LOGIN宇一の態度から、かすかな敵意が伝わってくる。同じ男だからこそ、聡祐はそれを敏感に感じ取った。「穂積社長、それはどういう意味ですか?」宇一は一言一言はっきりと告げた。「澪はそんなふうにされるのを嫌がっているでしょう。無理に迫るのをやめてください」聡祐は表情をこわばらせた。「彼女をかばうつもりですか?それとも……」宇一は顔を上げた。「俺は澪のことが好きです」余計な言葉を一切交えない、まっすぐな告白だ。その一言に、それまでの騒ぎなど一瞬で吹き飛んだ。その場にいる全員は驚きを隠せず宇一を見つめた。穂積家の跡取りである宇一が、よりによって非難されている女に堂々と好意を告げるなんて、誰もが思いもよらなかった。聡祐の顔に浮かんでいた笑みが消えた。澪も呆気に取られ、宇一を見つめる。征司は冷ややかに目を細め、口元にうっすらと嘲るような笑みを浮かべた。しかし、征司が見ているのは宇一ではなく、千鶴子だ。今回のことで彼女がどんな反応を見せるのか、それを確かめようとしているようだ。やがて、ほかの客たちも次々と千鶴子の顔色をうかがい始めた。この場には、宇一が千鶴子の孫娘と婚約していることを知る者が大勢いるのだ。先の発言は、千鶴子の前でその婚約を破るも同然だ。これでは、両家がこれまでどおり円満な付き合いを続けることなど、到底できそうになかった。案の定、千鶴子の表情は険しくなった。こんなことになるとは思ってもみなかったのだ。彰人も一瞬、怒りをあらわにした。宇一に澪を諦めさせようと仕組んだのに、宇一は澪と距離を置くどころか、皆の前で堂々と彼女への思いを告げてしまった。これで話は一気にこじれ、見て見ぬふりをして済ませることもできなくなった。「お客様を広間へご案内して。お茶を出しなさい」千鶴子の声は鋭かった。どうやら、ほかの客を遠ざけて、身内だけで話をするつもりらしい。澪は反射的に身構えた。とうとう、自分もこの問題と正面から向き合わなければならなくなった。だが、いずれこうなることは分かっていた。玲衣のために宇一とあの約束をしたときから、いつかは千鶴子と正面から話さなければならないと覚悟していたのだ。使用人たちはすぐに、客たちを広間へ案内し始めた。そのうちの一人が征司のもとへ歩み寄り、丁重に声をかけた。
その場の空気が一瞬にして凍りついた。つい先ほどまで、一同は製薬業界の今後や研究成果の実用化、医療分野の新たな可能性について、和やかに語り合っていた。だが今は、誰一人として口を開こうとしない。征司は澪の顔をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと視線を落とした。聡祐の手が澪の手首をつかんでいる。そして二人の後ろには、バラの花びらが散りばめられたベッドが見える。それはまるで二人のただならぬ関係を何よりも雄弁に物語っているかのような光景だ。ところが、宇一はほとんど表情を変えなかった。目の前の光景を見ても、驚いた様子すらない。彰人は真っ先に宇一の反応をうかがったが、その平然とした顔を見て眉をひそめた。やがて、人垣のどこからか声が上がった。「こんな日に密会とはね。これだけ人がいるんだから、終わるまで待てなかったのか……」「女性なら、もう少し慎みを持つべきですよ。皆さん、研究や医療の発展を願って集まっていらっしゃるというのに。なんとはしたない……」「朝比奈さんと陸原さんが、まさかそういう仲だったとは。いつから付き合っていたのかしら」人垣のあちこちから声が上がり、最初に言い出したのが誰なのかさえ分からない。その声を聞きながら、紗耶は誰にも気づかれないほどわずかに口元を緩めた。非難の目を向けられる澪をちらりと見ると、黙り込んでいる征司へと顔を向けた。「知らない間に、二人ともずいぶん親しくなっているのね」そう口にしながら、彼女は少し離れたところにいる宇一の様子もさりげなくうかがった。紗耶は内心、澪をせせら笑った。欲張って二人の男を手に入れようとしたところで、最後にはどちらも失うことになる。こんなふしだらな女を、宇一が許すはずがない。紗耶は再び澪に目を向けると、意味ありげな笑みを浮かべて尋ねた。「澪さん、陸原さんの気持ちも受け入れたの?」わざと強調された「も」という言葉には、あからさまな含みがあった。聡祐から公然と言い寄られたあと、宇一からも人前でプロポーズされ、澪はそのどちらにも受け入れた――そう言っているのと同じだった。宇一もその意味に気づいた。紗耶にしてみれば、澪は男を手玉に取るのがうまい女だ。そんな女が穂積家に嫁ごうなんて、身の程知らずも甚だしい。これで宇一も聡祐も、澪の本性に気づいたはず
