LOGIN「…………え?」 脳裏に、あの写真の少女の笑顔が浮かんだ。 玲司がずっと家族として愛していた少女。 玲司が、私の母に殺されたのだと信じていた少女。 そして――私の命を救うための手術の裏で、命を落とした少女。 あの子が――。 「妹……?」 声にならないほど小さな言葉が、震える唇から零れ落ちた。 「いきなりこんなことを聞かされて、戸惑うでしょうね。でも、事実よ」 鷹宮麗華は眉をわずかに歪め、痛ましげな表情を浮かべる。 けれど、それすらもどこか演技がかって見えて仕方がなかった。 「幼い頃、まだ赤ん坊だったあなたたち姉妹は、二人そろって星見の丘に預けられたそうよ。ご両親は事故で亡くなったと聞いているわ」 「私たちの……両親が……」 また新しい事実が頭の中へ押し込まれ、理解が追いつかない。 それでも鷹宮麗華は、こちらが飲み込むのを待つことなく言葉を続けた。 「そして、その少しあと。子供を産めない身体になっていた美玲さんが、あなたを引き取ったの」 「……どうして?」 「え?」 「どうして、私だけなんですか?」 気づけば身を乗り出していた。 「双子だったんでしょう? どうして私だけが引き取られて、紗良さんは施設に残されたんですか?」 もし二人が姉妹だったのなら。 もし同じ場所で生まれ、同じ場所へ預けられたのなら。 どうして人生は、そこで二つに分かれたのだろう。 「さあ。それは私にもわからないわ」 鷹宮麗華はあっさりと答えた。 「それこそ、当時あなたを迎えた本人たちに聞かないと」 その視線が父へ向けられる。 私も、ゆっくりと父を見た。 「……お父さん」 しばらく黙っていた父は、観念したように重く息を吐いた。 「当時、美玲はまだ研修医だった。俺も仕事に追われていた。乳児を二人同時に育てる余裕などなかった」 「だから……一人だけ?」 「ああ」 「私を選んだ理由は?」 父の表情が僅かに強張る。 「……お前を選んだのは美玲だ」 「どうして私だったの?」 「知らん」 「知らないって……」 「本当に知らないんだ。美玲がお前を引き取りたいと言った。俺はそれに同意しただけだ」 あまりにも淡々とした言葉だった。 それだけで、私と紗良さんの人生が分かれたというの? そんな
「…………」 まったく想像していなかった人物の登場に、私は言葉を失った。 「千影。挨拶くらいしたらどうだ」 父の咎めるような声に、ようやく我に返る。 「……久我千影です」 自分の夫の浮気相手の母親。 そして、父が私と母を捨てて選んだ女。 そんな相手に頭を下げなければならないことが、どうにも腑に落ちなかった。 「一度、会ってお話をしてみたかったの」 私の胸の内を知ってか知らずか、鷹宮麗華は余裕の笑みを絶やさない。 むしろ、私がどんな反応を示すのか楽しんでいるように、唇の端をさらに持ち上げた。 「さあ、立ち話もなんですし、座ってくださいな」 ゆっくりと近づいてくると、ソファへ手を向けて席を促してくる。 ふわりと、甘い香水の匂いが鼻をついた。 この部屋に入った時から漂っていた香り。 どうやら、その主は彼女だったらしい。 まるで自分こそがこの部屋の主人だと言わんばかりの態度が、余計に鼻についた。 促されるままソファへ腰を下ろす。 その向かい側に、父と鷹宮麗華が並んで座った。 「……いったい、私に何の用ですか?」 警戒を隠さず問いかけると、鷹宮麗華はどこか愉快そうに目を細めた。 「そんな怖い顔をなさらないで。言ったでしょう? 少しお話がしたいだけよ」 「話?」 「ええ」 一度、鷹宮麗華の視線が父へ向く。 父は苦虫を噛み潰したような表情で黙っていた。 その態度に、嫌な予感が胸の奥で膨らんでいく。 彼女は再び私を見ると、微笑みを崩さないまま言った。 「あなたの出自についてよ」 心臓が、大きく跳ねた。 「……私の?」 「麗華」 低い声で父が遮る。 「その話はするな」 「あら。どうして?」 「関係のないことだ」 「関係ない?」 鷹宮麗華がくすりと笑う。 「この子はその真実を知るために、わざわざあなたのところまで来たんじゃないの?」 「……何を言ってるんですか?」 二人を交互に見る。 父は露骨に目を逸らした。 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。 「お父さん」 「…………」 「私に何を隠してるの?」 「お前には関係ないと言っている」 「私の出自の話なんでしょう!? だったら関係ないわけないじゃない!」 思わず声を荒らげるけど父は答えない。
