LOGIN※ ※ ※ 週末、約束の場所へと向かう玲の足取りは、いつになく軽やかだった。真央たちのことなど完全に脳内から締め出し、ただ早く渚に会いたい、その一心で歩く。 渚の通う学校の校門前が見えてくると、彼女はすでに門の外にいた。(あ……) 玲は歩み寄りながら、内心で小さく落胆のため息をついた。 渚はかっちりとした長袖のシャツを着ていて、その白い肌は首元と手首から先以外、ほとんど隠されてしまっている。衣替えをして半袖になった自分とは対照的に、徹底して露出を避けているかのようなその服装に、玲は寂しさを覚えた。「待たせてごめんね、渚」「ううん。今、来たところだから」 歩き出しても、二人の間にはいつものように、大人が一人すっぽりと入れてしまうだけの不自然な距離が空いたままだった。 じりじりと肌を焼くような夏の熱気。玲がふと横を盗み見ると、渚の白い頬に、きらりと汗の粒が伝っていた。 玲は自分のバッグを開けると、中から一本のペットボトルの水を取り出して、渚へと差し出した。「これ、飲んで。こっちの駅に着いてから買ったんだ。歩いてる間に少しぬるくなっちゃったかもだけど、まだ冷たいと思う。——俺、まだ口付けてないから、安心して」「え、で、でも……」「顔が赤いよ。こんなに暑いんだから、倒れでもしたら大変だよ。ほら、はい」 促すと、渚は「あ、ありがと……」と躊躇いがちに水を受け取った。 キャップを開け、コクコクと水を飲んでいく。その際、上を向いた彼女の細い喉が、生々しく上下に動くのが見えた。普段はガードの固い彼女の、一瞬だけの無防備な躍動。それがあまりにも色っぽく、そして切なく玲の目に映り、これ以上見つめていると目が離せなくなりそうで、玲は慌てて視線を逸らした。「冷たくて、美味しい」 一息ついた渚は、自分が口をつけたボトルの飲み口を、ポケットから出したハンカチで拭おうとした。 それを見た玲は、反射的に声をかけてしまう。「あ、いや、俺は別に気にしないよ。その
※ ※ ※ 季節は巡り、陽射しがアスファルトを焦がす高校二年生の夏。 衣替えを迎えた玲の制服は半袖になり、白い肌が太陽の熱で焼かれる季節が今年もやってきた。糊のきいた夏服に袖を通し、自室を出て階段を下りていく。その途中で、階下から母親の朗らかな声が響いた。 「玲、真央ちゃんがもう来てるわよ。女の子を外で待たせちゃ駄目じゃない」 母親の手前、玲は反射的に端正な笑みを顔に張り付け、「うん、分かってる」と頷いた。けれど、その内心は鬱陶しさと苛立ちで激しく逆立っている。 食卓に着くと、今度は新聞から目を離した父親から「朝から彼女を待たせるもんじゃないぞ」と、いかにも父親らしい口調で注意を受けた。父親の隣に腰かけた母親も「そうよ、もっと優しくしてあげなきゃ」と楽しそうに同意する。 胸の奥に広がる不快感を押し殺しながら、玲は淡々と声を返した。「別に、彼女じゃないよ」「またまたー。毎朝あんなに仲良く一緒に登校しておいて、よく言うわよ」「小学校からの幼馴染じゃないか。甘酸っぱい青春だな」 何が面白いのか、両親は顔を見合わせてからからと笑い合う。その無邪気な笑顔が、今の玲にとってはただただ不快で、醜悪なものにしか見えなかった。「……俺には、好きな子がいるから」 それだけを告げて、玲は半分も箸をつけていない朝食を残したまま席を立った。背後から母親が「えっ、誰!? お母さん知ってる子?」と身を乗り出して訊ねてくる。けれど、玲は二度と振り返ることなく「行ってきます」とだけ言い残し、玄関のドアを開けて外へ出た。 門の外には、強い朝陽を浴びて、笑顔を浮かべた真央が立っていた。「玲! おはよう!」 弾んだ声が鼓膜を叩くが、玲の心には何一つ響かない。それどころか、両親に無神経な誤解を植え付けられたこと、そして、今年初めての自分の夏服姿を見せた相手が、渚ではなくこの女であるという事実に嫌悪感を覚えていた。 玲は真央の前に立つと、冷え切った視線で彼女を見下ろした。「朝、家に来るな」「え……?」「母さ
※ ※ ※ それからの冬は、玲にとって、凍えるような寒ささえ愛おしく思えるほどの季節となった。 玲は渚と少しでも長く、多く、同じ時間を共有したくて、毎週末、土日のスケジュールを予約するかのように「今週末は空いてる?」とメッセージを送り続けた。 学校の友人たちと自発的に外へ出かけることのほとんどない渚の予定は、大抵の場合、ぽっかりと空いていた。たまに「その日は綾乃と約束があるから」と断られることもあったけれど、綾乃はバレー部の練習や遠征で週末も忙しく、結果として渚の休日は、その殆どを玲が独占することができた。 会う場所は、決まって渚の学校の近くだった。彼女が提示する境界線を、玲は決して踏み越えようとはしなかった。 試験の前には、二人で渚の学校の近くにある公立図書館へ行った。 天井が高く、本特有の匂いが漂う静まり返った閲覧室。お互いに自分の参考書やノートを広げ、何時間もの間、一言の会話もないままペンを動かす。 言葉なんてなくても、すぐ斜め前の席に渚がいて、ノートを捲る微かな紙の音が響くだけで、玲の胸の奥は幸福感で満たされた。時折、分からない問題があるのか、シャープペンの先でトントンとノートを叩く渚の手元を眺めているだけで、退屈な試験勉強の時間が何よりも贅沢な瞬間に変わった。 手は繋げない。二人きりの密室になることもない。どこかへ遠出をすることだって、今はまだ許されていない。 それでも、玲は焦らなかった。 いつか、渚が心の底から俺を信頼して、二人きりになることを許してくれるまで、何年だって、いつまでも待ち続ける自信があった。 (急ぐ必要なんてない。俺と渚は今、一緒の時間を過ごしてるんだから)
渚が迷った末に注文した苺のタルトは、彼女が半分ほど口に運んだところで本当にフォークが止まってしまった。「ごめんね、やっぱりお腹いっぱいで……」と申し訳なさそうに身を縮める渚に、玲は「いいよ、約束通り俺がもらうね」と喜んで引き取った。 渚が食べ残したものを、自分が食べる。フォークがタルトの断面に触れるたび、言いようのない昂揚感が玲の身体を駆け巡る。渚が口をつけたものと、自分の唇が重なる——歪な形ではあっても、それは確かな間接キスだった。 そんな手段でしか彼女に触れないもどかしさはあったが、自分で注文したチョコレートパフェと、渚のタルトを交互に口へ運ぶ時間は、玲にとってこの上ない至福だった。 「ごちそうさまでした。……本当に、美味しかった」 苺のタルトを綺麗に平らげた玲を見て、渚はタートルネックの襟元に顔を半分埋めながら、少しだけはにかむように笑った。彼女のその表情を見られただけで、玲の胸の奥はこれ以上ないほどの満足感で満たされる。 席を立つ前、渚は再び分厚いコートに袖を通し、首元へ丁寧にマフラーを巻き直した。顎まですっぽりとマフラーに埋もれたその姿を見て、玲は「せっかくの黄色のニットが見えなくなっちゃったな」と少しだけ名残惜しく思う。 玲が伝票を手に取り、音もなく立ち上がる。それを見た渚が、ハッとしたように自分の財布を取り出した。 「あ、待って、宮原くん。私の分、いくらだった……?」 渚の反応に、玲は振り返って、優しい笑みを浮かべた。 「いいよ、ここは俺に払わせて」 「え……? でも、悪いよ。パスタだけじゃなくて、タルトまで食べたのに……」 「俺が誘ったんだし、タルトは俺がほとんど食べちゃったようなもんだからさ。それに、久しぶりに渚とたくさん話せて、本当に楽しかった。そのお礼」 押し付けがましさを一切感じさせない、柔らかな口調だった。 渚は財布を握ったまま一瞬だけ躊躇い、それから少しだけ申し訳なさそうに視線を落とした。 「……ごめんね。ありがとう」 「ううん。じゃあ、行こうか」 ——お金の問題なんかじゃない。渚は申し訳なさそうにしているが、玲にしてみれば、今のこの時間は、ど
