All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

澪は不思議そうに眉をひそめた。聡祐に友達追加されて以来、彼からメッセージが来たのは初めてだ。何のつもりなのか、澪には分からない。ただ、聡祐も紗耶の肩を持ち、彼女の言い分をあっさり信じている人間だから、これ以上関わる必要はない。澪は迷うことなく、聡祐をブロックした。そのままアカリ製薬に戻り、また研究室にこもる日々を送った。――聡祐はいつまで経っても返事が来ず、上の空になっていた。いっそのこと、もう一通送ってみることにした。【俺のこと、登録してないんですか?陸原聡祐です】メッセージは送れたものの、いつまで待っても既読はつかなかった。澪にブロックされたかもしれないと、聡祐は察した。「……」聡祐は二秒ほど固まったあと、信じられないものを見るように画面を見つめた。突然火がついたのように怒りが湧き上がったかと思うと、すぐに冷や水を浴びせられた。澪は、自分の誘いを拒んだ。まさか、澪に断られるとは。「聡祐様?」前方の運転手がおそるおそる声をかけた。聡祐は我に返って、険しい顔で言った。「会社に戻れ」――澪は最近、息つく暇もないほど忙しい。K大と共同で進めている新薬の開発は、急ピッチで進んでおり、紗耶たちが薬剤の配合を決めれば、すぐに動物実験と臨床試験に取りかかれる。しかし、向こうからは一向に連絡がない。進捗が滞っているのは気になったが、澪はすぐに催促することはしなかった。なぜなら、今は玲衣の幼稚園の準備を進めなければならないからだ。来月には新学期が始まる。玲衣はK市に暮らすと決めている。入園先も、早く決めなきゃいけない。澪はK市で評判のいい幼稚園をすべて調べ、総合的に最も優れた一園に絞った。名家の子どもも多く通い、教育環境も設備も申し分ない。そのうえ、彼女の現在の状況で入園手続きが可能な唯一の幼稚園でもある。その幼稚園では、保護者がこの地域に住居を構えていることに加え、資産審査も通らなければならない。住民票をはじめ、必要な書類は宇一に用意してもらうほかない。澪が幼稚園に電話をかけると、担当者が丁寧に答えた。「ちょうど空きが出たところです。募集枠は限られていますが、あとお一人だけお受けできます。月曜日にお子さまとご一緒にお越しください。その際に手続きを進めさせ
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第122話

伊織と話し合った末、月曜日に直接幼稚園へ行くことにした。伊織と玲衣を迎えに行くと、道端で二人が並んで待っている。玲衣は小さなリュックを背負い、おそろいのウサギ耳の帽子もかぶっている。その愛らしい姿に、通りがかる人たちも思わず振り返った。「まあ、なんて可愛いの」隣に立つ伊織は、すっかり得意げで、誰かに褒められるたびに、平静を装いながらも嬉しそうにうなずいた。「ありがとうございます」澪は車を止めて、呆れたように言った。「こんな寒い日に、どうして玲衣まで連れてきたの?今日は遊びに行くんじゃないでしょう」今日は、入園枠のことをきちんと確認しに行く日なのに。伊織は玲衣を抱き上げて車に乗せながら、気にした様子もなく言った。「大丈夫よ。絶対に入園させてみせるから。先に雰囲気を見せてあげたほうがいいでしょう?」玲衣もうなずいた。「うんうん、ママ、玲衣もちゃんと話すから!」「……」あまりの可愛さに、澪はもう何も言えなかった。幼稚園に着くと、伊織は広い敷地を見回して感心した。「これだけ立派なら、お金持ちの子が多いのも納得ね。玲衣にはやっぱり最高の環境を授けてあげなくっちゃね」しかし澪は、どこか落ち着かなかった。園側がはぐらかすばかりで、何を言われるのか見当もつかず、どうしても不安が拭えない。「おばちゃん、あそこに行ってもいい?」玲衣は伊織が自分を一番甘やかしてくれるのを知っていて、目を輝かせながら敷地の奥にあるキッズエリアを指差した。伊織はすぐに顔をほころばせた。