LOGINそれは、あまりにも静かに始まった。ドラマの撮影初日。スタジオに入った瞬間、久遠ひかるは空気の違和感に気づいた。視線。止まる会話。逸らされる目。慣れているはずだった。だが今回は、質が違う。腫れ物に触るような遠慮と、好奇心が混ざっている。マネージャーが小声で言った。「気にしないでください。すぐ収まります」ひかるは何も答えず、台本を開いた。震えはない。もう、折れることはない。そう思ったときだった。スタッフの一人が慌てて駆け込んでくる。「プロデューサー!マズイです!」現場がざわつく。タブレットの画面を覗き込んだ誰かが、息を呑んだ。「……トレンド1位だ」嫌な予感が、背筋をなぞる。マネージャーのスマートフォンが震え続けている。やがて観念したように、画面をひかるへ向けた。見出しが躍っていた。『久遠ひかる 人気俳優・真柴涼真と極秘交際か』一瞬、意味が理解できなかった。「……は?」かすれた声が漏れる。記事には、昨夜の写真が掲載されていた。レストランの前。確かに、真柴涼真と並んで立っている。だがそれは……ドラマの顔合わせの帰りに、偶然店が同じだっただけだ。会話もほとんどしていない。なのに。記事は断定調だった。『倒産騒動の裏で熱愛発覚!!』『スポンサーは激怒か!?』『倫理観に疑問の声』ひかるの指先が、わずかに冷える。熱愛。今、このタイミングで。悪意しかない。「違います」はっきりと言った。だが、その声は雑踏に溶ける。遠巻きに見ていた共演者の一人が、小さく呟く。「やっぱり問題多いな……」聞こえていた。全部。そのとき、プロデューサーのスマートフォンが鳴る。顔色が変わった。「……はい。ええ……分かりました」通話を切る。沈黙。そして、重い声。「スポンサーの一社が、降りる可能性があるそうです」空気が凍る。誰もひかるを見ない。だが分かる、原因は自分だ。胸の奥が、ぎゅっと縮む。それでも。ひかるはゆっくり顔を上げた。「撮影を続けましょう」驚いたように、何人かが目を見開く。「私のことで現場を止めるわけにはいきません」声は、驚くほど静かだった。折れていない。むしろ、芯が強くなっている。だがその頃。FJエンターテインメント本社では、まったく別の空気が流れていた。「発信元
FJエンターテインメント本社、最上階。磨き上げられた黒い床に、天井から落ちる静かな光が反射している。足音さえ吸い込まれてしまいそうなほどの静寂の中、久遠ひかるは重厚な扉の前に立ちながら、小さく息を吸った。胸の奥がわずかに波打つ。緊張しているのか、それとも別の感情なのか、自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、ここへ来るまでの道のりが、決して穏やかなものではなかったということだ。エントランスへ入る瞬間、報道陣に囲まれた。「事務所倒産について一言!」「不正を知っていたのでは?」「主演は降板ですか?」無数のマイク。無数の視線。フラッシュの光が瞬きのように弾ける。逃げ場はなかった。それでも、ひかるは足を止めなかった。前だけを見て歩いた。だが、不思議と恐怖はなかった。昨日、あの言葉を聞くまでは。「主演は久遠ひかるのままで」胸の奥に、まだ微かな余震が残っている。救われたはずなのに、安堵だけでは終わらない。むしろ、心の奥に触れてはいけない場所を揺さぶられた感覚だった。ひかるは橘に促され、扉を入った。広い執務室。窓の向こうに広がる都市の景色。曇り空の下、無数のビルが静かに立ち並んでいる。そして、藤崎優。デスク越しに書類へ目を落としている。顔を上げない。まるで、彼女が入ってきたことなど些細だと言うように。そこにいるのは、かつて自分が知っていた男ではなく、徹底して感情を削ぎ落とした経営者だった。「座ってください」事務的な声。五年前、あの夜に聞いた声とは別人のようだった。ひかるは静かに腰掛ける。沈黙。ペンが紙を走る音だけが響く。時計の秒針すら聞こえそうなほど、空気は張り詰めていた。この距離。手を伸ばしても届かないほど遠い。かつては、こんな沈黙さえ苦しくなかったのに。やがて優は書類を閉じ、視線を向けた。その目に、感情はない。何も映していないようで、すべてを見透かしているようでもある。「単刀直入に言います」一枚の契約書が差し出される。「あなたを、FJエンターテインメントが専属で受け入れる」ひかるの指先が、わずかに強張る。分かっていた。それでも、実際に言葉にされると重い。まるで運命を突きつけられているようだった。「ただし、条件があります」来た。ひかるはまっすぐに優を見る。逃げない視線。もう逃げるつもりはない。優は一拍
