奈様、お戻りください!海斗様が大旦那様に呼び出されて……酷くしつけられてます」一瞬の迷いの後、怜奈はタクシーを拾い、村上家本邸へと急いだ。別室のドアを開けると、村上勲(むらかみ いさお)が持つ竹刀が村上海斗(むらかみ かいと)の背中を容赦なく叩いていた。バシッ――静かな空間に響く竹刀を振り下ろす音はやけに耳についた。海斗は正座のまま背筋をピンと伸ばし、背中で竹刀が振り下ろされるのを受け止めるが、声をひとつも上げなかった。「内緒であの岩崎家の小娘を連れ戻すなど、お前の亡き両親に合わせる顔があるのか!?」勲は声を震わせ、再び竹刀を振り上げる。「長年経ってもまだあの女が忘れられんのか?」海斗は沈黙を貫いた。「返事をしろ!」勲は激昂し、さらにもう一発食らわせた。「まだ忘れていないんだな!?」海斗はそれでも無言を続けた。一方、ドアの前で固まる怜奈は、指先が掌に食い込むほど強く拳を握りしめていた。海斗の背中を叩かれる乾いた音が、そのまま怜奈の胸にも響き、彼女の息を詰まらせた。海斗は最後まで何も語らなかった。その沈黙こそが、どんな言葉よりも残酷だった。否定しないということは、認めざるを得ない事実だからだ。こうして打撃が止むことはな
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第2話

それを見た怜奈は病室の前で買ってきた軽食を提げて立ち尽くし、ポリ袋を持つ指先でさえ白くなるほど強張っていた。胸がギュッと誰かに思い切り握りつぶされたかのようだ。怜奈は持ってきた軽食を置くと、身を翻してその場を去った。足音を立てることもなく。彼女はこの一時の安らぎを、邪魔したくなかったのだ。それから、家に帰ると、怜奈は自分の荷物をまとめ始めた。これまで海斗からもらったプレゼントや、二人の数少ない写真、彼に選んであげたシャツ……それらを一つひとつ箱の中に収めていく。そして、書斎へ入り、自分の本を取り出そうとした時、うっかり本棚の裏にある隠し棚に手が触れた。カチッと音がして、壁がゆっくりとスライドする。奥には隠し部屋が現れた。それを見た怜奈は呆然と立ち尽くしてしまった。そこには、杏にまつわる品々が整然と飾られていたからだ。かつて勲が叩き割った花瓶の破片が丁寧に修復され、金継ぎされている。杏が描いた油絵。破り捨てられたはずが、完璧につなぎ合わせられている。さらには、杏が子供の頃に海斗へ渡したという紙飛行機まで。色あせた紙は大切にラミネート加工までされていた……それらを眺める怜奈の指先が、小さく震えた。海斗がいつから、これら破棄された品を拾い集め、いつから隠れて修復し、この秘密の場所に隠していたのかを、彼女は知る由もなかったのだ。そして、机の上には、一冊の日記があった。ページをめくれば、どこもかしこも杏に関する内容が綴られていた。【今日は、杏が去って87日目。杏が泣きながら寒いと言う夢を見た。目が覚めると、杏がいる街への飛行機を予約した。遠くから彼女を一目だけ見た。ずいぶんと痩せてしまった……】【会社のパーティーで、杏と似た赤いドレスを着た人がいて、見惚れて深酒してしまった。帰宅後、酔って怜奈を杏だと勘違いし、そのまま体を重ねた。その結果、おじいさんに結婚を強要されてしまった。そんな、自分が憎い】【今日は杏の誕生日、隠れて彼女のマンションまで行き、花束を置いた。帰宅すると怜奈が寝ずに酔い覚ましを作ってくれていた。怜奈はいつもそんな風に気遣ってくれるのだ。でも、やっぱり愛せない……】最後のページの最後の日付は、先週だった。【やっと杏を連れ戻せた。眠る彼女を見て、さすらう俺の心もようやく帰る場所を見つけた
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第3話

