All Chapters of 財閥御曹司との契約恋愛〜婚約破棄した幼馴染が今更後悔しても遅い: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

第1話

カーテンの隙間から差し込む朝の光が顔を照らし、遠山絢音(とおやま あやね)はわずかに眉をひそめた。手を上げて眩しさを軽く遮ると、寝返りを打って無意識に隣へ身をすり寄せた。伸ばした右手が何も掴めず空を掻き、そこで初めて、ぼんやりと目を開けた。意識がはっきりするにつれ、昨夜の記憶が脳裏に蘇ってくる。言葉にできないほどの甘い感情が胸の奥からわき上がり、自然と口元がほころんだ。昨夜、三年付き合った恋人の島村真尋(しまむら まひろ)から、ついにプロポーズされた。熱く激しい愛撫の中、きつく抱きすくめられ、身体を震わせ、目尻を赤くする姿を見つめられながら、愛の言葉を何度も言わされた。ベッドでは真尋はいつも強引で乱暴だが、絢音はそれを嫌だと思ったことはなく、むしろ思い出すだけで顔が火照り、胸が高鳴ってしまう。なかでも今、一番胸をときめかせているのは、昨夜の歓喜の最中、耳元で囁かれたあの言葉だ。「絢音、俺と結婚してくれないか」あの瞬間、こらえきれずに嬉し涙をこぼしてしまった。この言葉を丸三年も待ち焦がれていたことなど、きっと彼は知らないだろう。布団に顔を埋め、しばらくしてようやく口元の笑みを押し殺すと、気怠げに体を起こしてベッドを降りた。真尋はきっといつものようにキッチンで朝食の支度をしているはずだ。そう思って甘えに行こうとした矢先、部屋のドアの前に着いた途端、向こうから押し殺したような真尋の声が聞こえてきた。窓際に立つ彼の表情はうかがえないが、その氷のように冷たい声と、電話越しの下劣な嘲笑が、毒蛇が這いずるようなおぞましさで耳の奥にへばりついてきた。「真尋さん、そろそろっすよね。ぶっちゃけ、あの女を孕ませるなんてちょろいもんでしょ。あれだけ惚れ込んでるんだから、ゴムつけないのはもちろん、中に出しても大して文句言わねえんじゃないすか。それにあの写真集の件も、あんなお堅い性格じゃ絶対無理だって俺ら思ってたのに、真尋さんが一言頼んだら即OKっすからね。でもまあ、あいつが従順であればあるほど、あのとびきりのプレゼントを受け取った時のツラが見物ってわけっすけど。で、マジな話、いつあれを公開するつもりなんすか?俺ら、もう待ちきれないんすよ」電話越しの下品な笑い声に対し、真尋は冷酷に言い放った。「そう焦るな。ああいう
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第2話

階下へ降りると、すでに玄関先には運転手が待機していた。真尋は相変わらずスマートな振る舞いで車のドアを開け、乗り込む際に頭をぶつけないよう、さっと手を添えて庇ってくれた。しっかりと座席に落ち着くのを見届けてからドアを閉め、反対側から乗り込んできた。そんな彼の姿を横目に、鼻の奥がツンと痛んだ。ずっと隣にいた愛しい人が、あんな恐ろしい企みを抱いていたなんて、やはり信じられなかった。いまこの瞬間でさえ、心のどこかで彼を庇う言い訳を探し、すべては何かの間違いであってほしいと願ってしまっている。しかし、もしこれが誤解だとしたら、一体どんな事情があればあんな言葉を吐けるというのか。婚約の席で自分と父の顔に泥を塗り、さらには子供を人質に取るような真似を。考えを巡らせば巡らせるほど背筋の凍るような悪寒に襲われ、顔からはさっと血の気が引いていった。反対側から乗り込んできた真尋は、ぼんやりと上の空になっている絢音にすぐ気がついた。元々透き通るように白い肌が、日の光の下ではひどく青ざめて見え、どこか病的な痛々しさすら漂わせていた。真尋は微かに眉をひそめ、瞳に心配の色を浮かべると、思わずその手をそっと握ってきた。だが彼が動いた瞬間、絢音はひどく怯えたように、ビクッと身体を震わせてしまった。「どうしたんだ?どこか具合でも悪いのか」そう問いかけ、うっすらと涙ぐんだ赤い瞳と目が合った瞬間、真尋の顔に一瞬、痛ましそうな色がよぎった。「私……」言葉に詰まりながらもこみ上げるものを必死にこらえ、深く息を吸い込んでからゆっくりと首を横に振った。「なんでもない。マリッジブルーみたいなものかもしれない」そう誤魔化しつつ、真剣な眼差しで真尋を見上げる。「よく聞くじゃない。結婚した途端に人が変わってしまうって。真尋もそうなるの?ネットで言われてるみたいに、手に入れたらもう大事にしてくれなくなっちゃうの?」その問いかけに一瞬呆気にとられた真尋だったが、すぐさま呆れながらも甘やかすような仕草で腕を伸ばし、ぐっと絢音を抱き寄せてきた。苦笑いを浮かべながら言い出す。「馬鹿だな、何を馬鹿なことを考えてるんだ。そんなわけないだろう」身を乗り出して両手で優しく頬を包み込み、まっすぐに視線を合わせてきた。「俺がどれだけ君のこと愛し
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第3話

