華やかなフレンチの世界とは全く違う。 けれど、ここには料理の基礎がある。(この店の料理人は、料理への情熱を持っている) 情熱と技術は、今の春菜にとって何よりも大切なものだ。 婚約者だった翔太が投げ捨てたそれらを大事にして、自分自身を立て直す。 最初の仕事場として、この古びた食堂はふさわしく思えた。 春菜は深く息を吸い込んだ。 ここから自分の足で立ち上がるのだ。誰の影にも隠れない、自分自身の人生を始めるために。 春菜は錆びついたアルミの引き戸に手をかけ、少しの力を込めて横に引いた。 ガラガラッ、と重たい音が、静かな下町の通りに響いた。 店内に足を踏み入れると、昭和の時代から時が止まったような空間が広がっていた。 床は油と長年の歩行ですり減っっている。 壁には日焼けして黄ばんだ短冊メニューがずらりと貼られている。実に多種多様なメニューだった。「肉野菜炒め定食」「サバの味噌煮定食」「カツ丼」。値段はどれも都心の相場より2、3割は安い。「いらっしゃい……」 厨房の奥から、くぐもった声が聞こえた。 声の主は、白い割烹着を着た年配の男性だった。 背中を丸め、大きな寸胴鍋の前に立っている。 顔には深いシワが刻まれ、どこか疲労の色が濃くにじんでいた。「あの、表の求人の貼り紙を見て来たんですが」 春菜が声を張ると、男性はゆっくりと振り返った。 その手には長年使い込まれて、柄が黒ずんだお玉が握られている。「求人……ああ、あれか。もう何ヶ月も貼りっぱなしで、すっかり忘れてたよ」 男性は自嘲するように笑い、コンロの火を止めた。「見ての通り、客も来ないし、もうすぐ店を畳もうかと思ってたところなんだ。だから、あんたみたいな若い人が来ても、払える給料なんて……」「お給料は、お店の売り上げを伸ばしてからで構いません」 春菜は男
Last Updated : 2026-06-14 Read more