玲司がホールを去ったあと、私は一人、舞台の上に取り残されていた。 静まり返った客席を見つめながら、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。 正直に言えば――ほっとしていた。 私の演奏を聴いて、玲司が何を思ったのか。 何を感じたのか。 それを聞くのが、怖かった。 あの曲を弾いたことで、玲司は気づいたのかもしれない。 星見の丘で、幼い彼と紗良さんの前でヴァイオリンを弾いた少女が、私だったのだと。 それを知った玲司の中で、何かが変わったのだろうか。「…………」 私は無意識に、自分のお腹へ手を添えていた。 そこにはもう、何もない。 それでも時々、こうして触れてしまう。 もしもっと早く、玲司が知っていたら。 あの頃、星見の丘で出会っていた少女が私だったと知っていたら。 私に向ける感情も、少しは違っていたのだろうか。 そして、私のお腹にいたあの子に向ける感情も。 もしかしたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。 私たちの運命そのものが、大きく変わっていたのかもしれない。「……やめよう」 小さく呟き、首を横に振る。 そんなことを考えても仕方がない。 どれだけ考えたところで、過去は変わらない。 玲司との間にできた溝も。失った命も。私に残された時間も。 すべて、もう起きてしまったことなのだから。 視線を落とすと、私の手には玲司が置いていったヴァイオリンがあった。 そのネックを握る手に、自然と力がこもる。 変えられない過去に縋るよりも、今やるべきことがある。 私たちをここまで振り回してきたもの。 私たちの悲劇の始まりとなった――紗良さんの事故。 あの日、いったい何があったのか。 どうして紗良さんは亡くなったのか。 母は、本当に玲司が思っているようなことをしたのか。 その裏に何があったのか私は知らなければならない。 たとえ、その先にどんな真実が待っていたとしても。 今まで以上に、そう強く思った。 『このあと三十分後に本社へ来い』 父からそんな連絡が届いたのは、ホールを出て間もなくのことだった。 三十分後って。 人の都合なんてまるで考えていない。 相変わらず勝手な人だと思いながらも、私は朝霧ファーマトレードの本社へ向かった。 こ
【玲司side】 確信があったわけじゃない。 ただ、ずっと胸の奥に引っかかっているものがあった。 気のせいだと何度も切り捨てようとした。 むしろ、そうであってほしかった。 星見の丘で、幼い俺と紗良の前でヴァイオリンを弾いた少女。 俺はずっと、あの少女が香澄だったのだと思っていた。 香澄自身がそう言ったからだ。 施設に残されていた記録。 そして、あいつがヴァイオリンを弾いていたこと。 偶然だと言ってしまえば、それまでだ。 だが、一度芽生えてしまった疑念は消えてくれなかった。 ――あの日、ヴァイオリンを弾いていた少女は、本当に香澄だったのか? もしかすると、あれは――千影だったんじゃないのか。 だから俺は確かめたくなった。 いや、本当は確かめたくなんかなかった。 違っていてほしかった。 千影にヴァイオリンを弾けと言ったあとも、何を弾かせるのか最後まで迷っていた。 他の曲なら意味がない。 あの日の少女かどうか確かめるなら、あの曲しかなかった。 それでも、口にする瞬間まで躊躇した。 もし、本当にそうだったら。 一度すべてを失い、裏切られたと思っていた俺の前に現れて、再び生きる理由を与えてくれたと思っていた香澄が――俺に嘘をついていたのだとしたら。 そして、俺が憎み続けた千影が――俺が何度も傷つけた女が。 ずっと昔に、俺を救っていた人間だったとしたら。 ステージの中央に立つ千影がヴァイオリンを構える。 弓が弦へ触れ、最初の一音が誰もいないホールへ響く。 俺は音楽に詳しいわけじゃない。 だが、そんな素人の俺でも分かるほど酷い演奏だった。 かつてプロとして舞台に立っていた人間の演奏とは思えない。 音はかすれ、ときおり震え、音程も何度となく外れる。 原因は、香澄に火傷を負わされ、白い包帯に覆われたあの左手。 指を弦へ押しつけるたび、千影の眉が僅かに歪む。 それでも千影は弾くことをやめなかった。 「……っ」 胸の奥がざわついた。 聞くに堪えないほど崩れた演奏のはずなのに。 なぜだ? どうして俺は耳を塞ぐことができない? どうして目を逸らせない? 弓が弦を擦り、旋律が流れていく。 音が積み重なるたびに、胸の奥に沈んでいた古い記憶が浮
