Semua Bab 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Bab 111 - Bab 120

317 Bab

第111話

感情の込もっていない言葉だったが、澪の耳にはどうにも不快に響いた。 今さら、言葉の裏までいちいち考える気にもなれない。夫としての思いやりからの助けてくれたわけではないことなど、とうに分かっている。ただ、取引の材料として差し出しただけだ。征司の冗談めいた言い方には取り合わず、澪は驚くほど冷静に言い返した。「ここまで高価なものだと、所有権をめぐって揉める可能性もあるでしょう。できれば、私のものだと分かるように、書面を作ってもらえる?」この香箱はそう簡単に手に入るものではない。彼女は元々用心深く、いかなるミスも許さない。それに先日病院で、征司とは完全に離婚の話がついている。離婚協議書にも、征司は当然目を通しているはずだ。離婚が目前に迫っている今、征司が金を出して買い戻したこの品を、不倫の償いとして受け取るつもりなら、なおさら曖昧にはできない。「分かった。書面はこっちで用意する」「じゃあ、これで決まりね。いつできるの?」澪はほっと息をつき、顔に喜びが浮かんだ。朝比奈家の品が戻ってくるなら、もうすぐ元夫になる男の恋愛事情に協力し、紗耶とのことを黙ってやるくらい、どうということはない。「家で待ってろ」澪は眉をひそめた。家で?もうすぐ離婚するというのに、まだあの家に帰れというのだろうか。「でも……」別の場所で話そうと口を開きかけたが、その前に電話は切れた。ツーツーツーという音が澪の言葉を遮った。まるで部下を相手にするような、独断的で冷たい切り方だった。しかし澪はとうの昔に慣れっこになっていて、顔色一つ変えずにやり過ごせる。それでも、この香箱の所有権だけは、きちんと明確にしておかなければならない。隣で話を聞いていた伊織は、事情を理解したようだ。「こんな骨董品、買っただけですぐ手元に届くわけじゃないでしょう。手続きだって相当大変なはずなのに、彼もずいぶん手間をかけたじゃない?」澪の瞳にためらいがよぎり、やがて肩をすくめた。「そうでもないわ。本当はおばあちゃんの嫁入り道具の翡翠の帯留を返してほしいけど、彼は紗耶のためにそれを手放したくないのよ。その代わりに、この香箱を寄越して、私を黙らせるつもりなんでしょう」「じゃあ、これはあなたのために金を使ったことになるの?それとも紗耶のため?
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第112話

あるいは、自分が家を出たことさえ、征司は気づいていないのかもしれない。だから家で会おうと言ったのだろうか。澪はこの馬鹿げた疑問を深く追及するのをやめた。かつての新居に着き、リビングへ入ると、五人ほどの使用人がフルーツを切って盛り付けの準備をしているところだった。今日は房江が休暇を取っているため姿が見当たらず、澪は他の使用人に声をかけた。「征司は?」「まだお戻りになっていません。ただ、今日は旦那様のお友だちがお見えです」若い使用人の一人が、どこか気まずそうな表情で答えた。澪は時刻を確かめながら、何気なく聞いた。「どなた?」「藤堂様です」彰人――澪は思わず眉を寄せた。彰人のことは、もともと好きではない。生まれながらに恵まれた立場にいて、そのプライドを隠そうともしない。昔から澪のことを嫌っているため、顔を合わせればいつも気まずい空気になる。「どこに?」「庭でお茶を……」使用人は一瞬ためらうような素振りを見せたが、結局他に誰がいるのかまでは言わなかった。澪はうなずき、ただ征司を待っている気にもなれず、先に寝室へ行くことにした。前回持ち出せなかった荷物を、少しでも片づけておこうと思った。寝室に入った途端、澪は違和感を覚えた。写真を飾るために設けられたスペースが……空っぽになっている。征司との何枚ものウエディングフォトが消えていた。彼女の足が止まり、しばらく何もない壁を見つめていた。そこへ一人の使用人が洗濯物を持って入ってきた。澪は壁を指した。「写真は?」使用人は気まずそうに視線を伏せた。「奥様、怒らないでください。写真は外されて、裏庭へ運ばれました。止めたんですけど……」自分と征司が暮らすこの家で、二人の写真を勝手に外すようなことをするのは、あの女以外にいないだろう。澪はすぐに裏庭へ向かった。庭では、すでに黒煙がいくつも立ち上り、風に煽られた炎が舌のように揺れている。庭にはそれなりに大きなドラム缶が置かれており、その中に一番大きいウエディングフォトがすでに投げ込まれている。缶の脇にはまだ放り込まれていない写真立てがうずたかく積まれている。その前に立っているのは紗耶の弟、律樹だ。澪の姿を認めると、いっそう悪意に満ちた笑みを浮かべ、さらに一枚の写真立てを掴ん
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第113話