医師が傷の処置に来た。手のひらと膝に数針縫う怪我で、跡が残ると言われたが、怜奈は感情が抜けたように黙って聞いていた。皆が去った後、彼女はスマホを取り出し、街で一番腕のいい修復師を探した。深夜2時、怜奈はこっそり壊れた写真立てを持って家を抜け出した後、教えられた住所にある深夜まで営業しているスタジオへ向かった。修復師は状況を聞くと、首を横に振った。「このような古い写真立てのガラスは入手困難で、修復には時間がかかります」「お金ならいくらでも出します」怜奈は切実に言った。「どうかお願いします。とても大事な品なんです」修復師はため息をついて答えた。「3日。それが最短です」それからの3日間、怜奈はほとんどそのスタジオに入り浸っていた。家に帰って海斗と向き合う勇気はなく、何をしているのかを知られたくもなかった。修復師が作業している間、怜奈は傍らに座って眺め、時折工具を手渡したり、手伝いを買って出たりした。その間、海斗から連絡はなかった。電話1本、メール1通も届かなかった。3日目の午後、写真立てがようやく修復された。修復師が怜奈にそれを渡した瞬間、海斗が突然ドアを蹴り開けるように入ってきた。「海斗様は街中の修復師を当たられ、ようやくこちらを見つけ出されたのです」見かねた執事が後ろから小声で怜奈に説明をした。海斗の表情は依然として険しいままだったが、無事な写真立てを見て、強張っていた肩が少しだけ和らいだように見えた。「ここ、そしてここを特に注意してほしいです」海斗は写真立ての隅を指さし、修復師に言った。「この紋様は手彫りなので、傷一つあってはいけません」修復師は頷いた。「お任せを。これでも40年間修復の経験があるから、この程度の損傷ならすぐに直るでしょう」彼は好奇心を隠さず海斗を見た。「この写真立て、お客様にとってよほど特別なものなのでしょうね」海斗は何も答えず、壊れそうな宝物を扱うかのように慎重に写真立てを受け取った。その横で、怜奈は目に見えない手に心臓をギュッと握りつぶされるような感覚に襲われた。この写真立ての由来を、怜奈は知っているから。そこにかつて飾られていたのは、海斗と杏が婚約していた頃に撮ったツーショットだった。勲がそれを焼いてしまったにも関わらず、海斗はどこからか写真を探し出し、全
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第4話

そう思ったが、怜奈は視線を落とし、何も言わなかった。海斗もそれ以上何も釈明せず、飲み終えたコップを受け取ると、怜奈の布団をかけ直した。その動きは優しく、触れた指先から懐かしい温もりが伝わってきた。怜奈の胸に、ふと昔の記憶がよみがえる。初めての生理で泣き出した時、海斗は耳を赤らめて優しく教えてくれた。ひどいインフルエンザで高熱が続いた時も、海斗は感染のリスクを厭わず、3日間ずっと看病してくれたのだ。海斗は誰よりも優しく、だからその優しさに甘えた怜奈は、時が経てばきっと彼にも愛してもらえると信じていた。その想いに浸りながら、怜奈はそっと目を閉じ、なぜか胸の奥がずきずきと痛むのを感じた。病室には、点滴の音が規則正しく響いていた。その時――ピロン。海斗のスマホが光った。一件、また一件……ひっきりなしに届くメッセージで、画面が明滅し続ける。怜奈が目を開けると、海斗が眉をひそめてスマホを見ていた。彼は数秒迷った末、結局返信をせずに画面を消した。だが数秒もしないうちに、またスマホが光る。通知欄には、立て続けに杏の名前が表示された。怜奈は口元を歪め、小さく呟いた。「杏さんのことが心配なら、行ってあげて」すると、海斗は険しい表情になり、淡々と告げた。「杏は安定しているし、ただの我儘だ。今は、君を看病しなきゃいけないんだから」そう言われ、怜奈は無言で彼を見つめた。そんなことを言っても、彼はやっぱりスマホを見てしまうのだ。