جميع فصول : الفصل -الفصل 230

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第221話

あの家に帰って征司と子をつくる?そんなの、絶対に嫌だ。澪は車を降りて、マンションに入った。玄関の前に着いた途端、彼女の顔色がサッと青ざめた。ドアが開いていて、しかも中から人が出入りしている。慌てて中に入ると、部屋の中はほとんど片づけられていた。澪は、作業員用の制服を着た女性を一人つかまえた。「何をしてるんですか?ここは私の家です」女性は驚いたように目を見開いた。「ご存じなかったのですか?私たち、引っ越し業者です。荷物を梱包して、新しい住所へお運びするよう依頼を受けまして。依頼主は、お祖母様だと伺っておりますが」澪は何も言わず、足早に寝室へ向かって引き出しを開けた。引き出しに入れておいた離婚協議書、親権に関する合意書、さらに玲衣を妊娠していたときの検査結果から妊婦健診の書類に至るまで、すべてが跡形もなく消えていた。この瞬間、澪は目の前が真っ暗になるのを感じ、怒りと焦りが一気に押し寄せた。美佐子が強引な人だということは知っている。それでも、引っ越し業者を手配して、澪をあの家に戻そうとするとは思わなかった。澪は一刻も無駄にせず、車を二人で暮らしていた家へ走らせた。久しぶりに帰ってきて、澪はドアの暗証番号すら分からなくなった。昔の番号は征司に変えられてしまっており、人に頼んで開けてもらうしかなかった。リビングへ入ると、業者の梱包用ダンボールが、整然と積み上げられているのが目に入った。ダンボールは種類ごとに分けられ、丁寧にラベルまで貼られている。澪は書類用の箱へとまっすぐ向かった。中をひっくり返して例の書類を見つけ出すと、ようやく呼吸が落ち着いてきた。よかった。今回作業をしたのはプロの業者で、美佐子の身内ではない。私物を勝手に調べるようなこともしなかった。だから、玲衣の秘密は守られた。澪は書類をすべて自分のバッグに入れた。なんとかごまかせると思っていたが美佐子はその先まで読んでいて、いわば「手伝って」やったとばかりに、引っ越しの手配をすべて済ませた。「奥様、お手を煩わせなくて大丈夫です。こちらは、すぐに片づけますから」房江が作業員を連れて二階から下りてきた。澪がいることにも、驚いた様子はない。澪はバッグを抱える手に力を入れた。「征司は、ずっと帰ってないの?」房江は作
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第222話

澪は、房江の言っていることをよくわかった。彼女から見れば、自分が恩知らずな女だろう。澪は乾いた笑いを漏らした。お茶には手をつけず、房江に反論するつもりもない。話の通じない相手と言い合っても、気力をすり減らすだけで、何の役にも立たないからだ。「自分の荷物は自分で片付けますから、ほっといてください」美佐子がここまでして自分をこの家に住まわせようとしているのだ。また出ていこうとすれば、簡単に許すはずがない。ここで無理に出ていけば、余計に美佐子の怒りを買い、離婚を取り消すと脅されるだけだ。正面から逆らうのは得策ではない。今は、迂回して対処するやり方を考えるしかない。房江は、澪が意地でも出ていこうとしないのを確認すると、ようやく笑みを浮かべた。「では、荷物は二階にお運びしますね。あとはごゆっくり片付けてくださいね」澪に断られる前に、房江は作業に声をかけた。「荷物は全部、主寝室へ運んでください」主寝室に荷物を運び込めば、澪もそこで暮らすしかなくなる――房江はそう考えているのだろう。美佐子にできるのは、澪をこの家に住まわせるところまでだ。二人が本当に子どもをつくる気になっているかまで、彼女が確かめられるわけではない。作業員たちは段ボール箱を主寝室へ運び始めた。澪は房江に尋ねる。「征司の新しい番号、教えてくれる?」房江は心の中で小さく息をついた。夫婦でありながらお互いの電話番号すら知らないとは、長年連れ添った夫婦にしては珍しいことだ。案の定、房江は征司の新しい番号を知っている。澪はリビングのソファに腰掛け、征司に電話をかけた。何にせよ、征司には早く帰ってきて、この件を片づけてもらいたい。プルルル、プルルル―― 今度は電話が繋がった。 「どちらさまですか?征司はまだ休んでいますけど」紗耶の声が耳に届いた。その口調には、どこか満ち足りた響きがある。二人はずっと一緒にいるのだろう。澪は一瞬、何も言えなくなった。今は朝の九時を少し回ったところだ。征司がいつから……朝寝坊をするようになったというのか?かつて彼は、夜の営みがどれほど遅くまで及ぼうとも、翌朝は必ず五時五十分に起きて一時間の運動を欠かさない男だった。自分と夜を共にするとき、朝寝坊することなど一度もなかった。愛する相
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第223話

