Tous les chapitres de : Chapitre 11 - Chapitre 20

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11話

 リムジンは矢絃の自宅前で停車した。「これ、僕の連絡先です。車が必要になったら、いつでもお呼びください」 紫苑は名刺を手渡し、にっこり笑う。「ありがとう、助かるわ」「いえ、これも仕事ですから。それでは、また」「えぇ、気を付けて」 リムジンが去ると、百合は家の中に入る。「おかえりなさいませ、……百合様」 少し前までは奥様と呼んできた使用人は、よそよそしい雰囲気でぽつりと言うと姿を消した。きっと、矢絃から何か連絡があったのだろう。他の使用人も、百合の顔を見るなり困ったような顔をし、「百合様」と呼んだ。彼らの目は、まるでよそ者を見るような目だ。 少し前までちょっとした雑談も気軽にできる相手の変化に、複雑な気持ちになる。(物件が決まるまでこの家のお世話になろうと思ったけど、無理そうね) 百合はため息をついて自室に戻ると、近場のホテルを予約した。 荷物をまとめて母の部屋に行く。仕事道具のほとんどは職場に置いてあるため、着替えの他にあるのは資料とノートパソコンくらいだ。「母さん、私だけど、今いい?」 ノックして声を掛けると、困惑気味の藤子がドアを開けた。「百合、ちょっと部屋に入ってちょうだい」 藤子は百合の手を引き、半ば強引に部屋に招き入れる。いつもと様子の違う母を見て、いよいよこの家にはいられないと思う。「母さん、どうしたの?「少し前に、いきなり『あなたはもう働かないで』と言われたの。いったい何があったの?」 藤子は不安げに百合を見上げる。「ねぇ、母さん。ちょっと気分転換しない?」 百合は明るい声を作った。契約についての話をしたかったが、この場では危険だ。何より、一刻も早くこの家から出たかった。「百合?」 訝しげな目で見てくる藤子に気づかないふりをして、百合は明るく言葉を続ける。そうでもしないと、弱音を吐いてしまいそうだった。「ちょっといいホテルを予約したの。今日からだから、さっそく荷物まとめて行こう。3泊するから、着替えは全部持っていったほうが良いかも。それと、充電器も」「急にどうしたの?」「いいからいいから。私が荷物まとめておくから、母さんはタクシー呼んで」 我ながら支離滅裂だと思いながらも、藤子にスマホを持たせて背中を押し、半ば強引に部屋から追い出した。「ちゃんとタクシーを呼んでくれるといいんだけど……」 ぽつ
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12話

 5分もすると、藤子が呼んでくれたタクシーがふたりの前に停車する。運転手はふたりの荷物を見ると、降りてふたりの旅行カバンをトランクに詰めてくれた。「ありがとうございます」「いえいえ。どちらまで行きますか?」「月ノ宮ホテルまで」 百合が行き先を告げると、藤子は顔をしかめる。「そんな高いホテル予約したの?」 「たまにはいいでしょ。私、そこそこ稼いでるんだから」 明るく振る舞うが、藤子の顔は険しいまま。 月ノ宮ホテルは、妻夫木財閥が経営する高級ホテルのひとつ。夜をイメージした内装は、カップルや若い女性、コスプレイヤーなどに人気だ。 百合が月ノ宮ホテルを選んだのは、もちろん偶然などではない。彼が経営するホテルに泊まれば、少しは何か分かると思ってのことだ。期待はほとんどしていないが。 せっかくだから、婚約者が経営しているホテルに泊まってみたいという気持ちもあった。 受付を済ませると、部屋に入る。内装の美しさに、思わず息を呑む。「すごい……!」 白とネイビーを基調とした部屋は落ち着きと高級感がある。ネイビーのカーテンには、金や銀の糸で月と星があしらわれていて、大人っぽさと可愛さを両立していた。「こんなところ、本当にいいの?」「いいのよ。そうだ、ルームサービス頼みましょう。もうお昼すぎよ」 空腹を感じて時計を見ると、15時になろうとしていた。思えば、今日はまだ朝食しか食べていない。「ごまかすつもりじゃないでしょうね?」「朝食しか食べてないの。母さんは?」「空いてるけど……。じゃあ、頼みましょう」「分かったわ。食べ終わったら話してね」 ふたりでルームサービスで昼食を注文し、食事をする。藤子も不安を抱えているのか、喋ろうとしない。百合も何を話していいのか分からなくなり、黙々と食べる。妙な気まずさと沈黙の中で食べた遅めの高級ランチは、味がよく分からなかった。「さぁ、話してちょうだい」 食事を終えると、ふたりは食後のお茶を片手
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13話