千鶴子は思わず澪を見た。その目にこもる真剣な思いにほっとして、澪の手をそっと握った。「そうね。きっといつか帰ってくるわ。あの子が生まれたとき、無事に育つようにと、最高級の翡翠でできたお守りを身につけてあげたの。きっと今も、あの子を守ってくれているはずよ」澪は幼い頃から、骨董品や玉石の細工物に詳しい。千鶴子が言うような翡翠のお守りも、実家の骨董店で何種類も見たことがある。「そのお守りって、どんなものなんですか?」と紗耶が尋ねた。聞こえなかったのか、千鶴子はため息をついて席を立った。「みんなはゆっくりしてね」紗耶の表情がわずかにこわばった。まさか、自分の声だけ聞こえなかったのだろうか。千鶴子は彰人に手招きした。「ちょっと来なさい」彰人に逆らえるはずもなく、後について部屋を出ると、困ったように口を開いた。「ばあちゃん、紗耶は一応、征司が連れてきた客なんだからさ。あんな態度じゃ、征司の顔が立たないだろ」千鶴子が誰かの夫や恋人に手を出すような女を毛嫌いしていることは、彰人にも分かっている。千鶴子は鼻で笑った。「征司が連れてきたから、追い出さずにいるんじゃない。あなたに言われるまでもない」彰人は千鶴子の気性はよく知っている。美佐子でさえ、千鶴子にはやり込められたことがある。紗耶の話を続ける気はないらしく、千鶴子は両手を後ろで組んで言った。「アカリ製薬が今進めているプロジェクト、出資してるの?」「いや。業界じゃ、成功する見込みは薄いって言われてるし」千鶴子は眉をひそめ、彼の頭をぴしゃりと叩いた。「目先のことしか見てないんだから!和漢医学研究センターからも応援が来ているのよ。まだ甘く見てるの?国の政策にも関わる話なんだから、もっとよく調べなさい。自分の目でちゃんと見極めるのよ」自分の孫だから、教えるべきことは教えておく。千鶴子はそう思っている。祖母がそこまで高く評価しているとは思わず、彰人は驚いた。アカリ製薬には、本当に大物がいるのだろうか。千鶴子はそれ以上語らず、軽く手を振ると、また客たちと話し始めた。彰人は入り口から室内にいる澪に目を向けた。そこへ秘書が近づいてきた。「社長、穂積社長がまもなく到着します」彰人は不敵な笑みを浮かべ、目を細めた。「澪を呼んできて」澪が出てくると、
紗耶は冷たい声で澪をとがめた。その口ぶりには、征司は自分のものなのだという主張もさりげなく込められている。まるで澪が、人の恋人にすり寄って誘惑しようとしている女のように。紗耶の声を聞いて、何人かが離れた場所からこちらを見た。澪は征司を見ず、その胸に手を当てて押し返し、距離を取った。紗耶が澪を悪者にしようとしていると気づき、伊織はすぐに前へ出て、冷ややかな笑みを浮かべて言った。「白石さんはどういう立場でそんなことを言ってるのですか。みんなにも分かるように説明してくれませんか?」不倫相手のくせに、何様のつもりで澪に指図しているのか。どう答えるか、見ものだと伊織は思う。蓮がこちらを見て言った。「気をつければいいだけだろ。そんなに大げさにすることはないじゃないか」澪は思わず笑いそうになった。また自分たちが大げさに騒いでいることにされたのか? そもそも、先に突っかかってきたのは紗耶のほうだ。伊織が不倫のことを持ち出そうとしているのは、紗耶にも分かっている。だから彼女はそれには取り合わず、蓮に向き直った。「私はただ、誤解されるようなことはしないほうがいいって、ひと言伝えたかっただけよ。ちょっとした言動で変な噂が立ったら困るでしょう?女性が職場でやっていくのはただでさえ大変なんだから」伊織は呆れ返った。今度は、澪の評判を心配しているふりなのか。長年連れ添った夫婦だというのに、彼女の「親切心」など必要あるものか?すると蓮が言った。「せっかく気を遣っても、伝わらないんじゃ仕方ないな。嫉妬してるだけだと思われてるんだから」紗耶は首を振り、軽く笑った。「ただのゲームなのにね。そこまで悪く受け取られたら、私にはどうしようもないわ」こういうことにかけては、澪も紗耶の巧みさを認めざるを得ない。彼女がほんの少し言葉を交わしただけで、すっかりこちらが悪者にされてしまった。恋人のいる男に手を出したうえ、親切な忠告にも逆ギレし、そのうえ、征司をめぐって紗耶に張り合っていることにまでされてしまった。自分がそんな女だというのだから、呆れるしかない。「澪、いったんこっちに来い」聡祐も険しい顔で割って入り、それ以上の言い争いを遮った。先ほど、澪と征司がぴたりと寄り添っているところは、聡祐も見ていた。あのと