おそらく、征司が持ち出して処分したのだろう。澪はそこまで意外には思わなかった。律樹がウェディングフォトを焼いたとき、征司は何ひとつ反応しなかった。あの時点で澪は、自分という人間が、征司の人生では取るに足りない存在だと分かっていた。どれだけ分かっていても、このフォトウォールには七年かけて積み重ねてきた思いがあった。二人で描いていた未来も、この壁に込められていた。澪は、自分の痕跡が消えたその壁をじっと見つめ、声を出さずに深く息を吸い込んだ。そして顔を背け、自分の荷物を整理し始めた。荷物をすべて出すことはせず、下着や洗面用品など、すぐに必要になるものだけを取り出した。征司が離婚届受理証明書のことを片づけるまで、今は待っているだけだ。そうすれば、いつでもここを出ていける。ここは……とうの昔に彼女の居場所ではなくなった。鳥かごに閉じ込められたままでいるつもりはない。かつて自分で作った「愛」の檻から抜け出して、自由になりたい。作業員たちを全員帰らせたあと、澪は長い間考えを巡らせた。当然、このまま黙って言いなりになるつもりはない。できることは、何でもやる。美佐子が離婚をなかったことにさえしなければ、まだ打つ手はある。澪はバッグの中から大切な書類をすべて取り出し、スーツケースに入れて鍵をかけた。そのとき、伊織から電話が入ってきて、澪は事情を簡単に説明した。「それ、もう脅して無理やり従わせてるのと同じじゃない!あなたに後ろ盾がないと思って、好き放題にいじめてるのよ!」伊織は電話の向こうで声を荒らげた。結局のところ、あの人たちは澪を、立場の弱い女だから簡単に思いどおりにできると思っているのだ。澪には、頼れる家族も後ろ盾になってくれる実家もない。母はあの事故以来、十年以上も意識が戻らないままベッドに横たわっていて、祖父も高齢だ。もし澪の実家が森宮家に劣らない力を持つ家だったら、向こうがこんな理不尽な真似をしないのだろう。澪にもその理屈は分かっているが、生まれる家は選べない。澪は、自分の家が劣っていると思ったことは一度もない。母さんもおじいちゃんも、自分のことを何より大切にしてくれた。そして仕事のことなら――「アカリ製薬の新薬も、もうすぐ世に出せるんでしょう?それに、あの技術的な難題
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第224話

