LOGIN「なんで……」 自分でもわからない。 悲しいわけじゃない。 妹がいたことを知った。 けれど、その妹とはもう二度と会えない。 一緒に育つこともなかった。 姉妹だと知ることさえないまま、紗良さんは死んだ。「わからない……」 声が震えた。「私にも、わからないの」 止めようとした途端、涙はさらに溢れてきた。 ぎゅっと唇を噛む。 紗良さんとは、物心がついてから一度しか会っていない。 しかも、その時は姉妹だなんて知らなかった。 星見の丘で、玲司と一緒に私のヴァイオリンを聴いていた少女。 その記憶だって遥か昔のものだ。 今となっては顔も、声も、はっきりとは思い出せない。 だから今さら、玲司が妹のように大切にしていた紗良さんが、実は私の双子の妹でしたと言われたところで、何も思わないし何も感じない。 そのはずなのに。「…………」 どうして、こんなにも涙が出るのだろう。 もし、もっと早く知っていたら。 もし、私たちが引き離されていなかったら。 そんな『もしも』を考えたところで、どうしようもないことくらいわかっている。 それなのに次から次へと浮かんでくる。 同じ家で育っていたら。 一緒に学校へ通っていたら。 喧嘩をしたり、くだらないことで笑ったり。 双子なんだから、服を交換したりなんかもしたのだろうか。 想像したことすらなかった人生が、頭の中に勝手に形を作っていく。 そしてそのすべてが、もう絶対に手に入らないものなのだと気づくたびに、胸の奥が締めつけられた。「……っ」 手の甲で必死に涙を拭う。 こんなところを玲司に見られたくない。 そう思うのに、どうしても止まってくれない。 その時だった。 ぽすっ、と。 太腿の上に、何か軽いものが落ちた。「……え?」 視線を落とす。 そこにあったのは、紺色のハンカチだった。 見覚えがある。いや――見間違えるはずがない。 まだ玲司と婚約する前。 誕生日でも記念日でもない日に、仕事ばかりしている彼へ私が何となく贈ったものだった。『ハンカチくらいちゃんと持ちなさいよ』『余計なお世話だ』 そんなやり取りまで、不意に蘇ってくる。 もうとっくに捨てられていると思っていた。「……まだ、持ってたの?」 思わ
「あなたたちが双子の姉妹だということを示す、出生時の母子手帳もね。わざわざ丁寧に添えて、ここへ預けられたそうよ」 鷹宮麗華から聞かされた話が、頭の中でずっと繰り返されていた。 信じていいのかわからなかった。 あの人が私に真実を話している保証なんて、どこにもなかったから。 けれど今、その話がまったく別の人間の口から重ねられた。 白峰紗良は――。 玲司が家族として愛した少女は――。 本当に、私の双子の妹だった。 何か言わなければと思うのに、喉がひどく乾いて声が出ない。 野上さんはそんな私を気遣うように見つめていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。「ただ……」 野上さんの顔から、それまで浮かんでいた穏やかな表情が消える。「あなたたち二人がここへ預けられた時のことで、一つ……今でも妙だと思っていることがあるの」「妙なこと?」 ようやく声を絞り出すと、野上さんはゆっくりとうなずいた。「当時の施設長だった榊原さんがね、二人を預かった時にはっきり言っていたそうなのよ。この子たちは里親には出さない、って」「……え?」「普通なら、家庭で暮らせる可能性がある子については里親や養子縁組の話が出ることもあるでしょう? もちろん事情によって違うけれど。でも、あなたたちについては最初からその選択肢を外すように言われていたらしいの」「誰にですか?」 玲司が間髪入れずに尋ねた。 野上さんは首を横に振る。「そこまでは私も知らないの。私が聞いていたのは、榊原さんがそう話していたということだけ」 胸の奥に、新たな疑問が生まれる。 里親には出さない。 それなのに――。「だから、千景さん。あなたが朝霧院長……美玲さんに引き取られると聞いた時は、私も驚いたわ」「……最初は、引き取らせるつもりがなかったのに?」「ええ。それも、あなた一人だけだったから」 ずきり、と胸の奥が痛んだ。 双子なのに私だけが星見の丘を出て、紗良さんはここに残された。「預けた人は……」 自分でも驚くほど掠れた声が出た。「私たちをここへ連れてきた人は、どんな人だったんですか? 私の本当の両親は……なんと言って、私たちをここに?」 もしかしたら。 本当の両親について、何か分かるかもしれない。 僅かな期待を込めて尋ねたけれど、野上さんは申し訳なさそうに眉
