Tous les chapitres de : Chapitre 21 - Chapitre 30

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第1章:019

玲は、意味を理解するまで数秒かかった。 玲の手が止まった。 「……カウンセリング?」 「うん。毎週金曜日。残業って嘘だったの……ごめんね」 玲はすぐに首を振った。 「謝らないで」男と会っていたわけじゃない。 渚は、まだ俺じゃなきゃダメなんだ。 胸の奥に張り付いていた冷たいものが、ゆっくりと剥がれていく。 「どうして、カウンセリングに通ってるんだ?」 渚は少しだけ視線を落とした。 「……いいかげん、過去を克服しようと思って」 それから、真っ直ぐ玲を見る。 「玲に、無理させてるから」 「俺?」 玲は反射的に否定しようとした。 そんなことない。 無理なんてしてない。 渚といるのは幸せで、好きで、だから―― 「何も言わないで」 渚は首を横に振った。 玲は口を閉じた。――渚は知っている。 玲が優しいことを。 だから、きっと否定することも。 でも、否定してほしくなかった。 「玲、優しいから……私が怖がるたびに、ずっと我慢してくれてたでしょ」 「……」 「だから、ちゃんと向き合いたいって思ったの」 玲は黙って渚を見ていた。 「玲と、ずっと一緒に居るために」 玲の喉が、小さく鳴った。 「……ずっと?」 思わず、確認するみたいに訊いていた。 「俺と、ずっと一緒にいてくれるの?」 渚は少し照れたように笑って、頷いた。 それだけでよかった。 胸の奥で凍っていたものが、ゆっくり溶けていく。 残業の嘘は、これだった。 自分のために、通っていた。 (……そうか) 他の男じゃなかった。 誰かに会っていたわけでもない。 ただ渚は、渚自身のために動いていた。 それが分かっただけで、ここ数週間の不安が嘘みたいに軽くなる。 「実は」今度は、玲が口を開いた。 「昇格するんだ」 渚の目がぱっと明るくなる。 「すごい! お祝いしなきゃ」 「それで、引っ越そうと思ってて」 「うん?」 「リビングもキッチンも、もっと広い部屋」 「いいね」 「渚の会社から近いところ」 渚は少し笑った。「日曜日に泊まれたら、朝ゆっくりできるね」 「歩いて行けるよ」 そこで、渚が小さく首を傾げる。 「玲の会社から遠いよ? 本当に大丈夫?」 「いや、その……」 玲は視線を逸らした。 こんな言い方をするつもりじゃな
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第1.5章:001

 ※ ※ ※ ――高校一年生、夏。 玲はどれだけ人を集めても、どれだけ肌を重ねても、胸の真ん中に穿たれた大きな穴からは、絶えず冷たい風が吹き抜けていた。 ――渚。 心の中でその名前を呟くだけで、胸が引き裂かれるような痛みが走る。小学二年生の頃、自分が約束を破ってしまってから八年間、彼女の姿は見ていない。どこに、なぜ引っ越したのか誰に聞いても「知らない」と一点張り。何の手がかりもないまま時だけが過ぎてしまった。 (俺が約束さえ、破らなければ……) 同じ中学、同じ高校に進学して、隣にいてくれたかもしれないのに。 (つまらないプライドのせいで、会えないままだ) もし、時を戻せるなら、渚と最後に会った日に戻りたい。 そして、次の日必ず、待ち合わせ場所で渚と合流して、予定通り妊娠している犬の様子を見に行くのだ。 そうすれば、次の日、渚は学校に来てくれるはずだから。 ――こんなにも、願っているのに。 現実は進んでいく。 謝りたい、もう一度だけでいいからその声を聴きたいと切望しているのに、今の玲には、彼女がどこの空の下にいるのかさえ分からなかった。 彼女を失った玲の日常は、色彩を失った砂漠のようだった。 「おい玲。今週末の土曜、空いてる?」 昼休み、隣の席の男友達が弁当を食いながら小突いてきた。入学して数ヶ月、玲の周囲にはいつもそれなりに人が集まる。見栄えのいい容姿と、誰にでも合わせられる愛想の良さがあるからだ。 「今度の土曜、ウチの体育館でバレーのインターハイ予選の決勝があるんだって。ほら、バレー部のマネージャーやってるあいつが、応援来いってうるさくてさ」 「へえ、そうなんだ」 玲は机に頬杖をついたまま、抑揚のない声で返した。 その玲の椅子のすぐ後ろには、当然のような顔をして真央が立っていた。同じ高校に進学し、クラスが離れてもなお、休み時間になるたびに玲の後ろをついて回る真央。玲の男友達も、今では真央を「相良のセット」として扱い、気兼ねなく話を続けている。 「しかもさ、決勝の相手が、あの女子エスカレーター式の私立高校なんだよ。お嬢様学校のさ! 応援席、めちゃくちゃ可愛い子揃いらしいぜ。他校の女子とか、滅多に見られないじゃん」 「マジで? だったら絶対行くわ」 もう一人の男友達が鼻息
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第1.5章:002

 ※ ※ ※   土曜日、決勝戦の会場となった母校の体育館は、熱気と大歓声に包まれていた。 天井の低い空間に、バレーボールが床を叩く激しい音と、シューズが擦れる甲高い音が反響している。 玲はメガホンを手に、周囲の生徒たちに合わせて声を張り上げ、応援しているふり、楽しんでいるふりをして見せていた。 正直、どっちが勝とうが負けようが、どうでもよかった。 ネットを挟んで対峙しているお嬢様学校の女子生徒たちは、確かにうちの高校の女子たちよりも全体的なレベルが高く、肌の白さや身にまとった空気からして、いかにもお金持ちの女の子という感じがする。男友達が鼻息を荒くして品定めするのも分からなくはなかったが、玲の濁った瞳には、彼女たち全員がのっぺらぼうの人形のようにしか映らなかった。 真央は、その応援席の喧騒の中で、当然のように玲の隣を死守していた。 玲の片腕に自分の腕をきつく絡め、制服の薄い生地越しに、確かな自己主張を持つ胸をこれでもかと押し付けてくる。  「ねえ、うちの高校、勝つかな?」 真央が上目遣いに、玲の顔を覗き込んできた。 現在どちらの高校も完全に同点。このセット、次の試合の数ポイントで、全国大会への切符を手に入れる勝者が決まるという、文字通りの大詰めだった。 「さあ」 玲は絡められた腕を振り払うこともせず、かといって真央を見ることもなく、視線をコートへ向けていた。 真央の体温を感じても、その胸の柔らかさを自覚しても、玲のなかで暴れる獣は一向に目を覚まさな。放課後、このまま真央の体を借りて欲求を排泄することは決まっていたが、玲の飢えを満たす役には立たなかった。 応援席の最前列で、男友達が「おい、バレー部エース、めちゃくちゃ可愛くない!?」と声を枯らして騒いでいる。 玲は、そのノイズに合わせるようにゆっくりと視線を動かした。 どうせ、また誰を見ても同じだ。そう思いながら、対戦相手であるお嬢様学校の、緑色のベンチコートがひしめく一角を、感情のない目で何気なく見つめた。 対戦相手のエースは、長い黒髪を頭上高く一つに結び、コートを駆けるたびにその尾が美しく靡いていた。姿勢が良く、遠目からでも目鼻立ちがはっきりしていると分かる、誰もが振り返るような美少女だ。周囲の男たちが色めき立つのも無理はなかった。 真央が絡めてくる腕の熱も、コートから響く怒
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第1.5章:003

 ※ ※ ※ あの日以来、玲の頭からは完全に日常が抜け落ちていた。 高校には行かず、渚が通う高校に毎日足を運んだ。 渚の通う高校は、幼稚園から大学まで女子だけで構成されている。 玲の自宅から離れた距離ではあるものの同じ県内にある私立の女子一貫校のものだった。 (ずっと同じ県に住んでいたなんて……知らなかった) もっと、探しておくんだったと玲は後悔した。 「ねえ、そこの君。ちょっといいかな」 放課後。 玲は自分の高校の制服のまま、その女子校へと続く一本道の並木道に立っていた。 夕日を浴びて歩いてくる二人組の女子生徒に、玲はいつもの、誰の警戒心も融解させるような完璧に無害な微笑みを向ける。整った端正な容姿、育ちの良さを感じさせる穏やかな声、そして何より、一切の邪気を感じさせない綺麗な瞳。 声をかけられた女子生徒たちは、一瞬で頬を染め、お互いを見合わせてそわそわと身を竦めた。 「あの……何か、落とし物ですか?」 「生徒手帳を落としたんだけど、間違えて彼女のを拾っちゃって。向こうは僕の生徒手帳を拾っちゃったみたいなんだよね。入れ替えたくてさ。一年生に、相良渚って子いないかな?」 縋るような、少しだけ頼りなさげな表情を見せると、彼女たちはすっかり同情し、「あ……」と声を上げた。 「相良さん……あ、知ってる。1年A組の子だよね」 「そうそう、特進クラスの。いつもバレー部のエース綾乃さんと一緒にいる、背の低い子でしょ?」 「A組の、特進クラス……」 「うん。でもあの子、学校の敷地内にある女子寮に入ってるから、放課後もあんまり外で見かけないかも。帰宅部だから授業が終わったら、すぐ寮に戻っちゃうみたいだし」 ――1年A組。特進クラス。そして、敷地内の寮住まい。 その事実が耳に飛び込んできた瞬間、玲の胸の奥が、どくどくと激しく脈打った。 (寮にいるなら、外に出てくるのを待つしかない――) 「そっか。寮にいるんだね……教えてくれてありがとう」 玲はもう一度、少女たちが息を呑むような極上の微
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第1.5章:004

 ※ ※ ※校門の前に、やたらとイケメンが立っているという噂はあっという間に広がった。 最初は、他校の生徒が誰かを迎えに来ているだけだと思われていた。けれど、その男子高校生――玲は、雨の日も風の日も、放課後になると必ず同じ場所に現れ、ただじっと門の前に立っている。 無駄のない高い背に、端正でどこか憂いを帯びた横顔。その圧倒的な見栄えの良さは、外界から隔離されたお嬢様学校の女子生徒たちにとって、退屈な日常に投げ込まれたあまりにも鮮烈な異物だった。 「ねえ、今日もあの子いるよ」 「誰を待ってるんだろう。少女漫画の王子様みたい……」 下校する生徒たちが色めき立ち、わざと玲の前をゆっくり歩いたり、遠巻きにスマートフォンで写真を撮ろうとしたりする。中には勇気を出して「誰か待ってるの?」と声をかける女子生徒もいたが、玲はそのたびに、胸が締め付けられるほどに綺麗な笑顔で「うん、ちょっとね」とだけ答えた。 噂はすぐに、バレー部をはじめとする部活動の生徒たちの耳にも届く。 当然、敷地内の女子寮で暮らす特進クラスの少女——渚の元にも、その噂は、さざ波のようにじわじわと近付いていた。    渚は、教室の隅でぼんやりと窓の外を眺めていた。 窓からは校門が見えて、門の外に男の子の黒髪が見える。放課後、毎日欠かさず現れる謎のイケメンが何者なのか、女子たちが妄想しては、騒いでいる。 「ねえ渚、次の化学の移動教室行こ?」 親友の綾乃にそう声をかけられた。他の一般クラスの生徒たちが放課後のチャイムに声を弾ませ、一斉に帰路につく中、カリキュラムの過密な特進コースの渚たちは、これからまだ別の教室へ移動して授業に向かわなければならない。渚が慌ててノートをまとめている間も、周りの女友達たちの騒がしい会話が耳に飛び込んできた。 「っていうか、今日もいるの?」 「守衛さんはどうして追い出さないわけ?」 「いくらイケメンでも、毎日は怖いよね」 渚は何も言わず、ただ黙っていた。 渚は、あの体育館の熱気の中で突然手首を掴まれたとき、あまりの恐怖に驚いて大きな声を出してしまったことを思い出していた。最初
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第1.5章:005

  ※ 「ねえ」 低く、棘のある声だった。 視線を動かすと、目の前に一人の女子生徒が立ちはだかっていた。あの日、体育館のコートで猛威を振るっていた、バレー部の一年生エース――あの時渚を奪い去っていった綾乃だ。 制服姿の彼女は、近くで見ると驚くほど背が高かった。一年生でありながら、玲とほとんど変わらない位置にその鋭い眼光があり、男子高校生である玲を相手にしても、微塵も怯むことなく真っ直ぐに睨みつけてきている。 だが、玲の意識は綾乃には向かわなかった。 綾乃の背後――少し離れたところに、小さく身を縮めるようにして立っている人影が、視界に飛び込んできたからだ。 短く不揃いな、ショートカットの髪。 夏だというのに――日焼け除けのためだろうか、長袖のブラウス。「……渚!」 色褪せたつまらない人生が、渚がいる場所から、色を取り戻していく。 自然と、優しい笑みが唇に浮かぶ。 やっと会えた。やっと――……。 一歩、その細い体へと近づこうと足を動かす。 しかし、すぐさまそれを遮るように、綾乃が横にステップを踏み、壁となって玲の進路を塞いだ。玲と同じくらいの高い身長を誇る彼女の体が、渚の姿を完全に隠してしまった。 反射的に綾乃を睨みつけてしまう。 それでも、彼女は一切怯むことなく、玲を睨み返した。 二人の間には、見えない火花が散り、一触即発の空気が流れる。 このままでは埒が明かない、そう思った瞬間、綾乃の背後から躊躇いがちに渚が顔を出した。「……ひさしぶりだね」 渚は胸元のあたりで、小さく手を振った。その笑顔はどこかぎこちなく、口角だけが上がっている。 それでも、玲の耳に届いたその声は、小学二年生の頃以来、九年ぶりに聴く本物の彼女の声だった。胸の奥が熱い歓喜で満たされ、玲は嬉しくて、パッと表情を輝かせて笑った。「渚……!」 もう一度、彼女との距離を詰めようと足を踏み出す。けれど、それを察知した綾乃がまたしても素早く動き、邪魔をするように間に割り込んできた。 同時に、玲の急なアプローチに怯えたのか、渚も一歩後退りしてしまう。これ以上強引にいけば、顔を見せてくれないかもしれない。玲は焦る気持ちを抑え込み、それ以上近寄ることを諦めた。「こないだはごめんね、大声出しちゃって」 遮られた綾乃の背中越しに、渚の消え入りそうな声が響く。「い
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第1.5章:006

 ※ がさり、と紙が擦れた音が空間に響いた。 学校の敷地内にある女子寮のロビー。その片隅に置かれたゴミ箱に、綾乃は迷いのない手つきで小さな紙切れを放り込んだ。玲が必死に殴り書きし、押し付けてきた電話番号とアカウント名が書かれたノートの切れ端だ。 くしゃりと丸められたそれは、他の不要なプリント類の隙間にあっけなく沈んでいく。 渚はその光景を、ただ黙って見つめていた。 拾い上げようとはしなかった。指先ひとつ動かすこともなく、まるで自分とは無関係の出来事であるかのように、ただ視線を落としているだけだった。そんな渚の様子に安心したように、綾乃はそっと肩に手をまわす。「部屋に戻ろ、渚」「うん」 二人は並んで階段を上がり、それぞれの自室へと戻っていった。 静まり返った自室のドアを閉めると、渚は吸い寄せられるようにベッドへ向かい、その端にぽつんと腰を下ろした。衣服に包まれた自分の体を抱き締め、膝を小さく抱え込む。 耳の奥で、先ほどの校門前の喧騒が、そして玲の声が、ループしていた。『二度と口にしないから、だからお願い……っ!』『俺、渚に会えて……本当に嬉しかったんだ』 泣き叫ぶような、縋るような……玲のあの悲痛な声。 小学二年生まで一緒に遊んだ男の子が、あんなに傷ついたような声を出すなんて思ってもみなかった。 それを呼び水にするように、玲と過ごした幼い頃の記憶が、渚の脳裏に鮮やかに蘇ってきた。 保育園の泥だらけのお庭。二人で並んで、小さな手のひらで土を掘り、ヒマワリの種をそっと埋めたこと。夏祭りの夜、人混みの中ではぐれないようにと、小さな手をぎゅっと握り締めてくれたこと。 あの頃の毎日は、眩しいほどにキラキラと輝いていた。あの世界は私の全てだった。(……あの頃には、もう戻れない) 綺麗なものを見て、憧れる気持ちも抱けない。 煌びやかな世界には戻れない。 ――何もなかった頃の、綺麗な私を唯一知っている玲。
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第1.5章:007

※ ※ ※ 玲の携帯は、待てど暮らせど、渚からの通知を知らせることはなかった。 画面が明るくなり、通知音が響くたびに、玲は弾かれたように携帯を掴み取る。 しかし、そこに表示されるのは決まって真央の名前だった。 休み時間のたびに教室に会いに来るのも真央。隣に並んで、一方的に話しかけてくるのも真央。 ある日の放課後、机の上に置いた携帯が震えた。 液晶に表示されたのは、いつ関係を持ったかも覚えていない女からの『今日、会おうよ』というメッセージ。それを横から勝手に覗き込んだ真央が、一瞬で顔を顰めて不機嫌そうに声を尖らせる。「誰、この女? また他の子と遊んでるわけ?」 詰問する声を完全に無視して、玲は携帯の画面を伏せた。誰が相手だろうと、どうでもよかった。渚からさえ来れば、他は消え去っていい文字の羅列でしかなかった。 ——画面が渚からの通知を知らせることはないまま、季節は流れていった。 肌を焼くような夏の終わりが近づき、涼しさを帯びた秋へと移り変わっていく。玲の制服のワイシャツが、半袖から長袖へと変わってすぐの、ある朝のことだった。 ベッドの上に置いた携帯が鳴った。 玲は長袖の制服に腕を通しながら、反射的にベッドへ這い、咄嗟に携帯を掴んだ。しかし、液晶に浮かび上がったのは、やはり見飽きた真央の名前だった。『外で待ってる』 二階にある自分の部屋の窓から下を見下ろすと、真央が門の前に立ってこちらの窓を見上げている。 玲は溜息すらつかず、画面に既読をつけることもなく携帯をスリープモードにした。ただの通知としてそれを握ったまま、一階へと降りていく。 もう、この頃の玲は半ば諦めかけていた。あの日に渡した連絡先は、綾乃にその場で捨てられてしまったのかもしれない。あるいは、渚が自分に対する怒りと拒絶のあまり、自らの手でゴミ箱へ放り込んでしまったのかもしれない。 自宅のダイニングキッチンへ向かうと、そこにはいつも通りの両親の姿があった。玲は自分の本心を何一つ悟らせないよう、完璧に作り込まれたいい息子の笑顔を張り付け、他愛のない朝食の会話を
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第1.5章:008

※ ※ ※ 画面越しの対話は、常に非対称だった。 渚からの返事は、基本的にはいつも一言か二言の短いものだった。対する玲は、彼女をどうしても文章が長くなり、返信の速度も既読も格段に早くなってしまう。 それでも、スマートフォンの液晶に灯る渚の『うん』という、ただそれだけの文字を目にするだけで、玲の胸の奥は言葉にできないほどの幸福感で満たされた。 休み時間のたび、しつこく教室にやってくる真央が、玲のそんな様子を不機嫌そうに覗き込んでくる。「ねえ、さっきから誰と連絡してるわけ?」「それ、お前に関係ある?」 玲は真央の顔を一度も見ることなく、冷たく言い放った。 ——季節は巡り、制服が冬服に切り替わり、指定のコートを羽織る季節がやってきた。 玲はずっと胸の奥で温めていた勇気を振り絞って、メッセージを送った。『今度、どこかへ遊びに行かない?』 送った瞬間から、心臓がうるさいほどに脈打ち始める。けれど――渚からの返事は途絶えてしまい、玲の携帯は渚からの通知を知らせることはなかった。(……誘わなければよかった) 嫌われたかもしれない——底なしの恐怖に突き落とされ、玲はひどく落ち込んだ。 しかし、丸三日が経った頃、メッセージが届いた。『私の学校の近くの、カフェでいい?』 その文字を見た瞬間、玲の脳内に歓喜が爆発した。自分から誘ったはずなのに、渚が場所を指定してくれたというだけで、まるで彼女からデートに誘ってもらったかのように感じて、飛び上がるほど嬉しかった。 ※ ※ ※  約束の週末。 渚は、玲に待ち合わせ場所として自分の通う学校の校門前を指定してきた。 かつて、渚を待ち伏せしていたあの場所。けれど、今は違う。玲は渚と確かに約束を交わしたうえで、堂々とこの場所に立っているのだ。その誇らしさに、冬の冷たい空気すら心地よく感じられた。 そんな玲の前に、影が立ちはだかった。 ――綾乃だった。「あんた、
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第1.5章:009

 綾乃はもう一度だけ玲に牽制の視線を送ると、心配そうに渚の頭をひとなでし、渋々と踵を返して去っていった。  その背中が完全に遠ざかるのを見届けてから、玲はすぐさま隣の渚へと意識を切り替える。その視線は、自然と彼女の身に纏う衣服へと向いていた。 (……私服だ)  冬の風を遮るような、身体のラインをすっぽりと隠す分厚いコート。そして首元には、顎が少し埋まるくらいにぐるぐると巻かれた暖かそうなマフラー。  その隙間から覗く、少し赤くなった耳や、短く不揃いなショートカットの髪。制服以外の渚を、自分の視界いっぱいに収められている。ただそれだけのことが、嬉しかった。  マフラーに顔を埋める渚の姿だけは、世界で一番特別で、眩しいものに見えた。 「行こうか」  玲が優しく声をかけると、渚は小さく「うん」と頷いて歩き出した。  けれど、二人の間には、大人が一人は入れてしまうほどの奇妙な距離が空いていた。玲がその距離を詰めようと、僅かに歩幅を寄せると、渚はそれに気付いているのかいないのか……すっと同じ分だけ横に逸れてしまう。 (あの日、約束を破ったこと……本当は許してくれてないんじゃ……)  あの時——渚は「私は怒ってない。だから何も言わないで」と早口で言っていた。けれど、あれは本心ではないと玲は確信している。あんなに頑なに視線を合わせず、まるで自分を視界に入れることすら拒絶するような態度をとっておいて、怒っていないはずがないのだ。  ちゃんと、もう一度あの日のことを謝りたかった。俺が悪かったんだと、彼女の気が済むまで頭を下げたかった。  しかし——「何も言わないで」と強く釘を刺された手前、玲はそれを言葉にすることができなかった。  もしも今、無理に過去を掘り起こして謝罪を口にしたら、渚が怒って帰ってしまうかもしれない。せっかく、こうしてまた二人で出かけることが叶ったのだ。その奇跡のような現実を、自分でぶち壊すことだけは、絶対に避けたかった。 (これ以上、嫌われたくない……)  玲は喉の奥まで出かかった謝罪の言葉をぐっと飲み込み、渚の横顔に笑みを送った。二人の視線が交わることはなかったが、玲は楽しげに高校の話を自分から喋り始める。 「俺の通ってる高校のさ、担任の数学の教師がめちゃくちゃ偏屈なんだよ。授業中、ちょっとノート取る手が止まっただけで、すぐチ
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