※ 学校から少し歩いた駅前。渚が足を止めたのは、大きなガラス窓から温かな光が漏れる一軒のカフェだった。 自動ドアをくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間に広がる甘い香りと、パステルカラーを基調としたお洒落な内装。指示された席へと向かい、椅子に座る前に、渚は首元に巻かれていたマフラーをゆっくりと解き、分厚いコートを脱いだ。 コートの下から現れたのは、ゆったりとしたシルエットの黄色のタートルネックニットだった。 少しオーバーサイズ気味の柔らかな編み目が、彼女の華奢な身体を優しく包み込んでいる。暖かみのある鮮やかな黄色が、渚の白い肌によく映えていた。制服の時には分からなかった、女の子らしい私服のディテールを目の当たりにして、玲の胸は甘く脈打つ。 同時に、店内の様子に玲は目を丸くした。 見渡す限り、店内の客席を埋め尽くしているのは自分と同世代かそれ以上の女性ばかりだった。男の姿は、店員の他にはどこにも見当たらない。文字通り、完全に男性は玲一人きりだった。 「ここ、いちど、来たかったの……」 渚が小声でそう呟く。 渚が行きたかった場所なら、玲にとっては周囲が女だらけだろうが何だろうが、全く気にならなかった。それに、不思議と、玲はその場から浮かなかった。 店員に案内されたのは、少し広めの四名掛けのテーブル席だった。 玲としては、できることなら二名掛けのテーブルで、もっと近い正面に座りたかった。けれど、案内されるや否や、渚は玲の正面を避けるようにして、すっと斜め前の席に腰を下ろしてしまった。 (……やっぱり、正面はダメか) あからさまに距離を置かれたことに、玲は内心で少しだけ落ち込む。せっかくマフラーとコートを脱いだ彼女の姿を近くで見られると思ったのに。それでも、こうして同じテーブルを囲めているのだからと、玲はすぐに気持ちを切り替えた。 何より、メニュー表を開いて「美味しそう……」と嬉しそうに頬を綻ばせる渚の姿を見られただけで、玲の胸の奥は満足感でいっぱいになる。 メニューにはパフェなどのスイーツだけでなく、軽食も充実しているらしく、渚はトマトソースのパスタを注文した。 やがて運ばれてきた湯気
綾乃はもう一度だけ玲に牽制の視線を送ると、心配そうに渚の頭をひとなでし、渋々と踵を返して去っていった。 その背中が完全に遠ざかるのを見届けてから、玲はすぐさま隣の渚へと意識を切り替える。その視線は、自然と彼女の身に纏う衣服へと向いていた。 (……私服だ) 冬の風を遮るような、身体のラインをすっぽりと隠す分厚いコート。そして首元には、顎が少し埋まるくらいにぐるぐると巻かれた暖かそうなマフラー。 その隙間から覗く、少し赤くなった耳や、短く不揃いなショートカットの髪。制服以外の渚を、自分の視界いっぱいに収められている。ただそれだけのことが、嬉しかった。 マフラーに顔を埋める渚の姿だけは、世界で一番特別で、眩しいものに見えた。 「行こうか」 玲が優しく声をかけると、渚は小さく「うん」と頷いて歩き出した。 けれど、二人の間には、大人が一人は入れてしまうほどの奇妙な距離が空いていた。玲がその距離を詰めようと、僅かに歩幅を寄せると、渚はそれに気付いているのかいないのか……すっと同じ分だけ横に逸れてしまう。 (あの日、約束を破ったこと……本当は許してくれてないんじゃ……) あの時——渚は「私は怒ってない。だから何も言わないで」と早口で言っていた。けれど、あれは本心ではないと玲は確信している。あんなに頑なに視線を合わせず、まるで自分を視界に入れることすら拒絶するような態度をとっておいて、怒っていないはずがないのだ。 ちゃんと、もう一度あの日のことを謝りたかった。俺が悪かったんだと、彼女の気が済むまで頭を下げたかった。 しかし——「何も言わないで」と強く釘を刺された手前、玲はそれを言葉にすることができなかった。 もしも今、無理に過去を掘り起こして謝罪を口にしたら、渚が怒って帰ってしまうかもしれない。せっかく、こうしてまた二人で出かけることが叶ったのだ。その奇跡のような現実を、自分でぶち壊すことだけは、絶対に避けたかった。 (これ以上、嫌われたくない……) 玲は喉の奥まで出かかった謝罪の言葉をぐっと飲み込み、渚の横顔に笑みを送った。二人の視線が交わることはなかったが、玲は楽しげに高校の話を自分から喋り始める。 「俺の通ってる高校のさ、担任の数学の教師がめちゃくちゃ偏屈なんだよ。授業中、ちょっとノート取る手が止まっただけで、すぐチ
渚とばかり遊んでいたことをクラスメイトに囃し立てられ、思春期特有の照れ隠しから、好きじゃない、と否定した。それを証明するために渚との約束を連絡なしにすっぽかし、クラスメイト達と校庭でサッカーをして遊んだ。その次の日からだ。渚が学校に登校しなくなったのは。プリントを毎日届けても、渚の母親しか対応してくれず。話したい、とお願いしても「風邪をうつすと悪いから」と門前払い。二階の渚の部屋のカーテンは固く閉じたままだった。いつも玲が遊びに来ると必ず、あの窓から顔を見せてくれるのに。渚を怒らせてしまった、と玲は思った。体調が悪いのは本当かもしれない。でも、自分が家の外から渚を呼んでも返事さえ
滑らかな肌、掌に吸い付く肌触り。 躰の線を指先で撫でれば、小刻みに震え、甘い吐息を漏らす愛しい人。 宮原玲はフェザータッチから徐々に手の動きを大胆にしていき、大きな掌で、薄い腹に触れた。 その手に驚いたのか、玲の下にいる相良渚の腰が跳ねた。 玲は渚の反応にすぐに手を止めた。 両眉を八の字に下げて、彼女を心配そうに見下ろす。渚は頬を赤く染め、瞳が潤んでいた。 「ごめん、驚かせた。大丈夫?」 答えの代わりに、渚は玲の背中に手を回した。遠慮がちに触れるだけ――爪を立ててくれても良いのに。血が出るほど、消えない痕を残
※ ※ ※校門の前に、やたらとイケメンが立っているという噂はあっという間に広がった。 最初は、他校の生徒が誰かを迎えに来ているだけだと思われていた。けれど、その男子高校生――玲は、雨の日も風の日も、放課後になると必ず同じ場所に現れ、ただじっと門の前に立っている。 無駄のない高い背に、端正でどこか憂いを帯びた横顔。その圧倒的な見栄えの良さは、外界から隔離されたお嬢様学校の女子生徒たちにとって、退屈な日常に投げ込まれたあまりにも鮮烈な異物だった。 「ねえ、今日もあの子いるよ」 「誰を待ってるんだろう。少女漫画の王子様みたい
※ ※ ※ ――高校一年生、夏。 玲はどれだけ人を集めても、どれだけ肌を重ねても、胸の真ん中に穿たれた大きな穴からは、絶えず冷たい風が吹き抜けていた。 ――渚。 心の中でその名前を呟くだけで、胸が引き裂かれるような痛みが走る。小学二年生の頃、自分が約束を破ってしまってから八年間、彼女の姿は見ていない。どこに、なぜ引っ越したのか誰に聞いても「知らない」と一点張り。何の手がかりもないまま時だけが過ぎてしまった。 (俺が約束さえ、破らなければ……) 同じ中学、同じ高校に進学して、隣にいてくれたかもしれないのに。 (つまらないプライドのせいで、会えないままだ)