炎の光が澪の顔を揺らしていた。 彼女はかつて必死に願ってようやく撮れたウエディングフォトを律樹の手から奪い取り、その襟元を軽々と掴んだ。そして、奪い取った写真立てを彼の膨れた顔めがけて高々と振り上げた。「何してるの!」背後から紗耶の驚いた声が飛んだ。しかし、澪は律樹の襟元をつかんだ手を、少しも緩めない。ボウタイを締めた少年の首元は、澪が指をひっかけてひねり上げたことで、一瞬で締まった。あまりの苦しさに、律樹の顔は真っ赤に染まった。まだ幼い律樹には、澪の力から逃れることなどできない。顔を真っ赤にして、苦しげな泣き声を漏らした。澪はゆっくりと振り返った。そこには外から帰ってきた征司と紗耶がいる。まるで一緒に帰ってきた新婚夫婦のように、二人は肩を並べている。その姿はひどくお似合いだった。張り詰めた光景を目にした征司の瞳には、息が詰まるほどの威圧感がにじんでいた。彼は澪をじっと見つめているが、責める言葉は口にしない。一方で、紗耶は顔色をすっかり変えた。律樹がつかまれている姿を見て、胸を痛めると同時に激怒した。「律樹はまだ子供よ!私に不満があるからって、子供に当たるなんておかしいでしょう!」「子供?」澪の声は、意外なほど静かだ。「獣に育てられたのかと思ったよ。人の言葉も分からず、人の道に外れたことしかできないんだもの」澪と征司が結婚して七年になる。夫婦として並んで写った写真は、美佐子に言われて撮ったこのウェディングフォトだけだ。かつて惨めだった彼女の恋心にとって、それは唯一の心の支えだった。たとえ離婚しても、もうすぐ赤の他人になっても、かつて宝物のように大切にしていたこの写真には、もう未練はなかった。だからといって、それを紗耶やその家族の手で捨てられ、踏みにじられ、燃やされることだけは、どうしても許せない。それなのに、征司は紗耶と律樹をこの家に招き入れた。紗耶の表情がすっと冷えた。澪が逆上して律樹に何をするか分からないと警戒しているのだろう。「言い方が下品すぎるわ。大人同士のことで子供相手に威張り散らして何がしたいの?」彰人は口を挟まなかった。今日の件に限っては、この手に負えない子をかばう気にはなれない。彰人が来た時には、すでに律樹も来ていた。運転手に送らせて、
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第114話

「痛いんだよ!俺のこといじめた!下手したら殺人未遂だ。訴えてやるからな!」澪は征司に掴まれていた手をゆっくりと引き抜いた。その手に触れられることさえ嫌うように。「いいよ。診断書でも取って、好きに騒げばいいわ」紗耶は苛立たしげに、皮肉な笑みを浮かべた。自分が人目を引く立場だから大ごとにはできないと澪は高をくくっているのだろうか。征司は、澪が自分の手を振りほどくのを黙って見ている。表情の読めないその目を見れば、彼が何を思っているか、澪には嫌でも分かった。紗耶にここまで恥をかかせるなんて、ひどくないか――そう思っているのだろう。紗耶は律樹をなだめると、大股で歩いてきて、征司の隣に立った。澪に謝ることなどなく、征司だけを見つめて言った。「ごめんなさい。律樹はまだ子どもだから、何がいけないのか分かっていないだけなの。でも、悪い子じゃないわ。あなたも分かってるでしょう?」彼女は澪とまともに話すつもりなどない。こんな女を相手にすれば、自分まで同じ程度に見られてしまう。征司はようやく澪から視線を外した。「ああ、たかが写真だ」澪の胸が、どくんと鳴った。征司は燃え盛るドラム缶へ目を向けた。その眼差しには、炎の熱さえ届いていないようだ。「燃やしたければ、燃やせばいい」あまりにもあっさりとした一言だ。澪は彼の彫りの深い横顔を見つめた。その無関心さが、冬の夜気よりも冷たく胸の奥を鋭くえぐった。七年。七年の結婚生活は、まるで長い夢のようだ。犬や猫だって、七年も一緒にいれば、少しは情も移るだろう。しかし、最初から愛してもいない女が相手では、七年尽くそうが一生尽くそうが、彼にはただ重荷でしかなく、決して彼の気持ちが自分へ向くことはないのだ。「ほら、お義兄さんだってどうでもいいって言っただろ!写真なんてどうでもいい!お前だってどうでもいいんだ!」律樹は得意げに澪を指さした。――澪なんて、どうでもいい。その言葉を聞いて、紗耶はかすかに口元を緩めた。律樹はただ本当のことを言っただけで、澪にもきちんと思い知ってほしい。また写真立てを火に投げ入れようとする律樹を、紗耶は止めようともしなかった。澪は二人を一瞥し、背を向けてドラム缶の前へ歩いていった。征司への思いを断ち切れず、澪が取り乱してい
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第115話

澪には、彼らがどう思おうと、もうどうでもいい。征司がどんな表情をしているか確かめもせず、何の感情も見せずに背を向けて立ち去った。自分はただ、やりたいことをやっただけだ。「子どもだから分からない」という言い訳を、もう受け入れるつもりはない。玲衣だって律樹と同じ年だ。それなのに物分かりがよく、いつだって素直だ。律樹だけが、自分がしていることの意味を本当に分かっていないのか。それとも誰かにそそのかされて好き放題しているだけなのか。今の澪には、そんなことはもうどうでもいい。要するに、征司がこの姉弟を特別扱いしている。それだけのことだ。去っていく澪の背中は、恐ろしいほどに頑なだ。征司はその姿を目で追ったが、表情には喜怒哀楽の欠片もうかがえない。やがてその視線は、赤々と燃え盛るドラム缶の中へと静かに落ちた。「律樹、征司さんに謝りなさい」紗耶は澪が去っていった方を見やり、目の奥に冷ややかな笑みを浮かべた。負け犬のくせに、ずいぶん気が強い。こんなに騒ぎ立てたのも、征司の気を引きたいからだろう。女の浅はかな企みなど、彼女にはお見通しだ。律樹はすぐに征司のそばへ駆け寄り、抱きついた。「ごめんなさい。もうしないよ。でも、あの女がお姉ちゃんをいじめるの、嫌なんだもん……」「律樹、そんな言い方しちゃだめ」紗耶は困ったようにたしなめた。征司はドラム缶から視線を外し、目の前の律樹を見下ろした。「手を洗ってこい」さっきまで庭で遊んでいたせいで、律樹の手も服もすっかり汚れている。こうして優しく声をかけられ、律樹の顔はぱっと明るくなった。やはり征司お義兄さんにとって、自分と姉のほうが大事なのだ。紗耶も、征司が律樹を責めるつもりもなければ、咎める気もないと察した。それはつまり、征司にとって澪など取るに足らない存在だということだろう。そう思って、彼女は満足そうに口元を緩め、征司を見上げた。「征司って、私より律樹に甘いんだから」誰も、さっきの澪のことにはもう触れなかった。まるで何事もなかったかのように。「紗耶のために、そうしてるだけだろ」彰人はそこでようやく口を挟み、澪の去った方を複雑な目で見やった。紗耶は少し頬を染め、甘えるような眼差しを征司に向けた。征司が自分を大切にしていて、彰人も味
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第116話

そのことを征司は澪には話していない。煙草の灰をはらいながら、何かを思い出したように征司はふと笑った。「うちの奥さんは、前より随分と扱いにくくなったようだ」彰人は意外そうに彼を見た。「ウェディングフォトまで燃やしたのに、腹が立たないのか?」征司は答えずに踵を返し、屋敷の中へ入っていった。燃え続けるドラム缶には、もう一度も目を向けなかった。「好きにさせとけ」澪はタクシーでやって来た。ここから大通りに出て配車アプリを呼ぶには、二キロ以上歩かなければならない。 もともとは骨董品の所有権について征司と話すつもりだったが、こんな騒ぎになってしまった今、そんな話をする機会はもうないだろう。澪は黙って歩きながら、離婚が成立する日を頭の中で冷静に数えている。かつて前会長が二人に署名させた離婚協議書は、公正証書として作成され、必要な手続きも済ませてあった。征司はまだそのことを知らない。しかし離婚の手続きはすでに進んでおり、たとえ何か予期せぬことが起きても、協議書の効力が失われることはない。定められた日を迎えれば、前会長から離婚が成立したことを証明する書類が届く。その時には、玲衣の親権・養育権放棄の同意書も同時に有効となるはずだ。前会長が介入したことで、かえってこの離婚は覆せないものになった。どうやってこの結婚から逃げ出すか、もう思い悩む必要さえない。澪は足を止め、もの寂しい空を見上げた。もうすぐだ。もうすぐ、新しい人生が始まる。もう二度と自分の幸せを誰かに委ねるのはやめよう。プップー。クラクションが鳴り、澪のそばにマイバッハが止まった。窓を下ろした彰人がこちらを見上げた。「どこ行く?送ってやろうか」澪は彼を見て静かに言った。「今さら親切なふりでもするつもり?」彰人は一瞬あっけに取られ、呆れたように笑った。「澪、お前もずいぶん言うようになったな。俺が心変わりしたわけじゃないだろ。なんで俺にまでそんなつっけんどんなんだよ?」澪は襟元を押さえ、顔色ひとつ変えずに言い返した。「あなたもあの人たちと同じだっていうのは私の勘違い?紗耶の肩を持つのは勝手だけど、あんな連中に尻尾を振るなんて、ずいぶんみっともないわ」「……は?」彰人はこれまで、人前で恥をかかされるような目に遭ったことはほとんど
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第117話

その夜、澪はよく眠れなかった。夢の中に、結婚したばかりの頃、征司とウェディングフォトを撮った日のことが浮かんだ。ミニマリストの征司は儀式めいたことや形式ばったことが好きではない。結婚式も挙げなかったため、負い目を感じていた美佐子が無理やりウェディングフォトを撮らせた。征司は一度引き受けたことにはきちんと最後までやる人で、カメラマンからどんなポーズを求められても一度も異を唱えなかった。肩を抱き寄せたり、頬をそっと撫でたり、そして――「森宮さん、お嫁さんにキスしていただけますか?」その頃の澪はまだ若かった。好きな人を目の前にすれば、胸が高鳴るのも無理はない。てっきり断るだろうと彼女は思っていた。なぜなら、二人は夫婦でありながら、互いに踏み込もうとはせず、どこか他人行儀に接しているだけだったから。ところが征司は平然と頷いた。余裕たっぷりに身をかがめ、顔を傾けて彼女の唇を塞いだ。彼は目を閉じず、息を詰めて身体をこわばらせ、真っ赤に染まった彼女の顔をただじっと見つめていた。そして、少しからかうように眉を上げて言った。「澪、俺たち、夫婦だろう。これから一生を共にするのに、何を照れてるんだ?」 一生……人の約束など、もともと取るに足らないものだ。人の気持ちだって、深く掘り下げれば綻びが出るし、試されれば簡単に崩れる。澪はハッと目を覚まし、目尻が濡れている。それでも、その表情は驚くほど冷静で、意識もはっきりしている。幸いだ。七年にも及んだこの茶番を、自らの手で終止符を打てたのだから。かつて心の支えだったものを自ら焼き払い、征司とはもう赤の他人なのだと改めて思い知らされた。これこそ、自分にできる最も毅然とした決断である。澪は、目尻に滲んだ涙を静かに拭った。ベッド脇のテーブルからスマホを手に取ると、LINEで征司のアカウントを迷わずブロックし、そのまま電話番号も着信拒否に設定した。これで、征司を自分の生活から完全に切り離した。澪は身を起こすと、身支度を整えた。今日は母を見舞うつもりだ。あの事故以来、母は何年もの間、目を覚まさなかった。澪は病室でベッドの脇に静かに腰を下ろし、長い間母を見つめていた。本当は心の中がひどく塞いでいるが、その感情をぶつける場所はどこにもない。ただこ
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第118話