「いいよ。行っておいで」玲衣は頬を赤らめながら駆け出しかけたが、ふいに戻ってきた。澪の手を引いて、かがんだ彼女の頬にちゅっとキスをした。伊織の頬にも同じようにキスをしてから、嬉しそうにキッズエリアの方に走っていった。伊織はすっかり上機嫌になった。これなら園側と揉めても、負ける気がしない。澪は思わず笑った。園内の警備には不安がないので、玲衣が遊び始めたのを見届けてから、伊織と二人で園長のところに向かった。この幼稚園は、子どもたちの習い事にも力を入れているらしい。園内にはポニーに乗れるスペースまであり、園長がそちらにいると聞いて、二人はそのまま向かった。だが、そこで見覚えのある人影を目にした瞬間、澪の表情がこわばった。律
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第123話

澪は、周囲から二人が夫婦だと思われていることに驚いた。征司が紗耶を妻として紹介したのか。それとも、見る者がが二人を夫婦だと錯覚するほど、二人は親密に見えるのか。紗耶はもともと澪を無視して、そのまま征司のもとへ行くつもりだった。ところが、園長が澪に自分と征司を夫婦として紹介するのが耳に入った。彼女はゆっくりと足を止めると、満足そうに口元を緩め、澪を横目で見た。「お話しすることなんて何もありません。今回の件は、こちらが優先なんです。そちらの方もこれ以上しつこくしないでもらえませんか?」そちらの方?澪は思わず笑いそうになった。人の夫に手を出しておきながら、今さら澪を知らないふりまでして、よくもそんな顔ができるものだ。「紗耶、人のものを横取りするのが癖になってるんじゃない?人の夫だけじゃ飽き足らず、何でもかんでも奪わないと気が済まないわけ?どこまで欲張りなのよ」紗耶の挑発的な態度に我慢ならない伊織は、容赦なく言い返した。紗耶の顔から笑みが消えた。伊織が穂積家の娘でなければ、わざわざ言葉を選んで相手をする必要などない。道理で澪とつるんでいるわけだ。澪から自分の悪口をどれだけ吹き込まれているか知れたものではないが、あまりにも無礼じゃないか。「もう現実を受け入れたら?結局選ばれなかったのはあなたの方でしょう。大人なんだから、自分が思ってるほど力も魅力もないって認めなさいよ。いつまでも勝手に私を悪者扱いするのはやめて」紗耶が何を言いたいのか、澪にはすぐに分かった。征司に選ばれたのは自分なんだから、奪ったことにはならない――そう言いたいのだ。これが真実の愛だとでもいうのだろうか。「勝手に悪者扱い?」伊織は呆れ果てて、怒るどころか笑いがこみ上げてきた。どうしてここまで恥知らずになれるんだろう。どう言っても征司の妻は澪だ。これでは、まるで澪のほうが征司を奪ったように聞こえる。「征司」紗耶は伊織には答えず、電話を終えてこちらへ歩いてくる征司の方を向いた。唇をきゅっと結び、不満そうに口を開いた。「穂積さんたちが、律樹の枠を取ろうとしてるみたいなの」澪は眉をひそめた。入園枠を奪ったのは紗耶たちの方だ。それを、よくも自分たちが横取りしに来たかのように言えるものだ。征司は澪の顔をじっ
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第124話

澪は征司の顔をじっと見つめた。その瞬間、征司がわずかに目を細めた。気のせいか、彼の瞳の奥に笑みが浮かんだように見えた。「お前が一番強気に出られる時は、おばあさんを頼る時だけか?」征司が何を思ってそう言ったのかは分からないが、澪には、誰かに助けを求めることしかできないのかと馬鹿にされているように聞こえた。「目的を果たせるなら、やり方なんて何でもいいでしょ。あなたがそう教えたんでしょう」澪は一歩も引かなかった。征司は再び目を細め、紗耶も顔色を変えた。美佐子がどんな人か、紗耶はよく知っている。彼女は若い頃から時雄とともに会社を切り盛りしてきた人物で、人を見る目も経営手腕も並外れている。