結局杏のことが気になって仕方ないのに。だが、怜奈は問い詰めず、ただ優しく微笑んだ。「わかった」すると、海斗はより一層深く眉を寄せて言った。「誤解するな。杏の親がしたことに対して、村上家が許すことなんて一生ないんだ」そう言い終えた瞬間、病室のドアが勢いよく開いた。入口に立つ杏の目は真っ赤に腫れていた。「やっぱり、私のことなんて許せないの?」彼女は震える声で叫んだ。「なら、なぜ私の命なんて救ったのよ!」そう言い放つと、杏は踵を返して駆け出した。それを見て、海斗は顔色を一変させて、慌てて後を追って飛び出していった。怜奈も一瞬呆然としたが、すぐさま手の甲の点滴を引き抜き、よろめきながら後を追った。辿り着いた先は屋上で、強風が吹き荒れていた。杏はフェンスの半分を
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第5話

すると、怜奈は慌ててスマホの受話口を手で覆い、ドアから急に姿を見せた海斗を見上げた。「別に……なんでもないわ」彼女は取り繕うように、精一杯の笑みを浮かべて答えた。「おじいさんに電話して、様子を伺ってただけ」海斗はひどく疲れ切った様子だった。乱れた前髪に、少しはだけたシャツの襟元。その首筋には、爪で引っかいたような微かな赤い傷が残っていた。幸い、彼もそれ以上追及はしなかった。短く「そうか」とだけ返すと、「急ぎの用がある。数日は顔を出せない」と言い残した。怜奈が黙って頷くと、海斗はその背中を向けて立ち去った。そして彼の姿が廊下の突き当たりで見えなくなってようやく、怜奈は握りしめていたスマホから指を離した。すると、受話器の向こうで、勲が深い溜息を漏らす。「怜奈……海斗は、お前を失ったことを後悔することになるだろう」その言葉に怜奈の目頭が熱くなり、胸が詰まった。「おじいさん……離婚のこと……どうしても、私から伝えたいんです。どうか、まだ海斗には内緒にしていてください。お願いできますか?」しばらくの沈黙の後、勲の声には年老いた者の無念と疲労が滲んでいた。「俺にも……もうあやつを止める術がない。離婚を決めたのなら……そうしなさい」途切れ途切れの声で、彼は続けた。「ただ、俺はお前に……残りの人生を幸せに過ごしてほしいんだ」怜奈は下唇を噛み締め、堪えていた涙を溢れさせた。「はい……約束します。おじいさん、どうかご安心ください……」退院後、怜奈は黙々と荷造りを始めた。海斗が家に戻ることは一度もなかった。その代わり、杏のインスタは連日更新されていた。【今日見た夕日は、海斗が『18歳の頃と同じくらい綺麗だ』って言ってくれた風景そのもの】投稿された写真には、海斗の背中が写っていた。夕陽を浴びた横顔は、あまりにも優しそうに見えた。そして別の投稿ではこう書いてあった。【海斗が、『治療を頑張ろう。俺が願いを込めて祈願してくるから』って言ってくれた】それに添えられた写真の中の海斗は、真剣な眼差しで祈願していた。さらに別の投稿ではこう書いてあった。【眠れない夜は、明け方3時まで海斗が寄り添ってくれた】……怜奈は指先を震わせながら、次々とそれらを見ながらスクロールしていった。そして慣れなきゃと、自分に言い聞
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第6話

