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第131話 俺がいる

 ホテルスタッフは無線機へ手を伸ばした。「警備をお願いします。ホテル正面階段でトラブルが発生しました」 その声を聞いた瞬間だった。「や……! 本当に違うんです!」 美羽の表情が大きく歪み、必死に首を振る。「私は本当に、お姉ちゃんを助けようとして――」「白石美羽」 綾人が静かに遮る。「それが本当なら、警備に好きだけ話せ」 その一言で、美羽の顔色はみるみる青くなっていく。いつものように自分を擁護してくれる人はいないのか、と周りを見回すが、美羽を見つめる瞳はどれも冷たいものばかりだった。     ◇ 澪はその場へ立ったまま、小さく震えていた。 今になって足から力が抜けていく。 もし綾人が間に合わなかったら。 もし、あの腕が届かなかったら。 そう考えた瞬間、全身がぞくりと震えた。「澪」 綾人のその声は、先ほどまで美羽に向けられていたものとは違って柔らかかった。「そこに座れ」「……でも」「いいから」 短く言うと、綾人は澪の体を支えながら、ゆっくりと階段に座らせた。 綾人は数段下がった場所にしゃがみ込み、澪の足元を見る。「足を見せてみろ」「は、はい……」 澪は少し戸惑いながら足を差し出した。片方のパンプスは階段の途中に落ちたままだ。差し出した澪の足は細かく震えている。綾人は、その足首にそっと触れると、軽く掌で包むように撫でた。「痛くないか」 綾人の体温が、冷えた足をじんわりと温めてくれる。「……はい」「捻ってもいないな」 澪は小さく頷き返した。「大丈夫です」と呟くように返された言葉を聞いて、綾人は、ようやく安心したように息を吐いた。「よかった」 そう綾人の肩の力が微かに抜けたのが分かった瞬間、澪の目から、一滴、涙が零れ落ち、頬を伝った。涙が、ぽつりと膝の上で握った手の上に落ちる。「……っ」 怖かった。 今さら、その感情が押し寄せてくる。「澪」 綾人はそっと手を伸ばし、澪の頬を伝う涙を拭う。「綾人くん……」 澪は、震える声で綾人の名前を呼ぶ。 綾人は何も言わず立ち上がると、澪の肩へ自分のジャケットを掛け、抱き締めた。 震える体を隠すように。 初めて出会った日の、あの雨の中のように――。「もう大丈夫だ」 綾人は、澪の背中に回した腕に力を込めた。強く、けれど、大切なものを壊さないように。「
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第132話 あたたかな鼓動

 ホテルの外階段には、重たい沈黙が流れていた。 美羽の前にはホテル警備員が立ち、ホテルスタッフは警察へ状況を説明している。 その一方で、相良は何も言わず、静かに階段を下りていった。 数段下、石段の上へ落ちていた片方のパンプスを拾い上げる。 傷は付いていないか。 ヒールは折れていないか。 丁寧に確認すると、小さく頷いた。 そして澪の前へ戻る。「失礼いたします」 穏やかな声とともに片膝をつき、澪の足元へパンプスをそっと添えた。 震える足に無理をさせないよう、ゆっくりと履かせる。「……ありがとうございます」 澪が小さく頭を下げる。 相良は優しく微笑んだ。「当然でございます」 それだけ言うと、静かに立ち上がった。 その何気ない所作が、不思議なくらい澪の心を落ち着かせていく。     ◇「こちらです。防犯カメラに一部始終が記録されております」 防犯カメラのデータを持って来たホテルスタッフのその言葉を聞いた瞬間だった。「……っ!」 美羽の肩がびくりと震える。「すぐにご確認いただけます」 警察官は頷いた。「ありがとうございます。後ほど確認させていただきます」 そして、美羽へ視線を向ける。