星見の丘へ到着すると、私たちは待たされることもなく、すぐに応接室へと通された。 「そ、それで……本日は、いったいどのようなご用件でしょうか」 向かいのソファに腰を下ろした高坂施設長は、ひどく落ち着かない様子でそう切り出した。 額には薄っすらと汗が滲み、膝の上で組んだ指もせわしなく動いている。 この前ここを訪れた時、私を邪険に扱い、まともに話も聞かず追い返そうとした人物と同じだとは思えない。 理由は考えるまでもなかった。 ちらりと隣へ目を向ける。 玲司は足を組み、無表情のまま高坂施設長を見据えていた。 ただ座っているだけなのに、妙な威圧感がある。 久我家の人間が直接ここまで来たというだけで、高坂施設長にとっては十分すぎるほどの重圧なのだろう。 やがて玲司が、私へ視線を向けた。 話せ、ということらしい。 私は小さく息を吸う。 「ここにいた、白峰紗良さんについて聞きたいんです」 「白峰……紗良さん、ですか?」 「はい」 その名前を口にするだけで、胸の奥がざわついた。 玲司が妹のように大切にしていた少女。 そして私の双子の妹かもしれない人。 「紗良さんがこの施設へ来た時のこと。それから……」 一度言葉を切る。 自分の口で問いかけようとすると、急に現実味が増してきた。 「彼女と私が、本当に姉妹だったのかどうか。それを知りたいんです」 高坂施設長の眉がぴくりと動いた。 「あなたと……うちにいた児童が、姉妹だったかどうか?」 「はい。私も幼い頃、この星見の丘にいたそうなんです」 「そう……ですか」 高坂施設長は顎へ手を添え、何かを考えるように視線を落とした。 ほんの数秒の沈黙。 やがて顔を上げると、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。 「大変申し訳ありませんが、私がこちらに勤め始めたのは数年前なんです。ですから、それほど昔のこととなると、私にもわからないんですよ」 「記録はないのか?」 玲司が低い声で尋ねる。 「き、記録ですか……」 「ああ。施設へ預けられた時の記録くらい残っているだろう」 「さすがに何十年も前のものですからね……。ましてや、もうここを退所している方でしょう? 残っている可能性は低いかと」 曖昧な返答だった。 ない、とは断言しない。 けれど、
「あの、すみません。先日そちらに伺った久我千影と申します。お聞きしたいことがあって……野上さんはいらっしゃいますか?」 翌日。 星見の丘へ電話をかけ、受付の職員にそう告げる。 『少々お待ちください』 そう返されてから、しばらく。 やがて保留音が途切れ、受話器の向こうから野上さんではない聞き覚えのある声が響いた。 『……また、あなたですか』 その第一声だけで、歓迎されていないことが嫌というほど伝わってくる。 『何度来られても困るのですが』 電話に出たのは、以前ここを訪れた際にも露骨に迷惑そうな態度を見せ、私を追い返した高坂施設長だった。 やっぱり、簡単には話を聞かせてもらえそうにない。 それでも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。 「長居をするつもりはありません。少しだけ、確かめたいことがあるんです」 『その少しが迷惑だと言っているのがわからないんですか?』 冷たい声が返ってくる。 『以前も申し上げたはずです。児童の過去について詮索されても、こちらは何もお答えできません。お引き取りください』 「ですから、私は――」 「どうした?」 不意に背後から声をかけられ、振り返る。 そこに立っていたのは玲司だった。 ついさっきまで少し離れたところで仕事の電話をしていたはずなのに、いつの間にかこちらへ来ていたらしい。 私の様子がおかしいことに気づいたのか、眉間に僅かな皺を寄せている。 「……取り合ってもらえないの」 「貸せ」 「え?」 私が聞き返すより早く、玲司は私の手からスマートフォンを取った。 「ちょっと――」 止める間もなく、そのまま耳へ当てる。 「久我玲司だ」 一瞬、向こうが静まり返った。 『……久我、玲司様?』 先ほどまでの刺々しい声が嘘のように消える。 『これは……大変失礼いたしました』 あまりにも露骨な態度の変化に、私は呆れて玲司を見上げた。 けれど当の本人は、そんなことなど気にも留めていない。 「こっちも忙しい中で時間を作って行くんだ。無駄なやり取りをして、俺の時間まで浪費したくないのだが」 『は、はい。おっしゃる通りでございます』 どう考えても、さっきまで私と話していた人と同一人物とは思えない。 「今から行く。施設長室を空けて待っていろ」 『し
