تسجيل الدخولスタジオに、「本番、行きます!」という助監督の声が響いた。その一声だけで、ざわついていた現場がすっと静まり返る。目の前に広がるのは、重厚な邸宅セット。大理石を模した床は柔らかな照明を受けて鈍く光り、天井まで届く大きな窓の向こうには、夜景を再現したバックパネルが広がっている。調度品の一つ一つにまで高級感が漂い、まるで本物の豪邸に迷い込んだかのようだった。計算し尽くされた照明が、空間に奥行きを与えている。そこに立った瞬間、現場の空気は一変する。スタッフたちの視線が自然と一点に集まり、誰もがこれから始まる芝居に意識を集中させていた。監督が小さく頷く。「……スタート」――カメラが回る。わずかに作動音が響いたあと、世界は完全に“ドラマの中”へと切り替わった。鏡の前に立つ女。久遠ひかるが演じるのは、名家の令嬢であり若き社長夫人、白鷺玲子(しらさぎ・れいこ)。背筋を伸ばし、指先まで神経の行き届いた立ち姿。呼吸のリズムさえ優雅に見える。ひかるはすでに玲子そのものだった。玲子は、鏡に映る自分をじっと見つめていた。「……完璧ね」小さく呟く声には、揺るぎない自信が滲む。艶やかな黒髪は一筋の乱れもなく肩に落ち、計算されたメイクは彼女の美しさを冷たく際立たせている。体の線を美しく見せるドレスは歩くたびに静かに揺れ、社長夫人としての威厳を自然にまとわせていた。誰が見ても、非の打ち所がない女性。そのはずだった。だが次の瞬間、その瞳にわずかな陰が差した。玲子はゆっくりと視線を外し、寝室の扉へ目を向ける。扉の向こうは、静まり返っている。広すぎる邸宅。満ちているのは豊かさではなく、音のない孤独だった。「……また、帰らないのね」その言葉は、誰に向けたものでもない。独り言のようにこぼれ落ちる。玲子はサイドテーブルに置かれたスマートフォンを手に取る。《今夜は会食が長引く。先に休んでくれ》玲子は画面を見つめたまま、表情を変えない。しかし、指先だけがわずかに強張っていた。ほんのわずかな震え。それだけで、彼女の内面に押し込められた感情が伝わってくる。やがて、静かに息を吸い――「あなたが私を愛していることだけは、疑わなかった」その台詞に、現場の空気が凍る。ひかるの声は決して大きくない。むしろ囁きに近い。それなのに、胸の奥へとまっすぐ刺さってくる。モ
連日、久遠ひかるに関しての噂がネットを賑わせていた。過去の男性関係、家政婦疑惑、法外な請求――どの記事も断定を避けながら、「そのようだ」「関係者によれば」といった曖昧な言葉で飾られている。読む者の想像を煽る典型的なゴシップだった。だが、その流れを一瞬で断ち切る出来事が起こる。世界的な人気を誇る大物アーティスト、Ethan Vale(イーサン・ヴェイル)と、読者モデルの姫宮きらりの熱愛報道が持ち上がったのだ。『深夜の密会!!極秘愛』派手な見出しと共に掲載された写真には、高級ホテルの地下駐車場で人目を避けるように車へ乗り込む二人の姿が、はっきりと写っていた。どうやらこちらは本物のスクープらしい。ひかるの記事のように、憶測ばかりを並べたものではない。決定的な写真と、具体的な日時。言い逃れのできない“事実”がそこにあった。噂よりも、真実の方が断然強い。民衆の興味は残酷なほど正直で、一瞬にしてそちらのスキャンダルへと流れていった。昨日まで久遠ひかるの名前を検索していた人々が、今日はイーサン・ヴェイルと姫宮きらりの関係を追いかけている。トレンド欄からも、ひかるの名前は静かに姿を消した。久遠ひかるの事務所も、付き人の篠原夕季も、そして久遠ひかる自身も、ようやく張り詰めていたものを緩めることができた。夕方、ひかるのスマートフォンが鳴る。画面に表示された名前を見て、ひかるはすぐに姿勢を正した。「ひかる、もう大丈夫よ。これからも、しっかり演技しなさい」電話越しに聞こえてきたのは、事務所社長の白鳥可憐(しらとり・かれん)の声だった。普段は冷静沈着で知られる彼女の声にも、安堵の色が滲んでいる。「はい。ありがとうございます」ひかるはそう答えると、ふっと肩の力を抜いた。知らないうちに、ずっと呼吸が浅くなっていたことに気づく。通話を終えると、テーブルの上に置いていた台本を手に取った。明日から始まる、藤崎優との撮影。そのための読み込みと、セリフの練習をしていたところだった。ひかるはすでに、先日黒崎俊哉と天城蒼真が訪ねてきたマンションを解約している。過去の気配が残る場所に、これ以上居続ける理由はなかった。新しく選んだのは、街の灯を見渡せる小高い丘の上のマンション。夜になると、宝石を散りばめたような光が眼下に広がる。いつまでも、俊哉の影に脅かされたくない。