すると、皆が一斉に黙り込んだ。そんな中、怜奈はゆっくりと手を挙げ、「私です」と告げた。採血は長い時間がかかった。針が血管に刺さったとき、怜奈は痛みさえ感じなかった。ただ静かに、真っ赤な血が管を通って流れ出る様子を見つめていた。一滴、また一滴と海斗の体へと流れていく。「もう十分です。これ以上抜いたらショック状態になりますよ!」看護師が眉をひそめて忠告する。怜奈は首を横に振った。「あと少しだけ……海斗には必要なのです」その結果、怜奈は採血のし過ぎで、気を失ってしまった。再び目が覚めたのは、翌日の夕方のことだった。怜奈は弱りきった体で立ち上がり、よろよろと海斗の病室へ向かった。そして、病室の前に着くと、中から怒ったような押し殺した声が聞こえてきた。「謝れ」海斗の声は冷徹に響いた。「なぜ俺たちが謝る必要がある?」友人の一人が激高して笑い出した。「こいつは疫病神だ。ご両親を死なせただけじゃ飽き足らず、今度はお前自身にまで危害が加わっているんだ!」ドン!重い音が響き、ティーテーブルが蹴り倒されたようだ。「もう一度言う」海斗は一言ずつ、凍りつくような声で吐き捨てた。「杏とのことに、君たちは口出しするな。謝らないなら、もう今後も付き合う必要がない」すると、病室はしんと静まり返った。やがて、数人は杏を睨みつけ、歯を食いしばりながら「すまなかった」と絞り出した。「俺たちは海斗さんのことを思って言っているんだ」一人が目を赤くして言った。「どれだけ杏さんを愛していても、あなた達二人が結ばれることは絶対にない。だから今は、側にいてくれる人を大事にするべきじゃないのか。昨日、怜奈ちゃんはあなたのために採血をして倒れたんだぞ。なのに彼女の様子を見にも行かず、ここで杏さんをかばうなんて……怜奈ちゃんが知ったら、どれほど心を痛めるだろうか?」そう言い捨てて、数人はドアを強く閉めて出ていった。一方それを聞いた怜奈は廊下の陰で、体が冷え切るのを感じていた。そして、ドアの隙間から見えたのは、杏が海斗の胸に飛び込んで泣き崩れる姿だった。「海斗、ありがとう……あなたがいなかったら、私、もう生きていけないわ……」それに対し海斗は黙ったままだったが、杏を突き放すことはしなかった。すると杏は顔を上げ、小さな声で尋
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第7話

「怜奈、話があるの」受話器の向こうから聞こえる杏の声は、泣きそうだった。「湖のそばで待ってる」湖畔に着くと、冷たい風が吹き荒れていた。杏は薄手の白いワンピース姿で、長い髪を乱したまま震えていた。彼女は一枚の紙を握りしめていて、怜奈を見るとぽろぽろと涙をこぼした。「お願い」そう言うと、杏は湖のそばで、怜奈の足元に崩れ落ちた。「海斗を返して……お願い、海斗がいないと私……」杏は泣きながら、手に持っていた診断書を差し出した。「重度のうつ病なの。海斗なしじゃ私は生きていけないの……」それを言われ、怜奈は言葉を失い、思わず杏の肩に手を伸ばした。「まず立って。座り込んでないで」しかし杏は怜奈の手首を強くつかみ、爪を食い込ませた。「いいえ、あなたが離婚を了承してくれるまで、私は動かないわ!」怜奈は大きく息を吐き、もう認識番号の引き継ぎの手続きを終えたこと、海斗と別れるつもりであることを伝えようとしたが――しかし、彼女がなかなか応じてくれないと感じた杏の顔つきが、突如として一変した。「別れる気はないのね!?」杏は立ち上がると、冷酷な瞳で睨みつけてきた。「海斗はあんたを愛してない!海斗のおじいさんの力を借りて彼を縛り付けても、彼の気持ちがあなたに向くことはないわ!それを、はっきり証明してあげる。海斗が選ぶのはいつだって私よ!」その言葉と共に、杏は怜奈の腕を強く引き、湖へ突き落とした。ザバーンッ。瞬間的に冷たい水が、容赦なく怜奈の頭まで覆った。泳げない怜奈は必死に手足をばたつかせたが、体はどんどん沈んでいった。鼻から水が入り込み、息ができなくなる苦しさが押し寄せてくる。薄れる意識の中で、海斗が猛スピードで走り寄り、ためらいもなく湖に飛び込むのが見えた。そして彼は、迷わず一緒に飛び込んできた杏を抱え上げ、振り返りもせず岸へと泳ぎ去った。そして沈んでいく自分に、一度も振り返らなかった。こうして限界を迎え、肺から空気が消えていく感覚に襲われ、怜奈はそのまま意識を失っていった。最後に見た光景は、杏を抱きかかえて去っていく海斗の背中だった。目を覚ますと、病室の眩しいライトが目に入った。点滴を変えていた看護師が淡々と言った。「意識が戻りましたね。間一髪でした。あと少し遅れていたら危なかったんですよ」