背後から鋭い声が飛んできた。澪が振り返ると、いつの間にか会場に入ってきた紗耶たちが目の前に立っている。蓮は聡祐と少し離れた場所で話しているが、その声に振り返った。澪の姿を目にした瞬間、聡祐は明らかに顔をしかめた。澪は声の主である紗耶だけを見て、淡々と言った。「警備員にでも転職したの?随分と秩序を守るのに熱心ね」そのあまりにも嫌味な言い方に紗耶は顔を曇らせ、正論を振りかざした。「ここにある展示品はどれも特別な意味を持つものよ。フェイが生み出した新技術の記念碑みたいなものなの。壊したら、研究者たちの努力を踏みにじることになるわ」聡祐は紗耶を一瞥し、その瞬間、なぜ征司が彼女を気に入ったのかようやく分かった気がした。確固たる信念があり、物事を広い視野で考えられるうえ、確かな実力と人を惹きつける魅力も持ち合わせている。それに引き換え、澪は……恋人のいる男に目をつけることしか考えていない。そう思って、聡祐の表情はさらに険しくなった。蓮も澪に目を向け、驚いたように尋ねる。「お前、まさか招待状を持ってるのか?」今回のスマート医療の展示会は、誰でも自由に入れるわけではない。素人の澪でも、こういうツテはあるらしい。それでも、澪はまだ征司の妻だから、征司の顔を立てるつもりで、蓮は口調を和らげた。「何も分からないなら、黙って見ていればいい。恥をかくわけじゃない」自分が何度も試行錯誤を重ねて完成させた製品を、紗耶に触るなと言われる日が来るとは、澪にとって思いもよらないことだ。「その気があるなら、紗耶からいろいろ教えてもらえばいい。紗耶は発想も行動力もずば抜けてるからな。上半期には、和漢医学の知見を取り入れたロボットの開発も視野に入れている。漢方を専門とする病院にAIを導入し、問診や診療案内をやらせようっていう構想だ。西洋薬の研究開発にも携わってきたうえ、今度は医療AIの分野にも乗り出そうとしてる。多方面で実績を上げている彼女から、学べることは多いぞ」もし将来、紗耶が医療AIの分野でも成果を上げたら、澪はそれでも征司の妻でいられるのか。蓮は澪がどんな顔をするのかと、内心楽しみながらその様子をうかがっていた。しかし……「へえ、すごい」澪は彼らが自分にどんな反応を求めているか分かっている。だからこそ、心にもない称賛
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第119話