少しばかり語気を強めて詰め寄る絢音の姿を前に、真尋は手を伸ばして眉間を軽く揉みほぐした。その瞬間、真尋の全身から立ち上る苛立ちをはっきりと肌で感じ取った。しかし、再びこちらへ視線を向けた時のその瞳は、相変わらず穏やかな光を宿している。「別に隠すようなことじゃない。俺はただ、外でがむしゃらに上を目指していただけだ。もしあのまま遠山家に残っていれば、俺が手にするものはすべて遠山おじさんが与えてくれたものになってしまうからな。絢音、あの頃、俺は君に惚れたんだ。君に未来を誓いたかった。俺自身の手で切り拓いた未来をね。だからこそ、自分の足で外へ出る道を選んだ。五年かけて、ようやく胸を張れるだけの実績を作ってから戻ってきたってわけさ。どうしておじさんやおばさんに早く打ち明けなかったかといえば、君を失うのがあまりにも怖かったからだ。大事な娘を俺に嫁がせるなんて、絶対に首を縦に振ってくれないと思ったからね」そう語る真尋の瞳の奥は、一段と真剣みを帯びていく。「身勝手なことをしているのは分かってる。でも、こうするしか本当に君をこの手に留めておく方法はなかった。君を失うリスクを完全に消し去るためには、これしかなかったんだ」その言葉は、耳にした瞬間こそひどく心を打たれるものの、少しでも深く考えればたちまちほころびが見えてくる。以前なら、こんな風に言われれば間違いなく胸を打たれて感動していただろう。しかし今の心に残っているのは、冷え切った失望だけだ。真実を打ち明ける隙を与えた。すべてを隠さず話してほしいと願っていた。それなのに、またしてもその場しのぎの嘘を並べる道を選んだ。今でも、目の前にいるこの人を心の底から愛しているのは確かだ。優しい眼差しと視線が絡み合った瞬間、これまでの思い出が細かい網のように身体をがんじがらめに縛り付けてくる。そして、ここを去らなければならないという思いが、見えない大きな手となって心臓を容赦なく握り潰し、息をするのすら痛む。それでも一度芽生えた疑念は消えない。だから今回ばかりは、どれほど後ろ髪を引かれようとも、ここから離れると決意を固めた。両親まで巻き込んで、世間の笑いものにされるのだけは絶対に嫌だ。真尋に怪しまれて計画が狂うのを避けるため、いつもと同じように胸を打たれたよう
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第4話

電話の主は、真尋の友人である坂本涼太郎(さかもと りょうたろう)だった。彼と過ごした三年間、その友人たちとはたまに顔を合わせる程度で、決して親しい間柄とは言えない。だがどういうわけか、そのわずかな機会でさえ、隠しきれない敵意のようなものを肌で感じていた。そのため、次第に集まりへ顔を出すのをためらうようになっていた。出会った頃に連絡先こそ交換したが、この三年間、やり取りしたことなどほとんどない。今になって突然かかってきた電話に、得体の知れない胸騒ぎを覚える。しかし、これまで真尋の前でもその友人たちの前でも、ずっと優しくて物分かりの良い女として振る舞ってきた。どれほど気が進まなくても、無視するわけにはいかない。不自然な態度をとって警戒されるのだけは避けたかった。深く息を吸い込み、胸の奥で渦巻く不安をねじ伏せると、通話ボタンを押す。「絢音さん、『ラウンジ・アーク』の606号室です。こっちはだいたい揃ったんで、今から来てくださいよ」繋がった途端、涼太郎の声が飛び込んでくる。電話の向こうからは、ひどく騒がしい酒場の喧騒が伝わってきた。「何か用かしら?」スマートフォンを強く握りしめ、なるべく普段通りの声を作って問いかける。「いや、別になんてことないんすよ。ただ、もうすぐ婚約するってのに、真尋さんがずっと隠して俺らに会わせてくれないから。真尋さんを落としたのが一体どんな子なのか、俺らめちゃくちゃ気になってたんすよ。安心してくださいよ、悪意なんてないっすから。ただ、真尋さんがそこまで見込んだ人なら、これから俺らの仲間内にも入ってもらわなきゃなんないわけじゃないすか。ね、そうでしょ?」絢音は眉をひそめながらも、結局は頷くしかなかった。てっきり以前と同じような普通の飲み会だと思い込み、ああいう場は苦手ながらも、それなりに覚悟は決めていた。だが実際に個室へ足を踏み入れてみると、今日はやたらと人数が多く、見知らぬ顔がいくつも混ざっている。入り口に立って室内を見渡しても真尋の姿はなく、そのまま引き返そうとしたところを、涼太郎にぐっと腕を掴まれた。「みんなに紹介するよ。この人が真尋さんの彼女で、もうすぐ奥さんになる絢音さんだ」その声が響いた途端、部屋にいたほぼ全員の視線がこちらへ突き刺さる。こういう空気には
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第5話

「真尋さん」その時、背後から涼やかな声が響き、思考を断ち切られた。無意識に振り向くと、可愛らしいボブヘアに白いワンピースをまとった若い女性が、薄っすらと笑みを浮かべながらこちらへ歩いてくるのが見えた。彼女はすぐそばまで来て初めて絢音の存在に気づいたかのように振る舞い、笑いながら真尋に声をかける。「こちらが絢音さん?もう真尋さん、紹介してくれないなんて水臭いじゃない」そこで真尋はようやく絢音の手を握り直し、かすかに口角を上げて口を開いた。「ああ、絢音だ。もうすぐ俺の妻になる」そう言いながら、今度は絢音の方へ顔を向ける。「こいつは宇佐美知子(うさみ ともこ)。俺が海外にいた時に知り合ったんだ」「初めまして。お会いできて嬉しいです」知子はにこやかに右手を差し出してきた。彼女が姿を見せた瞬間から、絢音はどこか胸がざわつくような不快感を覚えていた。単なる女の勘に過ぎないのかもしれないが、この言葉にできない嫌悪感が、どうしても相手を受け入れることを拒んでいる。だが真尋の顔を立てるため、一応は手を伸ばして握り返した。しかし触れた瞬間、手のひらに鋭い痛みが走り、絢音は反射的に手を引っ込めてしまう。決して大きな動きではなかったはずだ。それなのに、知子はまるで力一杯突き飛ばされたかのように、よろよろと数歩後ずさりし、ハイヒールを履いた足をぐねりとひどく捻ってしまった。真尋は慌てて駆け寄り、倒れそうになった知子の身体をがっしりと抱き留める。「大丈夫か?」知子は首を横に振りながらも、すでにその瞳にはあふれんばかりの涙を溜めていた。「平気よ。私、昔から人に好かれないの。そんなこと、自分が一番よく分かってるから」そうこぼすと同時に、真尋は眉をひそめて絢音を睨みつけた。「一体どうしたんだ?」付き合って三年、真尋からこんなにも冷たく、刃物のように鋭い目を向けられたのは初めてだった。これまで、本心からの愛情にせよ見せかけの芝居にせよ、彼は何があっても絢音をかばい続けてくれた。さっきの紀夫の件だって、やりすぎなくらいに守ってくれたばかりだ。それなのに今、目の前にいるこの女のために、初めてその瞳の奥の冷酷さを隠そうともしなかった。視線がぶつかった瞬間、その眼差しが鋭い針となって心臓を深く貫くような
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第6話