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第8話

そして、激しい雨が降り注ぐ中、X国の臨時キャンプのトタン屋根に激しく叩きつけられていた。海斗のもとを去った怜奈は、一人でX国の任務に身を投じた。慣れない環境ですべては未知に溢れていたが、彼女は一度も恐れることはなかった。多分海斗といた日々の方が、よっぽど耐え難かったんだろう。怜奈は隊列の最後に立ち、紺色の制服は雨を吸い込み、体にまとわりついていた。胸にある認識番号を握りしめ、指の関節が白くなるまで力を込めた。それは、蓮の番号だったから。「新入りか?」無精髭の巨漢が横目で怜奈をチラッと見ると、彼女の痩せ細った体に嘲笑いを漏らした。「遊びじゃないんだぞ。足手まといになるなよ」周りの隊員たちもそれに合わせて笑い、蔑むような視線を向けた。だが、怜奈はリュックを背負ったまま、口を閉ざして何も言わなかった。ここ唯一の女性として、命を懸けて活動するこの場所では、力で示さない限り誰の信頼も得られないと知っていたからだ。「冷やかすな。彼女は藤原の妹だ」そんな中、低く響く男の声が、後ろから聞こえてきた。その名前を聞いた瞬間、周囲の笑い声は止まった。ここでは、蓮のことを知らない者はいなかったからだ。怜奈が振り向くと、大柄な男が車両のそばに立っていた。制服の袖を捲り上げ、腕には無数の痛々しい傷跡が刻まれていた。雨粒がその顎を伝い落ちる中、漆黒の瞳は底なしの海底のように深かった。怜奈は彼を見てどこか見覚えがあるように感じた。確か蓮と一緒に写真に写っていたようだ。肩を組んで、眩い笑顔を見せていた。そうだ、思い出した。彼は蓮の戦友で、国際対テロ特殊部隊の現隊長の柴田哲也(しばた てつや)だ。哲也が怜奈の前まで歩み寄り、静かな口調で言い放った。「彼女に意見があるなら、まず俺に言え!」すると、今度は誰も反論しなかった。それから、哲也は怜奈のリュックをひょいと持ち上げ、宿舎へと歩き出した。「行こう」哲也の宿舎は予想外のことなほど整頓されていた。玄関で立ちすくむ怜奈の髪から雨粒が滴り、床に小さな水たまりを作った。「あの、隊長……」「名前で呼んでくれ」哲也は乾いたタオルを彼女に渡すと、清潔なトレーニングウェアを取り出した。「着替えろ」メンズの服で袖は長すぎた。怜奈は何度か袖を捲り
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第9話

強い日差しが照りつける中、砂ぼこりが舞い上がっていた。怜奈は奥歯を噛み締めていた。粗末な練習場で10周走り続けたが、足を止めることはなかった。一昨日の障害物競走で、怜奈は部隊の精鋭たちをも凌ぐ記録を打ち立て、ようやく周囲から一目置かれるようになった。全員が練習を終えて休息に入った矢先、突然、射撃場のほうから銃声が鳴り響いた。何事かと窓から顔を出した者たちの目に、一人、黙々と打ち続けるかよわい背中が映った。そこで怜奈は両手に力を込め銃を握りしめていた。そして彼女の顔を伝い落ちる汗が焼け付く砂の上で瞬時に蒸発していく。肩は銃の反動で感覚を失い、手の皮も剥け血がにじんでいたが、彼女はひたすらに打ち続けた。射撃場の端で、数人の隊員がひそひそと囁き合っていた。「おいおい、頭イカれてるんじゃないか?百発以上も打って……」「藤原もそうだった。