تسجيل الدخول春菜は厨房からその様子を見つめて、注文をさばき続けた。
お客たちはみんな笑顔だ。 とても楽しそうに料理と酒を味わっている。(良かった。お酒と食事は、楽しくなければね)
それが嬉しくて、春菜も笑みをこぼした。
◇
数日後、春菜がスマートフォンのレストランポータルサイトを確認すると、赤狸の口コミページには新しいレビューがいくつも書き込まれていた。
『駅裏の古い居酒屋だけど、入り口の立ち飲みが最高。晩酌セットのコスパと味が異常』
『料理の提供が早くて、何を食べてもハズレがない。自家製のサワーも絶品でした』
『大将と女将さんの接客も温かい。次は座敷でゆっくり飲みたい』
星の数は急激に上昇し、連日満員の状態が定着しつつあった。
店を立て直す春菜の目標は、着実に形になっていた。
◇
同じ頃、御
さらに店を追い出された後に届き始めた、見知らぬ金融業者からの督促状の束もある。 一体どうしてここまでのことになったのか、春菜では理解できなかった。 春菜はそれらの書類をテーブルの上に並べた。「こちらです。よろしくお願いします」 年配弁護士は契約書のコピーを手に取って、目を細めた。隣の若手と女性弁護士も身を乗り出して文面に視線を走らせる。 しばらくの間、パラパラと紙の擦れる音だけが室内に響いた。 春菜は手に汗を握りながら彼らの顔を見つめた。(御堂社長を疑うわけじゃないけど、本当に解決できるのかしら。やっぱり正式な書類だと分かって、どうしようもなくなるのでは)「なるほど……これは、非常に悪質ですね」 最初に口を開いたのは若手弁護士だった。彼は手元のタブレットで条文の一部を拡大表示しながら、年配弁護士を見た。「先生。第14条の特約部分、これ完全に素人を騙すためのトラップですよ。主債務と保証債務の範囲が、意図的に不明瞭にされています」「ええ。それに抵当権の実行条件も異常です。通常のテンプレートにはない言い回しが多用されていますね」 女性弁護士も同意するように頷いた。 春菜は彼らの会話についていけず、戸惑いながら口を挟む。「あの。トラップというのは、どういうことでしょうか」 年配弁護士が契約書をテーブルに置き、春菜に向き直った。「佐伯さん。この契約書は、一見すると一般的な連帯保証契約に見えます。しかし細かい特約条項を組み合わせることで、主債務者である元婚約者の方の、一ノ瀬翔太さんの返済義務が実質的に免除され、連帯保証人であるあなたに全額の請求がいく仕組みになっています」「え?」 春菜は目を見開いた。「翔太が私の実家を抵当に入れると決めたのは、2人の店を作るためでした。あの時は、彼も本気で夢を語っていました。それなのに、最初から私に借金を押し付けるつもりだったんでしょうか」 あの時の翔太と春菜は、心が通じ合っていたはずだったのに。
翌日の午前。春菜は都心のビジネス街にそびえ立つ、ガラス張りの高層ビルを見上げていた。 御堂ホールディングス本社ビルである。 陽光を反射する巨大な建造物は、周囲のビルと比べても強い存在感を放っていた。 春菜は手持ちの服の中で、一番見栄えのする白いブラウスと紺色のスカートを着てきた。 それでも足を踏み入れるのに勇気が要る。 自動ドアを抜けると、大理石の床が広がるエントランスホールがある。空調の効いた冷たい空気が肌を撫でた。「あの……佐伯春菜です。御堂社長に呼ばれて来ました」「佐伯様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」 受付で名前を告げると、すぐに専用のエレベーターへ案内された。 耳が詰まるほどの速度で上層階へ到着する。 案内されたのは、重厚感のある木製のドアの向こうにある重役用会議室だった。 壁の一面は完全にガラス張りになっており、眼下にはミニチュアのような東京の街並みが広がっている。 中央には磨き上げられた長大で立派なテーブルが鎮座していた。(場違い感がすごい。私、完全に迷い込んだ子羊状態なんだけど。子羊のローストにされて食べられちゃわないかな) 春菜が部屋の隅で縮こまっていると、別のドアが開いて御堂礼司が入ってきた。 今日は深いネイビーのスーツを着ている。彼の後ろには、揃ってダークスーツを着た3人の男女が続いていた。「よく来たな、佐伯。座ってくれ」 礼司はテーブルの中央に腰を下ろし、春菜にも席を勧めた。 春菜は革張りの椅子に浅く腰掛ける。 礼司の隣に並んだ3人は、それぞれ手帳やタブレット端末をテーブルに置いた。「彼らは我が社専属の法務チームだ。企業間の訴訟や契約トラブルの解決において、国内で右に出る者はいない」 礼司の紹介に合わせ、3人の中で一番年配の白髪交じりで眼鏡をかけた男性が頭を下げた。「御堂社長からお話は伺っております。早速ですが、お手持ちの資料を拝見してもよろしいでしょうか」 年配弁護士の落ち着いた声に促されて、春
「プロトタイプ店舗の総料理長が借金取りに怯えていては、最高のパフォーマンスなど出せないだろう。私はシステムに不確定要素を残すのが嫌いでね」 淡々とした口調だが、その言葉には絶対の自信と権力が裏打ちされていた。「君は、料理と店の経営にだけ集中しろ。外部のノイズはすべて私が遮断する」 冷たい路地裏の空気が、彼の放つ圧倒的な熱量によって塗り替えられていくようだった。「私が君の盾になろう。全てのトラブルから、私が君を守る。だから、君の腕を私に貸してくれ」 礼司は右手を差し出した。 節立って大きな、数々の経営判断を下し続けてきた手。 春菜はその手を見つめた。 翔太には裏切られ、手酷く捨てられた。 たった1人で日銭を稼ぎ、いつ取り立てが来るか分からない恐怖に怯えながら、先の見えない日々を送っていた。 だが目の前の男は、春菜の料理と頭脳の価値を認めてくれた。 すべての障害を自分の力で排除すると言い切っている。(……この人なら、本当に全部なんとかしてしまいそう) 感情論や同情ではない。極めて合理的な損得勘定に基づいた、ビジネスとしての提案――の、はずだ。 だからこそ信頼できると、春菜は思った。 彼にとって春菜は、投資する価値のある人間なのだ。 春菜は愛し合っていたはずの翔太に捨てられた。 長年の親友だと信じていた梨沙に裏切られた。 それゆえに礼司のビジネスを強調する言葉に好感を持った。(信じてみよう。御堂社長という人そのものではなく、彼のビジネス眼を) ただ1つ気になるとすれば、彼の両目に不自然なほどの熱が灯っていること。焦がれるような、熱烈な視線。 けれどそれも、春菜は単に「仕事上の熱意」と思うことにした。(……私も覚悟を決める) 春菜はエプロンで自分の右手を軽く拭いた。いつの間にか、緊張で汗がにじんでしまっていた。 それから、礼司の差し出した手をしっかりと握り返した。「分かりました。私の料理と経営のノウ
言い終えると、春菜は再び深く頭を下げた。(これで終わりだ。せっかくのチャンスだったけれど、今の私の状況じゃどうしようもない) 悔しかった。 翔太の裏切りは、いつまで経っても春菜を縛り付ける。 けれど仕方のないことなのだ。 九条不動産が作った契約書はよくできていて、素人の春菜では太刀打ちできない。 借金の利子が膨らんでいくのを恐れながら、生活費を削って少しずつ返していくしかない。 コンクリートの地面を見つめて、春菜は礼司が踵を返して去っていく足音を待った。 大企業の社長が、わざわざトラブルを抱えた人間を起用する理由はない。 しかし予想に反して、足音はいつまで経っても聞こえなかった。 代わりに聞こえてきたのは、短く鼻を鳴らす音だった。「……ふん」 春菜が恐る恐る顔を上げると、礼司はひどく呆れたような顔で彼女を見下ろしていた。「な、何がおかしいんですか」「いや。君があまりにも悲痛な顔で言うものだから、どれほど致命的な問題かと思えば」 礼司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を素早くタップし始めた。「たかが借金か。……君の価値は、そんなはした金で測れるものではない」「たかがって……何千万円ですよ? しかも、元婚約者のバックには大手の九条不動産がついているんです。彼らの法務部が絡んでいるらしくて、素人の私じゃどうにも……」「額の問題ではない。君が『騙されて不当に押し付けられた』と言ったことが重要だ。それに、不動産屋の法務部程度がなんだというんだ」 礼司はスマートフォンを耳に当て、数秒待ってから口を開いた。「私だ。法務部のトップチームを明日の朝一番で社長室に集めろ。個人の債務トラブルに関する案件だ。……ああ、詐欺的手段による連帯保証契約の解除と、錯誤無効を立証して、債務を本来の持ち主に差し戻す。相手は九条不動産の関連だ。コンプライアンス違反も徹底的に洗え。一切の妥協は許さん」 極めて事務的で指示を出し、礼司は通話を切った。
春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある) 春菜は奥歯を強く噛み締めた。 今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。 もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。 御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。 話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。 ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない) せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。 春菜は込み上げてくる無念さを飲み込むと、ゆっくりと頭を下げた。「……御堂社長。私を高く評価してくださり、本当にありがとうございます。料理人として、これ以上ないほど光栄なご提案です」「ならば」「ですが、お受けできません」 きっぱりとした拒絶に、礼司の眉がピクリと動いた。「理由はなんだ。報酬に不満があるなら、希望額を言えばいい。初期費用だけでなく、売上に対するインセンティブも弾む用意がある」「お金の問題ではありません。私個人の、極めて個人的な問題です」 春菜は顔を上げて、礼司の目を見返した。 この鋭い目を持つ男に隠し事をしても、すぐに見破られるだろう。 それならば、変な誤解をされる前に正直に話すしかない。「私には、元婚約者から不当に押し付けられた多額の借金があります。彼が自分の店を出す際、私を騙して連帯保証人にし、その後私を店から追い出しました。実家を抵当に入れたけど、払いきれなくて……何千万円という
礼司は画面を数回タップし、春菜の前に提示する。 そこにはスタイリッシュな店舗の内装パース図や、複雑なシステム構成図が映し出されていた。「先ほども言ったが。君が飲み込むまで、何度でも説明しよう」 タブレットの画面を指で示して見せる。「現在、我が社は社運を賭けて『次世代・飲食店統合AIシステム』を開発中だ。客の予約管理、オンライン決済、需要予測に基づいた食材の自動発注から在庫管理、さらにはダイナミックプライシングまで、店舗運営の裏側をすべてAIが自動化する」「すべて自動化……」 シエルのデリ販売で、春菜は予約決済システムを活用した。 それをもっと高度にした仕組みが、店の業務全体を支援するのだという。「そうだ。料理人は経営の雑務から解放され、料理を作ることだけに集中できる。だが、このシステムを世に出すための、ショーケースとなるプロトタイプ店舗が必要なんだ。システムが完璧でも、提供する料理が凡庸では客は納得しない」 礼司はタブレットの画面を消し、再び春菜の目を捉えた。「だからこそ、君にその店の総料理長を任せたい」「私が……総料理長」「場所は銀座の一等地を押さえてある。最新鋭の厨房設備を用意しよう。メニューの決定権も、厨房の人事権もすべて君に委ねる。君の理想とする店を、好きに作ってくれて構わない」 銀座に自分の店。最新鋭の設備を完備。 現実離れした言葉が春菜の脳裏で踊る。 料理人であれば誰もが飛びつくような、夢のような提案だった。(銀座で、私のお店。スチームコンベクションオーブンも真空包装機も、その他の最新機器も、何でも揃っている厨房……。そこで、私の考えた料理を最高のアシストを受けながら作れるなんて!) 春菜の胸の奥で、料理人としての情熱が熱く燃え上がりそうになった。 みやこ食堂も赤狸もシエルも、やりがいはあった。 けれどやはり自分自身の城を持ち、自分の料理で勝負したいという欲求は、料理人である以上消し去ることはできない。「資金援助と設備投資は、うちのシステム
ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を
高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。「はい、すぐに出せます!」「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫で
アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。 2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。 ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。 結果はすべて同じだった。 面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので
彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。 長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。 これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。 その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。 春菜だからこそあの味が出せた。 部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。