リビングには、何とも言えない空気が漂っていた。 玲司が家に戻ってくるなり、私たちはそのままリビングへ向かい、広いダイニングテーブルを挟んで向かい合うように腰を下ろした。 テーブルの上には、淹れたばかりのコーヒーが二つ。 白いカップからはまだ細い湯気が立ち上っている。 席についてから、それほど時間は経っていないはずだった。 それなのに、やけに長く感じる。 これまでなら、玲司が放つ刺々しい空気に身構えていた。 何を言われるのか。 今度はどんな言葉で傷つけられるのか。 そんな緊張ばかりだった。 けれど、今は違う。 玲司から以前のような威圧感は感じなかった。 だからといって、穏やかになったわけでもない。 ただお互いに、どう接すればいいのかわからない。 それが、妙な居心地の悪さとなって私たちの間に横たわっていた。 私はコーヒーカップへ視線を落とす。 玲司もこちらを見ようとはせず、黙ったまま腕を組んでいる。 やがて、その沈黙に耐えかねたように玲司が口を開いた。 「それで、話とはなんだ。お前と違って、こっちは忙しいんだ」 相変わらずの嫌味な言い方に、思わずこめかみが引きつった。 どうせ、このあと香澄のところに行くつもりなんでしょ。 喉まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。 今は玲司と喧嘩をするために呼び戻したわけじゃない。 「玲司」 「なんだ」 「紗良さんの……幼い頃のこと、どれくらい知ってる?」 玲司の眉が、わずかに動いた。 「幼い頃?」 「家族のこととか。星見の丘に来る前のこと」 「……急になんだ。それを聞いてどうする?」 「知ってるのかどうかを聞いてるの」 少し強めに言うと、玲司は不快そうに目を細めた。 けれど、今回は言い返してこなかった。 「知らない」 「本当に?」 「ああ。紗良から聞いたことはない。というより紗良自身、何も知らなかったはずだ」 玲司の視線が、どこか遠くへ向けられる。 「物心がつく前から星見の丘にいた。本人から聞いた話じゃ、赤ん坊の頃に施設へ預けられたらしい。それより前の記憶なんてあるわけがない」 「……そう」 「家族の話をしたこともあるが、親の顔も名前も知らないと言っていた。施設の職員から聞かされていたのも、両親はもういな
紗良さんが、私の双子の妹だった。 その信じ難い事実を聞かされたあと、私は熱を出し、数日間を家で過ごしていた。 本当なら、すぐにでも調べなければならないことは山ほどあった。 それでも、心も身体も疲れ切っていた私は、すぐに行動へ移せるほどの気力を残していなかった。 ――今だけは休んでもいい。 誰に対する言い訳なのか、自分でもわからない。 それでも、そう言い聞かせて布団の中で過ごした数日間は、思えば久しぶりに何もせず身体を休められた時間だった。 熱もようやく下がり、身体の怠さも少しずつ抜けてきている。 けれど、その間玲司がこの家へ帰ってくることは、一度もなかった。 広すぎる屋敷で顔を合わせるのは、長年ここに仕えている年配の使用と、もう一人だけ。 「千景様。もうお加減はよろしいのでしょうか?」 午後、私の部屋を訪れた藤崎さんが、心配そうに尋ねてきた。 玲司の秘書である藤崎さんは、この数日、一日に一度は必ず私の様子を見に来てくれている。 「ええ。もう大丈夫よ。熱も下がったし……痛みの方も、だいぶ良くなってきたわ」 まだ完全とは言えない左手へ視線を落とす。 火傷を負った直後に比べれば、痛みはずいぶんとましになっていた。 少なくとも、何もしていないのにズキズキと疼いて眠れない、というほどではない。 「そうですか。ですが、無理はなさらないでください」 「ありがとう」 そう答えてから、少し迷った末に尋ねた。 「それで……玲司は?」 藤崎さんの表情が、わずかに曇る。 「……本日も、お戻りにはならないそうです」 「そう」 自分でも驚くほど、あっさりした声が出た。 「わかったわ」 たぶん、それでいい。 今の私も、玲司と顔を合わせたところで、どんな顔をすればいいのかわからないのだから。 あの人は、私の方に原因があるのだと言わんばかりに香澄さんと関係を持ち彼女との間に、子どもまで作った。 何度傷つけられても、どこかで期待していた自分が馬鹿だったのだ。 もう愛想は尽きた。玲司との関係をやり直したいなんて思っていない。 昔みたいに愛してほしいとも思わない。 そのはずなのに。脳裏に浮かんだのは、あのホールでの玲司の姿だった。 私が《愛の挨拶》を弾いたあと玲司は、明らかに動揺していた
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…