バーの中は、静かなざわめきに包まれていた。間接照明だけが頼りの薄暗い空間に、低く流れるジャズ。氷がグラスの中で触れ合う乾いた音が、ときおり耳に届く。藤崎優は、カウンターの端の席に座り、手元の書類から視線を上げなかった。黒縁の眼鏡に、落ち着いた色味のジャケット。普段の彼を知る者が見ても、すぐには気づかないほどの控えめな変装だった。俳優という仕事柄、人に顔を覚えられている自覚はある。だからこそ、こういう場所では細心の注意を払っていた。つい先ほどまで、横の席に座っていた男――事務所専属の私立探偵から報告書を受け取ったばかりだった。探偵は必要以上に語らない男だったが、その報告は十分に具体的だった。優は、ウイスキーのグラスに指を添えながら、もう一度、報告書の内容を頭の中で整理する。今回の、久遠ひかるに関するネットの噂。あまりにも出来すぎている。偶然の炎上とは思えなかった。探偵の調査によって、まず浮かび上がったのは黒崎俊哉の存在だった。経営する会社は資金繰りが悪化し、倒産寸前。そこへ突然持ち上がった「五十八億円請求」の話題は、世間の同情を引くには十分だった。だが、それだけではない。黒崎の周囲を調べるうちに、相沢玲奈という女性の名前が頻繁に出てきた。あの、スタジオの玄関先で、黒崎と大喧嘩をしていた女だ。モデル上がりの女優志望。気が強く、プライドが高い。オーディションに落ちた過去を引きずり、特定の女優に強い敵意を抱いている――。そして、その“特定の女優”こそが、久遠ひかるだった。さらに、もう一人。結城美緒。新人女優。最近になって急速に露出を増やし、なぜか今回の騒動の周辺に必ず現れる人物。優はグラスを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。(黒崎俊哉と相沢玲奈……そこに結城美緒。だが――)問題は、そこへどう久遠ひかるが関わってくるのか、だった。報告書を読む限り、ひかるは確かに黒崎と過去に同居していた。だが、書かれている状況は、世間が想像しているようなものとは明らかに違う。むしろ――利用されたのは、ひかるの方だ。優の視線が、わずかに鋭くなる。(彼女が、自分から誰かに寄りかかるタイプには見えない)長く同じ現場に立ってきたからこそ分かる。久遠ひかるは、静かだが芯の強い女優だ。必要以上に弁明せず、仕事で答えを出すタイプ。だからこそ、今回の沈黙も理解でき
「夕季ちゃん……心配してくれて、ありがとう」ひかるは静かに立ち上がると、篠原夕季の肩にそっと手を置いた。その手は温かく、包み込むような優しさがあった。取り乱していた夕季の呼吸が、わずかに整っていく。篠原夕季は、涙で濡れた瞳でひかるを見つめた。まっすぐで、どこか必死な視線だった。尊敬と不安が入り混じったその表情に、ひかるは胸の奥がわずかに締め付けられるのを感じる。「ひかるさん。このままにして、ひかるさんに何かあったら……私、嫌です」震える声だった。だがそこには、逃げる気配のない強い感情が宿っている。ただの付き人としてではなく、一人の人間として、ひかるを守りたいと思っているのが伝わってきた。ひかるは、夕季の言葉に微笑むと、夕季の向かいの椅子に座り直した。慌てる様子はない。その落ち着きが、かえって彼女の強さを物語っていた。「夕季ちゃんには言っておくわね。私は、そんなに簡単に、潰されるつもりはないわ。でも、お掃除の仕事をしている時に、ある男性に誘われて、その彼のお仕事を手伝っていたのは本当のことなの。そして、その彼に、プロポーズされて、一緒に住むことになったんだけど……」そこまで話すと、ひかるは言葉を切り、少し俯いて考えていた。視線が床に落ちる。普段は見せない沈黙だった。控室の時計の秒針だけが、やけに大きく響く。やがて顔を上げると、また話しだした。その瞳には、過去を真正面から見据える覚悟が宿っている。「その彼の事業が、順調になったころから、彼は私を大切にしてくれなくなった。そして、『お前は家政婦みたいなものだ』と。」その言葉を聞いた、夕季の目が見開かれた。信じられない、という感情がそのまま表情に浮かぶ。思わず何か言いかけたが、言葉にならない。ひかるはなおも続ける。声は静かだが、どこか硬い。「そしてある日、私と彼が住む家に、ある女性を連れて来たんだけど……」再び言葉が途切れる。ひかるはゆっくりと、大きく息を吸った。胸の奥に沈めていた記憶を、ひとつずつ掬い上げるように。夕季は、ひかるが話し始めるまで、急かさずに待った。両手を膝の上で握りしめながら、ただ耳を傾ける。やがて、ひかるが辛い思い出を語るような、自分の恥をさらすような、そんな顔で言った。「私の彼とその彼女は、私の前で愛を語り合って、毎晩、彼らが愛し合う声を聞かされて……」夕季の喉が小
「カット!!」スタジオに、監督の声が響き渡った。張り詰めていた空気が、その一言で一気に緩む。大型照明の熱気、機材のわずかな駆動音、スタッフたちの控えめな足音――そのすべてが、撮影の終了を合図に現実の音へと戻っていく。久遠ひかるは、その声を聞いた瞬間、険しい顔から、すっと、いつも通りの優しい顔に戻った。ついさっきまで見せていた感情の激しい表情が嘘のように消え、柔らかな微笑みが浮かぶ。その切り替えの速さは、何度見ても見事だった。撮影スタッフたちは、この、ひかるの、演技に入ると別人になる、この態度を気に入っていた。カメラの前では役そのものになり、カットがかかれば周囲を気遣う穏やかな女性に戻る。そのギャップが、現場の誰からも信頼される理由のひとつでもある。「さすがひかるさん。今の、すごく良かったです!!」と、スタッフたちが声を掛けてくれる。照明担当が親指を立て、助監督も満足げに頷いている。若いスタッフの中には、思わず拍手をしそうになる者もいた。ひかるも笑顔で「ありがとう。お疲れさまでした」と応える。決して偉ぶらず、誰に対しても同じ温度で言葉を返すところが、彼女らしかった。衣装の裾を軽く整え、自分の荷物を持ち、控室へ移動しようと、スタジオのドアを開けたところで、息を切らした篠原夕季と会った。肩で大きく息をし、髪も少し乱れている。普段は落ち着いて行動する夕季が、ここまで取り乱している姿は珍しい。「夕季ちゃん、そんなに急いでどうしたの?」ひかるは驚いて目を見開いて言った。そして夕季の肩に手を掛けて、「控室に冷たい飲み物があるから。さあ、行きましょう」そう言った。声は落ち着いていて、相手を安心させる柔らかさがある。夕季は、膝に手を突き、前かがみの姿勢で息を整えていたが、パッと顔を上げた時には、大粒の涙を流していた。頬を伝う涙は止まる気配がなく、次から次へとこぼれ落ちる。「ひ、ひかるさん……」震える声は、かろうじてそれだけを絞り出した。ひかるは、先ほどよりも、もっと驚いて、夕季を支えて起こすと、「とにかく行きましょう」と、廊下の先の、自分の控室に、夕季を連れて行った。周囲のスタッフが何事かと視線を向けるが、ひかるは気に留めない。ただ夕季の背中を静かに支えながら歩いた。控室に入ると、外の喧騒が嘘のように遮断される。ひかるはすぐに冷蔵庫を開け、よく冷え
天城蒼真と話したあと、夕季はスキップをしそうな勢いで廊下を歩いていた。胸の奥に溜まっていた重たいものが、すっと取り払われたような気がして、自然と足取りも軽くなる。ついさっきまで、美緒から聞かされた噂のせいで心が沈み込んでいたのが嘘のようだった。あれだけ長く、ひかるさんと一緒に仕事をしていた天城蒼真さんが、「ひかるはそんな女じゃないよ」と言ってくれたことが、答えだった。蒼真の穏やかな声や、迷いのない表情が脳裏に浮かぶ。あの言葉には、根拠のない慰めではなく、確信が込められていた。だからこそ夕季は信じられたし、何より安心できたのだ。「この後は、ひかるさんの撮影現場ね」と、確認しながら、ひかるが仕事をしているスタジオへと急いでいた。バッグの中のスケジュール帳を思い出し、頭の中で今日の流れをなぞる。現場に着いたら、まず差し入れをスタッフに渡して、そのあと控室の準備を手伝って——そんな段取りを考えているだけで、付き人としての責任感が背筋を伸ばした。すると、廊下の自販機の横で、若い女優の卵たちが談笑しているのが見えた。色とりどりのレッスンウェアに身を包み、髪型もメイクもそれぞれに工夫されている。笑い声が弾けるたび、周囲の空気まで明るくなるようだった。みんな、若くてきれいな女性ばかりである。とても華があり、廊下を行きかう男性たちも、自然と笑顔で通り過ぎて行った。中には、わざとゆっくり歩いているのではないかと思える者さえいる。篠原夕季も、その女性たちに、軽く頭を下げながら通り過ぎた。その女性たちの会話が途切れる。一瞬だけ、空気が止まったように感じた。背中に視線が刺さるのが分かる。だが夕季は気にしないふりをして、そのまま前を向いて歩き続けた。そして、少し先の廊下を曲がったところで、声を落とした女性たちの会話が耳に入った。「ねぇ、今のって……」「久遠ひかるの付き人でしょ?」夕季の足が、ぴたりと止まる。鼓動が急に速くなった。「ドラマに出るとかって聞いたけど。あれ、どうなるの?」「中止になるんじゃないかって話してる人がいたよ」胸の奥がざわつく。「あー!それ私も聞いた!!しかも、またネットにのってるよ。今度は寝取られ疑惑!!」「うそ!!」「キャー!ホントだ!!」夕季は、角を曲がったところから、姿を隠して話を聞いていた。壁に背中を預けながら、息を殺す。
夜のリビングには、古い映画の音だけが流れていた。白黒に近い色調の、恋人同士が静かに抱き合うシーン。窓の外では、雨がまだ降っている。時折、車の走る音が濡れた道路を滑っていった。部屋の照明は落とされ、テレビの光だけが、ぼんやりと室内を照らしている。そのソファには、二人がいた。黒崎俊哉と、相沢玲奈。玲奈は俊哉の膝の上に横向きに座り、腕を首に回しながら、指先で彼のシャツの胸元をなぞっている。まるで、自分だけが愛されていると確認するように。俊哉の手は、彼女の背中から腰へ、ためらいもなく滑っていた。二人の距離は近すぎて、見てはいけないものを見ている気分になる。「この映画、好きな
「顔も、よく見たら大したことないし」私は俯いて、黙っていた。食卓へ落ちる照明の光が、やけに白く感じる。まるで病院の無機質な灯りみたいだった。温かいはずの食卓なのに、そこには何の温もりもない。目の前には、自分が作った料理。少しでも美味しく食べてもらいたくて、材料の少ない冷蔵庫の中で工夫した。以前なら俊哉は「うまい」と言ってくれた。それだけで嬉しかった。でも今は違う。その料理は、二人の悪意を受け止めるためだけに並んでいるようだった。「そういう顔するの、やめて。なんか……私が悪いみたいじゃない」玲奈の声が鋭くなる。その口元には笑みが浮かんでいるのに、目だけは冷たかった。
その日、私は掃除をしていた。誰に言われたわけでもない。ただ、そうしていないと、ここにいる理由が完全に消えてしまいそうだったから。朝から冷たい雨が降っていた。窓の外は灰色で、部屋の中まで薄暗い。以前なら、こういう日は俊哉のために温かいスープを作って、帰りを待っていた。「寒かったでしょ」そう言ってタオルを差し出す時間が、当たり前にあった。でも今、その場所にいるのは私じゃない。私は、ただこの家を維持するためだけに存在している。雑巾を強く絞り、リビングの床を拭く。フローリングに映る自分の姿はぼんやりとしていて、まるで本当に“空気”になってしまったみたいだった。ソファの上には、
朝、キッチンから聞こえてきたのは、見知らぬ鼻歌だった。ダイニングに入ると、相沢玲奈がエプロン姿で立っていた。手際よくフライパンを振り、まるで何年もここに住んでいるかのように。「おはようございます」私に向けられた笑顔は、丁寧で、冷たい。「俊哉さん、朝はトースト派なんですよね?ひかるさん、知ってました?」私は答えられなかった。そんなこと、聞かれたこともなかったから。俊哉は新聞を読みながら、何事もなかったように言う。「ひかる、邪魔」「そこ立ってると暗い」暗い。存在そのものが、邪魔だと言われているようだった。テーブルの上には、私の席はなかった。「今日から、生活費は管理し直