やがて全員がくじを引き終え、組み合わせが発表された。澪は自分ボールには「1」が書かれているのを見て、さらに征司の手のひらにあるボールにも同じ「1」があるのを目にし、黙り込んだ。その場の空気がたちまち気まずくなった。紗耶の顔からは笑みが消え、信じられないという表情になった。蓮も聡祐も顔色を変えた。蓮はすぐ澪に言った。「じゃあ、紗耶と代わってくれ。紗耶が征司と組んで、澪は陸原さんと組めばいいだろ」征司と組むことに気が進まないが、それでも彼の命令のような口調には鼻で笑った。どうして、そんな指図を受けなければならないのか。伊織はさらに腹を立てた。「だったら、何のためのくじ引きよ。最初から不倫カップルを指名して組ませればいいじゃない」人前で澪に譲れと迫るなんてふざけないでよ。いったいどちらが征司の本当の妻だと思っているのだろう。蓮のひと言で、伊織はすっかり頭に血が上っていて、何があっても澪を守るつもりらしい。紗耶も面白くないが、ここで強引に組み替えを求めるわけにはいかない。彼女は顎を上げ、征司に声をかけた。「征司、じゃあ勝負ね。手加減しないでよ?」彼女は組み合わせなど気にしていないという顔で、皆の前でいちゃついてみせた。征司は目を上げ、ゆったりと答えた。「いいよ」二人が別々の組になり、周囲が残念がったのも束の間、その後のやり取りはまるでイチャイチャしているようにしか見えない。澪は冷ややかな目でそれを見ると、背を向けて弓矢が置かれている台に向かった。聡祐は深く眉をひそめた。まさかこんな組み合わせになるとは思わなかった。澪が征司のことを好きだと聡祐も知っている。二人を組ませてしまえば、澪がまた征司を好きになってしまうのではないかと、不安になった。彼は思わず彰人に目を向けた。彰人も晴れない顔をしている。先ほどの手違いで、箱の中に仕込んでおいた順番が狂ってしまった。あれさえなければ、こんなことにはならなかったのに。皆が決まった位置につき、百メートル先には、動く的が設置されている。澪は、アーチェリーにあまり慣れていない。伊織と一緒にクラブで何度か遊んだことがあるだけで、腕前はせいぜい初心者程度だ。負ければ、酒を飲まなければならない。澪は酒に弱い。だが、勝てば、アカリ製薬のために有力者の協
澪にあっさり突き放されたが、聡祐は腹を立てる様子はない。何度もそっけなくされるうちに、すっかり慣れてしまったらしい。人前で冷たくあしらわれたことも気にしていないようで、そのまま澪の隣に立ち、ズボンのポケットに手を入れた。「分かったよ。返したくなったら返してくれればいい」伊織は、少し警戒するように聡祐を見ている。何せ澪は自分の兄がプロポーズした相手だ。ここにいる男たちは誰一人として信用に足るとは思えず、自分の兄だけが唯一頼りになる存在だと彼女は信じている。征司に至っては――伊織は思わず、そちらを振り返った。征司は少し身をかがめ、紗耶の耳打ちを聞いていて、澪のほうなど見てもいない。ほかの男に取られるかもしれないと、少しも思っていないようだ。伊織はかっとなった。部外者の彼女でさえ、こんなに腹が立つのに。澪は表情一つ変えなかった。華やかな社交の場に一緒にいても、征司とはまるで他人同士のようだ。彰人が近づいてきて、何気なく澪をちらりと見てから、皆に声をかけた。「せっかくそろってるんだし、何回か勝負しない?」紗耶はすっかり興味を惹かれた様子だ。「ルールは?」聡祐も笑いながら口を挟んだ。「みんな腕前が違うんだから、苦手な人にも勝ち目があるようにしないとな」彰人がアーチェリーで勝負するつもりなのは、聡祐にも分かっている。彰人は片眉を上げ、弓を一本手に取って具合を確かめた。「だから、二人一組にして、くじで組み合わせを決めるんだ。それなら不公平だとは言えないだろう?今日は田中社長や谷口社長、それに都庁の方も来てる。優勝すれば、仕事の話を持ちかけるいいきっかけにもなるだろう。そこはみんな、腕の見せどころだ。負けたチームは罰として酒を三杯。どうだ?」澪は辺りを見回した。千鶴子の顔を立ててか、今日は有力者が何人も来ている。その中には都庁の幹部もいる。何とか知り合いになりたいと思っている人も多いはずだ。この業界において、こうした遊びを通じてリソースを分配するのは珍しいことではない。澪も異議を唱えなかった。それを聞いた蓮が、面白がって口を出した。「二人一組なら、紗耶と征司は一緒でいいんじゃないか?二人を引き離すのも悪いだろう。ほかの人がくじを引けばいい。みんな、そのくらいは気を利かせようよ。恋人同士を
結婚して七年。朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つよ
そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。紗耶は彰
征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞か
澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。あの夜の征司は、まるで別人のようだった。彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊







