LOGIN※ ※ ※ 季節は巡り、陽射しがアスファルトを焦がす高校二年生の夏。 衣替えを迎えた玲の制服は半袖になり、白い肌が太陽の熱で焼かれる季節が今年もやってきた。糊のきいた夏服に袖を通し、自室を出て階段を下りていく。その途中で、階下から母親の朗らかな声が響いた。 「玲、真央ちゃんがもう来てるわよ。女の子を外で待たせちゃ駄目じゃない」 母親の手前、玲は反射的に端正な笑みを顔に張り付け、「うん、分かってる」と頷いた。けれど、その内心は鬱陶しさと苛立ちで激しく逆立っている。 食卓に着くと、今度は新聞から目を離した父親から「朝から彼女を待たせるもんじゃないぞ」と、いかにも父親らしい口調で注意を受けた。父親の隣に腰かけた母親も「そうよ、もっと優しくしてあげなきゃ」と楽しそうに同意する。 胸の奥に広がる不快感を押し殺しながら、玲は淡々と声を返した。「別に、彼女じゃないよ」「またまたー。毎朝あんなに仲良く一緒に登校しておいて、よく言うわよ」「小学校からの幼馴染じゃないか。甘酸っぱい青春だな」 何が面白いのか、両親は顔を見合わせてからからと笑い合う。その無邪気な笑顔が、今の玲にとってはただただ不快で、醜悪なものにしか見えなかった。「……俺には、好きな子がいるから」 それだけを告げて、玲は半分も箸をつけていない朝食を残したまま席を立った。背後から母親が「えっ、誰!? お母さん知ってる子?」と身を乗り出して訊ねてくる。けれど、玲は二度と振り返ることなく「行ってきます」とだけ言い残し、玄関のドアを開けて外へ出た。 門の外には、強い朝陽を浴びて、笑顔を浮かべた真央が立っていた。「玲! おはよう!」 弾んだ声が鼓膜を叩くが、玲の心には何一つ響かない。それどころか、両親に無神経な誤解を植え付けられたこと、そして、今年初めての自分の夏服姿を見せた相手が、渚ではなくこの女であるという事実に嫌悪感を覚えていた。 玲は真央の前に立つと、冷え切った視線で彼女を見下ろした。「朝、家に来るな」「え……?」「母さ
※ ※ ※ それからの冬は、玲にとって、凍えるような寒ささえ愛おしく思えるほどの季節となった。 玲は渚と少しでも長く、多く、同じ時間を共有したくて、毎週末、土日のスケジュールを予約するかのように「今週末は空いてる?」とメッセージを送り続けた。 学校の友人たちと自発的に外へ出かけることのほとんどない渚の予定は、大抵の場合、ぽっかりと空いていた。たまに「その日は綾乃と約束があるから」と断られることもあったけれど、綾乃はバレー部の練習や遠征で週末も忙しく、結果として渚の休日は、その殆どを玲が独占することができた。 会う場所は、決まって渚の学校の近くだった。彼女が提示する境界線を、玲は決して踏み越えようとはしなかった。 試験の前には、二人で渚の学校の近くにある公立図書館へ行った。 天井が高く、本特有の匂いが漂う静まり返った閲覧室。お互いに自分の参考書やノートを広げ、何時間もの間、一言の会話もないままペンを動かす。 言葉なんてなくても、すぐ斜め前の席に渚がいて、ノートを捲る微かな紙の音が響くだけで、玲の胸の奥は幸福感で満たされた。時折、分からない問題があるのか、シャープペンの先でトントンとノートを叩く渚の手元を眺めているだけで、退屈な試験勉強の時間が何よりも贅沢な瞬間に変わった。 手は繋げない。二人きりの密室になることもない。どこかへ遠出をすることだって、今はまだ許されていない。 それでも、玲は焦らなかった。 いつか、渚が心の底から俺を信頼して、二人きりになることを許してくれるまで、何年だって、いつまでも待ち続ける自信があった。 (急ぐ必要なんてない。俺と渚は今、一緒の時間を過ごしてるんだから)