私はステージへと上がり、客席へ振り返った。 広いホールに並ぶ無数の座席。 その中央、最前列に玲司たった一人が座っていた。 ヴァイオリニストとして活動していた頃、何度もこの舞台に立った。 本番はもちろん、リハーサルだってスタッフや関係者が何人も客席にいた。これほど観客の少ない演奏なんて、たぶん初めてだ。 なのにどうしてだろう。 今まで経験してきたどんな大舞台よりも、心臓がうるさかった。 静まり返ったホールのせいだろうか。 それとも――たった一人の観客が玲司だからだろうか。 考えるのが馬鹿らしくなって、私はヴァイオリンを肩に乗せる。 「何を弾けばいいの?」 問いかけると、玲司はすぐには答えなかった。 薄暗い客席から、じっとこちらを見つめている。 やがて僅かに視線を落とし、低い声で告げた。 「……《愛の挨拶》」 「え……」 思わず弓を持つ手が止まった。 よりによって、その曲だった。 エルガーの《愛の挨拶》。 幼い頃、母に連れられて訪れた児童養護施設――星見の丘。 そこで私が、子供たちの前で初めて弾いた曲。 そしてあの日、幼い玲司もそこにいた。 だけど玲司は、あの時ヴァイオリンを弾いていた少女が私だったということを覚えていなかったはずだ。 まして、大人になって再会してから、私は玲司の前で《愛の挨拶》を弾いたことなんて一度もない。 それなのに、どうして。 「……玲司」 呼びかけても、玲司は何も言わなかった。 私はその顔をじっと見つめる。 何を考えているのか分からない、冷たい瞳。 何度、その目に昔のような温もりが戻ることを期待しただろう。 何度、期待してそのたびに裏切られたことだろう。 もう玲司に期待しない。この人が私をどう思っていようと知ったことじゃないと、そう決めたはずなのに。 私がようやく玲司を見限ろうと思ったあとに、この男はほんの少しだけ、期待したくなるようなものを見せてくる。 今だってそうだ。どうして《愛の挨拶》なの? もしかして何か思い出したの? あの頃の私に、気づいたの? 「……ほんと、むかつく」 小さく呟く。 玲司には聞こえなかっただろう。 本当に、何なのだろう。この男は。 私を散々傷つけておいて。 何もか
玲司の表情から、一瞬で色が消えた。 「……なんだと? 正気か、お前」 玲司が立ち上がった。 先ほどまでの冷静さは消え、その声には明らかな焦りが滲んでいた。 「もちろん正気よ」 「ふざけるな!」 怒鳴り声がホール中に響き渡った。 「でも、そんなことにはならないと思ってる」 「……何?」 「私は信じてるもの」 胸元に手を置く。 「お母さんは身勝手だし、頑固だし、人に言えないことだってたくさん抱えてる。でも……自分の利益のためだけに、誰かを不幸にできる人じゃない」 玲司は何も言わない。 「それがたとえ――」 一度、息を呑む。 「私の命を救うためだったとしても」 玲司の目をまっすぐ見た。 「だから調べるの。お母さんが無実だって証明するためだけじゃない。私自身が真実から逃げないために。 奏人先輩だって、そのために協力してくれているだけよ」 私は僅かに顎を上げる。 「だから、もう邪魔しないで」 「邪魔だと?」 「そうよ。いちいち奏人先輩のことで絡んでこないで。誰と会おうと私の自由でしょう」 玲司の眉間に皺が寄る。 「お前は俺の妻だ」 「だから何?」 「夫の知らないところで、他の男とこそこそ会うことなど許さん」 「じゃあ堂々と会えばいいわけ?」 「そういう問題ではない」 「やましいことなんて何もないわ。あなたと一緒にしないで」 「……何?」 玲司の声が低くなる。 「香澄さんとは随分堂々と会ってたじゃない」 「それは――」 「私は奏人先輩に恋愛感情なんてない。向こうだって、今はそんなこと考えてないわ。ただ協力してくれているだけ」 そこで少し間を置く。 「少なくとも、妻がいるのに他の女との間に子供を作るようなことはしてない」 「……」 玲司の口が閉じた。 言い返せないのだろう。 少しだけ胸がすっとした。 「もういいでしょう。私、行くから」 席を立つ。 「待て」 「何?」 呼び止められ、振り返る。 玲司は少しの間、何かを迷うように私を見ていた。 それから、不意に通路側へ歩き出す。 何をするのかと思って見ていると、彼は最前列の端に置かれていた黒いケースを手に取った。 見覚えのある形。呼吸が止まった。 「それ……」 玲司が留め具を外す。
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…
シェルネージュのワンピースに身を包んだ香澄は、当然のような顔で店員へバッグを預けた。「こちら、本日入ったばかりの商品でございます」 店員は先ほどまでとは打って変わって、へりくだった笑みを浮かべている。 そして次の瞬間。「奥様、こちらのネックレスなどいかがでしょう?」 その呼び方に、私の思考が止まった。 ――奥様? 香澄は独身のはずなのに、一体誰の妻だというのだろう。 いや、分かっている。 私の中では、もう答えが出ているけどそれを認めたくないだけだ。 胸の奥が、じわりと冷えていく。 店員が、私ではなく香澄を玲司の妻だと思い込むほどに、玲司と香澄は二人でこの店に頻繁に来てい
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス







