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第7章・第2話:黒潮の咆哮、二人だけの家

Auteur: 銀狐
last update Date de publication: 2026-08-09 14:15:55

 おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。

 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。

「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」

 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。

 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。

 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。

「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」

 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。

「おい、落ちるぞ」

「大丈夫、私

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  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第7章・第2話:黒潮の咆哮、二人だけの家

     おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。「おい、落ちるぞ」「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」「俺は泳げねぇんだよ」「えへへ」 ……何がえへへだ。 だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。「カミヤさん、中見てみよ!」 汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——「五右衛門風呂、生きてる! やった!」 汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かっ

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第7章・第1話:西の果て、帰れない海

     フェリーの甲板に、潮の匂いが濃い。 石垣島を出て三時間。外洋のうねり、重油の混じった風、そして胃の底を削るようなエンジンの重低音。人狼としての鋭すぎる五感は、大型フェリー特有の騒々しさに、とっくに限界を迎えていた。手すりに両肘をついて水平線を睨む。ただ睨む。 酔っているわけではない。三日間揺られた貨物船でも平気だったし、漁師として網を引くこともできる。だが、この「逃げ場のない鉄の箱に閉じ込められて揺られる」という不自然な感覚は、陸の獣である俺にとって、本能的な不快感でしかなかった。早くこの箱を降りて、硬い土を踏みたい――その一心で、俺は不機嫌に水平線を睨み続けていた。「カミヤさんカミヤさん、大変! スマホが台湾の電波掴んじゃった! ローミングってどうやって切るの? え、待って、これ国際通話料かかるやつ? やばい!」 隣で、能天気な声が風に飛ぶ。 振り返ると、汐音が甲板の上でスマホを高く掲げたり低く構えたりと忙しない。潮風に吹かれた青みがかった黒髪が、お団子から何本もほつれて頬に張り付いている。海色の瞳が画面に釘づけで、足元のデッキが大きく傾いても平然としている。こいつは揺れに強い。当たり前だ。海の生き物なんだから。「……こっちに聞くな。数日前に教えてもらったばかりだろうが」「あ、そっか。えーと、設定、設定……あ、これかな?」 汐音が指先を忙しく動かし、自力で画面を切り替えていく。俺は自分のポケットに入っている、彼女から持たされた「板切れ」の重みを感じた。いまだに電源を入れるのすら、少しだけ躊躇う代物だ。 やっと設定を直したらしい汐音の画面には、ハンドメイドアプリの通知が山ほど溜まっていた。新着レビュー、購入通知、フォロワーからのメッセージ。この人魚は、命懸けの逃避行の直後ですら商売の手を緩めない。「ありがとー! あ、見て見て。石垣島で最後に出品した夜光貝のブローチ、もう売れてる。星五つ! "まるで本物の海を閉じ込めたみたい"だって。嬉しいなぁ」「……お前な、」 言いかけて、やめた。  こいつのこの逞しさが、今の俺たちの旅費を支えている。文句を言える立場じゃない

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第6章・第10話:与那国への旅立ち、小指の約束

     久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。 違う。動けなくなったのだ。 目の前で、人間の体が——崩壊していく。 銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。 人魚の生き血の効力が——切れたのだ。 三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」 崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。 膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。 皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。 久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。 風が吹いた。 白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。 他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。 怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。 残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。 赤嶺だけが残っていた。 関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。 俺は赤嶺に背を向けた。「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」 赤嶺が何か言いかけた。口を開き&m

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第6章・第9話:泡沫の人魚、沖へ泳ぐ夜

     島の北端。人の来ない断崖の海岸。 岩肌がむき出しの崖の下に、波が打ち寄せている。ざぱん、ざぱん、と。激しい音。南の穏やかな浜辺とは違う、荒い海。 ここなら——海に直接降りられる。崖を降りれば、水際まで十メートル。 月の出まであと二時間。月が出れば汐音は人魚に戻る。人魚の姿なら海に逃げられる。深い海に潜ってしまえば、人間の手は届かない。 だが——俺の体が限界だった。 銀の弾丸の破片が、まだ体の中にある。月(ツキ)がずっと治癒を続けているが、銀の侵食が深い。腕を上げると脇腹が裂けそうに痛む。立っているだけで膝が震える。 影(カゲ)が報告を寄越した。 久高の部隊が来る。近い。ドローンが三機。私兵が十数名。赤嶺が——新たな銀弾を装填して合流している。肩を外されたはずだが、もう動いている。応急処置をしたのだろう。プロだ。 時間がない。「汐音」 名前を呼んだ。「ここで待ってろ。月が出たら、海に入れ。そのまま沖に出て、絶対に振り返るな」 汐音の顔が——凍った。「嫌です」「聞けよ」「嫌です!」 声が割れた。三百年分の感情が、一気に溢れ出したような声だった。「一人で——三百年も待ったのに、やっと会えたのに——っ!」 海色の瞳から涙が零れた。ぼろぼろと。止められない涙が、白い頬を伝って顎から落ちる。 俺はその顔を見て——笑った。 不器用に。ぎこちなく。口の端を上げるだけの、下手くそな笑い方。三百年で、こんなふうに笑ったのはたぶん——初めてだった。「死なねぇよ。俺は面倒くせぇくらいしぶといんだ」 ポケットからスマホを取り出した。汐音がくれた、あのスマホ。「これ持ってろ」 汐音の手にスマホを握らせた。「……終わったら、連絡する」 一拍、置いて。「お前が俺に持たせた意味、ちゃんとわかってる」 汐音の手が震えた。スマホを握りしめる指が白くなる。