「お話を伺えますか」「わ、私は……!」 美羽は必死に首を振る。「署で詳しくお話を伺います」 淡々と告げられたその言葉に、美羽の顔から血の気が引いた。 震える声が漏れる。「私は悪くないの……」 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からないようだった。     ◇「白石さん」 今度は警察官が澪へ優しく声を掛けた。「お怪我はありませんか?」 澪は小さく頷き、隣の綾人を見た。「はい。彼が助けてくれたので……」 警察官は綾人を見る。「あなたが?」「ああ」 綾人は静かに答えた。「腕を掴んだ。転落はしていない」 簡潔な説明。そこへ相良も一歩前へ出る。「ホテル側の映像をご確認いただければ、状況は明らかになるかと存じます」 警察官はメモを取りながら頷いた。「分かりました」 必要な確認だけを終えると、再びホテル責任者のもとへ向かっていく。「白石先生」 そっと近づいてきた林田が申し訳なさそうに頭を下げた。「本当に申し訳ございませんでした。招待状がないものは入れないはずだったのですが……」「いいえ」 澪は静かに首を横
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第133話 母親

 翌朝の神宮寺家のリビングには、穏やかな朝の光が差し込んでいた。 窓辺には先日綾人が生けたばかりのリンドウの花が飾られている。「澪さま、お加減はいかがですか?」 芹香が温かなハーブティーを差し出した。「ええ、大丈夫です。ありがとう」 澪は両手でカップを包み、小さく微笑む。 昨日の出来事は、まだ胸の奥に重く残っているけれど、夜は比較的ゆっくりと眠ることができた。寝る前に綾人が「何かあったらすぐ呼べ」と声をかけてくれたからかもしれない。「無理はなさらないでくださいね。今日はゆっくりしてください」 桜が心配そうに澪の顔を覗き込みながら言った。「そうですよ!」 ひまわりも元気よく頷いた。「今日は澪さま甘やかしデーです!」「甘やかしデー?」 澪が思わず笑う。「はい! 今からスタートです!」 元気いっぱいの返事に、リビングに小さな笑い声が広がった。その空気を包むように、佐伯も穏やかに目を細める。「ええ。では、今日はそうしましょう」 使用人たちが作ってくれる穏やかな空気に、昨日までの緊張が少しずつほどけていく。 ハーブティーに口をつけ、その甘やかな香りにホッと一息ついたときだった。 玄関の軽やかなチャイムが部屋中に鳴り響いた。「こんな時間に誰ですかね?」 ひまわりが芹香たちと顔を見合わせる。「私が参ります」 佐伯が一礼し、静かにリビングをあとにした。     ◇ 門の前には、一人の女性が立っていた。 澪と美羽の母親だった。佐伯はそっと静かに息を呑み、背筋を伸ばし彼女の前に立つ。「澪を呼んでちょうだい」 開口一番、母親はそれだけをぶつけるように言った。 佐伯は一礼し、そして母親の顔をじっと見据えた。「失礼ですが、お約束はございますでしょうか」「そんなものないわよ」 母親は苛立ったように腕を組む。「私は澪の母親なの」「澪さまからは承っておりません」 佐伯の声の調子は崩れず、終始穏やかな返事だった。「お引き取りください」「はぁ?」 佐伯の口から発せられた言葉に、母親の顔はひどく歪み、声が一段高くなる。「娘に会いに来た母親を追い返すつもり?」「澪さまのご意思を確認しておりませんので」「だから母親だって言ってるでしょう!  意思も何もないの!」 門越しに母親は身を乗り出す。 佐伯は一歩も動かず、その体が
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第134話 それは誰のため?