征司が何気ないが一言、その場の空気を一変させた。澪も思わず彼に目を向けた。しかし、彼女はもう何を言われても驚かなくなっていた。征司はいつものように落ち着いた様子で、知之に向かって言った。「森創グループ傘下の瑞穂メディカルは、スマート医療業界でもトップクラスの企業です。瑞穂が後ろ盾になり、協力がまとまれば、今後のアカリ製薬の生産も請け負えます。この条件なら、榊さんにもご納得いただけますか?」紗耶は顔を上げ、隠しきれない喜びをその瞳に浮かべていた。それは、誰かに無条件で愛され、大切にされ、甘やかされている者だけが見せる幸せな表情だ。澪は目を伏せ、口元に浮かんだ皮肉な笑みを隠した。征司は紗耶を全面的に支援する姿勢を隠そうともせず、澪にそれが分からないはずがない。知之はわずかに表情を変えた。「瑞穂が業界のトップであることは承知しています。大手企業ならではの生産力や品質管理も信頼しています。しかし、森宮さんの力と白石さん本人の能力は別です。アカリ製薬としては、白石さん本人の実力もきちんと見極めたうえで判断したいと考えています。俺の知る限り、彼女はこの分野では決して経験豊富とは言えませんが」要するに、紗耶は欲張りすぎている。西洋薬の研究開発だけでは飽き足らず、スマート医療分野にまで手を広げようとしている。自分のことを、若くして実績を上げている澪のような天才だとでも思っているのだろうか。「プロジェクトの中心となるメンバーはこちらでそろえます。榊さんが心配する必要はありません」征司の返答には、一切の隙がなかった。澪にもその意味はすぐに分かった。紗耶一人に任せるつもりはなく、実績のある優秀な人材もこちらでそろえるということだ。これなら、失敗の心配はない。ここまで言われてしまえば、知之もそれ以上は反論できない。「この件は、アカリ製薬として慎重に検討させていただきます。それにしても、白石さんは本当に恵まれてますね。まだお若いのに、森宮さんほどの方にここまで後押ししてもらえるとは」知之はますます澪が不憫に思えてきた。見ているだけでも胸が痛むのだから、当事者である澪なら、なおさらつらいに違いない。紗耶は知之の言葉の裏に込められた皮肉を察した。自分は征司から資金や機会を与えられているだけで、本人にはたいした実力
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第120話

医学的には、回復の見込みがほとんどないことを澪も分かっている。それでも、彼女は諦めるつもりはない。あの事故の真相も、どんな手を使ってでも必ず明らかにする――澪は深く息を吸って、外へ出た。廊下に出たところで、聡祐と鉢合わせになる。泣いたのかと思うほど赤くなった澪の目を見て、聡祐は足を止めた。だが澪は彼を見ようともせず、そのまま横を通り過ぎようとした。「あんなに、あいつのことで思い詰めなきゃいけないのですか?」とうとう我慢できなくなったのか、聡祐は澪の腕をつかんだ。「……?」澪は眉をひそめ、聡祐を見た。「陸原さん、何を言ってるんですか?」この人は突然、何を訳の分からないことを言っているのだろう?聡祐には理解できない。夫がいる女のに、なぜ恋人のいる男にそこまで執着するのか。世の中にはほかにまともな男がいくらでもいるだろうに。「白石さんと森宮さんのこと、これ以上邪魔するのはやめてください」聡祐は澪をまっすぐ見つめた。「さっきのこと、見てただろう。まだ分からないんですか? あの二人の絆は揺るぎないもので、近いうちに結婚するんです。もう森宮さんのことは諦めてください」彼はやはり、澪にはせめて最低限の節度だけは守ってほしいと思っている。夫ともううまくいっていないのなら、せめて相手は独身の男にすればいいものを。澪は口元をわずかに歪めた。もうすぐ結婚する?征司と紗耶は、もう結婚の話まで周囲にしているのか。どうりで、律樹に二人のウェディングフォトを焼かせても、征司が何も言わなかったわけだ。澪の整った顔から、さっと温度が消えた。もううんざりだ。どうして誰も彼も、心変わりした夫が愛人をどれほど愛しているのか、いちいち思い知らせに来るんだろう。今の世の中では、妻は生きていることさえ許されないのか。なぜ皆、紗耶のために説得役を買って出るのか。「ええ、そうですね。分かりました。じゃあお寺に行って、お二人が何度生まれ変わっても結ばれるように祈ってきます。二人でずっとくっついて、もう誰にも迷惑をかけないようにね。これでよろしいですか?」そう言うと、澪は振り返ってその場を立ち去った。聡祐は、遠ざかっていく澪の背中を見つめた。彼女が腹を立てた勢いで、あんなことを言っただけだと彼は思っている
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