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第6章・第8話:トンネルに響く、銀の弾丸音

     翌日。 海岸沿いのトンネルに潜んでいた。 コンクリートのトンネル。車一台がやっと通れる幅。照明は切れている。暗い。水の匂い。壁面に苔が生えている。 銀(シロガネ)が警報を寄越した。ドローンが上空に来ている。 遅かったか。 トンネルの向こう側から——足音。 複数。整然とした足取り。軍隊か、それに近い訓練を受けた者の歩き方。「汐音、奥に隠れろ」「でも——」「いいから行け」 汐音がトンネルの最奥部に走る。サンダルがコンクリートを叩く音がぱたぱたと響く。 俺はトンネルの入り口に立った。 五人。スーツ姿の男が二人。その後ろに——坊主頭の巨漢が一人。鍛え上げられた体。左頬に古い刀傷。元自衛官。 赤嶺剛。 その名前はまだ知らなかったが、こいつが「使える」人間だということは——立ち方を見ればわかる。重心が低い。両手はリラックスしているように見えて、いつでも懐に手を入れられる位置にある。 赤嶺が口を開いた。「そこの兄ちゃん。悪いが、そのトンネルの奥にいる女を引き渡してもらおうか」「……誰のことだ」「とぼけるな。ドローンの映像で確認済みだ。——あんたがどこの誰かは知らないが、邪魔をするなら容赦しない」 赤嶺の手が懐に入った。 銃。拳銃。黒い金属の光。 ——一度目の戦闘。 赤嶺は速かった。抜き撃ちの技術が異常に高い。元自衛官の肩書きは伊達じゃない。 一発目が胸を貫いた。 鈍い衝撃。肺に穴が開く感覚。血が口の中に広がる。鉄の味。 二発目。腹。内臓を抉る痛み。 三発目。肩。 トンネルの壁に背中を叩きつけられた。コンクリートにひびが入る。 だが——俺は立っていた

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第6章・第7話:廃墟の夜、ツナ缶と人魚の涙

     翌朝から、動き始めた。 まず影(カゲ)を監視に出した。久高の部下たちの行動パターンを掴むためだ。カゲは隠密に長けている。人間の影に潜り込み、気配を殺して情報を集めてくる。 結果はすぐに出た。 連中はドローンを三機運用していた。交代制で海岸線を飛ばし、映像をリアルタイムでホテルの部屋に送っている。特に、夜間の海岸を重点的に監視している。 理由はすぐに分かった。ドローンの映像の一つに、映り込んでしまったのだ。 月夜の海岸。水面すれすれで尾鰭を翻す——銀色の光。 連中は、それを見た。「カミヤさん……ごめんなさい。先週の満月の夜、海で泳いでて……」 「……お前なぁ」 「だって、満月の夜の海が一番きれいなんです……反省してます」 反省しているようには見えなかったが、今はそれどころじゃない。 連中は、この島に人魚がいることを確信している。あとは——誰が人魚なのかを特定するだけだ。 時間がない。「家を離れるぞ。荷物をまとめろ」 最低限の荷物だけ原付に積んだ。着替え。水。缶詰。救急セット。汐音のスマホの充電器。プリン——は、汐音が「これだけは置いていけません」と冷蔵庫から引っ張り出してきたので、仕方なくクーラーボックスに入れた。「どこに行くんですか」 「島の裏側。観光客の来ないところだ」 夜を待った。日が沈み、月が出る前の黄昏の時間帯に、家を出た。 原付のエンジンをかける。排気音が夜の空気を震わせる。汐音が後ろに跨り、俺の腰に手を回す。「しっかり掴まれ」 「はいっ」 小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。 月が出ないことを祈りながら、暗い道を走る。 島の北部へ。観光客の来ないサトウキビ畑の間を抜け、山道に入る。ヘッドライトの光が暗い路面を照らし、木々の影がぬるぬると動く。 虫の声がうるさい。りーん、りーん、じじじ。夏の名残の蝉と、秋の先触れの虫が入り混じっている。 三十分走って、目的地に着いた。

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第1章・第6話:美しすぎる予兆、失われるための海へ

     夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第1章・第5話:『お前』から『ナギ』へ、変わる夜風

     人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第1章・第4話:秘密を乗せて、夜を駆ける二人の距離

     原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま

  • しおさいの街で、人狼と天使は恋をした   第1章・第3話:「あんたしか、いないから」

    「……は?」「な、なんだよ、これ……」 背後の男たちが、慌ててポケットから何かを取り出そうとした。たぶん、さっき黒川が見せたようなナイフか、それ以上のもの。 だけど、彼らが武器を抜くより早く。「殺すな」 フードの男が、短く言った。 それだけで、狼たちの耳が、ぴくりと一斉に動く。「骨は折っていい。深くは、噛むな。血もあんまり出すな」「——は?」 狼たちが、同時に動いた。 真っ黒な影が、風より速く、黒川たちに飛びかかる。牙が閃く。けれ

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