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第111話 『ありがとう』

 個展の開催が正式に決まってから数日後。 澪は綾人とともに、小さなギャラリーを訪れていた。 街の一角に佇む木造の建物。 白い壁には蔦が優しく絡み、小さな庭には季節の花が風に揺れている。「まぁ、来てくださったんですね」 扉を開けると、穏やかな笑顔の女性が出迎えてくれた。 ワークショップで出会った、あの白髪の女性。「本日はよろしくお願いいたします」 澪が深く頭を下げると、女性も嬉しそうに微笑む。「こちらこそ。ずっと楽しみにしていました」 ギャラリーの中は木の温もりに包まれていた。 大きな展示会場ではない。 けれど、その分、一輪一輪の花をゆっくり眺められるような、優しい空間だった。「こちらで十五点ほど展示していただければと思っています」 オーナーは壁や展示台を指差しながら説明していく。 澪は真剣な表情で頷き、一つひとつ確認していった。「そして、もしよろしければ、今回の個展にテーマを付けていただけませんか?」 オーナーは優しく笑う。「テーマ……ですか?」「ええ。作品を見に来てくださる方へ、白石先生が一番届けたい想いです」 その言葉に、澪は少し考え込んだ。 届けたい想い。 今、自分が一番伝えたいもの。 すぐには答えが見つからなかった。「急がなくても大丈夫ですよ」 オーナーは湯呑みにお茶を注ぎながら柔らかく笑う。「花は不思議ですから。無理に言葉を探さなくても、その方らしい答えを運んできてくれます」「……はい」 澪も自然と笑みを返した。     ◇ 打ち合わせを終えた帰り道。 ゆっくりと並んで、紅葉に満ちた並木道を歩く。「テーマ、難しいですね」 澪が小さく笑う。「まだ全然思い浮かばなくて」 綾人は前を向いたまま答えた。「難しく考えるな」「え?」「お前が今、一番伝えたいことでいい。前の展覧会のときも、そうだっただろ」 綾人からは余計な説明もアドバイスもない。 けれど、その言葉は澪の胸へ静かに落ちていく。(そっか。私が、一番伝えたいこと……) 答えはまだ見つからないままだけれど、不思議と不安はなくなった。 澪は神宮寺家の屋敷までの道を歩きながら、小さく世界を見渡した。     ◇ その夜。自室の机に向かった澪は、一冊のノートを開いた。 白紙のページに思いつく言葉を書いていく。『季節』『笑
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第112話 ありがとうの形

 個展まで、一ヶ月を切った。 綾人のアトリエの一角では、澪が大きなスケッチブックを机いっぱいに広げている。 ページには花の名前や色の組み合わせ、作品のイメージが何度も書き直されている。「うーん……」 思わず唸り声が漏れた。 個展のテーマは決まった。『ありがとう』 けれど、その想いを十五作品でどう表現するのか。 考えれば考えるほど、難しく思えてしまう。「十五作品って……思っていたより多いですね」 少し離れた場所では、綾人が静かに花を生けていた。「個展だからな」 その一言に、澪は苦笑した。「全部同じような作品になっちゃいそうで」 ノートへと視線を落とす。 どのページにも『ありがとう』という文字だけが並んでいる。「もっと、ひとつひとつ違う想いを込めたいんです」 綾人は一本のリンドウを花器へ添えながら、小さく口を開いた。「ありがとうにも種類がある」 澪は顔を上げる。「種類……ですか?」「ああ」 綾人は花へ視線を向けたまま続けた。「親への感謝」 一輪の花を添える。「友への感謝」 もう一本。「恩師への感謝」 枝の向きを少し変える。「花への感謝」 葉を整える。「そして、自分への感謝」 最後の一輪が静かに花器へ収まった。 澪はその言葉を繰り返すように小さく呟く。「自分への……感謝」 その瞬間だった。「あっ!」 勢いよくノートを開く。「そうか!」 夢中でペンを走らせる。『父へ』『宗一郎先生へ』『アンジェリケ』『子どもたちへ』『支えてくれた人へ』 次々と言葉が浮かんでいく。