 母親の一言で、リビングには重苦しい沈黙が流れ始める。 母親はいまだに澪の服を掴んだまま、さめざめと涙を流している。「お願い……美羽はまだ大学生で若いのよ?」 震える声で母親は懇願するように紡ぐ。「これから先の人生があるし、ほら、若気の至りってあるじゃない? よくある姉妹喧嘩が少し行きすぎちゃっただけで――」 母親が吐く言葉が澪の心に刺さる。若気の至り。姉妹喧嘩。今回美羽がしたことは、それで済む話だろうかと、澪は自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。「ね? 澪。警察なんて大袈裟にして。お姉ちゃんなんだから、訴えるなんてバカなことは……」「誰が訴えると言った」 綾人の静かで威圧的な声が、その言葉を遮った。 母親の肩がびくりと震える。 綾人はゆっくりと近づくと、母親と澪の間へ、静かに身体を入れた。そして、澪の服を掴んでいた母親の手を引き剥がす。「……あらやだ、神宮寺さん」 母親は作り笑いを浮かべる。「昨日は、本当に申し訳ありませんでした。美羽には、私からきちんと言い聞かせます。ですから――」「遅い」 綾人は短く返す。まるでナイフのように突き刺さる綾人の視線に、母親の表情が固まった。「え……?」「言い聞かせる機会は、いくらでもあったはずだ。まさか、『今回が初めて』だと思ってるわけではないよな?」 綾人の声は、どこまでも冷たく、静かだった。荒げられないからこその、場を制圧するような圧。ビリビリと肌を刺すような緊張感に、澪は小さく息を呑んだ。(綾人くん、怒ってる……) 斜め後ろから、そっと綾人の顔を覗く。表情が全て見えるわけではないが、それでも澪には分かった。 綾人は、母親の手首を掴んだまま、一歩足を踏み込む。母親は押されるように後退りをした。「澪から婚約者を奪ったとき。個展を壊したとき。そして昨日」 一つずつ。淡々と並べられる事実。「そのたびに、お前は何をした」 母親は口を開く。けれど、何も言えないのか、ただ唇を震わせるだけだ。「わ、私は……」「ああ。お前自身が一番分かっているだろう。白石美羽を庇っただけだ」 母親が息を呑む。「ち、違います!」 思わず叫ぶ。「美羽は私の大切な娘なの! だから、家族を守ろうと――」「家族?」 綾人が静かに聞き返した。 その一言だけで、部屋の空気が変わる。「なら聞く」 
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第135話 凍てつく瞳

 母親が花ばさみを澪に向かって振りかぶる。「全部、あんたが悪いのよ――!」 その叫びがリビングへ響いた瞬間だった。「っ!」(避けきれない……!) 澪が思わず腕をかざして自分の身を守ろうとしたときだ。強く手首を掴む音が響き、母親の手が空中で止まった。「な、なによ……!」 母親は目を見開いた。花ばさみは、澪へ届くことなく止められている。 その手首を掴んでいたのは、綾人だった。 静かな瞳。けれど、その奥には凍てつくような怒りが宿っている。母親が腕を振りほどこうとするが、綾人の手は微動だにしない。握られた手首だけが逃げ場を失っていく。やがて母親の手から花ばさみが滑り落ち、金属音が床に響いた。「離して……!」「……それ以上、澪に触れるな」 綾人が静かに口を開く。 冷たい視線に母親は息を呑み、唇を震わせた。部屋の空気がビリビリと張り詰めた。「佐伯、相良」「承知いたしました」 名前を呼ばれただけの佐伯と相良が同時に動く。 相良は母親との距離を詰め、これ以上前へ出られない位置へ静かに立つ。 佐伯は落ちた花ばさみを拾い上げ、自身の手の中に隠すように仕舞い込んだ。「澪さま、こちらへ」 芹香が優しく澪の肩を抱き、母親から隠すように距離を取らせる。「お怪我はございませんか?」 桜もすぐ澪の隣へ寄り添う。いつのもような弱々しい声ではなく、伏せられがちな瞳も今はしっかりと澪を見つめている。ひまわりも澪の前へ立ち、小さく両手を広げた。「澪さまには、もう誰も近付けません」 神宮寺家全員が、当たり前のように澪を守るよう動いていた。 いまだに綾人に手首を掴まれたままの母親は、「くっ」と喉を鳴らした。その顔は苦煮がしく歪められている。そんな母親の顔を見るのは、澪にとっても初めてだった。 まさか母親から、こんなにも憎悪に満ちた顔を向けられるなんて――。澪は痛む胸をかくすように、胸元に下がるお守りに触れる。「私は母親なのよ! 娘を叱って何が悪いの!」 息を乱し叫ぶ母親を、綾人は静かに見下ろした。「叱る? 澪が叱られるようなことをしたのか?」 短く問い返す。「それに、お前が持っていたのは花ばさみだ。それを振り上げることが、お前にとっては『叱る』という行為なのか?」 母親の表情が強張る。「……だって、この子は……! 私と美羽からお父さんを奪