二台の車が停まっていて、先頭を歩いているのは征司と紗耶だ。どうやら旅行先から帰ってきたばかりらしい。紗耶はまだ楽しさの余韻を顔に残し、満面の笑みを浮かべながら、征司に甘く柔らかな視線を向けている。何か内緒話でもしているのか、紗耶は背伸びをするようにして、征司の耳元で囁いている。征司はいつもどおり落ち着いた様子だが、歩調は自然と紗耶に合わせている。澪は思わず立ち尽くした。もう夜の八時を過ぎている。征司は紗耶を連れて、自分たちの家に帰ってきた。まさかこのまま――泊まるつもりなのか?そう思った途端、澪の中に抑えきれない嫌悪感が込み上げてきた。ここは自分が七年かけて大切に守ってきた家だ。そこに別の女が足を踏み入れていると思うだけで、生理的な拒絶感に襲われる。それでも、もう離婚を決めた以上、征司が誰を連れて帰ろうと彼の自由だということも分かっている。おそらくそこに立つ澪がとても目立っているのだろう、紗耶は先に気づいた。さっきまで笑っていた目に、たちまち不快そうな色が広がった。それはまるで、自分の領域に勝手に入り込んできた者を責めるような、強い独占欲のにじんだ視線だ。まるでこの家の女主人は自分だと言わんばかりの態度に、澪は声を出さずに唇の端を歪めた。征司は少し視線を動かし、澪の姿を捉えた。澪がここにいることを意外には思っていないらしい。むしろ軽蔑を込めたような、淡々とした視線で彼女を頭の先から足元まで眺めた。澪は寝間着姿だ。今夜どこで過ごすつもりなのかは、その格好を見れば明らかだ。「澪?」背後から、さらに二人が近づいてきた。澪の姿を認めるなり、二人の表情にもそれぞれ微妙な変化が浮かんできた。とりわけ彰人は、あからさまに動揺した。手にしている企画書に目を落としていたが、気配に気づいて顔を上げた途端、その顔色が変わった。澪がまたここにいることが信じられなかった。征司と澪が離婚したとき、彰人はその場に立ち会っていた。あのときの澪が征司への未練など微塵も感じさせないほど決然とした態度を取っていたから、彼女が二度と振り返ることはないだろうと彰人は本気で思っていた。聡祐とも、ずいぶん親しそうにしていたのに。それが今……、またここに帰ってきたのはどういうつもりなのか。蓮は澪のパジャマ姿をち
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第225話

よくもそんなことが言えるものだと、澪は呆れた。邪魔するって誰を?「不倫してるくせに、きれいごとを言うな」澪の表情は穏やかであるが、その言葉に容赦はない。蓮は言葉に詰まり、目を見開いた。澪の言葉遣いの荒さに度肝を抜かれたらしい。紗耶も顔を青ざめさせ、唇をかすかに震わせた。やはり田舎育ちの下品な女だ。下品でがさつで、まともに相手をするだけ無駄だ。征司は暗い瞳で、じっと澪を見つめている。その目を見れば、また紗耶の味方をするつもりなのだと、澪には分かった。向こうが家まで来て喧嘩を売るのは構わないが、自分が言い返せば、悪い女になる。澪は心の中で冷たく笑い、征司の目をまっすぐ見返した。「文句があるなら、おばあ様に言えばいい。ここに戻れって言ったのはあの人なんだから」そう言い残すと、澪はじょうろと剪定ばさみを手に、庭の奥のカイドウの植え込みに向かった。この連中を相手にする気にはなれない。離婚届受理証明書をどう取り戻すか。そして、美佐子に離婚を覆させないためにも、征司と二人きりで話し合わなければならない。あまりに刺々しい澪の態度に、蓮は呆れた顔をした。「また美佐子様に泣きついたのか?美佐子様を後ろ盾に威張ってるわけだ。意地でも征司にまとわりつくくせに、平気なフリして。自分から戻ったとは言えないから、都合のいい言い訳をしただけだろ」女のちっぽけなプライドなんて、滑稽なものだ。澪が自分の意思で戻ってきたわけではないと、誰が信じるというのか。そこでようやく、彰人が前に出て、手にしている企画書を蓮に渡し、目を通すよう促した。そして征司に向かって言った。「彼女、どういうつもりなんだ?」本当は、まだ離婚するつもりなのかと聞きたかった。ただ、離婚のことを蓮が知っているかどうか、彰人には分からない。まだ知っていないのなら、ここで自分が口にするのはよくない。それに、もし二人が離婚することを蓮に知られたら、おそらく澪に対して、さらに冷酷な皮肉を浴びせるだろう。征司は何か考えるように、澪が去っていった方を一度見たが、何も答えない。彰人は少し考えてからもう一つ尋ねた。「後悔してるんじゃないのか?」離婚したのに、のこのこと帰ってきた。征司のそばを離れられなくなったとしか思えない。ようやく征司は、気のな
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第226話