「ありがとうって、一つじゃないんですね……!」 澪は嬉しそうに笑った。「ひとりひとり、相手を想い浮かべれば……!」 その姿を見て、綾人はほんの少しだけ目を細めた。そのときだった。 コンコン、と扉がノックされる。「失礼いたします」 相良がいつもの白い、澪のスケジュールが書かれた手帳を手に入ってきた。「ギャラリーのオーナー様からご連絡です」「はい」「個展の案内状を作成されるそうで、テーマと、ご来場くださる皆さまへの一言をお願いしたいとのことでした」「……一言?」 ペンを握り、ノートに向き合っていた澪の手が止まる。「コメントも必要なんですか?」「はい」 相良は穏やかに微笑んだ。「作品だけではなく、先生
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第113話 新しい扉が開く

 個展初日の朝。 澪は綾人とともにギャラリーへとやって来た。 秋晴れの空の下、庭ではコスモスが風に揺れている。 木製の扉の前で、ギャラリーのオーナーが穏やかな笑顔で二人を出迎えた。「おはようございます」「おはようございます。本日はよろしくお願いいたします」 澪が深く頭を下げると、オーナーは嬉しそうに目を細めた。「こちらこそ。今日という日を、ずっと楽しみにしていました」 その言葉に、澪も自然と笑みを返す。 扉が開かれる。 柔らかな木の香りと、花の香りが静かに迎えてくれた。     ◇ ギャラリーには、十五作品が静かに並んでいた。 大きな作品もあれば、小さな作品もある。 けれど、そのどれもが『ありがとう』という想いで繋がっている。 澪はひとつひとつの作品の前に立ち、ゆっくりと見つめた。 花びらの向きを少しだけ整える。 葉の角度を直す。 ほんの数ミリだけ枝を動かす。 その細かな手入れを終えるたび、小さく頷いた。(うん……大丈夫) 花たちも、この穏やかな空気の中でどこか嬉しそうに見えた。 少し離れた場所では、綾人が静かにその様子を見守っていた。 何も言わない。 何も手を貸さない。 今日は澪の個展だから。 ここに並ぶ花たちは、もう澪自身の作品だった。 ふと、一つの作品へ視線が止まる。 一輪だけ、ほんの少しだけ角度が変わっていた。 綾人は動かず、そのまま黙って見つめる。 そして、数秒後。「あっ」 澪も同じことに気付いた。 作品の前へ歩み寄り、そっと枝へ触れる。 ほんの少しだけ向きを変えると、それだけで、作品全体の空気がすっと整った。 綾人は静かに目を細める。(もう、大丈夫だ) 自分が何か指示をしなくても自分で気づき、整える澪の姿を見て、綾人は何も言わず小さく頷いた。     ◇「白石先生」 オーナーが澪へと歩み寄る。「はい」「やっぱり、白石先生をお呼びして良かったと思いました」 澪は驚いたように目を瞬かせる。「作品はもちろん、本当に素敵です」 オーナーは作品をひとつずつゆっくりと見回し、優しい眼差しを向けた。「でも、それ以上に感じるんです。先生は、最後までお花へ『ありがとう』って伝えていらっしゃるんですね」 澪は思わず作品たちに目を向けた。 花びらを整えるときも、葉へ触れるときも、
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第114話 向けられる悪意

 個展が始まって三十分ほどが過ぎる。ギャラリーには、穏やかな時間が流れていた。「先生、この作品、とても優しい気持ちになりますね」「ありがとうございます」 澪は来場者一人ひとりと言葉を交わしながら、静かに作品への想いを伝えていた。「この『ありがとう』は、どなたへの想いなんですか?」 年配の女性が、一つの作品の前で尋ねる。澪は少し照れくさそうに笑った。「一人だけではないんです」「え?」「ここまで出会ってきた皆さんへ。そして……花へ」 その言葉に、女性は優しく微笑んだ。「素敵ですね」 柔らかな空気が、ギャラリーいっぱいに広がっていた。 そのとき、入口のベルが、小さく鳴った。 澪は反射的に入口を見る。