このところ、征司が自分をかばい、美佐子の怒りを代わりに受け止めてくれていたからこそ、何とかやり過ごせていた。そうでなければ、とても耐えきれないはずだ。澪が美佐子に告げ口して、話を大げさに伝えれば、今度は怒りの矛先が自分に向くに違いない。澪はなんてずるいんだろう。美佐子を持ち出して脅すなんて。しかし、澪は自分が間違っているとは少しも思わなかった。征司は愛人の弟のために、実の娘を犠牲にしたのだ。玲衣にこんな理不尽な思いをさせるわけにはいかない。その場に気まずい沈黙が流れた。そばにいる園長まで、どうしていいか分からず戸惑っている。断片的な言葉のやり取りを聞く限り、この三人の関係はどうやらかなり複雑なようだ……一体、どちらが本当の森宮夫人なのだろうか?しかし、ほどなくして彼は察しがついた。昔から、妻より愛人を優先する男はいるものだ。今の様子を見れば、誰が大切にされていないのかは明らかだった。園長は同情のこもった目で澪をちらりと見た。「もういいです。律樹も誰かと取り合ってまでこの幼稚園に入りたいとは思ってませんから」紗耶が突然そう言って、澪を冷たく睨んだ。穂積家の子供のために征司と揉めるなんて、澪もつくづく愚かだ。伊織は思わず鼻で笑った。ずいぶん立派な言い分ではないか。人のものを奪って不愉快な思いをさせておきながら、最後に「取り合う気はない」なんて、よく言えるものだ。「それでいい」征司がようやく口を開いた。口元に薄い笑みを浮かべ、澪から園長へ視線を移した。「最初の予定どおりに進めてください」
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第125話

征司も、まさかこんな状況になるとは予想していなかった。小さな女の子が勢いよくぶつかってきたが、背の高い征司はびくともしない。視線を下げると、まず目に入ったのは、ふわふわのウサギの耳がついた帽子だ。リュックは片方の肩に掛かり、もう一方の肩紐は腕に引っかかっている。ぶつかった反動で、女の子は一歩後ろによろけた。白くて小さな手で鼻を押さえ、か細い声で「いたっ」と漏らした。征司はとっさに手を伸ばし、大きな手で女の子の後頭部を支えた。そのおかげで、女の子は転ばずに済んだ。「痛かったか?」玲衣は赤くなった鼻をこすり、顔を上げて征司を見ると、可愛らしいえくぼを見せて笑った。「痛くないよ」その顔を目にした瞬間、征司はなぜか一瞬、息を呑んだ。胸の奥が、ほんの少しくすぐったくなった。それはあまりにも奇妙で、これまで感じたことのない感覚だ。彼はその正体をはっきりと捉えることも、それがどんな感情なのかを理解することもできなかった。玲衣は、遊べるのは二十分だけという澪との約束を思い出した。子ども用のスマートウォッチで時間を確かめると、もう一度、顔を上げた。「おじさん、ぶつかっちゃってごめんなさい。バイバイ」玲衣はにこにこと手を振ると、征司の横をすり抜けて、別の方向へと小走りに去っていった。彼が何か言おうとした時、玲衣はすでに遠くまで走っていた。ウサギの耳をぴょこぴょこ揺らしながら遠ざかっていく後ろ姿を、征司はじっと目で追っていた。気づけば、彼は玲衣が走り去った方へ一歩踏み出していた。「征司?あの子のこと、気に入ったの?」そばにいる紗耶は当然、征司の反応に気づいた。玲衣が走り去った方に目をやり、眉をひそめた。「本当に可愛い子ね」実際のところ、征司が他の子供に関心を寄せるのが気に入らなかった。可愛さなら、律樹のほうが上のはずだ。征司はようやく視線を戻し、無意識に薬指を撫でた。「何でもない。ただ、どこか見覚えのある顔だと思っただけ」「そう?」紗耶は不思議そうに首を傾げた。紗耶には、どこかで見たような顔だとは思えないが、目を引くほど可愛らしいことだけは確かだ。紗耶自身、人前に出る仕事をしているため、これまでにも顔の整ったキッズモデルを数多く目にしてきた。それでも、先ほどの女の子ほど
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第126話