その知らせは、あまりにも唐突だった。 まだ午前の光がビルの隙間から差し込む時間帯。執務室には静かな緊張が満ちていたが、その均衡を破るように扉が勢いよく開かれる。「社長、大変です」 朝一番で執務室に飛び込んできた橘の表情を見た瞬間、藤崎優はただ事ではないと悟った。 普段は冷静な彼女が、ここまで顔色を変えることはない。「久遠ひかるさんの所属している《リバース・アクターズ》が……」 一拍。 空気がわずかに重く沈む。「本日付で、破産申請を出しました」 優の手が止まる。 ペン先が書類の上で静止したまま、数秒が流れた。 胸の奥を、鋭いものが突き刺したような気がした。(……ひかるの会社が倒産!?) その名前が浮かんだ瞬間、押し殺していた感情が一気に動き出しかける。 だが、それだけだ。 驚きも、動揺も表に出さない。 長年かけて身につけた元俳優という経営者の仮面は、こういうときほど崩れない。「理由は?」「粉飾決算です。数年前から経営が破綻していたようで……スポンサーが一斉に手を引きました」 窓の外では、薄曇りの空が広がっている。 今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。 嵐の前の静けさに似ていた。 優の頭の中では、すでにいくつもの可能性が走っていた。 ひかる自身に責任がなくても、世間は待ってくれない。 疑いは勝手に生まれ、根拠のない言葉が広がっていく。 彼女がどれほど真っ直ぐ生きてきた人間かなど、面白半分の記事を書く者たちには関係がない。「主演ドラマは?」「制作がストップしています。局側はキャストの総入れ替えを検討中と……」 つまり、久遠ひかるは、降板の可能性が高い。 優は椅子に深く腰掛けた。 背もたれに体重を預けながら、視線だけが鋭くなる。 頭の中で、瞬時に数字が走る。 違約金。制作費。スポンサー契約。放送枠。 そして何より、世論だ。 ひかるほどの女優が、倒産した事務所に所属していた。 それだけで憶測が生まれる。 不正に関与しているのではないか。 ギャラの未払いは? 税務は? 次に来るのは、必ずこれだ。 スキャンダル。「……もう出ています」 橘がタブレットを差し出す。 ネットニュースの見出しが並ぶ。『トップ女優・久遠ひかる 事務所破産の衝撃』『知らなかったでは済まされない?』『主演ドラマ白紙か
雨が降っていた。 春先の雨は嫌いではない。冬の名残を含んだ冷たさと、どこか新しい季節を予感させる柔らかさが同居している。街の輪郭を滲ませ、看板の色も人影も境界を失わせながら、余計なものを静かに洗い流してくれるようだった。 藤崎優は、車の後部座席から巨大なガラス張りの建物を見上げた。 灰色の空を映し込むその外壁は、どこか無機質で、近寄る者の感情を拒むかのように冷たい光を放っている。 東央テレビ本社。 かつては何度も俳優として訪れた場所だ。 若手だった頃、期待と不安を胸にこの回転扉をくぐった日のことも、主演が決まった夜にスタッフと笑い合った記憶も、すべてこの建物の中にある。 だが、もう違う。 あの頃の自分とは違う。 そして――今日、この場所で再び会うことになるかもしれない、あの女との関係も。「社長、五分後に制作局との打ち合わせです」「ああ、分かった」 短く答え、優は車を降りる。 黒のスーツに、無駄のない足取り。背筋はまっすぐに伸び、視線だけで周囲を黙らせるような静かな威圧感をまとっていた。 五年という歳月は、彼から“優しすぎた男”の面影を削ぎ落としていた。 今の肩書は、芸能プロダクション《FJエンターテインメント》代表取締役。 俳優・藤崎優を知る者は、もう業界でも少ない。知っていたとしても、それは過去の情報に過ぎない。 そうなることを、自分で選んだ。 表舞台から退き、人を支える側に回ることを。 誰かの人生や未来に責任を持つ立場になることを。 それは逃げではなかった。 少なくとも、そう思いたかった。 けれど、五年前のあの日から逃げ続けてきたものが一つだけある。(久遠ひかる……) 名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥がわずかに痛んだ。 もう五年だ。 忘れていてもおかしくない。 いや、忘れなければならなかった。 自分から手放した女なのだから。 エントランスに入った瞬間、空気がわずかに揺れた。「あれ……藤崎優じゃない?」「え、俳優辞めたんじゃ……でも、やっぱりカッコイイ」「今、社長らしいよ」 小さなざわめきが背後に生まれる。 聞こえている。だが振り向かない。 過去に興味はない。 そう決めたのだから。 けれど本当は、興味がないのではない。 思い出せば、そこにはひかるがいる。 俳優だった自分。 『誰より