渚が迷った末に注文した苺のタルトは、彼女が半分ほど口に運んだところで本当にフォークが止まってしまった。「ごめんね、やっぱりお腹いっぱいで……」と申し訳なさそうに身を縮める渚に、玲は「いいよ、約束通り俺がもらうね」と喜んで引き取った。 渚が食べ残したものを、自分が食べる。フォークがタルトの断面に触れるたび、言いようのない昂揚感が玲の身体を駆け巡る。渚が口をつけたものと、自分の唇が重なる——歪な形ではあっても、それは確かな間接キスだった。 そんな手段でしか彼女に触れないもどかしさはあったが、自分で注文したチョコレートパフェと、渚のタルトを交互に口へ運ぶ時間は、玲にとってこの上ない至福だった。 「ごちそうさまでした。……本当に、美味しかった」 苺のタルトを綺麗に平らげた玲を見て、渚はタートルネックの襟元に顔を半分埋めながら、少しだけはにかむように笑った。彼女のその表情を見られただけで、玲の胸の奥はこれ以上ないほどの満足感で満たされる。 席を立つ前、渚は再び分厚いコートに袖を通し、首元へ丁寧にマフラーを巻き直した。顎まですっぽりとマフラーに埋もれたその姿を見て、玲は「せっかくの黄色のニットが見えなくなっちゃったな」と少しだけ名残惜しく思う。 玲が伝票を手に取り、音もなく立ち上がる。それを見た渚が、ハッとしたように自分の財布を取り出した。 「あ、待って、宮原くん。私の分、いくらだった……?」 渚の反応に、玲は振り返って、優しい笑みを浮かべた。 「いいよ、ここは俺に払わせて」 「え……? でも、悪いよ。パスタだけじゃなくて、タルトまで食べたのに……」 「俺が誘ったんだし、タルトは俺がほとんど食べちゃったようなもんだからさ。それに、久しぶりに渚とたくさん話せて、本当に楽しかった。そのお礼」 押し付けがましさを一切感じさせない、柔らかな口調だった。 渚は財布を握ったまま一瞬だけ躊躇い、それから少しだけ申し訳なさそうに視線を落とした。 「……ごめんね。ありがとう」 「ううん。じゃあ、行こうか」 ——お金の問題なんかじゃない。渚は申し訳なさそうにしているが、玲にしてみれば、今のこの時間は、ど
※ 学校から少し歩いた駅前。渚が足を止めたのは、大きなガラス窓から温かな光が漏れる一軒のカフェだった。 自動ドアをくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間に広がる甘い香りと、パステルカラーを基調としたお洒落な内装。指示された席へと向かい、椅子に座る前に、渚は首元に巻かれていたマフラーをゆっくりと解き、分厚いコートを脱いだ。 コートの下から現れたのは、ゆったりとしたシルエットの黄色のタートルネックニットだった。 少しオーバーサイズ気味の柔らかな編み目が、彼女の華奢な身体を優しく包み込んでいる。暖かみのある鮮やかな黄色が、渚の白い肌によく映えていた。制服の時には分からなかった、女の子らしい私服のディテールを目の当たりにして、玲の胸は甘く脈打つ。 同時に、店内の様子に玲は目を丸くした。 見渡す限り、店内の客席を埋め尽くしているのは自分と同世代かそれ以上の女性ばかりだった。男の姿は、店員の他にはどこにも見当たらない。文字通り、完全に男性は玲一人きりだった。 「ここ、いちど、来たかったの……」 渚が小声でそう呟く。 渚が行きたかった場所なら、玲にとっては周囲が女だらけだろうが何だろうが、全く気にならなかった。それに、不思議と、玲はその場から浮かなかった。 店員に案内されたのは、少し広めの四名掛けのテーブル席だった。 玲としては、できることなら二名掛けのテーブルで、もっと近い正面に座りたかった。