真尋は頷き、優しく身をかがめて絢音の顔を覗き込んだ。「なら、先に車で待っていてくれ。あいつらに声をかけたら、すぐに行くから」「分かったわ」絢音は小さく応じ、踵を返して部屋の外へ歩き出す。個室から少し離れたところで、不意にスマートフォンが鳴った。画面の見知らぬ番号を見て、誰からかおおよその見当はついていたが、そのまま通話ボタンを押す。繋がった途端、個室の喧騒が直接耳へ飛び込んできた。続いて聞こえてきたのは、涼太郎たちの声だ。「真尋さん、さすがにやりすぎじゃないすか。たしかに、紀夫がこんなところで余計な口を叩いて計画をぶち壊そうとしたのは悪かったですけど、あんな女のために仲間の頭をカチ割るなんて、ちょっと度が過ぎてません?」「そうですよ、真尋さん。今日のアレ見たら、この三年で本当にあの女に惚れちまったんじゃないかって、俺らもちょっと口出ししづらくなっちゃいましたよ」「まあでも、絢音ってマジで美人っすよね。スタイルも抜群だし、あの顔なんて絶世の美女じゃないすか。真尋さんがガチで惚れたって言われても、全然不思議じゃないっすよ」「あんな上玉を三年も手元に置いて、しかもあんなに抱き心地が良さそうなら、男なら誰だってクラッときちまうでしょ」電話越しに耳を疑うような下劣な言葉が飛び交うのを聞き、絢音は思わずスマートフォンを握りしめ、一瞬呼吸すら忘れてしまった。電話の向こうの物音に神経を研ぎ澄まし、真尋がどんな言葉を返すのか、一言も聞き逃すまいと耳を傾ける。しかし、すぐに耳慣れた彼の冷ややかな声が響き渡り、絢音の心の底にあった微かな未練すらも粉々に打ち砕いた。「あり得ない。俺が誰に惚れることがあっても、遠山孝介の娘にだけは絶対にない。だが、お前らも少しは気をつけろよ。婚約パーティーの前にあいつに勘付かれて、俺の計画が台無しにでもなったら、ただじゃ済まさないからな。紀夫みたいな真似は、二度とするなよ」その言葉に、周りの連中もすぐさま調子を合わせる。「分かってますよ、真尋さん。安心してください。あと十日くらい、俺らだって待ちますから」「真尋さんがここまで手間暇かけて仕込んできたのも、あの遠山孝介がどんなツラするか見るためだって、俺らもちゃんと分かってますよ。絶対に邪魔なんてしませんから」「でもマジな話、あの写
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第7話

絢音は真尋の声に小さく肩を震わせたが、その瞬間、胸の奥でふと別の考えが頭をよぎった。もしこのまま妊娠したと思い込ませれば、彼は少し優しくしてくれるだろうか。情にほだされ、あの罠や復讐とやらを諦めてくれるのだろうか。絢音はそう考えながら、爪が食い込むほど手のひらをきつく握りしめる。そして顔を上げて真尋を見つめた時には、瞳はすっかり涙で潤み、痛々しいほどいじらしい表情を作ってみせた。先ほどから何度もえずいていたせいで、目元には本当に涙がにじんでいる。彼女はその姿のまま、消え入りそうな声で口を開いた。「わ、私にも分からないわ。でも、そんなはずないわよね。ずっと避妊してくれてたじゃない」そう言いながら、頬をほんのりと赤く染める。恥じらいながらも庇護を求めるようなその姿を目にして、真尋は心臓を猫の爪で軽く引っ掻かれたような、言葉にできない感覚に襲われた。彼の少し熱を帯びた視線が、まだ平らな絢音の下腹部へと吸い寄せられる。あの中に、二人の血を引く赤ん坊が本当に息づいているのではないか。そんな抑えきれない期待感が、なぜか真尋の胸の奥から湧き上がってきた。その瞬間、期待の波がすべての理性を押し流していく。本当のところ、二人の間に子供など作ってはいけないことくらい、真尋自身も痛いほど分かっていた。もし本当に子供ができてしまえば、彼女を打ちのめすだけでなく、自分自身をも追い詰めることになる。三年もかけて練り上げた計画だ。婚約パーティーの席で遠山家の顔を泥の底まで踏みにじり、未練など欠片も見せずに捨て去り、完全に縁を切るはずだった。それなのに今、胸の奥に芽生えた思いがじわじわとあふれ出し、本当に妊娠していてほしいという願いをどうしても抑えきれない。涙声で問いかけてくる絢音を前に、真尋は深く息を吸い込み、真剣な顔つきで口を開いた。「どんな避妊具だって、絶対に確実とは言いきれないだろう?」真尋はそう言いながら、熱を帯びた手のひらを絢音の下腹部にそっと添え、真摯な声で続ける。「どうせもうすぐ婚約するんだ。もし本当に子供ができていたら、そのまま結婚して産んでくれないか?」その言葉を口にした時、真尋は二人の未来を想像せずにはいられなかったのか、思わず目頭を赤くしてまっすぐに絢音を見つめてきた。しかし、その姿
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第8話