その話になると、紗耶は眉をわずかに上げた。その点こそが、彼女にとっていちばん胸のすくことなのだ。澪のせいで、あやうく訴えられそうになったが、少なくとも結局澪は何も手に入れられなかった。アカリ製薬の薬が発売されても、澪もただ羨ましく思いながら見ているしかないだろう。その一方で、自分はもうロボット事業の準備を始めている。それに比べて、澪には誇れるものが何ひとつない。研究の成果に名前を連ねる機会も逃し、実力だって足りない。悔しくて、あんなふうに当たり散らすのも無理はない。「じゃあ、投資してくれる?」紗耶は蓮を見た。蓮なら必ず出資してくれると彼女は思う。祖父の命の恩人なのだから、それだけで蓮は自分の味方になるはずだ。蓮は企画書から目を上げた。「もちろん。アカリ製薬のあの技術的な課題が山積みの非現実的なプロジェクトより、君の計画のほうがずっと堅実だから」紗耶の笑みが、いっそう深くなり、今度は彰人へ視線を向けた。「彰人さんは、どう思う?」本当は、彰人にも出資してほしい。藤堂家が出資者に名を連ねるだけで、その計画の信憑性は大きく高まる。出資者に征司、彰人、蓮の名が並べば、このプロジェクトは最初から誰も簡単には届かない場所に立てる。事業が軌道に乗り、上場までこぎ着けられれば、その経歴は申し分のないものになるはずだ。そうなれば、和漢医学研究センターが自分を採らない理由はない。和漢医学研究センターに入ることができれば、その先の道も大きく開ける。紗耶は、彰人も蓮と同じように自分を高く評価し、投資をためらうことなどないと思い込んでいた。しかし彰人はずっと黙ったままだ。すると、紗耶の口元からわずかに笑みが薄れた。「彰人さん?」ようやく彰人は顔を上げ、我に返ったように言った。「投資のプロセスとして、会社で一度評価を行うことになる。採算が見込めるなら、もちろん出資するよ」あまりにも事務的な答えに、紗耶は唇を噛み締めて、少し不満を覚えた。彼女が求めているのは、彰人が迷わず自分の側に立ってくれることだ。評価をしてから決めるという彰人の答えは、自分より会社の利益を優先しているように思えた。もっとも、それも理解はできる。彰人が自分と親しいからといって、会社のことまで独断で決められるわけでは
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第227話

澪は足を止めた。なぜ彰人がわざわざ追ってきて、こんなことを言うのか、さっぱり分からなかった。まるで幽霊に取りつかれたように、しつこく絡んでくる。「紗耶のために、私を説得しに来たの?」と澪は問い返した。彰人は薄い唇を微かに動かした。紗耶の説得役?そう言われると、確かにそうなのかもしれない。「分かってるなら、それでいい」彰人は澪の顔をじっと見つめた。ここ最近、この件がずっと気になっていた。おかげで彰人は一時、自分がかつて友人の妻だった澪に気を取られているのではないかと疑ったほどだ。だが、彼は恋愛に疎いわけではない。それが恋心などではないことくらい、分別はついている。澪の目が怒りで熱を帯びる。美佐子には追いつめられ、征司にはすっぽかされ、玲衣を手放すことになるかもしれない不安は、ずっと胸の上にのしかかっている。そこへ彰人まで、征司の愛人のために説得しに来た。皆、自分を何だと思っているのか。何をされても黙って受け入れる人形だとでも思っているのか。「あなたは私の何なの?私のことをあれこれ言われる筋合いはないでしょう」澪は一言一言噛み締めるように言った。その目には冷たさと、決して引かない強さが宿っている。彰人は澪の赤くなった目を見つめた。その目に浮かんでいる抑えきれない悔しさを、彰人は初めて見た。これまでの澪は、彰人に対して遠慮がなく、いつも突き放すような態度だった。こんなふうに悔しさを覗かせる姿は、見たことがなかった。彰人は何か言おうとして、唇を開きかけた。胸の奥が不意に強く締めつけられ、自分でも理由の分からない痛みが広がった。そうだ。自分は澪にとって何なのか。なぜ彼女のことに口を出さずにはいられないのか。「もう私に関わらないで」澪はとうとう堪えきれず、そう言い捨てて、振り返らずにその場を去った。部屋に戻ると、澪は顔を洗った。征司が紗耶を連れて帰ってくるとは思いもしなかった。以前の澪なら、きっと胸が痛んだだろう。それは妻である自分の顔に泥を塗る行為そのものだからだ。だが今の彼女にとって、それはむしろ好都合に思えた。征司が紗耶に一途なら、離婚届受理証明書のことも、自分以上に急ぐはずだ。彼女が望んでいるのはまさにその状況だ。征司たちが、い
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第228話

征司は房江にちらりと目を向けた。「それは、澪に言われて口を出したのか?」その問いかけには感情もこもっておらず、澪に頼まれたのかと確かめているようにも、ただ何気なく聞いているようにも聞こえる。房江は征司がどう受け取ったのか分からない。だが、もう言ってしまったことだ。「旦那様、私も同じ女ですから。奥様のお気持ちは分かります」征司はふっと鼻で笑った。その仕草が、無欲で冷ややかな顔立ちにいくらかの人間味を添えていた。「もう休んでいい」房江の言葉に、彼は何も答えなかった。子どもの話にも、彼の様子は変わらなかった。房江もそれ以上は勧めなかった。美佐子は、二人にどうしても子どもを持たせるつもりでいて、やり方も強引だ。澪もおそらく、この流れに逆らえず、征司のもとに戻るだろうと房江は思っていた。征司のような夫なら、愛さえ求めなければ何ひとつ不自由はさせない。あれもこれも欲しがるのは欲張りすぎだ。—澪は、薬の承認審査に必要な書類を整理した。明後日には承認審査会が開かれる。承認審査を控えた今は、どの段取りにも気を抜けない。もともと澪は細部まで納得がいくよう仕上げたい性分だ。カチャリと、扉が開いた。彼女は振り返ってそちらを見た。征司が部屋へ入ってくると、黒い瞳が真っ先に捉えたのは、机の隅に座る澪だ。彼女は黒髪を無造作に後ろで留め、手のひらほどの小さな卵形の顔は、化粧をしていなくても目を奪うほど美しい。征司の視線はその顔にしばらく留まった。ウォークインクローゼットの前を通りかかったとき、中に梱包されたままのダンボール箱が整然と積み上げられているのが彼の目に入った。きれいに積まれた箱は、どれもまだ開けられていない。服をしまうことも、身の回りのものを片づけることもしていないらしい。まるで滞在中の客のようで、いつでもここを出ていくつもりでいるようだ。澪はロボット事業の企画書が表示されたノートパソコンを閉じて、顔を上げた。彼が自分を見る目に、読み取れない何か意味深な感情が混ざっていることに彼女は気づいた。征司も、自分が帰ってきたことを快く思っていない。紗耶との二人きりの時間を邪魔されたとでも思っているのだろう。「そんなふうに見ないで。おばあ様に言われなければ、戻るつもりはない」
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第229話

