LOGINそのとき、益田もようやく状況を理解し、スマホを奪おうと猛然と飛びかかった。ソファから跳ね起きるように立ち上がったため、膝がローテーブルにぶつかり、お茶が一面にこぼれた。それでも気にしている余裕はなかった。「お前、正気か!自分が何をしてるのか分かってるのか!?相手はあの八角蒼士だぞ!いきなり音声通話をかけるなんて、俺まで道連れにする気か!」益田は怒りで我を忘れていた。蒼士と連絡先を交換するまで、どれほど苦労したと思っているのか。普段は邪魔をして機嫌を損ねるのが怖くて、挨拶のメッセージすら送れずにいた。それなのに、北城から来たこの男は、いきなり蒼士へ音声通話をかけたのだ。もし蒼士の機嫌を損ね、ブロックされたらどうする?自分にまで怒りの矛先が向いたら、どう責任を取るつもりだ?「スマホを返せ!」だが、真洋は益田より背が高い。腕を上へ伸ばされると、益田には届かなかった。そのとき、通話がつながった。スマホから、低く冷ややかな声が聞こえる。「もしもし」三人の動きが同時に止まった。最初に我に返ったのは益田だった。真洋が呆然としている隙に、スマホを一気に奪い取る。傍らの翔もすぐさま反応し、真洋をソファへ押さえつけると、片手でその口を力いっぱい塞いだ。「ほ、八角様......お疲れさまです......」益田はごくりと唾をのみ込んだ。だが、電話の向こうが一瞬静かになったあと、聞こえてきたのは甘く柔らかな女性の声だった。「八角さん、あれを取ってくれますか......?」紗寧の声だ。真洋の全身が一気にこわばった。激しくもがき始め、額には青い血管が何本も浮き上がる。今にも翔の体ごと跳ね飛ばしそうな勢いだった。電話の向こうの物音を聞き、蒼士がわずかに眉をひそめる。「何の用だ?」益田は慌てて答えた。「い、いえ、何でも......ただ......今度いつお時間があるのかと思いまして、よろしければお食事でも......」言い終えるより早く、通話終了を告げる音が聞こえた。――切られたのだ。益田はスマホを耳に当てたまま、雷に打たれたように立ち尽くした。恐る恐る画面へ目を落とす。――音声通話は終了しました。震える指で詫びのメッセージを送ったが、いつまで経っても未読のまま
翔は引きつった笑みを浮かべながら、横目で真洋の表情をうかがっていた。真洋はソファの背にもたれ、顔には何の感情も浮かべていない。むしろ平静とさえ言えるほどだった。だが翔は気づいていた。ティーカップを握る指には少しずつ力がこもり、手の甲には青い血管が一本ずつ浮かび上がっている。益田はそんな様子に気づかず、そのまま話を続けた。「貝原家のご令嬢は、八角家のおばあ様が自ら選んだそうだ。八角蒼士との相性が一番いいって。先月、婚姻届を出したばかりで、今月末には結婚式を挙げるそうだ。港江の上流社会は、その話題でもちきりだよ」――今月末に結婚式を挙げる。その言葉が、真っ赤に焼けた焼きごてのように真洋の胸をえぐった。指に一気に力がこもり、手の中のティーカップから、ひびが入りそうなほどかすかな音がする。そばで見ていた翔は気が気ではなく、慌てて話題を変えた。「益田さん、本当に人違いじゃないんですね?写真の女性は本当に、貝原咲良なんですか?」「間違えるはずがない。八角さんもSNSに写真を載せていたからな」益田はスマホを取り出し、しばらく画面を操作してから差し出した。「ほら、この投稿だ。俺も初めて見たときは、何かの見間違いかと思ったよ」翔が反射的に手を伸ばしたが、真洋が先にスマホを奪うように受け取った。画面に表示されていたのは、蒼士のSNSだった。文章は一切なく、写真が一枚だけ投稿されている。紗寧が地面にしゃがみ、犬を優しく撫でていた。夕日に照らされた影が長く伸び、風に揺れるスカートの裾は、今にも羽ばたこうとする蝶のように見えた。説明文も絵文字も添えられていない。それでも、撮影した者の喜びが写真の隅々からあふれ出していた。あまりにも鮮烈で、見ているだけで目を焼かれそうなほどだった。さらに下へスクロールすると――婚姻届の写真が現れた。そこに添えられた言葉は、ただ一言。【俺のもの。】真洋はスマホを強く握りしめた。指の関節が白く浮き上がる。隣にいる翔は、心配そうに彼の顔を見つめた。「真洋さん......大丈夫か?」そこでようやく、益田も部屋の空気がおかしいことに気づいた。「どうしたんだ?まさか二人とも......彼女と知り合い?」翔は口を開いたが、何かを言うより早く、それまで沈