この三年間、二人は幾度となく肌を重ねてきたが、その度に真尋は愛情を抑えきれないといった様子を見せていた。その姿があまりにも愛に満ちて優しかったため、絢音は彼の本心を疑ったことなど一度もなかった。しかし今、肌に落とされるキスのひとつひとつが、ひどく苦痛でならない。絢音はたまらず手を伸ばし、真尋を押し除けた。彼はこういう時、いつも強引だ。すっかり欲情していたため、突然突き飛ばされたことに納得がいかないのか、怪訝そうな目を向けて絢音を見下ろしてくる。「真尋、私、妊娠してないわ。その……月のものが来たの」真尋の言葉に乗って身籠ったふりをしたのは、ただ彼の出方を見たかっただけで、いつまでも騙し続けるつもりはなかった。明日病院で検査を受け、妊娠していないことが分かれば、それで終わる話だと思っていた。だが彼の企みを知ってしまった今、そのスキンシップや接近をどうしても受け入れることができず、絢音はこんな口実を使って逃れるしかない。これまで絢音がずっと素直で物分かりのいい態度を見せてきたからか、真尋もまさか彼女が嘘をついているとは微塵も疑わない。絢音の言葉を聞くと、真尋は深く息を吸い込み、どうにか高ぶった感情を押さえつけて、真剣な顔つきで問いかけてくる。「どうしてこんなに早まったんだ?」真尋と視線がぶつかり、絢音は心臓が跳ね上がるのを覚えたが、いかにも困ったように小さく首を横に振る。「私にも分からない。もうすぐ婚約するから、緊張しちゃったのかもしれないわ」その答えを聞き、真尋の瞳には再び甘やかすような色が広がった。「俺がいるんだから、緊張しなくていい。準備はすべて俺がやっておくから、君はただ綺麗に着飾って出てきてくれればいいんだ」絢音は黙って頷きながらも、胸の奥で自嘲の笑みをこぼさずにはいられなかった。そうだ、確かに真尋はすべての準備を整えている。絢音を地獄の底へ突き落とすための、壮大な罠の準備を。「お腹は痛むか?」真尋は絢音の異変に気づく様子もなく、少し心配そうに問いかけてくる。絢音は以前と同じように、いかにもつらそうに少し唇を尖らせた。「ええ……」真尋は身をかがめて絢音を抱き上げ、早足でベッドへ向かうと、彼女を布団の中へ潜り込ませて湯たんぽを手に握らせた。ひと通り世話を焼いた後で、
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第9話