「百合。隠したいことがあるとおしゃべりになるのは、相変わらずね。母さんに言えないこと?」 咎めるような母の視線に罪悪感が強くなる。藤子が自分の幸せを望んでいるのは、痛いくらい分かっている。だから母のためとはいえ、契約結婚をするのは良心が痛むし、百合自身も不安でいっぱいだ。それでも、もう止めることはできないし、自分と藤子の将来を考えると、これが最適解だ。「それは……。ごめんなさい、どうしても言えない。けど、あのまま矢絃さんのところにいるより、私も母さんも幸せになれるのは事実よ。お願い、その時が来たら話すから、今は何も聞かないで」 すべて正直に話すことはできない。それでも、できる限り誠実であろうと言葉を紡ぐ。数秒の沈黙の後、藤子は再びため息をつく。「分かったわ。どうせもう、契約してしまったのでしょう? あの家から解放されたのが、何よりの証拠。それならもう、私にはどうすることもできない」「母さん……」 諦めきったような母の顔に、返す言葉が見つからない。「百合、あなたを信じる。きっと、あなたにしか分からない苦しみもあると思う。つらくなったら、母さんのところに来なさい。例え契約の関係で話せなかったとしても、そばにいることくらいならできるから」「母さん……。ありがとう」「お礼を言うのは私の方よ。ありがとう、百合。絶対幸せになりなさい」「うん……!」 百合が返事をすると、藤子は笑顔を見せて手を叩いた。「さ、話も終わったことだし、物件決めましょう。百合はどんなところに住むつもりなの? 母さんは百合が決めた後に決めるわ。できるだけ近くに住みたいもの」「そうね……。どこがいいかしら? 実は、私もまだよく見てないの」「じゃあ、まずはひとつひとつ見ていきましょうか」 ふたりで肩を並べて見取り図や写真を見ていく。豪邸の写真を見ては、素敵だけど掃除が大変そうとか、広すぎて迷子になりそうとか冗談を言い、少し脱線して物件の近くにある店の話をしたりした。 久しぶりに親子の時間を過ごせているような気がして楽しい。百合は冗談を交えながら話す中で、藤子が住みたい物件を探る。 百合は自分の部屋さえあれば、どの物件でもいい。どうせ豪邸に住むのだ、自室くらい与えられるだろう。だったら、母が住みたい物件を見つけ、彼女の要望通り、近くの豪邸を選べばいい。「ここ、素敵ね」 藤子
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14話