「姉の身代わり?」翔が言い終えるなり、真洋は冷笑した。「自分が何を言ってるのか分かってるのか?そんな話、馬鹿げてる」紗寧が誰かの身代わりとして結婚するはずがない。そもそも、彼女は蒼士を好きでもないのだ。翔は唇を引き結んだ。「俺が調べられる範囲に限界があるだけかもしれない。ここは北城じゃないから......」ローテーブルのそばに立ち、今にも歪みそうなほど険しい真洋の顔を見つめる。しばらく言葉を選んだ末、ようやく口を開いた。「俺、港江に知り合いがいるんだ。この辺りの事情にも詳しいし、顔も広い。一度ここへ呼んで、話を聞いてみないか?俺たちには調べられなかったことも、何か知っているかもしれない」真洋は何も答えず、指先で燃え尽きかけていた煙草を灰皿へ押しつけた。小さな火の粉が散り、すぐに消える。「ああ。そうしてくれ」ようやく重圧から解放されたように、翔は急いでスマホを取り出し、電話をかけた。呼び出し音が二度鳴ったところで相手が出る。翔は声を潜めて事情を簡単に説明し、ホテルの名前と部屋番号を伝えた。何度も礼を言ってから電話を切る。「20分ほどで着くそうだ」真洋は返事をせず、ソファの背にもたれた。目を閉じ、無意識に指で眉間を揉んでいる。室内は針が落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだった。響いているのは、エアコンの低い作動音と、窓の外からときおり聞こえる車の走行音だけだ。20分後、ドアチャイムが鳴った。翔が足早にドアを開けると、三十代前半ほどの男が入ってきた。深いネイビーのポロシャツにスラックスを合わせ、革靴は艶やかに磨き上げられている。一目見ただけで、港江の上流社会に慣れた人物だと分かった。「翔」男は笑顔で翔の肩を叩いた。部屋に充満する煙と、吸い殻でいっぱいになった灰皿を見回し、わずかに眉を上げる。「いったい何があったんだ?ただ事じゃなさそうだな」「益田さん、わざわざ来てもらってすみません」翔は脇へよけ、男を室内へ案内した。「こちらは柏真洋さん。北城の柏家の御曹司です」男は真洋へ目を向け、ひととおりその姿を確かめると、笑顔で手を差し出した。「益田大輔(ますだ だいすけ)です。柏さんのお噂は、かねがね伺っています」真洋は目を開け、彼を一瞥した。差し出
紗寧は一瞬目を丸くした。「八角さんは食べないんですか?」「君が先に食べて」紗寧は、取り皿にきれいに並べられたステーキへ目を落とした。一切れずつ均等な大きさに切り分けられ、肉の繊維まではっきりと見える。表面には香ばしい焼き色がつき、中はきれいなロゼ色をしており、絶妙な火加減なのが一目で分かった。フォークで一切れ刺し、口へ運ぶ。噛んだ瞬間、牛肉の旨みが口いっぱいに広がった。肉は驚くほど柔らかく、味つけもちょうどいい。思わず頬が緩むほどのおいしさだった。「おいしいです!」紗寧の瞳が輝いた。蒼士はそのきらきらとした目を見つめ、口元の笑みをさらに深くした。二人がほぼ食べ終えた頃、スタッフが生姜入りの葛湯を二つ運んできた。白磁の器には、とろりと透き通った葛湯が入っている。生姜と蜂蜜が加えられ、ほのかに甘く温かな香りが漂っていた。蒼士はその一つを紗寧の前へ差し出した。「これも飲んで。少し楽になる」紗寧は葛湯を見つめながら、ここ数日続けている食事制限のことを考えた。「もうお腹いっぱいです......」「これくらいなら飲めるだろ」紗寧は首を横に振る。「本当に、もう入りません」蒼士は数秒ほど彼女を見つめたあと、不意に身を乗り出した。大きな手のひらを紗寧の下腹部へ当て、軽く押してみる。