そこに立っていた人物を見た瞬間、その笑顔が止まった。「……美羽」 白いワンピースに柔らかなカーディガン。 長い髪を揺らしながら、美羽はいつも通り可愛らしく笑っていた。「こんにちはぁ」 まるで、何事もなかったかのような笑顔。 少し離れた場所にいた相良が、一歩だけ前へ出る。 そのときだった。「相良」 綾人の低い声が静かに響く。 相良は足を止めた。 綾人は美羽から目を離さないまま、小さく告げる。「今日は澪の個展だ」「……承知いたしました」 相良は静かに一礼し、それ以上動かなかった。 美羽はその様子を見て、小さく口元を緩める。(やっぱり、私のこと、ここでは追い出せないんだ) 心の中だけで笑う。 今日は澪の晴れ舞台。大勢のお客さんがいる。 騒ぎにはできない。 それを、美羽は分かっていた。「お姉ちゃん」 美羽は花を眺めながら、ゆっくり近付く。「個展、おめでとう」 その声に、近くにいた来場者が振り返る。「あら? 妹さんですか?」 美羽は照れたように笑った。「はい。小さい頃から、お姉ちゃんにはいっぱいお世話になってるんです。だから、今日はどうしても来たくて」 美羽の柔らかい笑顔に、周りの雰囲気も明るくなる。「まぁ。仲の良い姉妹なんですね」 そんな声があちこちから聞こえる。「……ありがとう」 澪は、その場で何かを否定するわけにもいかず、ただ小さく微笑んだ。「先生!」 不意に、元気な声がギャラリー内に響く。扉を開けて入ってきたのは、ワークショップに参加してくれた小さな女の子だった。「白石先生、来ちゃい
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第115話 冷たい目

 ギャラリーは、静まり返っていた。 誰も言葉を発することができない。 床には割れた花器と散った花びらや折れた枝。 そして、震えるように座り込む美羽。「ご、ごめんなさい……」 美羽は涙を浮かべながら肩を震わせていた。「私が、お姉ちゃんを怒らせちゃったから……」 か細い声が静かな空間へ落ちる。 来場者たちは困惑したように顔を見合わせていた。「白石先生が……?」「まさか……」 小さなざわめきが広がる。 その中で、綾人だけが静かだった。 彼はゆっくりとしゃがみ込み、床へ落ちた花を拾い上げる。 折れた茎へ、そっと指を添えた。それから、視線を床へ落とす。 割れた花器。 飛び散った破片と、倒れ込む花たち。 何も言わず、ただ、静かにそのひとつひとつを見つめていた。「綾人さん……」 美羽が涙声で、綾人を呼ぶ。「私、お姉ちゃんに押されてぇ……」 その言葉に澪の肩が跳ねる。「違う」と言いたかったけれど、狭まった喉はうまく言葉を紡いでくれなくて、ただ震える手を握りしめた。 綾人は答えない。美羽のほうを見ることもなかった。 その代わりに、床へ落ちていた花ばさみを拾い、静かに閉じた。 カチリと、小さな音だけが響く。 その仕草に、ギャラリーは再び静寂へ包まれた。 しばらくして、綾人は立ち上がる。「相良」「はい」「こっちに来い」 相良はすぐに歩み寄った。 綾人は割れた花器を指差す。「どう見える」 突然の問いだった。相良はしゃがみ込み、破片を静かに見渡す。 しばらくして、小さく目を細めた。「……妙ですね」 その声に、美羽の肩がぴくりと震える。「花器は本来、ぶつかっただけではこちらに倒れないはずです」 その一言に、周囲が息を呑んだ。 綾人は何も言わない。 相良が続ける。「他の作品を見ていただければ分かると思うのですが……」 そう言って、他の作品へと視線を向けた。周りの人たちも、同じように視線を巡らせる。「私たちはこういう風に誰かがぶつかってしまうことも想定して、奥側に倒れてもいいように展示することを心がけております」 澪は、その言葉に「あっ」と声を上げた。 初めての展覧会のとき、展示台の少し奥側に置くようにと綾人に指示されたのを思い出した。 決して通路側に花器が落ちてしまうことがないように、と。 今回も、そ
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第116話 大切な日を守るため

 ギャラリーには、重苦しい静寂が流れていた。 誰も口を開けない。 美羽は床へ座り込んだまま、唇を震わせている。「ち……違うんです」 涙を零しながら首を横へ振る。「私、本当に、お姉ちゃんに押されて……っ」 しかし、その言葉に返事をする者はいなかった。 綾人は拾い上げた花を静かに花器の横へ置く。 折れた茎を見つめ、小さく息を吐いた。「……残念だな」 その一言だけだった。 怒りでもない。 失望でもない。 ただ静かに落とされた言葉。 それが美羽の胸へ重くのしかかる。「……綾人さん」 美羽は縋るようにその名を呼んだ。 綾人は視線すら向けない。代わりに、ギャラリーのオーナーへ静かに一礼した。「申し訳ありません。大切な個展を……。お騒がせしました」 オーナーはゆっくりと首を横へ振る。「いいえ」 そう答えると、オーナーは美羽の前へ歩み寄った。 その穏やかな表情は変わらない。けれど、その瞳だけは真っ直ぐだった。「白石先生の、妹さんでいらっしゃいましたよね」 美羽はゆっくり顔を上げる。「申し訳ございませんが、本日はお引き取りください」 静かで、穏やかな口調が、ハッキリとそう告げた。美羽は、眉根を寄せるように「え?」とその表情を歪めた。「ほかのお客様も、不安になってしまいます」「そ、そんな……っ、どうして!? 私、本当にお姉ちゃんに突き飛ばされたんです!」「本日の個展は、白石先生の大切な日です」 オーナーは優しく微笑む。「その時間を守ることも、私の務めです」 美羽の表情が固まった。周囲の来場者たちの視線が突き刺さる。「そ、そうね」「今日は個展を見に来たんだもの」「先生、お怪我はありませんか?」 そして、ぽつり、ぽつりと聞こえる声。 美羽は初めて、自分へ向けられる視線の変化を感じた。 そのときだった。「澪先生」 小さな手が、そっと澪の服の裾を掴む。先ほど泣いていた女の子だった。「うん? どうしたの?」 澪はゆっくりしゃがみ込み、視線を合わせた。 女の子は涙を拭きながら、小さく首を振った。「先生、泣かないで」 その一言に、澪ははっと目を見開く。 自分では気付いていなかった。いつの間にか、自分の頬を涙が伝っていたことに。「先生のお花、また作れるよ」 女の子は崩れた作品を見て、それから澪を見る。「
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第117話 新たなオファー

 壊れた作品を生け直し、個展は予定どおり最後まで開かれた。 帰り際、多くの来場者が口々に言う。「また先生の作品を見に来たいです」「今日は本当に素敵な時間でした」「花を飾ってみたくなりました」 その言葉の一つひとつが、澪の胸へ静かに積み重なっていく。     ◇ 閉館後。夜の帳が下りた外とは対照的に、ギャラリーには柔らかな明かりが灯っていた。「白石先生」 オーナーが温かい紅茶をテーブルへ並べながら微笑む。「本当に、お疲れさまでした」「こちらこそ、ありがとうございました」 澪は深く頭を下げた。「途中、あんなことになってしまって……」 申し訳なさそうに俯く澪へ、オーナーは首を横へ振る。「いいえ」「今日一日で、私は確信しました」「……え?」「この個展をお願いして、本当に良かったと」 澪は驚いたように目を瞬かせる。オーナーは一枚の名刺を取り出した。「実は今日、お客様の中に、ある企業の方がいらっしゃっていたんです」「企業の……方?」「はい」 その言葉と同時に、ギャラリーの扉が静かに開いた。「失礼いたします」 入ってきたのは、四十代半ばほどの女性だった。 ネイビーのスーツを上品に着こなし、どこか柔らかな雰囲気をまとっている。「申し遅れました」 女性は丁寧に名刺を差し出した。「株式会社キアーロで、ライフスタイル事業部の商品企画を担当しております、林田と申します」 澪は慌てて両手で名刺を受け取る。「は、初めまして……白石澪です」 林田は優しく微笑んだ。「本日は作品を拝見させていただきました」「ありがとうございます」「白石先生。今回、私が一番心を動かされたのは、作品ではありませんでした」 澪は驚いて顔を上げる。「先生が、お客様とお話しされる姿です」「……私、ですか?」 このギャラリーのオーナーが澪にオファーをくれたときと同じ言葉。澪は瞳を丸くさせる。「ええ」 林田は穏やかに頷いた。「お花をご説明されるときも、お子さんへ話しかけるときも、ご年配の方へ寄り添われるときも……」 林田は言葉を続けながら、微笑む。「皆さん、とても幸せそうなお顔をされていました」 澪は思わず、隣に座る綾人を見る。 綾人は何も言わず、静かにその話へ耳を傾けていた。「実は弊社では現在、新しいライフスタイルブランドの立ち上げ
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第118話 株式会社キアーロ

 数日後の朝。神宮寺家のリビングには、いつもより少しだけ慌ただしい空気が流れていた。「澪さま、とてもお似合いです」 芹香が優しく微笑みながら、澪のジャケットの襟元を整える。 淡いベージュのセットアップ。 華やかすぎず、それでいて柔らかな印象を与える装いだった。「ほ、本当に大丈夫でしょうか……」 澪は鏡に映る自分を見つめながら、小さく肩をすくめる。「こんな風に会社へ行くなんて初めてで……」 すると、後ろから元気な声が響いた。「澪さまなら大丈夫です!」 ひまわりだった。「だって、ワークショップも個展も大成功だったじゃないですか!」 桜も澪の髪型を整えながら小さく頷く。「き、企業の方も……澪さまを見て、お声を掛けてくださったんですから……」「また始まったな」 静かな声が聞こえた。 振り返ると、綾人がリビングへと入ってくる。 澪は思わず苦笑する。「すみません……」「謝るな」 綾人は短く答えると、澪の姿を一度だけ見つめた。「いい服だな」 綾人のいつもの愛想ひとつないその一言だけで澪の肩から少し力が抜けた。「澪さまに一番似合うものをご用意いたしましたので。ありがとうございます」 佐伯も穏やかに微笑み続ける。「皆で澪さまのお帰りをお待ちしております」「はい」 澪は小さく頷くと、綾人とともに屋敷をあとにした。     ◇ 車の中。 窓の外を流れる景色を眺めながら、澪は何度も膝の上の資料を見つめていた。 そこには、『株式会社キアーロ』と印字されている。 何度見ても実感が湧かない。「……緊張します」 ぽつりと呟く。 運転席では相良が静かにハンドルを握っていた。 後部座席で隣に座る綾人は、小さく頷く。「ああ」「何を話したらいいのかも分からなくて……」「全部答えようとするな」 澪は隣を見る。「え?」「まず相手の話を聞け。それから、自分の答えられることだけ答えたらいい。分からないことは分からないと素直に言え」 綾人は窓の外へ視線を向けたまま続けた。「作品も同じだ」「……」「最初に花を見て、それから考える」 静かな声だった。「人も同じだ。相手が何を求めているのか見ろ。それから、お前の言葉で答えればいい」 澪はその言葉を胸の中でゆっくり繰り返した。「はい」 少しだけ、不安が小さくなった気が
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第119話 花のある暮らし

 会議室には、静かな空気が流れていた。 林田がプロジェクターのリモコンを手に取り、ゆっくりと画面を切り替える。『花のある暮らしプロジェクト』 大きく表示されたその文字の下には、いくつもの資料が並んでいた。「それでは、改めてご説明させていただきます」 林田は穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。「近年、ご自宅へ花を飾る方は年々減少しています」 画面にはグラフが映し出される。「ですが一方で、『飾りたい気持ちはある』という回答も非常に多いことがアンケートで分かりました」 次のスライドへ切り替わる。『花は好き』『でも難しそう』『すぐ枯らしてしまいそう』『何を選べばいいか分からない』 そんなアンケート結果が並んでいた。 澪は思わず見入ってしまう。「私たちは、この『あと一歩』を後押ししたいと考えています」 林田の隣に立っていた若い男性社員が説明を引き継ぐ。「こちらをご覧ください」 画面が変わる。 一輪挿し。 コンパクトな花器。 季節ごとの花を届ける定期便。 初心者向けのリーフレット。 子ども向けの花育キット。 忙しい人でも手軽に飾れる小さなアレンジ。「これらを一つのブランドとして展開したいと考えております」 説明はさらに続く。「SNSでは飾り方を配信し、花屋さんとも連携して、季節ごとのイベントも企画しております」 資料はどれも丁寧に作られていた。(すごい……) 澪はページをめくりながら、小さく息を呑む。 こんなにも多くの人が、本気で花のことを考えている。 その事実だけで胸が温かくなった。     ◇ 一通り説明が終わる。 静かな空気の中、林田が微笑んだ。「白石先生」「はい」「率直なご感想を、お聞かせいただけますか?」「えっ……私ですか?」 突然話を振られ、澪は慌てて姿勢を正した。 資料へもう一度目を落とす。 どれも魅力的だった。 どれも素敵な企画だった。 だからこそ、なかなか言葉が出てこない。「ゆっくりで大丈夫ですよ」 林田が優しく微笑む。 澪は小さく深呼吸をした。「あの……」 社員たちの視線が集まる。「私は、この企画、とても素敵だと思います」 その言葉に、企画担当者たちの表情が少し和らぐ。「でも、このアンケートの結果にもありますように、初めてお花を買う方って、一輪だけでも
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第120話 花日和

 数日後の株式会社キアーロの会議室。今日も和やかな空気が流れていた。 壁一面のホワイトボードには、たくさんの文字が並んでいる。『Bloom Life』『Flora Days』『花と暮らす』『季節の花便り』『Daily Flower』「……たくさんありますね」 澪は思わず目を丸くした。何の言葉か分からず首を傾げる澪に、林田がくすりと笑った。「今日はブランド名を決める打ち合わせをします」「ブランド名……ですか?」「はい。このブランドの『顔』を決める感じですね」 まわりの社員たちも真剣な表情で頷いていた。「私たちも色々考えてきたのですが……」 一人の社員がホワイトボードを見上げながら口を開く。「どれも悪くはないんです。でも、決め手がなくって」 別の女性社員もその隣で苦笑した。「少し、おしゃれすぎる気もして。もっと親しみやすいほうがいいのかなぁ、とか」 会議室には、どこか行き詰まった空気が漂う。 そこで林田が澪へと視線を向けた。「白石先生なら、どんな名前を付けますか?」「えっ」 澪は思わず自分を指差した。「わ、私ですか?」「はい」 社員たちも一斉に澪を見る。突然のことに、澪は困ったように笑った。「そんな、私は全然、こういうセンスはないので……」「ぜひ、お聞きしたいんです」 林田は優しく頷き、澪の心をほぐすように言う。「先生が届けたい花のある暮らしを、一番よく知っているのは先生ですから」 その言葉に、澪はゆっくりホワイトボードへ目を向けた。 並ぶ名前は、どれも素敵だった。 でも、どこか違う気がする。 しばらく考え込み、小さく息を吐く。(私らしい言葉でいい) そう自分へ言い聞かせるように、胸元のお守りをぎゅっと握った。 そして、ゆっくりと口を開く。「あの……私は、難しい名前じゃなくてもいいのかなって思います」 社員たちは静かに耳を傾ける。「お花って、特別な日に飾るものだけじゃないと思うんです」 澪はゆっくり言葉を選んだ。「誕生日とか、お祝いの日ももちろん素敵です」「でも」と続けて、少しだけ微笑む。「今日は頑張ったなぁって、自分を褒めたい日とか、誰かに『ありがとう』って伝えたい日とか。何でもない日なのに、なんだかお花を飾りたくなる日もあります」 社員たちの表情が少しずつ柔らかくなる。「そん
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