「物件も決まったことだし、母さんは温泉に入るわ。百合も一緒にどう?」「私は後で入る。母さん、楽しんできて」「そう? 百合も後で入らないと。せっかくこんなに素敵なホテルに来たんだから」「そうね、今夜入るわ。取引先に連絡しないといけないの」「分かった。あんまり根詰めすぎないでね」 百合は母を見送ると、秋明にメールをした。『母と一緒に熊谷家から出て、ホテルに泊まってるわ。私達と母さんの物件も、なんとか決まった』 メールを送信してスマホをテーブルに置いて外を眺めると、人々が思い思いにプールを楽しんでいるのが見える。「私も、楽しめたらいいんだけど……」 不安で胸がいっぱいで、せっかくの高級ホテルも、楽しむ余裕がない。自分の弱さにうんざりしてため息をつくと、電話が鳴った。秋明からだ。「もしもし?」「今どこにいるんだ?」 感情のこもっていない、淡々とした声。この冷たい声には慣れそうにない。「月ノ宮ホテルよ」「うちのホテルに泊まるなら、事前に言えばいいものを。母親の説得には成功したんだな?」「えぇ、なんとかね……」「どう説得した?」 尋ねられ、言葉に詰まる。「説得したというか、渋々納得してくれたと言ったほうがしっくり来るわね。あなたが誠実でいい人だって言っても、なかなか信じてくれなくて……。契約結婚には反対みたいだけど、矢絃さんから解放されて、契約破棄が不可能だって悟ったみたい」「そうか。それにしても、誠実ねぇ。お前はそういう男が好きなのか?」 馬鹿にするような言い方に、むっとする。百合なりに母を納得させるため、少しでも秋明の印象を良くしようと色々考えていたというのに、こんな言い方をされるのは不愉快でしかない。「大半の女性は、遊び歩いているような男より、誠実な男性に惹かれるものよ」 ぶっきらぼうに言うと、小さな笑い声が聞こえる。拗ねた子供をからかうような、そんな笑い方だ。「そうか、一応覚えておこう。今からそっちに行くから、出かけるなよ」 電話は一方的に切られてしまった。「なんなのよ、もう。ちょーっと成功したからって俺様な態度取っちゃって。感じ悪い」 毒を吐いてスマホをベッドに投げつけるも、気持ちは晴れない。「なにしてんのよ、私は……」 空気を入れ替えようと窓を開けると、人々の楽しそうな笑い声が耳に届く。普段なら微笑ましいと思
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15話

 30分もすると、藤子が温泉から戻ってきた。口ぶりからしていくつかの温泉を回ってくるものだと思っていたから、もっとかかると想定していた。「母さん、はやかったのね」「気持ちよかったわ。百合も入ったら?」 バスローブ姿の藤子は、顔の水滴を拭いながら笑いかける。 「もう少ししたら入るわ」 「難しい顔して、どうしたの?」 「妻夫木秋明が、ここに来るって……」 打ち明けると、藤子の表情が曇る。その顔を見て、話したことを後悔した。「いつ頃来るの?」「分からない……。母さんが温泉入りに行ってすぐに連絡したら、すぐにそっちに行くから待ってろって……」「そう……。今どこにいるか分からないけど、もしかしたら……」 インターホンの音が、藤子の言葉を遮った。このホテルは客に快適に過ごしてもらうために、防音にしてある。完全防音ではないとはいえ、外の音は聞こえにくい。そのため、インターホンがついているのだ。「もしかして……!」 恐る恐るドアを開けると、予想通り、秋明が立っていた。彼は優しい笑みを浮かべ、花束を抱えている。「え……?」「百合、俺のホテルに泊まるなら、一言言ってくれればよかったのに。そしたら、もっといい部屋を用意してやれたんだよ」 秋明は百合を片手で抱き寄せ、耳元に口を寄せる。「いい夫を演じてやる」 そう囁き、百合に花束を手渡した。「もう少しいいものを用意したかったけど、急だったから」「いえ、そんな……。素敵な花束をありがとう」「部屋に入っても?」「えぇ、どうぞ」 仕方なく招き入れると、藤子が驚いた顔でこちらを見ている。「母さん。こちらが婚約者の妻夫木秋明さん」「はじめまして、妻夫木秋明と申します」 秋明はにこやかに、藤子に手を差し出す。藤子は秋明と握手をしながら、困ったように笑う。「まぁ、どうしましょう。私も、あなたが来るって聞かされたのがさっきだったから、こんな格好で……」「急に来てすいません。ですが、百合とお義母様がこのホテルにいると聞いて、どうしても会いたくなって来てしまいました。お義母様は若々しくてお美しいですね。百合の美貌にも納得です」「そんな、お美しいだなんて」 藤子は赤くなった頬に手を添え、締まりの無い笑みをしている。聡明な母も、イケメンには弱いらしい。百合は目の前で繰り広げられる奇妙な光景を、呆然と見て
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16話