温かな手のひらが薄手のブラウス越しに触れ、その熱が肌へ染み込み、全身へ広がっていくようだった。「ほら、これくらいなら飲める」「な、何してるんですか......?」「確認してる」紗寧は言葉を失った。「......」――人のお腹を触って、満腹かどうか確認する人がどこにいるの?仕方なく葛湯を手に取り、うつむいて一口飲んだ。熱すぎず、ちょうどいい温度だった。口当たりはとろりとなめらかで、甘さもくどくない。生姜と蜂蜜の香りが口の中へ広がり、温もりが喉からゆっくりと下りていくと、全身がほっと緩んだ。さらに飲み進め、気づけば一杯すべて飲み干していた。蒼士はそんな彼女を見つめ、わずかに口元を上げる。「お腹いっぱいじゃなかったのか?」紗寧は顔を赤らめ、何も答えなかった。女性なら、誰でも体型や体重は気になるものだ。まして今の紗寧は芸能事務所でマネージャーをしており、人前に出る機会も多い。身
蒼士はもう一度煙を吸い込むと、そばにある灰皿で火を消した。指先のすぐそばで火種が消え、わずかに熱が伝わったが、眉一つ動かさない。思わず自嘲するように笑った。これまでの人生で使ってきた自制心を、この数日だけで使い果たしてしまいそうだ。いったいいつまで抑えていられるのか、自分でも分からない。紗寧が化粧室から出てくると、蒼士はベンチのそばに立ち、火の消えた煙草を指に挟んだまま立っていた。足音に気づいたのか、彼は反射的に顔を上げる。その視線は紗寧の顔からゆっくり下へ移り、下腹部で止まった。「もう大丈夫なのか?」紗寧は頬を赤らめながらうなずいた。蒼士がこちらへ手を差し出したため、ゆっくりと近づいていく。蒼士は煙草をゴミ箱へ捨て、腕を伸ばして彼女を抱き寄せた。紗寧の体が一瞬こわばり、反射的に後ろへ逃げようとする。「な、何するんですか」顔を上げて彼を見る瞳には、警戒と緊張が入り交じっていた。その表情を見た蒼士が、不意に低く笑った。胸の奥から響く笑い声に、紗寧の心まで小さく震える。蒼士は人差し指を曲げ、彼女の鼻先をそっと撫でた。「よからぬことでも想像してた?」紗寧の顔が一気に赤くなる。「い、いいえ」蒼士はわずかに眉を上げた。「なら、さっきの顔は何だ?俺が襲うとでも思った?」図星を指され、紗寧の顔はますます赤くなった。気まずそうに顔をそむけ、彼を見ようとしない。蒼士は小さく笑うと腕に力を込め、紗寧の体をすっぽりと胸の中へ抱き込んだ。顎を彼女の頭へ添える。「安心しろ。俺もそこまで節操はないわけじゃない」彼の胸はたくましく、温かかった。薄いシャツ越しに伝わる落ち着いた力強い鼓動と、彼から漂う清々しい松の香りに、紗寧の心臓がなぜか一度大きく跳ねた。「寒くない?」紗寧は慌てて首を横に振った。「お腹、まだ痛むか?」彼女は少しためらってから答える。「......ちょっと空いたかも......」蒼士は低く笑った。「わかった。何か食べに行こう」......乗馬クラブを出る頃には、空もすでに薄暗くなり始めていた。茜色の雲は、絵の具箱をひっくり返したように空一面へ広がり、目を奪われるほど鮮やかだった。横川は乗馬クラブに置いていかれ、自力で帰ることにな
深いグレーのシルクシャツは、袖が肘の下までまくられていた。そこからのぞく色白の手首には骨がくっきりと浮かび、そのそばにごく薄いほくろが一つあった。彫刻のように整った顔立ち。深みのある目元に、すっと通った高い鼻梁、わずかに引き結ばれた薄い唇。全身からは、気品と近寄りがたい冷たさが漂っている。まるで雑誌の表紙から抜け出してきたような男が、なぜか町外れの小さなコンビニに現れたのだ。女性店員は呆然と見とれていた。蒼士がレジの前まで来て、ようやく我に返る。「な、何をお探しですか?」蒼士は店内の棚を見回し、色とりどりの生理用ナプキンが並ぶ一角に目を止めた。無表情のままそこへ歩み寄り、一袋を手に取る。パッケージを確認してから棚へ戻し、別の商品を手に取っては、また戻す。ごく普通の日用品を選んでいるかのように、焦る様子もなく、一つ一つ真剣に見比べていた。