けれど、案内されるや否や、渚は玲の正面を避けるようにして、すっと斜め前の席に腰を下ろしてしまった。 (……やっぱり、正面はダメか) あからさまに距離を置かれたことに、玲は内心で少しだけ落ち込む。せっかくマフラーとコートを脱いだ彼女の姿を近くで見られると思ったのに。それでも、こうして同じテーブルを囲めているのだからと、玲はすぐに気持ちを切り替えた。 何より、メニュー表を開いて「美味しそう……」と嬉しそうに頬を綻ばせる渚の姿を見られただけで、玲の胸の奥は満足感でいっぱいになる。 メニューにはパフェなどのスイーツだけでなく、軽食も充実しているらしく、渚はトマトソースのパスタを注文した。 やがて運ばれてきた湯気
綾乃はもう一度だけ玲に牽制の視線を送ると、心配そうに渚の頭をひとなでし、渋々と踵を返して去っていった。 その背中が完全に遠ざかるのを見届けてから、玲はすぐさま隣の渚へと意識を切り替える。その視線は、自然と彼女の身に纏う衣服へと向いていた。 (……私服だ) 冬の風を遮るような、身体のラインをすっぽりと隠す分厚いコート。そして首元には、顎が少し埋まるくらいにぐるぐると巻かれた暖かそうなマフラー。 その隙間から覗く、少し赤くなった耳や、短く不揃いなショートカットの髪。制服以外の渚を、自分の視界いっぱいに収められている。ただそれだけのことが、嬉しかった。 マフラーに顔を埋める渚の姿だけは、世界で一番特別で、眩しいものに見えた。 「行こうか」 玲が優しく声をかけると、渚は小さく「うん」と頷いて歩き出した。 けれど、二人の間には、大人が一人は入れてしまうほどの奇妙な距離が空いていた。玲がその距離を詰めようと、僅かに歩幅を寄せると、渚はそれに気付いているのかいないのか……すっと同じ分だけ横に逸れてしまう。 (あの日、約束を破ったこと……本当は許してくれてないんじゃ……) あの時——渚は「私は怒ってない。だから何も言わないで」と早口で言っていた。けれど、あれは本心ではないと玲は確信している。あんなに頑なに視線を合わせず、まるで自分を視界に入れることすら拒絶するような態度をとっておいて、怒っていないはずがないのだ。 ちゃんと、もう一度あの日のことを謝りたかった。俺が悪かったんだと、彼女の気が済むまで頭を下げたかった。 しかし——「何も言わないで」と強く釘を刺された手前、玲はそれを言葉にすることができなかった。 もしも今、無理に過去を掘り起こして謝罪を口にしたら、渚が怒って帰ってしまうかもしれない。せっかく、こうしてまた二人で出かけることが叶ったのだ。その奇跡のような現実を、自分でぶち壊すことだけは、絶対に避けたかった。 (これ以上、嫌われたくない……) 玲は喉の奥まで出かかった謝罪の言葉をぐっと飲み込み、渚の横顔に笑みを送った。二人の視線が交わることはなかったが、玲は楽しげに高校の話を自分から喋り始める。 「俺の通ってる高校のさ、担任の数学の教師がめちゃくちゃ偏屈なんだよ。授業中、ちょっとノート取る手が止まっただけで、すぐチ
※ ※ ※ 画面越しの対話は、常に非対称だった。 渚からの返事は、基本的にはいつも一言か二言の短いものだった。対する玲は、彼女をどうしても文章が長くなり、返信の速度も既読も格段に早くなってしまう。 それでも、スマートフォンの液晶に灯る渚の『うん』という、ただそれだけの文字を目にするだけで、玲の胸の奥は言葉にできないほどの幸福感で満たされた。 休み時間のたび、しつこく教室にやってくる真央が、玲のそんな様子を不機嫌そうに覗き込んでくる。「ねえ、さっきから誰と連絡してるわけ?」「それ、お前に関係ある?」 玲は真央の顔を一度も見ることなく、冷たく言い放った。 ——季節は巡り、制服が冬服に切り替わり、指定のコートを羽織る季節がやってきた。 