子供にだって分かることなのに、大人はなぜこんなに簡単に線引きを曖昧にしてしまうのだろうか。伊織は澪が何を考えているのか察して、話題を変えた。「今度、新しい番組を立ち上げることになったの。和漢医学を広めるための企画で、企業の人間も特別ゲストとして呼ぶ予定なのよ。アカリ製薬も候補に入ってるから、そのときは澪も出てよ。知之さんに相談したら、あなたを推薦してたの」和漢医学を広めるなら、澪以上にふさわしい人はいない。「ママ、テレビに出るの?」それを聞いた玲衣が、目を輝かせた。「もちろん。ママはすごいんだから、もっといろんな人に知ってもらわなくちゃね」伊織は玲衣に合わせて、わざと子供っぽい声で答えた。澪は思わず笑った。「いつ?予定が合えばいいよ」知之が推薦してくれたのなら、引き受けてもいいと思った。「じゃあ決まりね!澪が出てくれたら、視聴率も稼げそう」澪も出演に抵抗はない。番組を通じて知識を広め、少しでも多くの人に和漢医学を知ってもらえるのなら、それに越したことはない。成果が出るまでには時間がかかるだろうが、やる価値がある。伊織は玲衣を隆一の家まで送り届けた。澪はアカリ製薬の研究室に戻り、開発の進捗を確認した。研究チームの作業は、これまで順調に進んでいる。ところが……「澪さん、K大から連絡があったんですけど、こちらの生薬エキスの配合比率がおかしいって言うんです。白石さんが、K大側の西洋薬の比率と合わないから、配合試験を一か月延長したいそうです」芹奈は焦った様子だった。澪は眉をひそめた。「配合比率がおかしいって?」原料の配合比率は極めて重要なので、澪はすべての工程を細かく確認してきた。彼女が綿密な計算を重ねた以上、問題なく調製できているはずだ。あとはK大側が適切に配合すればいいだけだ。「白石さんはそう言ってます。配合に問題があるから、試験期間を一か月延ばしたいと」澪は呆れて笑いそうになった。自分の技術不足を、よくもこんなふうに言い換えられるものだ。調製に失敗した責任をアカリ製薬に押しつけるつもりらしい。澪はウイルス解析室へ向かいながら、冷静な口調で言った。「猶予は十日。それまでに対応できないなら、潔く身を引いて、チームからも外して、できる人に任せるわ」今回の件で、おおよその事情
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第127話

澪も眉をひそめた。「紗耶も出演する予定なの?」伊織は椅子にだらりと寄りかかり、不満をぶちまけた。「紗耶は瑞穂メディカルの代表として出るのよ。征司の会社よ。あれだけ優秀な人材がそろってる会社なのに、まだ実績も浅い紗耶が選ばれるなんて、いくらなんでも露骨すぎるでしょ」今回の番組には、全国から選ばれた十社の医療企業が参加することになっており、瑞穂メディカルは業界最大手の一つだから、当然、出演企業に選ばれている。ただ、澪は紗耶が瑞穂メディカルのプロジェクトに加わっていることすら知らなかった。今後は瑞穂の資金や人材を思う存分使えるということだ。以前、征司が紗耶にスマート医療の事業を任せると言っていたが、どうやら本気だったらしい。しかも今回は、業界を牽引する瑞穂メディカルの代表として出演すれば、それだけで紗耶は業界で一目置かれるようになるだろう。「さっき上司に掛け合って、あなたたちを別々に出してほしいって頼んでたの。澪と紗耶が同じ画面に映るなんて、見てる方がいたたまれないから」伊織はどうしても納得できない様子で、再び身を起こし、上司にメッセージを送る。だが、澪の心はもう波立たなかった。征司はもうすぐ元夫になる人だ。ウェディングフォトを燃やされた一件で、征司との結婚がもう終わるのだと嫌というほど思い知らされた。そのおかげで、心の準備はもうできている。自分の生活にまで口を出してこない限り、二人が人前でどんなに親密に振る舞おうと、好きにさせておけばいい。伊織が粘った甲斐はあって、上司も根負けしたらしい。結局第一回には紗耶だけを出すことにした。ところが、伊織はそれでも不満だ。「なんで紗耶が先なのよ?」またメッセージを送ろうとする伊織を、澪は慌てて止めた。「もうそのくらいにしとけばいいよ。あまり食い下がると、上司との関係まで悪くなるから」伊織は苛立たしげに机を指で叩いた。「結局、紗耶が瑞穂メディカルの代表だからよ。相手によって態度を変えるなんて、ほんと嫌になる」それは澪にも分かっている。アカリ製薬も業界では名の通った企業だが、瑞穂メディカルほどの大手が相手では、どうしても優先順位は下がってしまう。何より、紗耶の後ろには征司がいる。「第一回に出なくていいなら、今日はあなたが働いてるところを見ていこうかな」澪
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第128話

伊織はインカムを手に、落ち着いた様子で現場に指示を出している。澪は彼女の隣に座り、すっかり仕事モードに入ったその姿を見つめている。ほどなくして、アシスタントが慌ただしく駆け寄ってきた。「伊織さん、白石さんがいらっしゃいました」伊織は手を振った。「来たならそのまま案内して。わざわざ出迎える相手じゃないでしょ」アシスタントは、興奮を隠せない様子で続けた。「違うんです!白石さんだけじゃなくて、瑞穂メディカルのトップ、森宮社長も一緒なんです!上の判断で、森宮社長にも白石さんと一緒に出ていただくことになりました!」進行表をめくっていた澪の手が止まり、瞳にかすかな驚きがよぎった。征司は昔から、こうした公の場に出ることをひどく嫌っていた。大勢があの手この手で取材を申し込んでも、すべて断られるほどだった。まさか紗耶の番組にわざわざ足を運び、彼女に付き添って、その引き立て役になるとは。伊織の表情も険しくなった。澪が考えていることを、彼女も察したのだ。それでも彼女は、怒りを噛み殺すように言った。「征司は一体どういうつもりなの?」澪は目を伏せ、進行表の端を指でなぞった。視線は、結婚指輪を外した左手の薬指に落ちている。七年もはめていたせいで、外してからしばらく経った今も、指の付け根にはまだうっすらと指輪の痕が残っている。その跡は、みじめだった記憶を今も澪に突きつけてきた。「紗耶のことなら、出演番組に至るまで彼はすべて把握しているはずよ。あなたが企画担当だと知れば、紗耶の出番を減らそうとするかもしれないと見抜いたんでしょう。だから、自らも出演する道を選んだんだ。彼が同席すれば、上層部も無視はできない。紗耶は局から特別扱いされ、出番も増えるはずよ」澪はもともと頭の回転が速い。すぐに状況を整理して征司の狙いまで見抜いた。征司ほど賢い男なら、そこまで思い至らないはずがない。だが、紗耶のためにそこまですれば、二人の関係が普通ではないと世間に仄めかしているようなものではないか。「上に掛け合ってくる!」伊織は勢いよく立ち上がった。澪は深く息を吸って、伊織の手をつかんだ。「無駄よ。征司がわざわざ顔を出す意味なんて、誰だって分かってる。掛け合っても門前払いされるだけだし、下手したらあなたまで収録の担当を外されかねないわ
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第129話

収録スタジオはいくつかの控室に分かれている。アシスタントに案内され、澪はすぐに紗耶のいるメイクルームにたどり着いた。紗耶は番組側のヘアメイクを使わず、わざわざ高額で雇った専属のスタッフを連れてきているらしい。どうしても視聴者の心に強い印象を残したいのだろう。澪がメイクルームに入ろうとした時、廊下の先に立つ征司の姿が目に入った。彼は片手をポケットに入れ、少しうつむいている。おそらく仕事のメッセージに返信しているのだろう。上着は腕にかけ、窓から差し込んだ光が上質な白いシャツに落ちている。スタッフたちがつい視線を向けてしまうのも無理はない。征司の容姿がどれほど圧倒的な魅力を持っているか、澪も認めている。しかし、そんなものは、ぼろぼろになった結婚生活の中ではもう何の意味も持たない。