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第136話 決心

 リビングには、静かな空気が流れていた。 先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、部屋は元の穏やかさを取り戻している。 けれど、その静けさの中には、まだ張り詰めた余韻が残っていた。 澪はソファへ腰を下ろしたまま、膝の上で両手を重ねていた。 そんな澪の小さく震えていた指先に、温かなカップがそっと差し出される。「どうぞ」 芹香が柔らかく微笑む。いつものように優しいハーブティーの香りが立ちのぼった。「ありがとうございます」 澪は両手でカップを受け取る。震える手がしっかりとカップを包み込むまで、芹香は澪の手を支え続けた。カップの温もりと芹香の温もりが、少しずつ心まで温めてくれるようだった。 誰も急いで澪に話しかけようとはしなかった。 皆、それぞれ少し離れた場所で自分たちの作業に戻りながら、澪を静かに見守っている。 やがて……。「……綾人くん」 その静けさの中にぽつりと水滴を落とすように、澪が小さく呟いた。 窓際で花の手入れをしていた綾人は、澪の隣に来ると、そっと腰を下ろした。「私……」 澪は綾人のほうを見ずに、カップの中で揺らめくハーブティーを見つめている。俯き気味のまま、少しだけ笑おうとして、口元は強張った。うまく笑えずに、一度唇を引き結んだ。「お母さんに、あんな顔を向けられたの……初めてでした」 気丈に明るく紡ごうとするその声は、微かに震えていた。綾人は何も言わず、じっと澪を見つめている。元気を取り繕う必要がないとも、悲しむなとも言わない。ただただ、ありのままの澪を受け入れるように。 澪は俯いたまま続けた。「ずっと、お母さんは私を嫌ってるのかなって思ってました」 そこで、一度言葉を切る。胸元のお守りに、そっと触れて、ぎゅっと握り込んだ。「今日、やっと分かったんです。嫌いだとかじゃなくて、憎んでいたんだなって」 痛む胸を誤魔化すようにお守りを握る手に力が入る。「お父さんが亡くなってから、私は……娘じゃなかったんですね」 けれど、涙は、もう流れなかった。その代わりに、長い長い溜め息がこぼれる。「でも、悲しい……はずなのに、どこか、ほっとしてる私もいるんです。腑に落ちた、というか……」 澪は少しだけ首を傾げる。母親から向けられた視線も言葉も、全部全部胸を締め付けるくらい苦しい。けれど、これまでの自分に対する態度について、ど
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第137話 未来のために咲く花

 数日後の朝。 神宮寺家の庭には、澄み切った秋の空気が流れていた。 朝露をまとった草花が陽の光を受けてきらきらと輝いている。 澪は庭へ出ると、ゆっくりと深呼吸をした。 頬を撫でる風が心地いい。 あの日の出来事は、まだ胸の奥に小さな痛みとして残っている。 それでも、不思議と前だけは向けていた。 もう帰らなければならない場所はない。自分の居場所はここだ。 そう思えるだけで、世界は少しだけ優しく見えた。「澪さま」 後ろから穏やかな声が掛かる。振り返ると、相良が小さな箱を両手で抱えて立っていた。「お届け物でございます」「私にですか?」「はい。株式会社キアーロ様からですね」「キアーロから?」 澪は少し首を傾げながら封筒を受け取る。それは思ったよりも軽く、受け取ったときの弾みで、中で紙同士が擦れあうような音がした。 差出人には、林田の名前が記されている。「何でしょう……」 澪は庭からリビングに戻ると、テーブルへと箱を置いた。 朝食を終えたばかりの綾人や使用人たちも自然と集まってくる。 澪はそっと箱を開ける。中にはたくさんの封筒が入っていて、澪は目を丸く見開いた。その上にはひとつのメッセージカードが添えられている。見慣れた、林田の丁寧な文字を見て、澪はそっとそれを手に取った。『白石先生』 その書き出しを見て、澪は自然と背筋を伸ばす。『先日の発表会では、本当にありがとうございました。 おかげさまで「花日和」は、多くの反響をいただいております。発表会終了後、お客様より多くのお手紙をいただきました。ぜひ白石先生にも見ていただきたく、送付させていただきます』 澪はもう一度、箱の中へと視線を落とす。十通以上はある封筒がすべて手紙だと分かり、澪は息を呑んだ。「こんなに……」 驚きながら取り出す。 林田からの手紙は続いていた。『本来であれば弊社だけで拝見するものかもしれません。 ですが、この想いは白石先生へ届くべきものだと、社員一同で話し合い、お送りすることにいたしました』 澪は手紙を一通手に取り、胸元へと抱き寄せた。 ひまわりが隣からそっと覗き込み、微笑む。「澪さま、読んでみましょう!」「う、うん」 澪はまず手に持っている封筒を開いた。『白石先生へ』 一文字一文字が丁寧に書かれた手紙。『私は六十五歳になります。
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第138話 植物園デート

 数日後の朝。 神宮寺家の庭には晩秋の澄んだ空気が流れていた。 澪は縁側へ腰掛け、鮮やかなケイトウを一輪挿しに生けていた。 風が吹くたび、柔らかな穂が優しく揺れる。「やっぱり、秋のお花は可愛いですね」 思わず零れた独り言。 その声へ重なるように、静かな足音が聞こえた。「澪」 振り返ると綾人がいた。ジャケットは羽織っているけれど、いつもの黒いスーツ姿ではなく、少しラフな印象を受ける。「綾人くん。おはようございます」「準備をしろ」「……準備?」 澪は小さく首を傾げる。綾人は軽く頷き、短く答えた。「今日は付き合え」 澪はぱちぱちと瞬きを繰り返す。「えっと……どちらへでしょう?」「出掛ける」「お仕事ですか?」「違う」 元々綾人は口数が多いわけではないけれど、あまりにも要領を得ない回答ばかりで、澪は首を傾げる一方だ。「仕事じゃ……ないんですか?」「ああ」 それ以上説明はない。綾人はそのまま踵を返し、澪へ背中を向ける。「一時間後に出る」「えっ、あ、はい!」 慌てて返事をしたものの、綾人はもう廊下の向こうへ消えていた。 その様子を傍で見ていたひまわりが、にやにやと笑う。「澪さま」「は、はい?」「あれは……デートのお誘いですよね?」「……。……え?」 澪の思考が止まる。「で、デート!?」「はい! 絶対そうです!」 ひまわりは勢いよく頷いた。「仕事じゃないって綾人さまがおっしゃったんですよ!? それならデートしかありません!」「ち、違いますよ!」 澪は真っ赤になって首を振る。「きっと何か別の用事が……」 その横で、芹香が穏やかに微笑んだ。「では、その『別の用事』にも素敵なお洋服でお出掛けいただきましょう」「せ、芹香さんまで……!」 気付けば、桜も洋服を何着か抱えてやって来ている。「あ、あの……こちらと、こちらでしたら……」 佐伯は桜が持って来た洋服を見て、静かに頷いた。「今日は肩の力を抜いてお過ごしいただける装いがよろしいかと」「ああ、でも」と佐伯は軽く手を打った。「夜は素敵なディナーかもしれませんね。ラフすぎない、そういうお店でも入れるものにしましょう」 あれよあれよと、はりきった佐伯たちによって『デート』という前提で準備が進められていく。「いきましょう」とひまわりに手を引かれ、澪は自室
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第139話 ふたりきりの時間