目覚めたばかりの絢音の姿は、いつにも増してあどけなく見えた。少し寝癖のついた髪が端正な顔立ちを半分覆い隠し、瞳にはまだ抜けきらない眠気が漂っている。その姿は、言葉にできないほど庇護欲をそそる。真尋は以前から、彼女のこんな姿を見るのが大好きだった。特に、この無防備な姿を見られるのは自分だけだという優越感が、彼をどうしようもなく夢中にさせていた。「おはよう」真尋は優しく答え、ゆっくりと絢音の前まで歩み寄る。そしていつものように彼女の額に軽くキスを落とすと、甘く語りかけた。「今日の具合はどうだ?まだ痛むか?」「ずいぶん良くなったわ」絢音はそう返事をしながら、彼のスキンシップをさりげなく躱した。「顔を洗ってくるわね」彼女は、先ほどの電話の件には一切触れなかった。もう彼に何も期待すべきではないと分かってはいても、あの知子という女の言う通りに自分を乗馬へ連れ出す気なのかどうか、どうしても確かめずにはいられなかった。洗面台での身支度を終えるまで、真尋は何も言い出さなかった。絢音が張り詰めていた神経をわずかに緩めかけたその時、不意に彼が口を開く。「前に乗馬に行きたいって言ってたよな?今日、行ってみないか?」その言葉に、絢音の心臓はきゅっと締め付けられた。だが決して顔には出さず、少し驚いたような声色を作って聞き返す。「どうして急に乗馬に?」「知り合いのところへ、最近血統書付きの素晴らしい馬が入ったと聞いてね。君も最近、婚約が近づいて緊張しっぱなしだと言っていただろう?だから、少しでも息抜きに連れて行ってやりたくて」真尋はそう言いながら、後ろからそっと絢音の腰に腕を回し、彼女の首筋に顔を埋めて、とろけるような声で囁いた。「朝食を食べたら、一緒に行こう」まるでお伺いを立てているような口ぶりだが、今日ここで行かなければ、きっとさらに面倒な事態を引き起こすだけだと絢音には分かっていた。だから彼からそう切り出されては、絢音も胸の奥の不快感をぐっと飲み込んで頷くしかなく、必死に期待で胸を膨らませているような顔を作ってみせた。「ええ、じゃあ後で一緒に行きましょう」*乗馬クラブ。真尋が絢音を連れて到着すると、知子はすでにそこで待ち構えていた。二人の姿を見つけると、知子はすぐに瞳を輝かせ
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第10話

知子が馬場へ乗り込んできた時、絢音はちょうど走り終えて馬から下りたところだった。絢音が馬を牽いて外へ向かおうとした矢先、背後から知子の甲高い悲鳴が響き渡る。「絢音さん、危ない!避けて、早く避けて!」知子は口ではそう叫びながらも、手足でこっそりと細かな指示を出し、自分の乗っている馬を刺激して絢音に向かって一直線に突っ込ませてきた。絢音が牽いていた白馬はすっかり落ち着きを取り戻していたが、あの大声に驚き、さらに猛烈な勢いで突っ込んでくる別の馬の姿にパニックを起こし、あっという間に元の暴れ馬へと戻ってしまう。絢音が事態を把握する間もなく、真横にいた馬が前脚を高く跳ね上げた。完全に無防備だった絢音は、いともたやすく地面へと引きずり倒される。振り下ろされた蹄が脚をかすめ、骨の髄まで響くような激痛が走り、絢音はたまらず悲鳴を上げた。しかし彼女が倒れたのは馬場の隅の方であり、ちょうど知子と馬の陰に隠れて完全に死角になっていた。真尋が馬場の中へ駆け込んでくるのを見ると、知子はすぐさま馬から落ちそうになったふりをして、大声で彼に助けを求め始めた。真尋は心配そうな顔で駆け寄り、手綱をしっかりと掴んで知子の馬を止める。それを見た知子は、恐怖で腰が抜けたように装い、そのまま彼の腕の中へ崩れ落ちるように倒れ込んだ。「知子!」真尋は慌てて手を伸ばし、彼女を抱き留める。「知子、どうした、大丈夫か?」知子の手のひらは、先ほどわざと自分で傷つけたものだったが、今はすっかり血まみれになっていた。真尋に向けられたその姿は、確かにぞっとするほど痛々しい。「真尋さん、痛い、すごく痛い……」知子が苦しげな声で訴えかける。その哀れな姿と、真っ赤な血が神経を刺激したのか、真尋はすっかり平静を失っていた。「怖がらないでいい。大丈夫だ、今すぐ病院へ連れて行くからな」真尋はそう言うと、知子を大切に抱き抱え、踵を返して早足で外へ向かって走り出した。絢音は隣の馬に脚を踏みつけられ、痛みのあまり意識が遠のきかけていた。完全に意識を失う直前、血の気が引いていく視界に、真尋が知子を抱き抱えて走り去っていく後ろ姿がはっきりと焼き付いた。心臓をえぐられるような苦しみと全身の激痛が重なり合い、絢音はそのまま完全に意識を失う。*再び目
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