ログイン久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。
違う。動けなくなったのだ。
目の前で、人間の体が——崩壊していく。
銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。
人魚の生き血の効力が——切れたのだ。
三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。
「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」
崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。
膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。
皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして—&
予報通り、与那国島は荒れた。 明け方から南風が強まり、昼前には暴風に変わった。崖の上の家は風の通り道にあるらしく、窓という窓がガタガタと鳴り、トタン屋根が地鳴りのように唸り続けている。庭の先の崖から吹き上がってくる潮風が、家中に塩の匂いを充満させる。 汐音は窓に張り付いて、荒れ狂う海を見つめていた。 白波が崖を叩き、飛沫が五十メートルの断崖を越えて庭まで飛んでくる。黒潮の本流が牙を剥き、海面全体が灰色の泡に覆われている。「今日は絶対潜れないね……」 呟いて、唇を噛んだ。あの遺跡の中に、仲間の手がかりがあるかもしれないのに。あと一日——あと一日早く潮止まりが来れば。 でも、海は待ってくれない。潮の満ち引きも、黒潮の気まぐれも、人魚の都合なんか知ったことじゃない。三百年の海暮らしで、それは嫌というほど分かっている。 ため息をついて、作業台に向かった。昨日カミヤさんが崖下から引き揚げてきた化石サンゴの欠片を並べ、研磨の下準備を始める。ルーターの音が低く唸り、細かい粉が舞う。水をかけながら、ゆっくりと表面を削っていく。何万年も前のサンゴが、研磨剤に磨かれて少しずつ光を取り戻していく。 ——これも、命だったんだ。 何万年も前に海の中で生きて、死んで、石になった。それを私が磨いて、光らせて、誰かの首元に届ける。人魚のジュエリーは、海の記憶を纏わせるもの。石垣島で始めた頃は見様見真似だったけど、最近は自分なりのスタイルが見えてきた。 窓の外で、カミヤさんが庭に出た。 上半身裸。雨粒が肌を叩いているのも気にせず、庭の端にタライを並べている。水を張り、影狼を一匹ずつ潜らせて、水中での力の持続時間を測る訓練。昨日の続きだ。 牙が水に沈む。黒い影の輪郭が、水の中で揺らいで薄まっていく。「三十秒で形が崩れ始める。一分で攻撃力は半減。だが——影の杭としてなら、水中でも使える。むしろ水圧があるぶん、杭は安定するな」 カミヤさんの独り言が、風の合間に聞こえる。真剣な声だ
目が覚めたのは、まだ星が残っている時刻だった。 スマホのアラームが鳴る前に、体が勝手に起き上がる。三百年の放浪で身についた習性——行動の前に、必ず夜明け前に覚醒する。暗闇の中で意識が冴え渡り、嗅覚と聴覚が周囲の気配を探る。 波の音。風の唸り。崖の下で海が呼吸するような低い轟き。そして——風呂場から、水の跳ねる微かな音。汐音がもう起きている。 布団から出て、上半身裸にハーフパンツという出で立ちで庭に出た。夜明け前の空は紫がかった紺色で、西の水平線に月が沈みかけている。足元の赤土は夜露に湿り、ひんやりと冷たい。 ツキが首筋にまとわりついてきた。半透明の影が体温のない冷たさで肌に触れる。「こわい……」「知ってる。でも行くぞ」「うん……がんばる……」 小さな声。こいつは五匹の影狼の中で最も臆病で、最も甘えん坊で——そして今日、最も重要な役割を担う。水中の加護。俺が海の底で息をするための、唯一の命綱。 影の中から玄が現れ、無言で俺の横に並んだ。銀、牙、影の三匹も気配を鋭くしている。全員、俺の影に潜伏して待機する。水中では大幅に力が落ちるが、いざという時の切り札として連れていく。「カミヤさん、おはよう」 振り返ると、汐音が裸足で庭に出てきた。月がほぼ沈んだため、足は人の形を保っている。だが目の色だけが——海の底みたいに暗い青に沈んでいる。 いつもの天然さが消えていた。代わりにあるのは、凪いだ水面のような静けさ。こいつが本気の時の顔だ。「潮止まりは五時二十三分。あと四十分。——崖、降りるよ」「ああ」 二人で崖の獣道を降りる。岩場は暗闇の中でも、人狼の夜目と人魚の感覚で足元は見える。波は穏やかだった。潮止まりが近づいている証拠だ。入り江の水面が、夜明け前の空を暗い鏡のように映している。 岩場の先端に立つ。足元の水は黒い。底が見えない。昼間の透き通った海とは別物だ。あの下に、何十メートルもの暗闇が沈んでいると思うと—— 認めたくないが、心臓が速くなった。 陸の獣の本能が、全力で警告している。行
五右衛門風呂の中で、汐音は目を覚ました。 最初に感じたのは、水のぬるさだった。昨夜のうちに月が沈み、足は人間の形に戻っている。指先がふやけて、爪の端が白くなっている。うっかり風呂の中で寝てしまったのだ——何時間浸かっていたのだろう。窓の隙間から朝日が差し込み、水面にゆらゆらと光の模様を描いている。 ぱた、ぱた、と水滴が蛇口から落ちる音。遠くで波が崖を叩く音。そして——隣の部屋から、小さな鳴き声。「くぅん……くぅ……」 ツキだ。カミヤさんの胸の上で丸くなって、寝ぼけた声を出している。甘えん坊の影狼は、夜の間にカミヤさんの懐に潜り込んだらしい。 汐音は濡れた髪を絞りながら、風呂の縁に頬を載せた。隣の部屋は襖一枚で隔てられているだけで、その隙間からカミヤさんの横顔がわずかに見える。畳の上に敷いた布団で、仰向けに眠っている。黒髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を落としている。寝顔は、起きている時のぶっきらぼうさが全部消えて、年相応——いや、外見通りの二十歳くらいの青年に見える。三百年の重みなんて、どこにもない。 胸の奥が、きゅうっと軋んだ。 ——ここが、私たちの家なんだ。 そう思った瞬間、涙が出そうになって、慌てて顔を水に沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。水の中のほうが落ち着く。海の生き物だから。泣きたい時は、水に潜ればいい。 三百年間、ずっと一人で海にいた。仲間は散り散りになり、人間に紛れて陸で暮らすようになってからも、本当の意味で「家」と呼べる場所はなかった。石垣島の借家は、一人で住むには広すぎた。テーブルの向かいに誰もいない食卓。夜になれば勝手に人魚に戻る体。月が昇るたびに、人間のふりが剥がれ落ちていく孤独。 それが今、こうして—— ぼろぼろの崖の上の家。錆びた屋根。割れた窓。でも、隣の部屋にはカミヤさんがいて、影狼たちが庭を走り回っていて、五右衛門風呂の湯船には、私がいる。 ——ああ、だめだ。やっぱり泣きそう。 ばしゃん、と顔を上げて深呼吸する。水滴が睫毛を伝い、光にきらきら反射する。「よし」 汐音は風呂から上がり、昨日のうちに
おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。 だが、おじいはにやりと笑っただけだった。「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」 道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。 潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。 崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」 汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。「おい、落ちるぞ」「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」「俺は泳げねぇんだよ」「えへへ」 ……何がえへへだ。 だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。「カミヤさん、中見てみよ!」 汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——「五右衛門風呂、生きてる! やった!」 汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かっ
フェリーの甲板に、潮の匂いが濃い。 石垣島を出て三時間。外洋のうねり、重油の混じった風、そして胃の底を削るようなエンジンの重低音。人狼としての鋭すぎる五感は、大型フェリー特有の騒々しさに、とっくに限界を迎えていた。手すりに両肘をついて水平線を睨む。ただ睨む。 酔っているわけではない。三日間揺られた貨物船でも平気だったし、漁師として網を引くこともできる。だが、この「逃げ場のない鉄の箱に閉じ込められて揺られる」という不自然な感覚は、陸の獣である俺にとって、本能的な不快感でしかなかった。早くこの箱を降りて、硬い土を踏みたい――その一心で、俺は不機嫌に水平線を睨み続けていた。「カミヤさんカミヤさん、大変! スマホが台湾の電波掴んじゃった! ローミングってどうやって切るの? え、待って、これ国際通話料かかるやつ? やばい!」 隣で、能天気な声が風に飛ぶ。 振り返ると、汐音が甲板の上でスマホを高く掲げたり低く構えたりと忙しない。潮風に吹かれた青みがかった黒髪が、お団子から何本もほつれて頬に張り付いている。海色の瞳が画面に釘づけで、足元のデッキが大きく傾いても平然としている。こいつは揺れに強い。当たり前だ。海の生き物なんだから。「……こっちに聞くな。数日前に教えてもらったばかりだろうが」「あ、そっか。えーと、設定、設定……あ、これかな?」 汐音が指先を忙しく動かし、自力で画面を切り替えていく。俺は自分のポケットに入っている、彼女から持たされた「板切れ」の重みを感じた。いまだに電源を入れるのすら、少しだけ躊躇う代物だ。 やっと設定を直したらしい汐音の画面には、ハンドメイドアプリの通知が山ほど溜まっていた。新着レビュー、購入通知、フォロワーからのメッセージ。この人魚は、命懸けの逃避行の直後ですら商売の手を緩めない。「ありがとー! あ、見て見て。石垣島で最後に出品した夜光貝のブローチ、もう売れてる。星五つ! "まるで本物の海を閉じ込めたみたい"だって。嬉しいなぁ」「……お前な、」 言いかけて、やめた。 こいつのこの逞しさが、今の俺たちの旅費を支えている。文句を言える立場じゃない
久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。 違う。動けなくなったのだ。 目の前で、人間の体が——崩壊していく。 銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。 人魚の生き血の効力が——切れたのだ。 三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」 崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。 膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。 皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。 久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。 風が吹いた。 白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。 他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。 怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。 残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。 赤嶺だけが残っていた。 関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。 俺は赤嶺に背を向けた。「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」 赤嶺が何か言いかけた。口を開き&m
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。
原付は、街の灯りを次々と背中に置き去りにしていった。 コンビニの白い光も、カラオケボックスの派手なネオンも、いつの間にか見えなくなって、代わりに、オレンジ色の街灯と、遠くの国道を走るトラックのヘッドライトだけが、夜の景色に点々と刺さっている。「ねえ」「……今は黙って掴まってろ」「でも——」「落としたら面倒だ」 狼谷の声は、相変わらず低くてぶっきらぼうだ。 私は、腰に回した腕を少しだけ強く握る。怖いとか、そういうのじゃなくて——こうしていないと、現実感がすぐにふわっと消えてしま