命知らずの訓練熱心なところまで、まったく兄そっくりだよ」それを見た、人混みの後ろに立っていた哲也も、深く重い視線を怜奈に向けていた。だが、彼は制止することなく、怜奈が再び引き金を引こうとした瞬間、人混みをかき分けて背後に立ち、彼女の震える腕を支えた。「余計な力は抜いて。呼吸を整えろ」落ち着いた低い声が、怜奈の耳元で熱を帯びる。ハッとして、怜奈は瞬時に目の色が変わり、反射的に言われた通りに従う。パン!放たれた銃弾は、正確に的の真ん中を射抜いた。すると、周囲からどよめきと拍手が湧き上がり、怜奈を冷ややかに見ていた者たちまでもが手を叩いて賞賛を送った。「よくやったぞ、怜奈さん!」勢いよく振り返った怜奈の目は希望に輝き、抑えきれない喜びが溢れていた。そんな彼女の様子に、哲也も微かに笑みを浮かべ、汗に濡れた彼女の短い髪を優しく撫でた。「まあ、筋は良さそうだな」すると、隊員たちの囃し立てる笑い、口笛が聞こえた。「隊長、ひいきじゃないですか!俺たちに教えてくれた時はそんなに優しくなかったですよ!」哲也はその声に一旦止まり、冷たく視線を返して彼らを黙らせた。すると、耳を真っ赤にした怜奈も、哲也の横でこらえきれずにクスクスと笑い声を立てた。そして、ある作戦任務のさなか、突然の豪雨がキャンプを襲った。帰り道で雨に打たれた怜奈と哲也だったが、仮設陣地に戻る頃
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第10話

病院のVIP病室では、杏がベッドのヘッドボードにもたれかかり、青白い顔をして横たわっていた。長い髪が肩に垂れ、いっそうか弱い雰囲気を漂わせている。彼女は軽く眉をひそめ、指先でベッドの端をちぎれんばかりに握りしめ、か細い声を出した。「海斗、頭が痛いの……」それを見た海斗はいたたまれなくなり、ベッドの端に腰を下ろすと杏の手をそっと握った。あの湖で助け出して以来、彼は片時も杏のそばを離れずにいたのだ。杏はその手にしがみつくように力を込め、海斗の掌に頬をすり寄せ、目に涙を溜めた。「あなたがいてくれなかったら、私、どうなっていたか……」そう言われ海斗は目を伏せ、杏を見つめる瞳には溢れんばかりの愛しさがあった。彼は優しく身を乗り出し、杏の額にキスをした。「怖がることはないよ。ずっとそばにいるから」その時病室のドアが開き、看護師が薬のトレーを手に現れた。「岩崎さん、処置の時間です」杏はびくりと震え、海斗の懐に隠れた。海斗はすかさず彼女を抱き寄せて背中をなでた。そして、看護師は手慣れた手つきでガーゼを剥がすと、杏の腕には、すっかり癒えかけの傷跡が見えた。一方、海斗は杏に体を預けられながらも、視線は窓の外を彷徨っていた。なぜか急に、一緒に湖に落ちた怜奈のことを思い出した。あの時自分が助けられるのは一人だけ。だから、あの普段から丈夫だった怜奈なら、きっともうとっくに陸に上がって無事なはずだと思った。「海斗?」杏の呼び声に、海斗は思考を引き戻された。「どうした?」海斗は視線を戻すと、杏の鼻先を優しく撫でて笑った。「何でもない。気分はどう?」「大分よくなった……」そして見つめ合う刹那、二人はまた唇を重ねていった。そして、海斗は杏の頬を両手で包み、口づけを深めていった。それから、杏は間もなく退院し、そのまま海斗との同棲生活を始めた。怜奈がいなくなった今、二人は一日中イチャイチャし、家の至る所で情事を繰り返した。しかしそんな日々も、かえって海斗の心を掻き乱した。家で、海斗はソファに座り、苛立ったようにスマホを弄んでいた。もう1週間だ。怜奈からはメッセージの一通もなければ、着信もない。インスタさえも全く更新されていない。ありえないことだった。「海斗、このワンピース似合うかしら?」そう思
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