All Chapters of 森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

聡祐は思わずクスッと笑った。澪の白い手首に目を落とすと、名残惜しそうにゆっくりと手を離した。「そこまで説明してくれたんだから、これ以上責めるわけにもいかないな」以前の澪なら、事情を説明するどころか、「さっさと失せろ」と言い放っていただろう。澪は怪訝そうに彼をちらりと見た。頭がおかしいんじゃないか。急に何が面白くて笑っているのだろう。「約束をすっぽかされたことは事実ですが」聡祐は澪を見下ろしながら、先ほどまで彼女の手首を握っていた指先を軽くこすり合わせた。「投資の話は、予定どおり進める」今度は澪が驚く番だ。聡祐のことだから、もったいぶるか、あるいは腹を立てて投資をやめると言い出すと思っていた。「正直に言えば、現時点では実現の可能性が高いとは思わない。技術的な課題も多い。ただ――」聡祐は目を伏せ、声を落とした。「母の腫瘍は、手術ができないほど難しい場所にある。もし、そんな手術の壁を打ち破れるロボットが本当にできるなら、やってみる価値はあるだろう?」それは多くの患者を救うための研究だ。たとえ資金が無駄になっても、彼は賭けてみるつもりだ。澪は思わず聡祐を見直した。「そんなに見つめられると、惚れられたかと思うよ」聡祐は後ろ手に持っている契約書を澪に差し出した。「その気なら、先に離婚してくれ。不倫相手になる気はないからな」澪は言葉を失った。やはり、この男はどこかおかしい。澪は契約書を受け取り、最後のページに書かれた聡祐のサインを確認した。「陸原さん、今日出資してよかったと思う日が必ず来ます」澪は投資を無理強いするつもりはなく、最終的な判断は相手に委ねるべきだと考えている。彼女は契約書をひらりと揺らして、それだけ言い残して背を向けた。聡祐は遠ざかる澪の背中を見つめ、片眉を上げた。そこまで言い切るのなら、必ず成功させてもらわなければ。もし本当に成功したら――聡祐は再び澪に目をやり、先ほど彼女の手首をつかんでいた自分の手を見下ろし、意味ありげに目を細めた。――澪と知之は荷物をまとめ、その日のうちに飛行機でK市に戻った。聡祐との出資契約がまとまり、プロジェクトはとりあえずの開発資金を確保できた。しかし、この研究には莫大な費用がかかる。今回の六十億円でひとま
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第202話

K市に戻って、紗耶は征司と一緒に瑞穂メディカルを訪れた。そこには蓮も同行している。休憩室に入ると、紗耶が口を開いた。「今夜、蓮さんも一緒にうちでご飯でもどう?征司に一緒に来てもらおうと思ってるんだけど」紗耶はそう言うと、自然と恥じらうような笑みが浮かんだ。蓮もすぐに察したらしく、ティーカップを置いて笑いながら答えた。「二人でご両親に挨拶に行くんでしょ?そんなところに俺まで行ったら、邪魔になるだけですよ」紗耶は思わず吹き出した。「そんなんじゃないよ、ただのご飯だって。昨日、母さんが階段を降りるときに転んでね、そのお見舞いに行くだけよ」「大丈夫か?」「足を軽く骨折してしまって。ちゃんとした病院に入院して診てもらおうと思うけど」蓮は少し考えた。「S総合病院は評判がいいみたいで。相談してみては?」紗耶は小さく笑い、どこか面白がるような表情を浮かべた。「S総合病院は今頃、律樹の件で忙しいんじゃない?榊さんはS総合病院の跡取りだし、アカリ製薬の治験もそこでやってるから、今回の件はどちらにとっても他人事じゃないでしょう」紗耶は、S総合病院に十分配慮したつもりでいる。警察に通報もせず、訴訟も起こさず、表立って病院の評判を傷つけてもいない。ここまで穏便に済ませてやったのだから、病院側もそれなりに応えてくれるはずだ。アカリ製薬には澪をプロジェクトから外し、代わりに自分を呼び戻してもらえばいい。共同研究者として名前を載せてもらえば、それで十分な償いになる。以前、律樹が賢一のオフィスをめちゃくちゃにした件も、これで帳消しになるだろう。「澪も今回、知之とH市まで出張したそうなんだけど、もう悪あがきだろう。知之だって、資金調達や新薬の発売を考えれば、いつまでも澪をかばってはいられないから」蓮もこの件はすでに決着がついたも同然だと思っている。病院を守るためには、弱い立場の澪に責任を負わせて切り捨てるのが最も都合がいい。蓮はやりきれなさそうに首を振った。互いにやり返していてはきりがない。澪は以前、あれほど画策して紗耶を追い出したというのに、結局はすべて無駄に終わった。このままいけば、いずれアカリ製薬は紗耶に頭を下げ、プロジェクトに復帰してもらうことになるだろう。紗耶は片眉を上げ、満足げにお茶を口にした。
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第203話

知之は呆れて笑った。「どうやら紗耶は、周りの人間をことごとく自分の手駒にしていたらしいな」そう考えると、すべての辻褄が合った。澪は眉をひそめた。「つまり、今回のことは紗耶が自分で仕組んだってこと?」「そうでなければ、投与量をあれほど絶妙に調整できるはずがない。命に別状はない程度に抑えながら、深刻に見える。しかも、新薬の発売を控え、資金調達を進めているこの時期を狙っていて、病院も巻き込んだ。どうやらあの女はK大のチームから追い出され、このプロジェクトから外されたのがよほど許せないんだろう。だからこんなことをしてまで、もう一度チームに復帰し、研究成果に自分の名前を載せようとしたんだ」そのうえ紗耶は、警察に届けることも、訴訟を起こすこともせず、騒ぎを公にもしなかった。あえて穏便に済ませる姿勢を見せることで、知之が自分の要求を断れないように仕向けたのだ。そうすれば研究チームへの復帰も、研究成果に名前を載せることもできる。紗耶にとっては、すべてが思いどおりに運ぶはずだったのだ。「K大の院生が何も知らなかったとしても、紗耶との個人的なつながりが原因で、治験薬が持ち出されたことは確かだ」澪は皮肉っぽく口元を歪めた。「もし本当に紗耶が仕組んだことなら、二人とも研究者としては終わりね」自分の経歴に箔をつけ、研究者としてのし上がるために、紗耶は実の弟さえ犠牲にしたのだ。「伊織がドキュメンタリーを撮っていたことまでは、さすがに頭になかったんだろうな」知之もようやく事情を呑み込んだ。伊織は以前から、撮影が研究者たちの作業を妨げないよう細心の注意を払っていると話していた。いつも研究者が出勤する前に小型カメラを設置し、その後は遠隔操作で撮影することで、最もリアルな研究風景を捉えようとしている。撮影されていることを忘れてしまうほどカメラの存在感が薄く、誰も警戒しなくなっていただろう。澪は申し分のない治験データに目を通し、軽く肩をすくめた。「この先どうなるか、せいぜい覚悟しておくことね」よりにもよってS総合病院のようなトップクラスの病院を自分の踏み台として利用するなんて。知之は小さく笑った。まさに自業自得だ。その日の午後、知之のスマホはひっきりなしに鳴り続け、すべて紗耶からの着信だった。知之は一度も電話
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第204話

その言葉は、紗耶が最も怖がっているところをズバリ突いた。彼女の唇からたちまち血の気が引いた。澪は背を向け、そのまま立ち去った。もし以前はまだ紗耶にそこまで残酷なことができるのか疑っていたとしても、今の反応でほぼ確信した。紗耶は思っていた以上に冷酷な人間で、自分の将来のためなら、何でも切り捨てられるのだ。次に、治験薬の管理番号を照合すれば、どの薬が不正に持ち出されたのかも判明する。しかもそれはアカリ製薬の未公開の治験薬なら、不正に持ち出したこと自体が重大な問題になる。さらに、S総合病院で意図的に医療事故を引き起こし、名誉毀損にも問われることになる。これだけの罪状が重なれば、刑事事件になる可能性も十分にある。決着には長い時間がかかるだろう。それでも、紗耶が無事では済まないことだけは確かだ。翌朝。目を覚まし、澪は玲衣に「おはよう」とメッセージを送った。その直後、知之から電話がかかってきた。「会社に来てくれ。征司が来ている」澪はどきりとした。 意外ではなかったが、それでも…… 実際にそうなってみると、胸の奥に苦いものが広がった。澪は急いで身支度を整えて会社へ向かった。知之のオフィスに入ると、ソファに座る征司の姿が目に入った。彼はスーツのジャケットのボタンを外し、漆黒のベストが引き締まったウエストを際立たせている。扉の音に気づいて、征司はゆっくりと顔を上げて、澪と視線を合わせた。知之が口を開いた。「澪も今回の当事者ですし訴えを取り下げてほしいなら、俺ではなく澪と話してみたらどうですか、森宮社長」知之はわざと澪を呼び出して、征司が彼女に直接頼まざるを得ないようにしたのだ。征司は少し姿勢を正して、動揺した様子もなく言った。「アカリ製薬が訴えを取り下げるなら、そちらの要求には応じます」本当に前置きひとつない、と澪は皮肉っぽく口元を歪めた。「森宮社長はずいぶん器が大きい。実の弟まで犠牲にするような女性をそばに置いて、ちゃんと守ろうとするなんて」これが真の愛というものか。たとえ相手が悪い人でも、そのすべてを受け入れ、後始末までする。悪意ごと愛せるなんて、何ともご立派な愛だ。征司はわずかに顎を上げ、澪のあからさまな皮肉にも表情ひとつ変えなかった。「訴えを取り下げるなら、プロジ
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第205話

征司は動じることなく答えた。「瑞穂メディカルはスマート医療を手がけている。S総合病院の主要診療科に最新機器を無償で入れ替えるくらい、難しいことじゃない」室内が静まり返った。病院にとって、医療機器への投資はいくら注ぎ込んでもきりがない。征司が提示した条件は、双方にとって最も切実なところを的確に突いた。紗耶に法的責任を追求して刑務所に入れるより、はるかに得だ。むしろ願ってもない条件だ。病院の幹部たちにとっても、征司の申し出を断るはずがない。こうして、この件の行方はほぼ決まった。紗耶が追い詰められている状況も、征司が手を差し伸べたことで最悪の事態は免れそうだ。愛する女のためなら、彼はどこまでも盤石な後ろ盾になれるのだ。澪はテーブルの上の契約書に目を落とした。アカリ製薬にとってこれだけの利益になる話を、個人的な感情だけで断るわけにはいかない。澪は元々感情に流されて仕事の判断を誤るような人間ではないから、口元に薄く笑みを浮かべて言った。「森宮社長がここまできれいに片をつけてくれたんだし、二百億円で大切な人の笑顔が買えるなら、悪い話じゃないね」そう言って、契約書を知之の前へ押しやった。紗耶への意地だけで二百億円を手放すのは愚かだ。個人的な感情でアカリ製薬の利益を逃すわけにはいかない。しかも、二百億円もの金が転がり込んでくるのだ。元夫とその不倫相手に、礼のひとつでも言っておくべきかもしれない。澪の意図を知之はすぐに理解した。もちろん征司も分かっている。話はまとまった。彼はそう判断して席を立とうとした、そのときだった。澪は契約書を指先で軽く叩いた。「訴えは取り下げる。刑事の件も追及しない。ただ、アカリ製薬はこの件で業界の信用を傷つけられた。病院もいわれのない責任を負わされるところだった。森宮社長が出した二百億円は、紗耶さんを刑事責任から逃がすためのお金でしょ。だからと言って、謝る必要までなくなるわけじゃない」征司が澪を見据えた。澪はその視線をまっすぐに受け止め、少しも引かなかった。「紗耶さんはSNSで百万人以上に支持されている有名な医者だ。なら、その人たちにも分かる形で、自分のしたことを認めて謝ってもらう」知之は思わず笑いそうになり、慌ててこらえた。紗耶にとっては、それは何よりも
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第206話

征司が紗耶のためにどれだけ尽くそうと、澪にはもう関係ない。もうすぐ新しい日々が始まり、玲衣との素晴らしい日々はここからようやく始まるのだ。その日の仕事を終える前、新しい携帯番号に何件もの不在着信とメッセージが届いていることに、澪は気づいた。【澪、お前には本当に失望した。紗耶はお前の姉だろう。そこまで追い詰めて、ひどくないか?公に謝罪させるなんて、あの子の顔をつぶす気か。これから先、彼女がどうやってこの業界でやっていけばいいんだ。森宮家の人たちにどう思われる?それで結婚できなくなったら、どうするつもりだ。榊社長があんな要求を出したのも、お前の仕業だろう?】【榊社長を説得して、紗耶を許してくれるなら、父さんも今までどおりお前のことを大事にする】【どうして電話に出ないんだ?澪、人にそこまで冷たくするもんじゃない】番号を変えたばかりだというのに、正毅はアカリ製薬に登録されている連絡先を通じて、自分の番号を突き止めたらしい。愛人の娘である紗耶にここまで肩入れする。メッセージのどの言葉にも、澪を責めて思いどおりに動かそうとする意図が透けている。まるで悪いのは紗耶ではなく、澪のほうだと言わんばかりに。愛は人を盲目にするのだろう。征司も正毅も、それぞれの立場で紗耶に肩入れしている。認めたくはないが、紗耶はひどく恵まれた人間である。まるで魔女のように、どれだけ酷いことをしようと、その尻拭いをしてあげる人間がいくらでもいる。正毅にとっては、実の息子が紗耶に利用され、急性アレルギーで生死の境をさまよったことよりも、澪が紗耶にひどいことをするほうが大事らしい。律樹は本当に正毅の実の息子なのか。妻の連れ子である紗耶のほうが、血の繋がった我が子よりも大切だというのか。紗耶が征司と結婚するためなら、実の息子の命さえ後回しにするのか。澪にとって、それはどうしても理解できないことだ。彼女は無表情で携帯の画面を消した。征司が紗耶にどう説明したのかは知らないが、おそらく、「謝罪を求めるのは知之の意向だ」とでも言ったのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。悪いことをすれば、それに相応しい代償を払うことになるのだと、相手に思い知らせることができれば、それで十分だ。夜十時ごろ、知之からメッセージが届き、そこには一枚の
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第207話

おじいちゃんはなぜあれほど征司を気に入っているのだろう。認知症が進んだ今になっても、征司のことだけはいつも気にかけている。澪は胃にやさしい薬膳スープを作って病院に向かった。清の病室がある階に着くと、見覚えのある二人と鉢合わせた。薔子は片脚をけがしているらしく、正毅が押す車椅子に乗って、病室を確かめているようだ。清の病室はこの辺りだと気づいた瞬間、澪は一気に警戒した。正毅も澪に気づき、気まずそうに顔を曇らせた。「澪、おじいさんのお見舞いに来たのか?」つまり、正毅はおじいちゃんがここに入院していることを知っているのだ。澪の目がすっと冷えた。「ここで何してるのですか?」薔子は鼻で笑った。「入院の手続きに決まってるでしょう。さっき知ったんだけど、清さんの病室が私の隣なんだって。ちょうどいいじゃないか。年長者なんだし、あなたがあまり顔を出せない分、私が様子を見てあげられるわよ」それが脅しだということくらい、澪にもすぐ分かった。彼女はこぶしを握りしめた。「自分から別の病院へ移るか、こっちに追い出されるか、好きなほうを選んで」母が意識不明になると、正毅はすぐに彼女を捨てた。そのショックで清まで倒れ、澪の面倒を見られなくなると、今度は彼女を田舎へ追いやったのだ。清は正毅と薔子を心底憎んでいる。それを知りながら、わざわざ二人は隣の病室を選んで近づこうとするなんて。正毅は失望したように澪を見た。「澪、何だその口のきき方は」薔子はゆっくりと笑った。「いいのよ。きっと面白くないでしょ。紗耶を潰すつもりだったのに、征司に止められて当てが外れたんだから。しかも征司は、紗耶を守るために大金まで出した。私たちに八つ当たりしたくなるのも無理ないわ」そう言って、薔子はため息をついた。「澪、あなたは征司と何年も一緒にいたけど、こんな大金を出してもらったことなんてある?男は本気で惚れた女にこそ金を使うものよ。征司は、紗耶のためなら二百億円だって惜しまなかった。それだけ大事にされてるってことよ。結婚するときなら、ずいぶんお金をかけてくれるでしょうね」結婚するとき――澪は心の中で冷たく笑った。自分との離婚もまだ成立していないというのに、もう次の結婚の話とは、ずいぶん気が早いものだ。「あなたも、この女も、今すぐここから消
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第208話

看護師の口から「お姉さんとそのご主人」という言葉が出てくるとは、澪も思わなかった。つまり紗耶と征司を夫婦だと思い込み、澪を紗耶の妹として扱ったのだ。薔子と正毅の話だけを聞けば勘違いするのも無理はない。紗耶も一瞬驚いたようだが、すぐに嬉しそうな笑みが浮かんだ。ようやく澪に目を向けると、看護師に言った。「すみません。あとはこちらで話し合いますので」彼女は「お姉さんとそのご主人」という呼びかけを自然に受け入れ、何の違和感も抱いていない様子だ。征司も何も言おうとはしなかった。彼はもともと面倒を嫌う男だ。どうでもいいことのために、わざわざ口を開くことすら面倒なのだろう。まして、紗耶が自分の妻だと思われることは彼にとって不都合でもないから、否定する理由などない。それで納得したのか、看護師はそれ以上何も言わず、その場を離れた。正毅はあからさまに顔をほころばせた。澪と結婚していたころ、征司が自分たちに力を貸したことは一度もなかった。澪のことさえ大切にしていなかったのだから、その家族まで気にかけるはずもない。ところが、紗耶のためならいくらでも金を出す。正毅が喜ばないはずがない。だがさすがに人目のある病院でこれ以上騒ぎを大きくしたくはないのだろう。正毅は声を潜めて、澪をたしなめた。「澪、不満があるなら家で話せ。病院でみっともないことをするな」せっかく皆が家族らしく集まっているのに、澪にこの場を壊されたくないのだろう。澪は口角を皮肉げに歪め、一歩も引かずに言った。「転院するのか、しないのか。それだけ答えて」薔子が祖父の隣の部屋に入院することなど澪は絶対に許さない。 わざわざ祖父の隣に入院しようとするからには、何か企んでいるに決まっている。認知症になった今も、祖父は正毅たちのことを決して許していなかった。白石家の人間は、全員が恥知らずだ。紗耶には、澪があまりにも身勝手に見える。征司が自分を守るために大金を出したからこそ、アカリ製薬は研究を続けられる。澪もその恩恵を受け、社内で自分の居場所を確保できた。それなのに、感謝すらしないとは!薔子は申し訳なさそうに首を振った。「森宮社長、申し訳ありませんね。澪は昔から感情的になると見境がなくなるのですから、結婚していたころも、ずいぶん苦労したでし
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第209話

澪が清の病室に向かおうとしたとき、清が車椅子に乗って廊下に出てきた。澪と征司の姿を見ると、濁った目に一瞬戸惑いが浮かんだが、すぐに表情が明るくなった。「澪?征司?」まさか、この場で出くわすとは思っていなかった。澪が返事に迷っているあいだに、征司は清のもとへ歩み寄った。「おじいさん」二人が一緒に来たことで、清は大喜びだった。痩せた手で征司の手を握ると、うれしそうに言った。「よく来たな。ほら、中に入って」征司が澪の方を見た。澪は仕方なく、無理に作り笑いを浮かべた。清の病室はスイートルームで何でも揃っている。部屋へ入るなり、彼は宝物でも探すように棚をあちこち開け、果物やお茶菓子を取り出した。「みーちゃんが好きなアメリカンチェリーとイチゴ。それから、征司の好きな玉露だ」90歳の高齢で、認知症を患っていても、二人の好みだけははっきり覚えている。征司は腰を下ろして、目元からいつもの冷たさが消え、年長者に接する穏やかさがある。「おじいさん、そんなに気を遣わなくていいですよ」清は眼鏡をかけて目を細めた。「この二年、二人そろって顔を見せてくれることはほとんどなかっただろう。今日は本当にうれしい」そう言って、彼はもう一度征司の手を握った。「喧嘩でもしたのかと心配してたんだ。こうして仲良くしてるなら、もう安心だ。最近も、ちゃんとやってるんだろう?」澪は言葉に詰まり、どう説明すればいいか分からない。何しろあと二日で、離婚の手続きを済ませることになっているのだから……「大丈夫です。心配しなくていいですよ」征司は離婚のことには触れず、自然に話を合わせた。その顔からは、二日後に離婚する人間だとはとても思えない。澪は意外そうに征司を見た。征司なら、あと二日で離婚が成立することをそのまま話すと思っていた。祖父を安心させるためにあえて話を合わせるなんて意外だった。征司が澪の視線に気づき、ゆっくりと目を向けた。澪はすぐに立ち上がった。「おじいちゃん、お茶を淹れてくるね」だが、清はすぐに手を振った。「征司のほうがずっとうまいだろ。座って」澪は言葉を失った。征司はわずかに笑うと、手にしているスマホをテーブルへ置き、玉露を持って立ち上がった。「じゃあ、俺が淹れてきます」清は満足そうにうなずい
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第210話

こんなメッセージが届くなんて、澪は思ってもみなかった。ホテルを予約する?スマホはなおも震え続けている。握りしめているせいで、手の感覚まで鈍くなってくる。相手が征司に甘えきっていることが、その短いやり取りだけでも伝わってきた。「スマホを」目の前に影が落ち、すっとモミの木のような香りが漂ってきた。顔を上げると、感情の読めない征司の目がまっすぐ澪を捉えている。彼は何の感情も見せずに澪を見下ろし、長い指をした手を差し出した。そこには、有無を言わさぬ強引さが滲んでいる。ただの一言なのに、征司は何か誤解しているのかもしれないと澪は思った。しかし澪はためらうことなく、まだ震えているスマホを彼に返した。征司と紗耶の恋愛事情など、澪には少しも興味がない。ただ、あんな不快なものをおじいちゃんの目に入れたくなかっただけだ。離婚のことを伝えるにしても、「円満に別れることになった」とだけ言うつもりだ。裏切られたこと、捨てられたこと、傷つけられたことを知られれば、おじいちゃんはきっと心を痛めるだろう。征司に、自分がわざとスマホを盗み見たと思われても、澪にはどうでもよかった。征司は長居せず、清とお茶を二杯ほど共にしてから去っていった。澪にも仕事があるから、そろそろ帰ろうと思った。隣の部屋は相変わらず空室だった。この件は、征司がうまく収めただろう。白石家も、これ以上騒ぎ立てることはないはずだ。紗耶とK大の女子院生の件については、大学側もすでに必要な処分を行っており、プロジェクトに支障は出ていなかった。新薬の承認申請もいよいよ目前に迫っている。澪にとってこれが見事な初陣となり、これからもますます忙しくなる。翌朝。翌朝早く、澪のスマホに幼稚園から電話がかかってきた。「穂積玲衣さんの保護者の方でいらっしゃいますか?」「はい。何かありましたか?」澪は不安になって聞き返した。相手はすぐに説明を続けた。「本日は保育参観の日で、玲衣ちゃんのお父さまかお母さまにご参加いただくことになっております。十時に幼稚園までお越しいただけますでしょうか?」それを聞いて、澪はほっと胸を撫で下ろし、時間を確認した。「分かりました。仕事の都合をつけて伺います」と少し迷ってから答えた。電話を切ると、念のため伊織にも連絡
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