女性店員は後ろからその姿を眺め、驚きで目を丸くした。――嘘......!この人......生理用ナプキンを選んでるの?蒼士は5分ほど商品を見比べたが、結局それぞれの違いがよく分からなかった。そこで、種類ごとに一袋ずつ買うことにし、商品を入れた買い物かごをレジへ運んだ。「これで全部だ」女性店員は慌ててバーコードを読み取りながらも、かごの中へ何度も目を向けてしまう。昼用、夜用、ショーツ型......「合計で5720円です」蒼士は財布を取り出し、一枚の黒いカードを差し出した。本物のブラックカードを見た女性店員の手が震える。こんなものを実際に見るのは、生まれて初めてだった。「あの......お客様、申し訳ございません。当店の端末では、こちらのカードはお使いいただけなくて......」蒼士はわずかに眉をひそめ、財布から別のカードを取り出した。それもブラックカードだった。女性店員の口元が引きつる。「お客様......一般のクレジットカードか、現金はお持ちでしょうか?」蒼士の眉間のしわが、さらに深くなった。財布の中をすべて確かめたが、入っているのはブラックカードばかりだった。女性店員は言葉を失う。「......」蒼士はしばらく黙ったあと、スマホを取り出し、決済用のQRコードを見せた。音が鳴り、支払いが完了する。蒼士は生
その頃の紗寧は、ちょうど北城空港に到着したところだった。スマホが震える。「もしもし、先輩?」電話の向こうから聞こえてきたのは、中岡の穏やかな声だった。どこか苦笑混じりの響きがある。「紗寧、さっき柏グループ傘下のワールド・エンターテインメントから連絡があってな。総支配人の人選が松田に決まったそうだ」紗寧は足を止めかけたが、すぐにスーツケースを引いて歩き続けた。「そうなんですか」あまりに淡々とした反応だったせいか、中岡は一瞬言葉を失った。「なんだ、その反応は。少しくらい俺のために怒ってくれてもいいだろう?」冗談めかした口調で続ける。「一応、俺は君が推薦し
2日後。紗寧の傷はほとんど癒え、嗄れていた喉も元通りになっていた。その間、真洋が見舞いに来ることは一度もなかった。代わりに届いたのは、港江から母親が送ってきた小包だった。中には、貝原咲良の免許証が入っていた。病室の窓辺に立ち、眼下を流れる車列を見下ろしながら、紗寧はかすかに口元を歪める。それは嘲りにも、諦めにも見えた。その時、ドアが開いた。入ってきたのは天川だった。今日は白衣ではなく、ダークグレーのシャツに袖を肘まで捲っている。いつもの冷ややかさが少し和らぎ、どこか人間味が感じられた。「退院手続きは終わった」彼は書類を差し出す。「もう出られるよ」
胸の内で不安が膨らむ中、蒼士は視線を引き、革張りのシートにゆったりと背を預けた。動きに合わせて喉仏がわずかに上下する。「乗れ」その一言に、紗寧はほっと息をつきながら車内へ身を滑り込ませた。ドアが閉まると、港江特有の蒸し暑い空気は完全に遮断される。黒いマイバッハは静かに走り出し、空港高速へと合流した。窓の外では標識が次々と流れていく。だが、進んでいる方向は貝原家への道でもなければ、八角家の屋敷へ向かう道でもない。2年間港江を離れていたとはいえ、主要道路の位置くらいは覚えている。紗寧は隣の男へ視線を向けた。蒼士は目を閉じていた。眠っているようにも見えるが、そ
――頼まれていた?真洋のことだろうか。紗寧はペン先を止めた。この一年間、彼が自分のために奔走する姿を、彼女はずっと見てきた。国内外の名医を探し回り、治療法を求め続けた。けれど成果はなかなか出なかった。それが半年前、担当医が天川に代わってから、彼女の聴力は少しずつ回復し始めたのだ。だが、なぜだろう。どこか引っかかるものがあった。真洋と天川先生は、それほど親しい関係だっただろうか。普段の診察でも、天川先生が真洋に好意的な態度を見せたことなど一度もない。むしろ、どこか冷淡ですらあった。紗寧は首を傾げながら天川を見上げた。その視線に込められた疑問を察