澪は少し考えて、念を押すように言った。「私がここにいるのは、あくまで一時しのぎ。おばあ様を安心させるためなの。あなたとの子どもをつくる気はないし、あなたが好きな女だけを大事にしていたいなら、私が邪魔はしないわ」征司はわずかに目を上げ、淡々と返した。「よく考えてるな」「だから、はっきり答えてほしいの」澪の声には焦りが滲んでいる。「随分と離婚を急いでいるようだが、何か理由でもあるのか?」征司は、澪の何かを急ぐような様子に気づいた。不意を突かれて、澪は彼の奥深い眼差しを受け止めながらも、表情だけは崩さないよう努めた。「あなたが好きな人と一緒になれるように、私がきちんと身を引くためよ。そうすれば、私と子どもを無理につくる必要もないし、あなたの大切な女だって、結婚した途端に母親役まで押しつけられずに済むでしょう」征司は、そう簡単にごまかせる相手ではない。そのことは澪が一番よく分かっている。紗耶のことを出せば、征司もそれ以上は聞いてこないだろう。こんなに物分かりのいい元妻など、そうそういないはずだ。征司はしばらく黙り込んで、やがて口を開いた。「何とかする」「いつまでに?」澪は一歩も引かずに問い詰めた。征司は彼女を見つめ返した。「一か月以内だ」「十日よ」澪は即座に首を振った。その口調には、一切の譲歩の余地がなかった。宇一がもうすぐ帰国する。玲衣のことも一刻を争うから、そんなに待ってはいられない。征司はそこで初めて、気づかれないほど微かに目を細めた。 少しの間を置いてから、彼はふっと軽く笑った。「みーちゃん、これは俺への命令か?」幼いころの呼び名で呼ばれたことに、澪はただ不快感しか覚えなかった。ここまでこじれているのに、彼の気のない態度は、まるで自分がただ駄々をこねているようだ。澪は自分が引き下がる必要はないと思い、彼の横を通り過ぎながら言った。「そう受け取ってもらって構わないわ」それから、付け加えた。「私はゲストルームで寝る」ところが、わずか二歩歩いたところで腕をつかまれ、彼女はぐいっと引き戻された。征司との距離が一気に縮まった瞬間、甘い香水の匂いが澪の鼻をかすめた。さっき紗耶が彼に近づいたときに移ったのだろう。澪は表情を変えないまま、反射的に征司を突き放した。澪の拒
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第230話

澪は唇を引き結んで、ほとんど無意識にベッドの端へと身を寄せた。征司はその動きに気づき、澪の背中へ一度だけ視線を向けたが、何をするでもなく目を閉じた。それ以上、彼が何かしてくることはなかった。部屋の中はしんと静まり返っている。同じベッドに横たわっていても、二人の心はまるで別のところにあるだろう。澪の胸中には様々な思惑が渦巻いている。これから先は、一歩ごとに慎重を極めなければならない。玲衣の戸籍の問題が解決しない限り、一日たりとも安心できる日は来ないのだから。しかも、あの特別なルートで手に入れた離婚届受理証明書は再発行してもらえない。澪は思わず眉をひそめた。ブブブッ——背後から時折スマホの振動音が聞こえてきた。不規則な間隔で、何度も何度も鳴っている。目を閉じたままでも、誰からの連絡かは分かった。紗耶が気が気でないのだろう。今夜征司が自分と一緒に過ごすのだ。恋人として「浮気チェック」をしたくなるのも無理はない。背後で、征司が手を伸ばしてスマホを取った。彼が紗耶に何を返したのか、澪には分からない。ただ、それからスマホは一度も鳴らなくなった。征司が寝返りを打つ気配に、澪はわずかに身体を強張らせた。掛け布団を握る手にも自然と力が入った。そのとき、かすかに鼻で笑うような彼の声が聞こえてきた。「安心して寝ろ。お前に手は出さないから」澪は一瞬、言葉を失ったが、すぐにその意味を理解した。これは自分を安心させるための言葉ではない。紗耶に対して不誠実なことはしないという、彼なりの意思表示だ。きっと澪に言う前に、紗耶にも同じようなことを教えたのだろう。そうでもなければ、今夜中ずっとスマホが鳴り続くはずだ。それに気づいて、澪はこれでようやく征司の存在を無視できるようになった。玲衣のことに思いを馳せながら、ゆっくりと眠りへと落ちていった。翌朝。澪が目を覚ましたのは七時を少し過ぎた頃だった。寝返りを打つと、征司はもういなかった。いつ出て行ったのかも分からない。おそらく彼も自分と同じように、同じ空間にいるのが気まずくて、早々に部屋から離れたのだろう。身支度を済ませて階下に下りると、房江がすぐに近づいてきた。「奥様、昨夜はよく眠れましたか?」房江は澪の様子をうかがいながら、遠回し
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