 秋明の柔和な態度に、百合は安心するのと同時に、やはり侮れないと警戒した。矢絃は、彼のせいで地獄に落ちた人間を何人も見てきたと言っていた。ふたりの契約はどちらかといえば、百合の方が美味しい思いをする。それでも何か落とし穴があるのではないかと不安になってしまう。「そうだ、エステには行きましたか? 一流のエステティシャンが揃っていて、好評なんですよ」「こんなに立派なホテルに泊まれるだけで、充分幸せです。エステなんて贅沢したら、バチが当たりますよ」「もし金銭面を気にしているのなら、問題ありません」 秋明は名刺の裏に何かを書いてふたりに手渡した。見てみると、彼のサインだ。流麗ながらもクセのある文字は、真似できる人などそうはいないだろう。「これを見せれば、ホテルの有料サービスはすべて無料になります。是非活用してください」「そんな、悪いです」「遠慮なさらないで。あなた方は苦労してきた。だから、少しでも幸せになってほしいんです」「そういうことなら……」 秋明の真摯な訴えに絆された藤子は、名刺を財布にしまう。「エステの他にも、マッサージやヘッドスパがあります。ヘアセットやネイル、メイクをしてもらって、気分転換に出かけるのもいいでしょう。バーやラウンジも、ご自由にご利用ください。午後限定ですが、レストランでアフタヌーンティーも楽しめます。すべて、あらかじめ連絡を入れれば無料で受けられるようにしておきますので、楽しんでいってください」「ありがとうございます。なんとお礼を言えばいいのか……」「ふふ、でしたら、後で感想をお聞かせください。ホテルをより良いものにするためにも、お客様の声は貴重ですから。忌憚ない意見を聞かせていただければ幸いです」「分かりました。よかったわね、百合」「え、えぇ、そうね」 百合はぎこちなく笑う。この男が何を考えているのか、理解できない。「もしよければ、明日それぞれの物件を見に行ってみませんか?」「いいの?」 百合は秋明の顔を見る。彼は優しい笑みを浮かべていた。「僕は仕事で同席できませんが、優秀な秘書に案内させますよ」 秘書という言葉で、紫苑のことを思い出す。秋明と回るのは気まずいが、彼となら楽しく見て回れそうだ。「母さん、どうする?」「私も見てみたいわ」「是非、お願いするわ」「では、明日の9時に迎えに来させます」
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17話

「これは?」「開けてみろ」 秋明は、どことなくうんざりしたような口調で言う。(聞かずに自分で確認しろって言いたいのね……) 彼の意図を汲み取った百合は、恐る恐る封筒を開ける。中に入っていたのは、真っ黒なクレジットカードだ。「クレジットカード? しかもこれ、上限額高いやつじゃなかった?」「月の上限額は9990万円だ」「きゅ……っ!?」 とんでもない額に言葉が詰まる。約1億など、1ヶ月で使う機会もなければ、使い切る方法も分からない。いったい何を買えば使い切れるというのだろうか?「そんなに必要ないわ」「お前はまだ自分の立場を分かっていないようだな」 秋明はため息をつき、やれやれと言わんばかりに頭に片手を添える。そんな仕草されても、百合にはこんなカードを渡される意味など理解できない。「いいか? 契約とはいえ、お前は俺の妻になるんだ。妻夫木財閥の妻が、安物を着ていたら笑われるだろう。お前と母親の分、ワンシーズンにつき最低10着は買い揃えておけ。それと、公の場に出るためのドレスもな」「ちょっと待って。どうして母の分まで? 母さんを巻き込むつもり?」 秋明の言葉に耳を疑う。契約書には、藤子を利用するなど書いていなかったはずだ。(まさか、何か卑怯な手で契約書を……?) 秋明は契約書に細工などしないと言っていたが、矢絃の件を考えると、どうしても身構えてしまう。「お前との結婚は、いずれ発表する。その時に新婦の母がいなかったら不自然だろう? それと、ちょっとした社交パーティに出てもらう可能性もある」 彼の言い分は最もではあるが、それでも藤子が絡むと神経質になる。「母さんに、危険はない?」「安心しろ。普通の晩餐会などに出てもらうだけだ。危険などない。それに、会場にはボディガードも何人か入れる」「そういうことなら……」「あとは、最低限のマナーを覚えておくことだな。お前も、母親も。あとでマナー講師を手配してやる。お前はともかく、母親には必要ないかもしれんが」「どういうこと?」「話は以上だ。俺は忙しい。明日は紫苑の言うことを聞いて行動しろ」「ちょっと!」 呼び止めたが、秋明は聞かずに薔薇園から出ていってしまう。「母さんにマナー講師は必要ないって、どういうことよ?」 母が食事する姿を思い出そうとするが、熊谷家にいた頃は、一緒に食事をする機会
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18話

 部屋に入ると藤子は、疲れた顔をしながら冷たい飲み物を飲んでくつろいでいた。彼女はずっと、年中無休で働いていたのだ。それも無給で。疲れも相当溜まっているはずだ。 藤子は百合に気づくと、笑みを浮かべる。「おかえり、百合。早かったのね。秋明さんは、なんて?」「クレジットカードを渡されたわ。私も母さんも、妻夫木家の人間になるんだから、いい服を用意しておきなさいって」 クレジットカードを見せながら説明すると、藤子は目を丸くする。「私まで? なんでまた……。」「ちょっとした社交パーティーに出てくれると嬉しいって言ってたわ。それと、結婚式にもね」 式という言葉に、藤子は目を輝かせた。本来なら、矢絃と結婚式を挙げる予定だった。だが、ひどい捨てられ方をし、婚約も一方的に破棄されてしまった。誰よりも結婚式を楽しみにしていた藤子は、百合にはそんな素振りは見せていなかったが、きっとがっかりしていたはずだ。「そうよね、結婚式もあるものね。けど、どうしましょう……」「嫌なら私から言っておくけど……」「大丈夫よ」「なら、いいけど」 気になりはしたが、あまりしつこく聞くのも良くないと思い、言及するのはやめた。「それより、せっかくだからエステとか楽しみましょうよ。ね?」「ふふ、そうね。電話してみるわ」 フロントに電話をかけてみると、急だと言うのに、いつでもいいと言ってもらえた。それだけでなく、他のサービスの予約までおすすめされたため、藤子と相談しながらいくつか予約することにした。「さぁ、さっそく行きましょう」 電話が終わると、藤子は上機嫌で言う。気になることや不安なことはたくさんあるが、今は少しでも楽しまなくては損だ。なにより、藤子に楽しんでほしくてこのホテルに来たのだから、秋明の厚意を最大限利用しない手はない。(これくらいで遠慮してたら、きっとこの先やっていけない。妻夫木秋明の妻を完璧に演じるなら、完璧なお金持ちにならないと) VIP対応に慣れるための練習だと思い、藤子と共にエステサロンに向かった。「はぁ、気持ちよかった。10歳くらい若返ったかも」 藤子は上機嫌で自分の頬に手を添える。エステやマッサージ、ヘッドスパを一通り受け、ヨガも体験した。おかげで体も心もリフレッシュできた。百合は高給取りの部類に入るが、エステは月に1度行くかどうかといった頻度だ。
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19話

 翌朝、ふたりはホテルのフロント前にあるソファに座り、迎えを待っていた。「確か秘書の方が迎えに来るのよね? 百合は会ったことある?」 藤子は不安そうに聞く。初対面の人と行動を共にするのだ、無理もない。「小柄で可愛らしい人よ。とても愛想が良いの」「それを聞いて、ちょっとだけ安心した。母さんってほら、ちょっと人見知りなところがあるから」 苦笑しながらそう言う藤子に、子供時代のことを思い出す。あの頃の母は、ママ友との交流に苦労していた。時々ママ友とランチに行っては疲れた顔をして帰ってきていたため、子供だった百合も、母が人付き合いは得意ではないと分かった。 あまり顔に出ていなかったが、きっと熊谷家で使用人をしていた時も、人間関係で苦労していたはずだ。 そこまで考えて、ふとひとつの疑問が浮かぶ。何故秋明と会った後、気疲れしていた様子を見せなかったのか? 藤子はそこまで隠すのがうまい方ではない。熊谷家でそういった素振りがあまり見られなかったのは、きっと会う時間が短かったからだが、秋明のことを考えると少し不自然だ。「そういえば、秋明さんと会った時は大丈夫だったの? 知らない人、苦手なのに」 百合が疑問を口にすると、藤子の目は一瞬泳ぎ、不自然な笑みを浮かべた。「ほら、いい人だったから、大丈夫だったの」「本当に?」 秋明は確かに善人を演じていたが、初対面であったことに変わりない。(それだけあの男の演技が自然だったってこと、なのかしら?) 疑問に思いながらも、それ以上藤子に質問をするのはやめた。これからせっかく新居を見に行くというのに、気まずい雰囲気にしたくなかった。「お待たせしました」 待ち合わせ時間の少し前に、紫苑がふたりに歩み寄る。彼はいつもの愛らしい笑みを浮かべていた。(これなら、母さんもそんなに緊張しないわよね) ちらりと横目で藤子を見ると、その表情はどことなくかたい。「はじめまして、私は妻夫木秋明様の秘書をしている小田巻紫苑です。本日はおふたりの新居の案内などを務めさせていただきます」「百合の母、藤子です。よろしくお願いします」 藤子はぎこちない笑みを浮かべながら会釈をする。百合は内心首を傾げながら母を見る。どんなに愛想が良くても、高身長の秋明よりも、低身長で愛らしい紫苑相手の方が、緊張しないはずだ。それなのに、藤子は紫苑相手に
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20話

 藤子は先程受け取った鍵で玄関を開ける。3人で中に入って見て回る。(ひとり暮らしには確かにいいかも) 一緒に見て回りながら、百合は内心安堵した。当たり前だが、物件に関しては百合も藤子もズブの素人だ。秋明が変な物件に住ませようとすることないとは思っているが、目にするまではやはり不安だった。 風呂とトイレは別になっており、洗濯機やエアコン、冷蔵庫や炊飯器など、最低限の家電は揃っているし、床も壁も天井も、変なシミやよごれひとつない。 風呂、トイレ、キッチン、リビングの他に2部屋ある。片方を寝室にして、もう片方を趣味部屋にでもすれば、きっと充実した暮らしができるだろう。「ふふ、まるで小さなお城ね」 藤子ははしゃぎながら室内を見て回る。百合もそう思うが、あるのは暮らしに本当に必要なもののみで、リビングにはテーブルやソファ、棚などがない。他の部屋も最低限のものしかないため、殺風景だ。 どの部屋も、カーテンレールこそあるが、肝心のカーテンがない。「カーテンは買わないとね」「そうね……。でも、メジャーなんて今は手元にないし……」「ご安心ください。各部屋に必要なカーテンの長さは、あらかじめ測ってメモしておきました」 紫苑はポケットから折りたたまれた紙を取り出し、藤子に手渡す。藤子が紙を開くと、それはこの家の見取り図だった。各部屋の壁に印がついており、数字が書いてある。それがカーテンの長さなのだろう。横の空白には、各部屋に置く家具の推奨サイズまで書いてあった。「ありがとうございます」「いえ。きっとカーテンは自分で選びたいだろうからと、秋明様がおっしゃっておりましたので」「そうだったの……。こんなに至れり尽くせりでいいのかしら」「楽しんでくれたほうが、きっと秋明様もお喜びになります。また見たいところはありますか?」「いえ、大丈夫です」「では、お次は奥様の新居へ向かいましょう」 3人は再び車に乗る。妻夫木夫妻が住む予定の豪邸は、藤子の家から車で5分もかからない場所にあった。 豪邸に着くと、親子は言葉を失った。車を10台停めても余裕がありそうな庭は大半が芝で覆われており、東屋の周囲には花が咲き乱れている。大きさはそれほどではないが、屋根付きのプールにビーチチェアまで設置されていた。「すごい……」 ようやく出てきたのは、月並みの言葉だ。「そんなに驚
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