玲はずっと胸の奥で温めていた勇気を振り絞って、メッセージを送った。『今度、どこかへ遊びに行かない?』 送った瞬間から、心臓がうるさいほどに脈打ち始める。けれど――渚からの返事は途絶えてしまい、玲の携帯は渚からの通知を知らせることはなかった。(……誘わなければよかった) 嫌われたかもしれない——底なしの恐怖に突き落とされ、玲はひどく落ち込んだ。 しかし、丸三日が経った頃、メッセージが届いた。『私の学校の近くの、カフェでいい?』 その文字を見た瞬間、玲の脳内に歓喜が爆発した。自分から誘ったはずなのに、渚が場所を指定してくれたというだけで、まるで彼女からデートに誘ってもらったかのように感じて、飛び上がるほど嬉しかった。 ※ ※ ※ 約束の週末。 渚は、玲に待ち合わせ場所として自分の通う学校の校門前を指定してきた。 かつて、渚を待ち伏せしていたあの場所。けれど、今は違う。玲は渚と確かに約束を交わしたうえで、堂々とこの場所に立っているのだ。その誇らしさに、冬の冷たい空気すら心地よく感じられた。 そんな玲の前に、影が立ちはだかった。 ――綾乃だった。「あんた、
※ 自宅のマンションとは違う玄関ドア。黒いカードキーをタッチすると解錠音が鳴る。玲は勢いよく玄関ドアを開けた。 玄関に入ってすぐ、鞄と上着を投げ捨てる。靴は脱ぎ捨て、向かった先はシャワー音がする風呂場だった。 浴室のドアを勢いよく開けた。シャワーの音が、一気に大きくなる。 真央が振り返った。驚きで目が見開く。 玲は何も言わず、服のまま、風呂場へ踏み込んだ。シャワーの飛沫が、スーツを濡らした。 ベルトの金具を外しスラックスの前を寛げる。真央が言葉を発しようとしているのが視界に映ったが、玲はその声を聞きたくなかった。 真央の肩を掴んで、壁に押しつける。 「ちょっ――」 声を遮
※ 電話を切った直後、玲の頭の中は渚でいっぱいだった。 グラタン。土曜日のパスタ。渚の「ふふっ」という笑い声。 それだけで、今日一日乗り越えられる気がした。 エレベーターのドアが開く。玲はスマートフォンを内ポケットにしまい、フロアに踏み出した。 玲は自分のデスクに戻り、椅子に座った。 モニターに映るのは、仕事のデータ。 (渚、ちゃんと食べてるかな) そこまで考えて、すぐに別の考えが割り込んでくる。 (金曜日……どこに行っているんだ) 残業はない、と守衛は言った。毎週金曜日、渚は嘘をついている。理由が分からない。他の男と会っているのか。そんなはずはない。でも、そんなはずは
※シーツの海に沈んだまま、玲は隣で微睡む渚の、不揃いな毛先を指で弄んだ。確かめなければ、死んでしまいそうだった。言葉という、形のない、けれど今の玲にとっては唯一の命綱を。「……俺のこと、好き?」暗闇に、玲の掠れた声が落ちる。渚は瞳を閉じたまま、夢の淵から戻ってくるように小さく答えた。「うん」「……好き?」もう一度、念を押すように。縋り付くように。渚は玲の不安を打ち消そうとするかのよう
※ 終わったあとは、虚しさしか残らない。 性欲を満たし、溜まった鬱憤を出し切っても残るのは、ぽっかり空いた穴。そこを覗き込めば、いるのは飢えた獣が覗き返しているだけ。 (どうすれば、飢えを凌げるか……) ――渚に全てをぶつければ、満たされることを玲は理解していた。玲の空虚を埋められるのは彼女だけなのだから。 (そんなことをしたら、俺は嫌われてしまう) 九年前に再会できたこと自体が奇跡なのに、それを自ら壊すことはしたくない。玲は壁に片手を突き、頭から降り注ぐ熱い飛沫に身を任せていた。 タイルを叩くシャワーの音だけが、狭いユニットバスに反響している。 洗い流しているの