再会の予感 雨の匂いがする朝だった。 夜の名残を引きずるような灰色の雲が低く垂れこめ、ガラス越しの街はまだ完全に目を覚ましていない。濡れたアスファルトが鈍く光り、時折、遠くを走る車のタイヤが水を弾く音だけが静かに届いてくる。 藤崎優は、まだ人の少ないオフィスの窓辺に立ち、湯気の立つコーヒーをゆっくりと口に運んだ。 苦味が舌に広がる。 それを味わうように一度目を閉じ、そしてまた開く。 あれから五年。 長いようで、瞬きほどにも感じる時間だった。(もう五年になるのか……) 時間だけが、確実に過ぎていった。 仕事も変わった。 立場も変わった。 自分を取り巻く人間も、見る景色も変わった。 それなのに、たった一つだけ――どうしても変わらないものがあった。「社長、本日のスケジュールです」 控えめなノックの後、橘が差し出したタブレットに視線を落としながら、優は小さく息を吐く。 朝一番の打ち合わせ、スポンサーとの会食、午後は新人オーディションの最終選考。夜には局の重役との会談が入っている。 隙間のない一日だった。 藤崎優は、芸能プロダクションの社長になっていた。 かつては似合わない肩書きだと思っていた。 人の上に立つよりも、作品の現場に身を置き、ただ良いものを作ることだけに集中していたかった男だ。 だが今は違う。 余計な感情を表に出さず、判断は早く、責任から逃げない。 必要とあらば冷酷だと陰で囁かれる決断も下してきた。 守らなければならないものが増えれば、迷っている暇などない。 それが現在の藤崎優だった。 成功者、と呼ぶ者もいる。 だが優自身は、そう思ったことが一度もない。(成功……か) そんな言葉に、どこか皮肉を感じる。 会社は大きくなった。 仕事も順調だった。 誰もが羨む立場を手に入れた。 それでも――。 どれだけ時間が流れても、胸の奥に触れてはいけない場所がある。 『久遠ひかる』 その名前を、優は心の中でだけ呼ぶ。 もう五年も、直接声にしていない。 いや、呼ぶ資格などないと知っているからだ。 デスクに置かれた一冊の雑誌が目に入った。 表紙には、柔らかな笑みを浮かべる女性。 光をまとったような瞳は、見る者すべてを惹きつける。『久遠ひかる』 優の指が、わずかに止まった。 国内外で評価される女
春の気配が、街に差し始めていた。都内最大級のホールの前には、開場の何時間も前から長蛇の列ができている。—国際共同制作映画、制作発表会。日本だけではない。海外メディアも数多く詰めかけていた。フラッシュの嵐。飛び交う各国の言語。張り詰めた熱気。この作品が、ただの映画ではないことを、誰もが理解していた。やがて——司会者の声が響く。「本日の主演を務める俳優陣の登壇です!」扉が開いた。最初に現れたのは、藤崎優。黒のスーツを完璧に着こなし、静かな存在感を放っている。続いて 結城美緒。緊張は見える。だが、その瞳には確かな覚悟が宿っていた。そして 篠原夕季。一歩一歩を噛みしめるように歩いている。最後に 久遠ひかる。空気が変わった。ざわめきが、波のように広がる。美しい。だがそれだけではない。そこに立っているだけで、視線を支配する。主演女優とは、こういう存在を言うのだと、誰もが悟る。四人が並んだ瞬間、世界が、この作品を見た。フラッシュが止まらない。司会が微笑む。「では、質疑応答に移ります」最初の質問は、海外記者だった。「この映画に参加することを決めた理由は?」ひかるが答えようとした、そのとき。美緒が一歩前に出た。マイクを握る手は、わずかに震えている。だが——声は真っ直ぐだった。「……久遠ひかるさんがいたからです」会場が静まる。美緒は続ける。「私はまだ未熟です。でも、ひかるさんの背中を見ていると、不可能なんてないと思えるんです」一瞬、言葉に詰まる。それでも、伝える。「ひかるさんのおかげで、海外映画に出られます」ひかるの瞳が、わずかに揺れた。次に、夕季がマイクを取る。柔らかな笑顔。だが、その目は熱い。「私は長くこの世界にいますが——こんな女優を見たことがありません」会場の誰もが耳を傾ける。「努力を、才能で超えてくる人なんです」そして、はっきりと言った。「ひかるさんのおかげで海外映画に出られます。心から誇りに思います」静かな拍手が起こる。そのとき。優がマイクを手にした。会場の空気が変わる。低く、落ち着いた声。「この映画は、間違いなく世界に届きます」一拍。そして続けた。「理由は一つです」視線が、ひかるへ向く。「久遠ひかるがいるからです」どよめきが起きた。だが優は
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直
黴臭い布団に横になり、天井の染みを見つめていると、意識とは裏腹に、記憶だけが勝手に遡っていった。――どうして、あの人と出会ってしまったのだろう。あの頃の私は、できるだけ人目につかないように生きていた。派手な服も、化粧もせず、ただ「静かに」「何も起こさず」一日を終えることだけを考えていた。生活のために始めたのが、清掃のアルバイトだった。古くて、薄暗い雑居ビル。廊下の電灯はところどころ切れ、昼間でも影が溜まるような場所だった。そのビルの一角に、《Kurosaki Creative Works》という、出来たばかりの広告制作会社が入っていた。出会いは、共同トイレだった。男