彼女の視線はスマホを握る征司の手に向けられた。その手には何もはめられておらず、結婚指輪もない。そもそも彼は、結婚してからもほとんど指輪をつけたことがない。澪とは違う。澪はあの指輪を、まるで自分の一部のようにはめていた。外した今でも、その跡はまだ消えない。そう思うと、ひどく滑稽に思えた。どうしてもっと早く気づけなかったんだろう。どうしてもっと早く外せなかったんだろう。あの頃の澪は、征司はアクセサリーが苦手なだけだと、自分に言い聞かせていた。離婚を前にした今なら分かる。彼は初めから、澪と結婚していることを周囲に知られたくなかったのだ。だから指輪もつけず、外ではずっと独身のように振る舞っていた。澪が近づくと、征司は何事もないように顔を上げた。彼女がここにいることを、少しも意外に思っていないようだ。澪はすぐに察した。自分も番組のゲストリストに名を連ねていることを、征司は知っているはずだ。つまり、彼は澪が番組に出ると分かっていながら、それでも紗耶に付き添い、二人そろって出演するつもりなのだ。自分を世間の笑いものにする気なのか。その考えに、澪は眉をひそめた。振り回されているような不快感が、ますます濃くなっていく。「ちょっと話していい?」できるだけ平静に聞こえるよう、澪は声を抑えた。征司はスマホをポケットにしまい、澪と向き合った。「わざわざ聞く必要もないだろう。もうこうして呼び止めてるんだから」その言い回しは冗談
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第130話

「征司、行こう」背後からかかった声に、澪の言葉は途切れた。離婚のことを言いかけた、その瞬間だ。振り返ると、紗耶が冷ややかな目で澪をにらみつけている。まるで澪が、夫を奪おうとしている愛人か何かのような目だ。征司は短く「うん」と答え、澪を一瞥しただけで、そのまま彼女の横を通り過ぎて紗耶のもとへ向かった。紗耶は満足そうに口元を緩め、ためらいなく征司の腕に手を添えた。二人は寄り添って、そのまま去っていった。窓から吹き込む風に、澪は思わず身震いした。確かに、期待するだけ無駄なのだ。もうすぐ離婚するからといって、征司が紗耶とのことを隠すはずがない。そんなことを期待した自分が甘い。戻ると、伊織が入口で待っていた。「どうだった?うまくいったの?」澪は首を横に振った。「だめだった」「やっぱりね。さっきも紗耶が征司の腕にべったりくっついて、ほかの出演者に挨拶して回ってたわよ。まるで天下を取ったみたいな顔して!」伊織は吐き捨てるように言った。けれど、澪にはそんなことを気にしている余裕はない。玲衣に実の父親のことを一生隠し通すことなど、到底不可能だ。玲衣だっていつか自分で考え、少しの手がかりから実の父親のことを知ろうとするだろう。もし玲衣が本当に征司と紗耶の姿を目にしたら、その無垢な世界を壊さないように、どう説明すればいいのだろうか。征司が出るなら、澪はその場にいて、二人が寄り添う姿を見ているなんてできるはずがない。伊織の仕事が終わるまで、澪は休憩室で待つことにした。その間にアカリ製薬の研究チームとオンライン会議を行った。一時間ほど経った頃、伊織から音声メッセージが届いた。【うそでしょ!征司、番組に出なかったの!紗耶一人で、あいつは途中で帰ったよ】澪は意外そうに目を見開いた。まさか、こんな展開になるとは思わなかった。「どうして?」「知らないわよ。どうりで紗耶の顔が強張ってたわけね!あいつがいなかったおかげで、紗耶の出番も遠慮なく減らせたわ。ほんのちょっとしか映してないけどね。途中から何度も睨まれたよ」伊織の楽しげな笑い声が響いた。しかし澪自身は、特に嬉しいとも思わなかった。征司と紗耶がどう振る舞おうと、玲衣や祖父に影響が及ばないならそれでいい。澪はパソコンをしまい、休憩室を出た。
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