 植物園をあとにした車は、夕暮れに染まり始めた街を静かに走っていた。 オレンジ色の光が流れていく街並みを鮮やかに照らしている。「今日は本当に楽しかったです」 信号待ちで止まった車の中、助手席で澪は嬉しそうに笑った。「ありがとうございました」 その笑顔を横目で見ながら、綾人は小さく頷く。「ああ」 それだけ答えると、一度だけ腕時計へと視線を向けた。「まだ時間があるな」「うん?」 澪が首を傾げる。「帰る前に寄る」「どこにですか? お買い物?」「予約してある」 その一言で、澪の思考が止まった。「よ、予約……ですか?」「ああ」「えっと、どこに? お店を予約しているなんて聞いてません!」 思わず運転席のほうへ軽く身を乗り出す。信号が青に変わる。綾人は表情を変えないままゆっくりとアクセルを踏んだ。「言ってないからな」「そ、そうですけど……!」 澪は困ったように笑うしかない。「それで、どこに行くんですか?」「着けば分かる」「また秘密なんですね」「ああ」 短い返事。けれど今日は、そのぶっきらぼうささえ少しだけ愛おしく思えた。     ◇ 車は中心地を抜け、少し静かな街並みへと入っていく。 澪は窓の外を眺めながらも、落ち着かない様子で何度も座り直した。(予約って……どんなお店なんだろう) 高級なお店だったらどうしよう。 マナー、大丈夫かな。 服装もこれで良かったのかな。 そんなことばかり考えてしまう。 すると、ふと朝の出来事を思い出した。『夜は素敵なディナーかもしれませんね』 佐伯の穏やかな笑顔。「あ」と気付き、澪は肩を軽く竦め笑った。「……佐伯さん、知ってたんですね」「ああ、相談したからな」 綾人の返事に、澪は目を丸くした。「相談したんですか……? 綾人くんが?」 思わずそう口にすると、綾人は少しだけ苦く笑う。「俺だって相談くらいする」 そう続けて、綾人は短く息を吐いた。「お前が緊張しない店を選んでもらった」 その言葉に、澪はしばらく何も言えなかった。そんなところまで考えてくれていたなんて。頬も胸も熱い。口元が自然と緩んでしまう。「……ありがとうございます」 小さな声でそう言うと、綾人は前を向いたまま静かに頷いた。     ◇ 三十分ほどして車は一軒の和食店へ到着した。 暖簾をく
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第140話 デートの報告

 神宮寺家に戻ってくると、玄関には、柔らかな灯りがともっていた。 澪はその明かりを見つめ、小さく微笑む。「皆さん、まだ起きていらっしゃるんですね」「待っているんだろう」 そのとき、そっと玄関扉が開いた。現れた相良が丁寧に頭を下げる。「お帰りなさいませ、綾人さま。澪さま」「はい。ただいま戻りました」 澪がそう返しながら、玄関へと一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。「澪さまっ!! お帰りなさいませ!」 勢いよく飛び出してきたのは、ひまわりだった。「ひ、ひまわりさん!」 まるで小型犬のように抱き着いてくるひまわりと澪は困惑しながら受け止める。 その後ろで佐伯が苦く笑い「ひまわり」と嗜める。「落ち着きなさい」「無理ですー」 澪から体を離したひまわりは両手を胸の前で握り締める。「今日のこと、ずーっと気になってたんですから!」 瞳をキラキラとさせて、今日の話を今すぐにでも聞かせて欲しいと言わんばかりのひまわりに、澪も苦笑した。嫌な気持ちではないけれど、何だか照れくさい。 佐伯の隣で、芹香と桜が穏やかに頭を下げた。「お帰りなさいませ、澪さま」「お、お帰りなさい……」 そのふたりの笑顔と、改めて同じように頭を下げたひまわりと佐伯を見て、澪の肩から力が抜ける。「……ただいま」 いつの間にか、自然とそう口にできるようになっていた言葉。最初は「おかえりなさい」と言われることさえぎこちなかったのに。 自分の場所はここなのだと改めて実感して、澪はゆっくりと息を吸い込んだ。     ◇ リビングに入ると、温かいお茶が用意されていた。「どうぞ」 芹香が澪の前に湯呑みを差し出す。「ありがとうございます」 澪が受け取るや否や、ひまわりがぐいっと身を乗り出した。「それで、澪さま!」「えっ?」 ひまわりの顔が近く、澪は軽く顎を引いた。ひまわりの大きな目に、困惑した澪が映っている。「どうでした!?」「な、なにが?」「植物園です! 夜ご飯です! 今日の、デートです!!」 一気に三連発。澪は思わず目をぱちぱちさせる。「で、デートじゃ……」「違うんですか!?」 ひまわりが食い気味に聞き返す。 澪は真っ赤になった。「そ、それは……」 どう答えようか困っていると、隣にいた綾人が静かに口を開いた。休日に一緒に出掛けた。ふたりきりの
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